配位子場理論の再構築

日本大学文理学部物理学科 里子允敏


配位子場理論におけるd−d電子間相互作用(ラカーパラメータA、B、C) と結晶場分裂 (10Dqパラメ−タ)には、電子相関効果の影響が「陰に」含まれていること は古くから指摘されいた。しかし、励起状態を含めた多重項の電子相関エネル ギーを配位子場理論の結果の精度(数/10 eV)で得ることは非常に難し いのが現状で、配位子場理論のパラメーターの定量的な大きさを理論的に再現 できるかどうか必ずしも明らかになっていな い。この論文では電子相関効果を「陽に」取り入れた配位子場理論を、有効ハミルトニア ンを用いることにより構築し、電子相関エネルギーの理論計算値と比べ、配位子場理論の 意味と電子相関の本質を探ることを試みる。 配位子場理論における有効ハミルトニアンは、d電子軌道以外の外部空間部分による影響 を形式的には内部空間のみの状態に関する方程式(フェッシュバッハ方程式)に押し込め たものと考えられる。従って、d電子間の相互作用は、一般に1/rで書けない、複雑な 相互作用となる。対称性を利用することにより、この相互作用を単位テンソル演算子Uの スカラー積の和で書くことができる(詳細は論文参照)。 原子の多重項スペクトルの解析にたいして、この方法を応用した。 原子の電子軌道はs, p,d,fと角運動量の大きさにより分類される。2電子間の相互作用の有効ハミルトニ アンから、p2、p3、p4電子配置を持つ原子、d2、d3、d4,d5,d6,d7 ,d8電子配置を持つ遷移金属原子の多重項エネルギーを求め、観測結果と比較検討を行 った。p電子配置のC、N,O原子のスペクトルとの比較、および電子相関エネルギーの 計算結果から、p電子間相互作用は1/rだけでは書けず、p電子間の一階テンソル演算 子(角運動量演算子)のスカラー積に比例した相互作用の効くことが分かる。d電子配置 の遷移金属原子のスペクトルにおいて、従来の1/r相互作用による計算では数千cm− 1の違いを説明できなかったが、有効ハミルトニアンによる方法ではすべての多重項状態 が数百cm−1以内で、一致する。これはd電子間相互作用に電子相関効果による1階テ ンソル演算子(角運動量)、及び3階テンソル演算子間のスカラー積相互作用が重要であ ることを示している。 立方対称場中のd−d電子間の有効ハミルトニアンはt2軌道、e軌道にある各々の電子 間の相互作用に対する有効ハミルトニアンとして書くことができる。この結果を観測スペ クトルと比較・検討の結果以下のようなことが明らかとなった。従来の配位子場理論にお いて2価イオンに比べ3価イオンの方が、共有結合性が大きいため、10Dqが大きく、 原子に比べてパラメターBの減少率(2割程度)も大きいと言われている。ただし、この 議論はt2,e軌道のそれぞれのラカーパラメータAを同じ値と仮定している。しかし、 共有結合性が大きいと、t2,e軌道間のAの違いは数千cm−1以上になる。したがっ て、ハミルトニアン行列要素にAの違いを無視できず、従来の10Dq値にはAの違い値 が含くまれていると解釈すべきである。また有効ハミルトニアンの計算結果から明らかな ようにラカーパラメータAと10Dqは分離できないことがわかる。本来の1電子軌道の 結晶場分裂10Dqは従来の値よりV3+については、もっと大きく、Ni2+について はもっと、小さくなることが期待できる。  さらに、電子相関効果による相互作用を取り入れた有効ハミルトニアンにより、さらに配 位子場理論を検討中である。

(3)配位子場理論における有効ハミルトニアンの内殻光電子スペクトルへの応用
遷移金属化合物の諸物性において、d−d電子間の電子相関が重要であることは知られて いる。 従来の配位子場理論において遷移金属化合物の観測スペクトルを解釈するとき、 電子相関効果は、形式上d−d電子間クーロン相互作用のラカーパラメーターA,B,C に押し込められてきた。その結果、物理的な描像は掴み易いが、電子相関効果がパラメタ ーA,B,Cにどの程度含まれているのか等の点について定量的にあいまいな部分があっ たといえる。 そこで、本稿では、従来の配位子場理論をより一般化した有効ハミルトニ アン法を導入し、応用例として、遷移金属化合物の内殻p電子の光電子スペクトル計算を 行う。有効ハミルトニアンを用いて、遷移金属化合物における、遷移金属原子内殻2pあ るいは3p軌道からの光電子分光スペクトルを調べた。多くの場合、内殻電子が抜けたこ とによるポテンシャル変化が大きく、外殻電子の軌道緩和を伴う。その結果、遷移金属化 合物のように外殻電子が開殻だと、多重項間の混合による多重項サテライト、言い換える と他の多重項への電子励起による構造あるいはスペクトル巾の増大を生ずる。また配位子 から遷移金属へ、あるいは逆に金属から配位子への電荷移動によるシェイク・アップ構造 がともなうこともあり、複雑なスペクトル構造となる。ここでは遷移金属化合物の多重項 サテライトによる構造について系統的に調べてみた。pd電子間相互作用の有効ハミルト ニアンは外殻d電子の軌道緩和を引き起こす軌道分極項、スピン分極項、スピン・軌道分 極項の和で書くことができる。軌道分極は内殻p正孔ができることによる、スピンに依存 しないクーロンポテンシャルによって生じる軌道緩和である。スピン分極は内殻正孔と外 殻d電子とのハイゼンベルグ交換相互作用によって生ずる軌道緩和である。 そして、ス ピン・軌道緩和はスピン分極と軌道分極との複合ポテンシャルによる 高スピン状態のス ペクトル巾はd5電子系が最大で、d5電子配置からはずれるとともに減少する。スペク トル巾に軌道分極の効果はほとんど無視でき、スピン分極の効果が一番大きく、ついでス ピン軌道分極の効果となることが分かる。いいかえると、p電子が光放射されるとき、ス ピン交換相互作用が絡まないと、外殻のd電子の多電子状態が他の多電子状態と混合しな いため、巾への寄与は小さくなることを意味する。 またd5電子配置でスペクトル巾が 最大となる理由は、スピン分極の交換相互作用Sd・spにおいて、d電子のスピンSd がd5でSd=5/2と大きいためである。そして、d5電子配置からはずれるとともに 、スピンの大きさは減少するため、スペクトル巾も小さくなる。それにたいして、低スピ ン状態の巾は基底状態のスピンSdが小さくなるため、スペクトル巾も減少する。 立方対称場中のすべての遷移金属イオンについて、2pおよび3p光電子スペクトル巾の 起因についてまとめると、高スピン状態イオンでは軌道分極<スピン・軌道分極〜スピン 分極低スピン状態では軌道分極〜スピン分極<スピン・軌道分極となる。従って、スペク トル構造にスピン・軌道分極が重要となる。 結晶場によるスペクトル非対称性への各分極効果の大きさはスピン分極=0<軌道分極 <スピン・軌道分極の順になる。 d5電子のMn2+において非対称性は0となる。こ れはd5で外殻電子状態が球対称的であるため、軌道緩和も、シェイク・アップ、ダウン がともに起こり、非対称に寄与しない結果となる。10Dqの効果が非対称に効く場合は 、外殻d電子の多重項が球形でない、軌道縮重の大きいイオンCo2+、あるいはV2+ イオンである。低スピン状態では、Fe2+のt26が当然シェイクアップのみ起こるた め、大きい。 低スピン状態の3次モーメント(非対称性)は、e軌道からのシェイク・ ダウンが起きず、t2軌道からのシェイク・アップだけが起こり、大きいのが特徴である。

発表論文

  1. 里子允敏   「配位子場理論  -電子相関-      配位子場科学とその応用 第2章(1998年9月出版)
  2. 里子允敏   「配位子場理論における有効ハミルトニアンと内殻光電子スペクトルへの応用」      日本大学自然研究所紀要 33(1998)pp187-219.

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