アジア・マップ Vol.02 | カザフスタン

《エッセイ》カザフスタンと私
発掘調査の現場から

荒友里子(創価大学文学部 非常勤講師)

 私はユーラシア草原地帯における考古学を専門とし、現在は後期青銅器時代の文化・社会について、銅生産や青銅器製作の観点から研究を行っている。これまで、カザフスタン、ロシア、キルギスといった国々を渡り歩き、発掘調査に参加したり、大学や博物館で考古遺物の調査してきた。

 ユーラシア草原地帯の後期青銅器時代は年代でいうと紀元前2000年~紀元前1300年頃、すなわち今から3、4千年前のことである。この地域の歴史といえば、まずスキタイや匈奴、そしてモンゴル帝国といった騎馬遊牧民を想起される方が多いだろう。カザフスタンの領域内でいうと、スキタイと同系統のサカと呼ばれる集団が有名で、帽子から靴に至るまで金の装飾をふんだんに使った衣装をまとっていたイッシク古墳の被葬者「黄金人間」は世界各地で特別展の目玉となる。騎馬遊牧民の登場が前2千年紀の終わりから前1千年紀初頭だから、私が専門とする後期青銅器時代は騎馬遊牧民の時代の少し前、と捉えていただければと思う。

写真1

パヴロダル州マイ地区の銅鉱山遺跡。左端に映っている円形の窪みは青銅器時代の採鉱跡。写真の上下に大きく走っている溝は、現代の地質調査の跡。この一帯にはサイガが生息している。2022年撮影。

 カザフスタンでは鉱物資源が現代でも主要な産業の一つとなっているが、4千年前も活発に鉱物資源の開発が行われていた。鉱山を掘る道具は、石製の鋤のようなものや骨角製のピックである。この時期は、銅そして銅ベースの合金である青銅で様々な金属器が作られた。カザフスタンにはそうした当時の銅生産・青銅器生産に関わる冶金の拠点が数多く存在しているとみられている。「みられている」と言葉をぼかしたのは、世界第9位、日本の約7倍の面積を誇る広い国土で、古墳のような目立つモニュメントが無い中該当する遺跡を発見するのは容易ではなく、銅生産・青銅器生産が行われていたと実証され、報告されている事例は限られているためである。私はこのような青銅器時代の冶金拠点の実態を明らかにするため、近年はカザフスタン東部のパヴロダル州で、現地の研究者達による銅鉱山-銅製錬遺跡の発掘調査に参画している。

 私がカザフスタンを訪れたのは計3回に過ぎず、とてもカザフスタン通とは言えない。しかし、カザフスタンの発掘調査に参加したことのある数少ない日本人の一人として、カザフスタンの知られざる一面をお伝えできるのではないかと思う。

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2月のアルマトゥ。車列の中に馬車が見えた。仔馬も一緒に走っている。2010年撮影。

 最初にカザフスタンを訪れたのは、2010年2月、修士1年の終わりのことである。草原考古研究会という、ユーラシア草原地帯の考古学を専門とする研究者が集う会があるのだが、ここに出入りしていた大学院生4名でアルマトィとアスタナにある考古学関係の研究所や博物館、そして世界遺産にも指定されている岩絵遺跡のタンバリ(タムガリ)遺跡への見学旅行をした。私にとって初めてのユーラシア体験である。その後、幾度となく食べることになるソバの実をここで初めて食した。想像していた味と違いこの時は面食らったが、今では無性に食べたくなるくらい気に入っている。この旅では、私にロシア語を教えてくれていたカザフスタンからの留学生、アイドス・ダルケノフさんやその彼女、友人に大変お世話になった。アイドスさん達は自宅にも招いてくださり、カザフ料理の代表格であるベスバルマクを振舞ってくれた。

 次にカザフスタンへ訪れることができたのは、それから6年後、2016年のことである。当時勤めていた機関のプロジェクトの一環で、協定を結んでいたカラガンダ大学主導の発掘調査に参加させていただいた。現場はカラガンダ州の国立公園であるカルカラル国立公園内にある。カザフスタンの自然の美しさを満喫できる、ある意味とても贅沢な現場ではあるが、当然周りには民家はなく、宿泊施設もない。湧き水が確保できる場所にキャンプを設営し、日々蚊に悩まされながらの発掘調査となった。

写真3

カラガンダ州カルカラル国立公園内の発掘調査隊キャンプ。写真の人工物は左から水道、干場、シャワー室。2016年撮影。

 何しろ、何もない国立公園の中で30名近い人数が1ヶ月弱生活するのである。キャンプには手作りの食堂、水道、シャワー室も設置された。水道といっても水量を調整する弁のついた小さいバケツ状容器、シャワー室といってもタライにお湯を貯めて体を洗うための小屋なので、その日の日直は何往復もしてタンクに水を貯める必要がある。ちなみにトイレはなく、大体ここら辺でするように、と指定された場所で用を足すことになる。日直は男女3名ずつキャンプに残り、男子は水汲みや薪割り(山から枯れ木を探してキャンプ近くまで運ぶ作業も含む)、女子は食事係を担った。かすかな電波を拾いに30分ほどかけて近くの大きな岩山に登らないと電話もネットもできない。現場によってはバーニャ(サウナ)を貸してもらえる民家があったり、ちゃんとトイレを設置するところもあるため、この現場は過酷な部類であった思われる。私は過去何度かロシアで同じような環境の調査に参加していたためさほど困らなかったが、普段都市部の現代的な環境で暮らす文系女子学生達も突如としてこのワイルドな環境に放り込まれたのだった。相当のストレスがかかったようで、洗髪のお湯を巡る争いが起きたり、ある晩は集団過呼吸のような事態に陥り一人の女子学生がリタイアするなどしていた。もちろん楽しいこともたくさんあり、男女ともにきちんと発掘作業や日直をこなしていたし、皆とても人懐っこく、日本人として一人で参加していた私のことをよく気にかけてくれた。

 学生のほとんどがカザフ人で、彼らとの会話からカザフの文化や社会について学ぶことが多々あった。一番印象的だったのは、カザフ人の名字の仕組みについてである。ある学生が私に「君の名字はアラ?じゃあおじいさんの名前がアラなの?」と尋ねてきた。なんのこっちゃと思い詳しく聞いてみると、カザフスタンでは生まれてきた子供に父方の祖父の名前を名字として付けると言う。つまり、家庭内で父母と子の名字が違うことになる。その後、この名字システムのことが気になり調べてみたところ、母方や姻族関係を含め彼らの親族関係の認識はとても複雑なようだが、やはり基本となるのは名字に現れる父方の系譜のようである。また、他の学生から、ご先祖が共通する者同士が結婚しないよう7代前までのご先祖を把握しているという話も聞いた。こうした学生とのやり取りは、カザフの人々の出自に対する意識に触れられた気がして無性に感動を覚えた。

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発掘キャンプの食堂でくつろぐ学生達。皆フレンドリーで明るい。2016年撮影。

 この年にはアルマトゥのマルグラン考古学研究所のメンバーが実施している発掘現場にもお邪魔した。隊長も含め、この隊の主要メンバーは皆女性だったため、私は敬意と親しみを込めてアマゾネス隊と呼んでいる。彼女達の多くは子持ちで、子どもは自宅で家族と留守番をしているか、祖母と共に調査に連れてくるかしていた。この祖母が子守、宿舎での炊事洗濯掃除から発掘で出土した遺物洗いをも担うという八面六臂の活躍をみせていた。共働きは多いが福利厚生がさほど充実していないカザフスタンで高い出生率を維持できているのは、彼女のような祖母(祖父)の手厚いサポートがあってのことであろう。

 ソ連時代に男女平等が推進された影響で、旧ソ連圏の国々―少なくとも私が調査に行ったことのあるカザフスタン、ロシア、キルギス―では、昔から考古学分野で研究職に就く女性の割合が高い。今も昔も政治家に女性が多くないことや、二次大戦中、戦場に駆り出された女性達が復員後いわれのない中傷を受けたという話があることからも、男女平等が謳われたのは女性の権利を尊重するというより労働力の確保を重視した結果であろう。しかしこれらの国々において、学術分野で女性が職を得ることが当たり前となっていることは、この方針が良い方向に作用した一例なのではないかと思う。

 4千年前の研究とは別に、現地の人々との交流の中でカザフスタンの文化、社会、歴史を学べることはとても幸運である。カザフスタンの人々にとって、私との会話が日本のことをより知るきっかけになれば嬉しいとも思う。この先も10年、20年とカザフスタンに関わり、微力ながらも両国の相互理解に一役買うことができるよう願っている。


【参考文献】
宇山智彦編著『中央アジアを知るための60章 第2版』明石書店、2010年。
宇山智彦、藤本透子編著『カザフスタンを知るための60章』明石書店、2015年。

書誌情報
荒友里子《エッセイ》「カザフスタンと私 発掘調査の現場から」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, KZ.2.02(2024年00月00日掲載) 
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/kazakhstan/essay02/