立命館のあゆみ
真の自由と学問の尊厳を求めて
学祖:西園寺 公望 創立者:中川 小十郎

時代を先取りした白熱の授業
1900(明治33)年6月。初夏の一日も終わりに近づき、傾く陽射しが長い影をつくる夕暮れ時。京都の古い町並(京都市上京区東三本木丸太町)の三階建の建物に、若い学生が三々五々集まってきました。
そこは「清輝楼」(現大和屋)と呼ばれた料亭だったところ。建物の東側には、幅いっぱいに大きな窓が取られ、夕日に映える東山の峰々や遠く比叡山の姿を眺めることができます。
その二階の座敷に集まったのは、いずれも勤労学生。授業前の雑談の中にも、青雲の志と勉学への意欲が顔を飾っていました。飯台(和室での食事用の小さな台)を机にし、あまり上等でない黒板を先生が背にして、その日の講義がはじまります。その光景はちょうど江戸時代の漢学塾を思わせるものでした。
しかし、講義を担当する先生は、みんな京都帝国大学の教授ばかりで、その内容は時代を先取りする充実したものでした。ユーモアあふれる話ぶりで、学生たちをグイグイ引き込む井上密教授の憲法学、ヨーロパ仕込みの講壇社会主義などを盛んに語る田島錦治教授の経済学などなど。学生たちも、遠慮なく質問を連発し、白熱の講義の中、夜が深くなってゆきます。そして、天井には歌うようにゆらめく何十個ものランプ。
これが、1900年5月19日中川小十郎が創設した私立京都法政学校(のちの立命館)の初期の姿。何ら虚飾ない自由な雰囲気の中での徹底した討論。現在の立命館大学の原型がそこにあったのです。
西園寺の家塾 立命館に集う青年たち
立命館という名称とその建学の精神を論ずる時、我々は学組・西園寺公望に触れなければなりません。
西園寺公望。高い門地の公御に生まれ、明治・大正・昭和を通し常に会議重視を唱えて元老となった第一級の政治家であり、自由主義、国際主義者でもありました。
明治維新前、若き西園寺は、京都御所内の邸(現在の白雲神社)に高名な詩文家を招いて、毎月漢詩文の勉強会を催していました。激動の世を反映して、その詩会はたびたび時事問題の討論の場となり、京の人々のよく知るところとなりました。
やがて明治維新となり、西園寺は官軍総監督等として旧幕軍討伐のため、山陰・越後・会津を転戦します。勝利の後、彼は京都にもどり、御所内の邸に家塾立命館を開きます。そこには、大志を抱く青年が数多く集い、新しい時代に向けた勉学が行われました。
しかし、立命館の評判が近畿一円に広がるにおよんで、そこに不穏な動きがあると誤解した時の太政官留守官は、塾の閉鎖を命じてきました。ちょうどその時西園寺は、フランス留学の準備のため長崎に滞在中。突然の報に驚き怒りながらも、長崎という遠い地にあってはいかんともしがたく、やがて心を残しながらもフランスへ旅立ちます。
西園寺は、立命館の賓師の一人であった江馬天江に立命館再興を誓う手紙を送ります。
自由主義とアカデミズム
西園寺は、10年におよぶフランス留学で、西洋の自由主義精神を身につけて帰国します。その彼を待ち受けていたのは、政府の弾圧を受けながらも必死で戦う自由民権運動の人々でした。西園寺は、彼等に請われて東洋自由新聞の社長に就任し、自由民権運動に大きな役割を果たします。
その後西園寺は、外交官生活を経て1894(明治27)年に第二次伊藤内閣で文部大臣に就任。その政治姿勢は、自由主義・国際主義に則ったもので、日清戦争の勝利に酔う国粋主義的な当時の風潮とは相反するものでした。
この文部大臣就任中、彼の秘書官となったのが、先に述べた京都法政学校の創立者・中川小十郎の父・中川禄左衛門が、西園寺の討幕軍に従軍するなどの縁もあり、小十郎は西園寺に親しみを感じ学生時代から知遇を得ました。そして、秘書官になってからは、精神的結びつきはいっそう強いものとなります。
自由主義的な気風に満ちた西園寺と中川の二人によって成し遂げられた業績は数多くあります。例えば、その一つに京都帝国大学の創設があります。当時、ただ一つの官立大学であった東京帝国大学は、政府の高級官僚養成のための学校という感がありました。そこで西園寺は、京都に自由でアカデミックな、政治権力と一線を画した大学の必要を考えます。中川は、初代の大学書記官(事務局長)として京都帝国大学創立のための力を尽くしました。
勤労青年たちに勉学の場を
京都帝国大学創立を果たした中川は、西園寺を追うように官を辞し、実業界に活躍の舞台を求めます。加島銀行理事、大阪堂島米穀取引所監査役、朝日生命副社長と中川は、その実力をいかんなく発揮しました。
しかし、そうした中で彼の心を曇らせたのは、向学心に燃えながらも機会を得られない勤労青年の姿でした。当時、東京には私学がいくつかできていましたが、京都には京都帝国大学があったのみです。
前途有為な青年たちに勉学の機会を与える、社会に開かれた学校をつくりたい……中川の教育への情熱は、抑えがたいものとなってゆきます。中川は、京都帝国大学の木下広次総長をはじめとする諸教授に相談し、彼等の賛同と協力を得、私立京都法政学校の創立を実現します。財政面は中川が、教育面は京都帝国大学の諸教授が担当し、初代校長に富井政章を迎えます。中川は、学監として学園の運営に力を尽くしました。
立命館の精神と名称を受け継ぐ
京都法政学校は、1900(明治33)年5月19日に設置が認可され、同年6月3日から元清輝楼での夜間授業が開始されました。開講当時の学生数は305名。活気に満ちた授業と清新な学園運営がなされました。
元清輝楼の仮校舎から広小路本校舎への移転、専門学校令による私立京都法政専門学校への改組・改称、新学科の設置、その後の専門学校令による私立京都法政大学の設置認可などさまざまな変遷を経ながらも、その教育の基本は一貫して変わらず、優れた人材を世に送り出し始めたのです。
京都法政学校を設置するに当たり中川は、西園寺の精神を継承するとともに、西園寺がかつて開いた立命館の精神も引き継ぎました。
中川は、西園寺に立命館の名称を引き継ぎたいと申し出たところ、快諾を得ます。西園寺は自ら筆をとって「立命館」の3文字を大書、75文字のゆかりを付記した扁額を中川に与えました。
ここに、名実ともに西園寺公望の家塾の伝統を継承した立命館が誕生したのです。それはまた、30年前涙をのんで立命館閉鎖の措置に甘んじた西園寺の再興の情熱が実を結んだものであったのです。
1913(大正2)年、私立京都法政大学は、私立立命館大学に名を改めるとともに、財団法人立命館を設置。法人組織によって大学運営をすることになったのです。さらに1922(大正11)年には、大学令による立命館大学に昇格し、順調な発展を遂げてゆきます。
時代の潮流抵抗と国家主義
第一次大戦から第二次大戦にかけて、世界と日本の歴史は激しく動揺しました。立命館もこの時期に、自由主義と国家主義の両極を揺れ動いたといえます。
1930年代になると、軍部やファシズムが台頭し、言論や思想に対する弾圧が強まり、学問の自由に対しても不当な干渉が繰り返されるようになります。文部省は京都帝国大学法学部の滝川教授に対し、その学説に非難を加え、1933(昭和8)年5月に休職命令をを出しました。この処分に抗議して、法学部の全教員が辞表を提出、当局との全面対立に発展します。結局39人の教官が辞職し、立命館はこのうち17人を教授として迎え入れました。
ファシズムに敢然と抵抗し、学問の自由と大学に自治を守り抜こうとした学者たちと、彼らを支えた立命館。この事件は広く学界とジャーナリズムに影響を与え、それ以降の抵抗運動に対して無言の励ましとなったのです。
しかし、この事件で迎え入れた憲法学者の佐々木惣一学長も、天皇機関説の余波で辞任に追い込まれます。そのころからの立命館は禁衛隊の活動などで、顕著な国家主義傾向をしめしました。それでも、困難な戦時中にも、立命館に学問の灯火をともし続けた良心的な研究者・教育者たちがいました。
民主的な学園運営に向けて
戦後、立命館はいちはやく国家主義的傾向の克服と復興に向けて動き出します。立命館と縁の深い京大事件の立役者で民法学の大家・末川博を学長とし、次々に学園の改革が始まります。
総長制の採用を始め、理事会・評議会など学園機構の整備を図りながら、他大学に先がけて1948(昭和23)年に法・経済・文・理工学部からなる新制大学としての発足を果たします。
こうした数々の改革の中でも、とりわけ全国の大学や教育関係者から注目を受けたのが、総長公選制の導入です。より民主的・自治的な学園運営を目指し、1949(昭和24)年に、理事者・評議員・選任教職員・学生・生徒ら全学の代表による公選がはじめられました。
同時に、学園振興の運動を進める全学的組織として全学協議会制度が創設されました。これは、学園運営の重要事項に関して、理事会・教授会・学友会・教職員組合などのすべての学園組織と、学生の代表を加えた協議会で合意を形成するという他大学に例を見ない民主的制度です。
また、社会に開かれた大学を目指し、市民を対象とした立命館土曜講座は1946(昭和21)年から開始され、現在も継続されて全国の公開講座の最長記録となっています。
こうした一連の改革の背景にあったのは、憲法と教育基本法を尊重し、平和と民主主義を守ろうとする教育理念です。民主的な学園運営、自主的学習の尊重を特色とする立命館は、こうして形成されていったのです。
社会の要請に応え常に自己改革を
戦後の日本は、大きく姿を変えてゆきました。この社会の変貌や社会的要求に対して、立命館も大きく成長発展してきました。
1948(昭和23)年人文科学研究所設置、1950(昭和25)年大学院設置、1955(昭和30)年理工学研究所設置で学内の研究体制は一段と整備されます。
1962(昭和37)年には、企業社会での人間疎外を克服する主体の形成を目指して経営学部が、1965(昭和49)年には、既存学問分野ではとらえきれなくなった各学問の共同を目指して産業社会学が相次いで設立されました。
こうしためざましい成果の結果、80年の歴史を刻んだ広小路学者が手狭となり、当初の計画から17年の歳月をかけ、1981(昭和56)年に、現在の衣笠キャンパスへの全面移転が行われました。全学部と二部が同一のキャンパスに統合され、すべての研究教育活動における全学的共同の条件が整い、めざましい成果を収めるようになりました。
1987(昭和62)年に理工学部に増設された情報工学科は、情報関連の先端技術諸分野を推進する技術者の育成を図り、1988(昭和63)年に開設した国際関係学部は、諸民族の異なった文化の相互理解を促し国際平和に貢献できる人材の養成を目指しています。
また、1988(昭和63)年には、立命館高等学校・中学校が、北大路から深草に移転、男女共学を実施し、最新の教学施設を誇るようになります。
今、社会の変貌はさらに加速度をつけ、急激に進んでいます。
「日本は、政治的にも道徳的にも、経済的にも世界と孤立していくものではない。日本の独立を維持し、之を向上し、これを拡張するには、世界の中の一員として之と協調し、これを摂取し、之を鏡戒とし、之と授受するほかはない」これはおよそ90年前の西園寺公望の言葉。このことは、今日の日本の現状にも当てはまります。
真の国際化を推進し、本格的な高度情報化社会を切り開いていく人材の育成が待望されています。立命館は、こうした社会の要請に応えるために、次々と改革を行ってきました。現在は、21世紀を展望して「第4次長期計画」にもとづく、研究・教育のさらなる改革を進めています。衣笠キャンパスにおける政策科学部の新設および理工学部のびわこ・くさつキャンパス(BKC)への移転・新学科の設立は、こうした改革の歩みを一つにするものです。
この根底に流れるものは、学祖・西園寺公望、創設者・中川小十郎をはじめとする立命人によって築き上げられた自由清新の気風と、社会に開かれた大学という建学の精神。そして名誉総長・末川博によって確立され、歴代総長をはじめ全学の教職員・学生に支えられた平和と民主主義の教学理念なのです。
立命。それは孟子「盡心章」の一節「妖寿貳わず、身を修めて以てこれを俟つは、命を立つる所以なり」に因んでいます。
人生の長短に関わらず、ただ勉学にいそしむことが、天から与えられた人間の本分。立命館とは、まさに人間がその本分のまっとうするための場所なのです。
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