新企画 『アジアと日本は、今』(研究者エッセイ・シリーズ)
Asia-Japan, Today (AJI Researchers' Essays)
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第5回 パキスタンと日本の間で――研究と子育ての両立を工夫しつつ

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須永恵美子(日本学術振興会特別研究員RPD、東京外国語大学)

 6月に入り、私の住む地域では幼稚園や小中学校が休校解除となった。我が家では、子どもたちの保育園が再開され、子育てをしながら働く親として、胸を撫で下したところである。

 我が家は、夫婦揃って地域研究者で、4歳と1歳の子どもを育てながら研究をしている。コロナの前から、海外の調査にどちらが、いつ行くか(そしてその間どうやって子どもを見るのか)という問題はあった。今思えば、なんと贅沢な悩みだったのだろうか。

 筆者が研究しているのは、パキスタンが持つ宗教性と国民性の関係である。宗教関連でいうと、イスラームではコミュニティや人とのつながりに重きが置かれ、集団礼拝が推奨されている。今年5月のイード(イスラームのお祭り)は、イスラーム世界の各地で「今年ばかりはステイホームで祝いましょう」という流れになっていた。礼拝は家で、一人で祈ることによって効力の落ちるものではない。しかし、パキスタンだけは、宗教界からの要望に押し切られ、モスクでの集団礼拝を再開してしまった。まさか「礼拝をしたらコロナが消える」とは思っていないだろうが、防疫よりも宗教活動が優先され、心の安寧という意味で、モスクへの依存度が高いことが証明された。

 パキスタンでは、4月末から新型コロナウィルスの感染が急速に広がり、現在は国内の感染者数が7万8千人(6月3日現在)に達している。文字通り日銭を稼ぐ人が多いパキスタンでは、休業すればその日のパンを買えなくなる労働者がごまんといる。貯蓄どころか、銀行口座というものを持っていない貧困層も多い。ヨーロッパに比べれば緩めのロックダウンを宣言した時も、解除した時も、イムラーン・ハーン首相は労働階級の置かれている環境は厳しく、経済を停滞させられないと強調していた(同時に、こうした国民を国が支えられるような経済基盤と社会システムがないことも知らしめてしまった)。

 パキスタンの友人たちからは、続々と現地の情報が届いている。多くは、留学や在外研究中に知り合った元・女子大生たちだ。彼女たちも卒業、就職、結婚を経て、現在は子育てに忙しい。ラマダーン(イスラームの断食月。いつもの年ならば毎夜豪華な食事が振舞われる)なのに、夕食用の食材がない。学校が休校になった。子どもが遊びたがっても、外に出られない。夕飯のメニューがネタ切れだ。夫の買い出しだけでは、十分な食材が届かない――普段はアカデミックな会話をしている仲間から、切実な声が届く。

 外出自粛期間の我が家の惨状も似たようなものであった。我が家には、パソコンと本棚だけを詰め込んだ小さな研究室(書斎)がある。保育園の登園自粛に、大学キャンパスへの入構規制が重なり、夫婦ともに在宅ワークとなった。すると、家の中では書斎の取り合いが起きる。

 書斎を押し出された方は、子どもを見ながら(できる範囲で)研究をすることになる。暗黙の了解として、オンライン授業やオンライン会議、原稿の締め切りがある方が、書斎を優先的に使えることになった。必然的に、会議や授業数の多い夫に書斎を譲り渡すことになる。現にこの原稿もダイニングテーブルで書いている。

 他の大学の例に漏れず、私が担当する授業も前期はオンラインに切り替わり、ビデオ会議の設定や、授業資料の作り直しに手一杯である。しかし、在宅で、未就学児二人を見ながらの研究は不可能と断言してもいい。周りには、夫婦で研究者という友人も多く、どこも子もの預け先に苦悩していた。ポケットマネーでベビーシッターを雇った同僚もいる。我が家では、子どもを寝かしつけた後に仕事をすることになった。

 私はこの2ヶ月、研究論文よりも、恐竜図鑑の方をたくさん読んだかもしれない(しかも同じページを何度も音読している)。子どもが昼寝をしたら読もうと思っていた研究書の上には絵本や迷路やパズルが積み重なり、子どもの立ち入りを禁止していたはずの書斎の床には折り紙の紙吹雪が敷き詰められ、リビングのノートパソコンは教育テレビ番組を視聴するための専用機と化していた。

 緊急事態宣言が解除され、次の懸念事項は、いつフィールドに行けるか、である。これはすべての地域研究者がやきもきしていることであろう。子育て中の研究者には、さらに子どもの預け先への対応が加わる。コロナ感染防止対策で「親が出張で海外に行ったら、その子どもは2週間登園・登校禁止」というルールを敷いている教育施設が多いからだ。

 今月、子どもを連れて参加しようと思っていたポルトガルの国際会議は、一年延期になった。冬に行こうと思っていたパキスタンでのフィールド調査は、キャンセルせざるを得ないだろう。秋に申し込んでいるベトナムの国際会議も果たして開催されるのか、開催されたとして参加できるのか、先行きは読めない。

 一方、新型コロナウィルスの影響で、改善されたこともある。これまで大学の教室を借りて行われていた研究会が、オンライン開催に切り替わり、諦めていた遠方での研究会にも参加できるようになったのだ。ビデオ会議アプリZoomを立ち上げる直前まで子と遊び、研究会が始まってからは、こちらのマイクをミュート(消音)にしておく。こうすれば子どもの声が他の参加者に届くことはない。1歳児はトラックボールマウスも高額な研究書もお構いなしに舐めるので目が離せないものの、4歳児はすでにZoom会議に順応しており、会議画面の端に自らを映り込ませながら、タブレット動画を覗き込んだり、使っていないキーボードで遊んだりしている。幸い、筆者の周りは子どもに寛容な方が多く、オンライン研究会はアフターコロナにも定着してほしい新様式となっている。

(2020年6月3日)

〈プロフィール〉
須永 恵美子(すなが・えみこ)日本学術振興会特別研究員(RPD、東京外国語大学)。日本女子大学非常勤講師。京都大学博士(地域研究)。専門は、南アジア地域研究、イスラーム復興思想論、ウルドゥー語の。主な著書に、『現代パキスタンの形成と変容 イスラーム復興とウルドゥー語文化』ナカニシヤ出版(2014年)。最近の論考に、"The Process of Development of the Early Economical Thought of Saiyid A. A. Maududi: The Origin and the Evolution of His Publications," in J. A. Khursheed and K. Amin eds, History, Literature and Scholarly Perspectives South and West Asian Context. Karachi: Islamic Research Academy(2016)、「イスラーム世界――国境を越えるムスリム・ネットワーク」石坂晋哉・宇根義己・舟橋健太編『ようこそ!南アジア世界へ―地域研究のすすめ』昭和堂(2020年)など。