錯視の基礎研究を実社会へ応用する道を探る
錯視とは、対象の真の特性とは異なる知覚のことです。実在する対象とは違うかたちで脳が捉えてしまう、「視覚性の錯覚」とも言えるでしょう。心理学の研究領域における錯視の歴史は古く、150年以上に及びます。特にここ20年、コンピュータの普及によって再び飛躍的な進歩を遂げています。
錯視研究が扱う範囲は、形の錯視(幾何学的錯視)のみならず、色、明るさ、補完、奥行きなど実に多様です。その膨大な知識は、医療、福祉、建築、交通、環境デザインなど、さまざまな領域に応用できる可能性を秘めています。しかし現在は心理学領域での基礎研究に留まっており、実用化が進んでいるとは言えません。このプロジェクトで私たちは、錯視研究を実社会で応用する道を探ろうとしています。
緑内障の早期発見 交通渋滞の緩和に錯視を活用
プロジェクトの中には、すでに実用への展開が進み始めている研究もあります。その一つが、「消える錯視」です。網膜には視神経が集中しているために光に対する感受性が低い部分、いわゆる盲点があります。実際に人が見る時には、この視野欠損を気づかないようにさせる視覚的補完が起こります。これが消える錯視です。消える部分は、単に「見えない」というだけでなく、見えなくなった領域が周囲のパターンで埋め尽くされたフィリングイン(知覚的充填)の状態でもあります。こうした消える錯視に随伴する諸現象を応用し、緑内障の早期発見手法の開発に展開できないかと考えています。
また道路を正面から見た時、上り坂が下り坂に見えたり、またその反対に見えたりする縦断勾配錯視を渋滞解消に役立てる方法の開発にも取り組んでいます。下り坂から上り坂にさしかかるサグ部で渋滞が起こることはよく知られています。プロジェクトでは、渋滞学の専門家や交通行政とも連携しながら、サグ部で起こる縦断勾配錯視を緩和する方法を探究しています。
その他、注意を喚起したい場所に気づかせるデザイン、色覚異常の方々にも見える色使いなど、色の錯視をカラーバリアフリーやユニバーサルデザインに活用する試みも進めています。
輝度の違いによって静止画が動いて見える
一方、その他の錯視については、これまでに数々の基礎研究の成果を積み重ねてきました。その一つに静止画が動いて見える錯視があります。中でも、暗から明へのグラデーション(輝度勾配)を繰り返し描くと、それがグラデーションの方向に動いて見えるという錯視は、発見者の名を取って、フレーザー・ウィルコックス錯視と呼ばれています。私たちは、この錯視のメカニズムを追究し、暗→やや暗い→明→やや明→暗いという順に輝度の領域を配置すると、錯視量がいっそう増大することを報告。この原理を用いた作品「蛇の回転」は人気を博しました。

同じく輝度の差異に着目した研究において、輝度のコントラストの高いところでは相対的に脳内処理速度が速く、コントラストの低いところでは脳内処理速度が遅いことで錯視が起こることも突き止めました。この原理を活用したのが「踊るハート達」という作品です。
さらに本プロジェクトでは現在、目の色の恒常性についての研究を進めています。脳の視覚系には、実際の照明やフィルターを補正し、対象の「本当の色」を知覚する機能があります。これを「色の恒常性(color constancy)」と言います。この機能によって、照明に色がついているために対象が実際とは異なる色に色づいていても、人間の目は対象の「本当の色」をある程度知覚することができるのです。
今後もこうしたさまざまな錯視のメカニズムを解明するだけでなく、生活環境で起こる錯視を発見し、環境改善に役立てたり、医療、産業への貢献を果たしていきたいと考えています。
錯視、錯覚、色覚、空間知覚、視覚的補完

1991年 筑波大学心理学研究科博士課程修了。教育学博士。'91年 (財)東京都神経科学総合研究所主事研究員。'01年 立命館大学文学部助教授。'06年 同教授、現在に至る。日本心理学会、日本視覚学会、日本基礎心理学会、日本神経科学会、日本アニメーション学会、日本動物心理学会、日本顔学会、日本色彩学会、三次元映像のフォーラムに所属。'99年 上武学術奨励賞、'05年 第1回今井賞(錯視の館賞)、'06年 第9回 ロレアル 色の科学と芸術賞金賞、'07年 日本認知心理学会・第3回独創賞を受賞。