数学者の世界私はモグリの数学者である。数学者の帰納的定義というのがあって、
(1) ガ ウスは数学者である、というものである。数学者という職業 が確立されていなかった18世紀頃ならともかく、21世紀を向かえようとい う現在、数学者とは大学の数学科の大学院を出て、どこかの大学の数学教室の 助手を振出しにキャリアを積んできた人を意味し、上の帰納的定義もこのシス テムの中に内在している。従って、数学科の大学院を出ている訳でもなく、数 学者として大学教員に迎えられた訳でもない私は、免許皆伝の正統派数学者で はない。べつにゲリラを気取る訳でもないが、今更数学科の大学院に「社会人 入学」するのもシンドイので、今後もモグリ数学者のまま通すことになろう。 ただ、最近まで同僚だったガウス直系の某大数学者から、(たぶん外交辞令か 励ましのつもりからだろうが)「高山さんは正真正銘の数学者です!」との言 葉を一度ならず頂いたので、私自身はかなりいい気分になっている。
(2) ガウスが数学者と認めた者は数学者である、
(3) 数学者が数学者と認めた者は数学者である。
(4) 数学者とは1〜3の規則 によって生成された集合の要素である、しかしながら、数学の世界では新参者だし、この世界での流儀を折にふれて教 えてくれる師匠が居るわけでもないので、現在数学者の世界を鋭意調査中といっ たところである。以下は、その中間報告である。
「それはまともですか?」
これは数学者同士で、誰かの論文や新しくこの世界に入ってきた人が話題になっ たときによく聞かれるフレーズである。どこそこの大学院生が物凄い量の論文 を書いているとすると、「それはまともな論文なんですか?」。だれそれがこ ういう定理を証明したとか言っていると、「彼(彼女)はまともな数学者なんで すか?」といった具合である。この世界で一度「まともでない」という評価を されると、挽回するのが結構難しいようである。計算機の世界で「それはまともですか?」という言葉はほとんど聞いた事がな い。「いい加減な話」とか「いい加減な事ばかりやっている研究者」という事 は良く言うが、それはかなり限られた状況でしか言わない。 ましてや正面気って「まともか?」と聞く事はまず無いと思う。それは 計算機科学自体がまともな学問じゃないからだ、と憎まれ口をたたく気は無い が、数学の世界では何がまともで何がまともでないかという価値基準がはっき り決まっているようである。その意味で、厳しい学問だなという気がする。
数学者の研究成果に対して、「面白い」は最高の褒め言葉のようである。いく ら精緻を極めた新しい結果でも、「面白く」なければクズ同然と評価される。 学術雑誌の編集者は「あなたが面白いと思う論文に掲載許可を出してください」 と編集長から依頼されるそうである。その編集者が妙なものを「面白い」と思 うようだと雑誌のレベルが維持できないので、「面白さ」に対する正しい感覚 を持った編集者を集める事が、学術雑誌の権威を高める鍵のようである。その 意味で、数学者の世界では、「面白さ」の品質管理にはずいぶん神経を使って いるようだ。
このような学術雑誌の編集方針は、計算機科学のそれとはずいぶん違う。計算
機科学では、複数の査読委員が論文を審査し、だいたい多数決または平均点を
とって掲載を許可す るかどうかを決める。だから、査読委員の一人がその論文をこきおろして、最
低の評価を下すと、編集者や他の査読委員がいくら高い評価をしても、その論
文は掲載を認められない場合もある。この意味で、 数学と比べて編集者の権限や責任が小さい。
数学の専門分野も流行りすたりがあるようである。大体超一流の数学者から二 流の数学者まで、それぞれの実力に応じて手頃な問題が沢山ある分野は、当然 多くの数学者が関心を持つから流行する。逆に、フェルマー予想級の難問か、 瑣末な問題を除いて研究すべき問題が枯渇してきた分野や、余りに難しくなり すぎて、第一線の研究を理解できるようになるまで10年以上勉強しなければ ならないといった分野はすたれるようである。
数学者は、工学者と違って流行にはあまりとらわれないし、人気が無くても自 分の好きな問題を研究していればそれで幸せ、というのが基本姿勢のようであ る。それでも、流行らない分野の研究者は色々割りを食うようで、不満ともあ きらめともつかぬ嘆きが聞こえて来たりもする。まず、流行らない分野の研究 者は旧制帝大の理学部からは徐々に駆逐されるようである。これは、数学科も 一部の(?)工学部と同じく流行を追うのをよしとする傾向があるからだ、とか、 流行らない分野は価値が低いと思われているからだ、という訳ではないようで ある。旧制帝大の理学部は研究者養成機関だから、大学院生に適当な問題を研 究させて成果を上げさせなければならない。従って、手頃な問題が沢山あって、 成果が上げやすい分野の方が良いことになるわけだ。
学生時代は、その時点で華やかに見える分野に引かれがちであるが、華やかに 見えるのは、その分野の落日の輝きであることも少なくない。数学者として一 人立ちして、大学に職を求める頃にはほとんどポストがない、なんてこともあっ て、その学年で一番優秀だった学生が、必ずしも研究条件が良くない所に就職 していくような事もあるようだ。
このあたりの事情も、世の中の流行りすたりに機敏に対応して、いつでも専門 分野を変えていける計算機科学とはずいぶん事情が違う。数学者の世界は、い つも日の当たるところでうまく立ち回って行きたい人には、リスクの大きい世 界であろう。
もっとも、一時期勢いが衰えた分野でも、何かすばらしい発見をきっかけに再
び盛んになることはいくらでもある。技術の世界と違って、時間や空間を越え
て価値を持ち続ける数学ならではの現象である。天才はすたれていた分野を 見事な発見によって甦らせる力を持っているが、ふつうの数学者はそうでもない。
ある分野が盛んになっていく時期に研究生活を送れた数学者は好運である。
数学者の場合、勤める大学の様子はそれ程関係が無いようである。出張費が少 ないとか、担当講義が多くて研究に十分専念できないとか、研究する雰囲気で はなく元気が出ないとかいう事情はあるが、基本的に個人プレイで研究出来る 学問なので、細々ながらも皆なんとかやっているようである。勤める所が、理 学部の数学科でなくてもそれ自体はさしたる問題ではない。工学部でも教育学 部でも短大でも高専でも、学生がほとんど勉学を放棄しているような状態の大 学でも、それ故に研究が出来なくなるという訳ではない。その意味で、数学者 は、一応数学教師として雇われれば、どこへ行ってもそれなりに幸せにやって いける職業ではある。
ただ、最近では世の中的に数学バッシングが盛んで、大学の学部学科の改組に 伴って、数学者のポストを他の実用科学のポストに置き換えようという動きが あちこちで起こっている。そういうゴタゴタの絶えない大学に勤めると、自分 自身の首がどうこうということはなくても、かなり憂鬱な日々を送ることにな るようである。また、これはどの分野でもある事だが、人格的に非常に問題の ある教授が力を持っている所では、相当なストレスを覚悟しなければならない ようである。その意味で、勤務する大学の当たり外れは、世間的な大学のステータスでは わからない部分がある。
それでも勤務校がある数学者は幸せである。 とても優秀なのに安定したポストにつけないままでいる人達も少なくない。