カナダに暮らした日本人の
労働と生活の実態を 「大縮尺図」から解き明かす。海に囲まれた日本において、今も昔も魚は重要な食料の一つである。日本人の食生活を支えてきた漁業の歴史を振り返ると、第二次世界大戦以前、海を渡って海外に労働や生活の場を求めた者が少なからずいたことがわかっている。しかし、ハワイや北・南米に移住した農業移民については研究や報告が豊富にあるのに対し、漁業移民に関しては資料が乏しく、研究も圧倒的に少ない。そうしたあまり知られていない漁業移民に光を当てるのが河原典史だ。とりわけ目を引くのは、河原が『火災保険図』などをもとに歴史地理学的なアプローチで日本人漁業者の生活や労働の実態を明らかにしたことだ。
河原によると『火災保険図』は保険会社が火災の危険性を査定し、被災後の補償を管理するために工場や周辺施設を書き込んだ大縮尺図のことで、19世紀後半からイギリスやアメリカ、カナダなどで発行されるようになった。河原はそれをつぶさに分析し、1920年頃にカナダに移住した日本人について興味深い事実を突き止めた。
一例が、カナダのブリティッシュ・コロンビア(BC)州でサケ缶詰産業に従事していた和歌山県出身の漁業移民の存在だ。1920年代の『火災保険図』を見ると、フレーザー川河口にあるスティーブストンを中心にBC州沿岸には約100ヶ所のサケ缶詰工場(キャナリー)がある。それらを経営するのはイギリス系カナダ人で、そのもとで数多くの白人、日本人、中国人、少数のインディアンが雇用されていたことが見て取れるという。「おもしろいことに、サケの漁獲は日本人、缶詰作業は中国人が主力となり、インディアンが補完的な労働力を担うというように民族別に分業が行われていたことが分かります」と河原は解説する。
一方、BC州北部のキャナリーに中国人はほとんどおらず、一部の白人が重要な業種を独占し、日本人とインディアンが漁獲・缶詰作業の両方を担っていたというように、地域によって分業体制が異なっていたことも河原は確かめている。
次いで河原はキャナリーでの人々の居住状況から家族形態も推察している。「当時の『火災保険図』や残された写真を見ると、キャナリーに隣接した従業員の住居には複数の形態があります。中国人が居住していたのは“Chinese Bunk”と記された住居です。キャナリーでは中国人は男性が単身で従事するケースが多かったため、住居に二段ベッドを並べただけの『寝台舎(Bunk)』で生活していました。それに対して日本人が住んでいた住居は“Japanese Cabins”と記されており、簡易ながら戸建てや長屋形式の住宅であることがわかります。日本人の漁業移民の多くが妻子を呼び寄せ、家族で暮らしていたからです。さらに、インディアンには『粗末な小屋(hut)』しか与えられなかったことも記されています」。
また河原は、これまでほとんど紹介されてこなかったカナダの鹿児島県出身者の活躍を論じたことでも注目を集めた。特に河原の興味を引いたのは、日本では漁業と無縁の仕事をしていた鹿児島県出身者がBC州北部でサケ缶詰産業に就いていたことだ。
「鹿児島県南部出身者は当初、鉱業や鉄道保線に従事するため契約移民としてカナダに渡りました。しかしそれらの仕事は過酷で危険だったため、多くが3年の契約終了後にサケ缶詰産業に転業したと考えられます。しかしBC州南部には漁業を得意とする和歌山県出身者がいた。そこでやむなくスティーブストン以外のブランスウィック・キャナリーのように、小規模ながら比較的新しいキャナリー、ときには北部のキャナリーで働くことになったのではないでしょうか」と河原は推察する。
さらに河原は、サケ以外の水産業にも研究範囲を広げている。一つは鯨油を採取するための捕鯨業で、ここでも日本人がクジラの解体という重要な役割を果たしたことを明らかにしている。
もう一つ着目したのが、ニシン加工業に従事した日本人たちだ。カナダの水産業ではサケと違ってニシンは重要視されなかったため、1920・30年代の一時期、ニシン産業は日本人漁業者の独断場だったという。河原は当時の農商務省から発行された『海外ニ於ケル本邦人ノ漁業状況』や『加奈陀太平洋岸鰊・大鮃漁業調査報告』をひも解くとともに、当時ニシン漁業に携わったカナダ在住二世への聞き取り調査も実施し、多くの貴重な事実をつかんだ。「カナダの日本人漁業者たちはジョージア海峡に入ってくるニシンを捕獲して塩ニシンを作り、日本だけでなく、植民地の朝鮮や台湾へ移出するグローバルな流通ルートを開きました」と解説した河原。「こうした太平洋をめぐる漁業移民ならではのダイナミックな動態を追うのがおもしろい」と目を輝かせる。