新企画 『アジアと日本は、今』(研究者エッセイ・シリーズ)
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第9回 COVID-19以後の宗教観光を構想する-モビリティから地域研究を考える

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安田慎(高崎経済大学 地域政策学部・准教授)

 2020年6月21日、3月下旬より全面閉鎖していたカアバ聖殿を擁するマスジド・ハラーム(聖モスク)の礼拝を再開するとの一報が、インターネット空間上を行き交った。この知らせが、イスラーム諸国におけるCOVID-19(新型コロナウィルス)の一連の災難に一区切りがついたことを印象づけたのではないだろうか。

 COVID-19の流行以降、イスラーム諸国の光景は以前とは異なったものとなってしまった。各国で人の移動を厳しく制限する措置を展開していった結果、聖地に人がいない風景が当たり前となってしまった。ネットのライブビューのスクリーンに映し出される人のいないカアバ聖殿の姿に、何とも言えない違和感を持ったのは私だけではないように思える。同様に、モスクの閉鎖や自宅での金曜礼拝の推奨、バーチャル礼拝の導入といったさまざまな試みが試されるとともに、金曜日の集団礼拝でもソーシャル・ディスタンスを意識するのがスタンダードとなっている。この状況をいかに飲み込めばいいのか、ディスプレイ上で眺めながら、正直なところ私は未だに言語化できないでいる。

 私が研究する「宗教観光」と呼ばれる分野では、伝統的な宗教実践として行われてきた巡礼・参詣といった宗教モビリティ(宗教的動機に基づく移動)を、観光産業や市場経済のなかで発展させていく動きが活発に展開されてきた。近年ではイスラームに限らず、あらゆる宗教で宗教旅行を専門とする旅行会社が相次いで設立され、聖地においても宗教観光客向けの旅行インフラの整備や、宗教サービス・プログラムが充実している姿を見て取ることができる。宗教観光が発展した結果、人びとは今では気軽に世界各地の聖地へと旅をするようになっている。そのなかでも私が専門とする中東・イスラーム諸国では、マッカ(メッカ)をはじめ、マディーナ(メディナ)やエルサレムをはじめとした数多くの重要な聖地を抱え、世界的な宗教モビリティの中心地となってきた。

 今回のCOVID-19をめぐる騒ぎでも、宗教観光に見られる宗教モビリティがさまざまな形で影響を及ぼしてきた。特に、サウディアラビアやイラン、イラクを訪れていた巡礼者・参詣者がCOVID-19を世界各地に拡散させている状況からも、宗教モビリティと疫病の関係は切っても切れないものであることを改めて痛感している。近年でも2002年から2003年までのSARSの流行や、2009年の新型インフルエンザの流行に際して、サウディアラビア政府が防疫体制の強化や、すべての巡礼者に健康証明書の提出を要請していた点からも、宗教的モビリティにとって、疫病はコインの表裏のような存在であることを示す。

 他方で、今回の一連の騒ぎは、宗教モビリティに限らず、私たちの生活そのものが、身体的移動に強く依存している状況を可視化させてきた。いくら情報テクノロジーが発展し、生活における身体的移動の依存度が低くなっていると言われてきた現代社会でも、実は私たちの社会生活は身体的移動に強く依存し続けている。つい最近まで世界各地における観光公害やオーバーツーリズムといった言葉が報道で躍っていたのが、今度は人がいなくなったことによるさまざまな苦境が報じられる状況を、私たちはいかに解釈すればいいのか。中東においても、人の移動が止まることによる社会的弊害が噴出するなかで、感染が抑え込めていない状況下でも、早期に移動制限の緩和や解除の方向へと社会は動き出している状況も、私たちはいかに考えればよいのか。

 しかし、制度的に自由な移動が可能になったからと言って、人びとの不安がなくなるわけではない。むしろ、防疫体制をいくら強化しようとも、誰が感染しているかを可視化できない状況下で人びとが移動する環境は、他者を「潜在的リスク」と見なし、モビリティそのものに対する社会的障壁や境界を創り上げ、リスクを避けることにインセンティブを働かせてしまう。実際、日本国内や世界各地で、遠距離移動をともなう国際観光や遠距離旅行を忌諱し、マイクロツーリズムに見られる近距離旅行を推奨する社会的な動きがにわかに注目されている点も、人びとのモビリティに対する不安が既に障壁や境界として構築され始めていることを示唆している。

 このCOVID-19によって顕在化した、他者を「潜在的リスク」として捉える動きは、今後も消えることはない。ワクチンの開発や世界的な防疫体制が確立され、人びとが再び世界各地をめぐり、旅行を楽しむ環境が構築されたとしても、このモビリティに対する社会的なハードルは、なくなりはしない。むしろ、この「潜在的リスク」との付き合い方は、社会のなかで議論されてコンセンサスを得るどころか、現時点ではリスクを積極的に回避しようとする方向へと進んでいる。その点、COVID-19以後の世界では、このモビリティが持つ「潜在的リスク」を忌諱し、回避する社会的圧力を、より強固なものにしていくであろう。それは、人間や社会が「思考すること」そのものを、自ら積極的に放棄しようとしているようにも思えるのだ。それが行きつく先は、人間が社会的存在であることを放棄する、破滅的な未来なのではないか、と危惧するのだ。

 しかし、私は必ずしも未来には絶望していない。この「潜在的リスク」を回避するためのさまざまな社会的取組を行ってきたことを、歴史はまた私たちに教えてくれる。多くの宗教や文化では、この「潜在的リスク」を包摂することによって、人間や共同体を発展させていく価値規範を、巧みに社会生活のなかに埋め込んできた。イスラームにおいても、「ディヤーファ(diyafa)」と呼ばれる他者の歓待をめぐる思想や作法が、歴史的に体系化され、社会生活のなかで浸透してきた。そこでは、見ず知らずの人びとへの歓待の意義や作法も定式化されていく一方で、人びとがこれらの作法に従って、安心して歓待を提供し、もしくは受け入れる社会環境を構築し、人間や共同体を発展させてきた。

 COVID-19以降のモビリティ社会において、私たちは再びこの歓待論の社会的意味を考え直してもよいのではないか。個々の地域的文脈に即して実態を解明していく地域研究的思考は、この新たに構築されるであろう人間や共同体の在り方を問うていく際に、必ずや社会のなかで希求されていくことになる。フィールドワークに出られない地域研究者は、そんな地域研究の未来の可能性を考えながら、今日も群馬県の片隅で本を読み続けるのである…。

注:本稿は、2020年7月5日にオンライン上で開催された、立命館大学人文科学研究所シンポジウム「新型コロナウィルス(COVID-19)以後の観光研究」のパネリスト・コメンテーターの議論から、多くの着想を得たことを付記する。

〈プロフィール〉
安田 慎(やすだ・しん)高崎経済大学 地域政策学部 准教授。京都大学・博士(地域研究)。専門は、中東地域研究、中東観光史、観光人類学。主な著書に、『イスラミック・ツーリズムの勃興 宗教の観光資源化』ナカニシヤ出版(2016年、日本観光研究学会・第10回学会賞・観光著作賞(学術)、観光学術学会・平成29年度学会賞著作奨励賞、国際宗教研究所・ 2017年度国際宗教研究所賞奨励賞)。編著に、Religious Tourism in Asia: Tradition and Change Through Case Studies and Narratives, CABI, 2018(Razaq RajとKevin Griffinとの共編著)、主な論文に “Managing Halal Knowledge in Japan: Developing Knowledge Platforms for Halal Tourism in Japan”, Asian Journal of Tourism Research 2(2): 65-83, 2017. がある。