分子およびクラスターにおける構造転移のメカニズムと 非線形力学
クラスターの動力学は、孤立分子系と凝縮相のそれを結ぶ上で、極めて重要 であり、興味ある多体問題の宝庫として、近年富みに注目されている。クラスターは 、力学決定性の世界から統計力学法則を出現させる中間的な状態ということだけでは なく、それ自体の独自の現象と法則性をもっている。特に、構造転移(異性化)反応 は、今後さらに重要性を増すであろう高エネルギー・多チャンネル反応のプロトタイ プとして、注目される。我々は、同種粒子が7個結合したクラスターの構造転移反応 を理論計算により研究しているが、本重点研究で明らかになったものの内の代表的な ものについて要約を逐次述べる。
分子内(構造)転移反応における、反応速度と転移の時系列は、カオスと集団運動
が主要な役割を果たしていると考えられ、その解明は多体問題としての普遍的な重要
性を持っている。ここでの研究対象は、クラスターのような、同種7原子からなる
分子の構造転移の、エネルギーおよび時間に対する依存性である。低エネルギーでは
、この構造転移反応(異性化反応)は起きず、固体類似相にある。一方、高エネルギ
ーでは、非常に頻繁に構造転移を起こし、液体類似相にあるといわれる。固体類似相
から液体類似相に融解する過程でのエネルギー領域は、共存領域(相)と呼ばれ、一
次相転移の原初の形態を持ち、力学過程、速度過程および統計力学の基礎としても興
味を持たれている。共存相では、分子の柔らかさを表現するリンデマン指数等が急激
に立ち上がることが、ベリー等の研究で知られている。我々は、共存領域から液体類
似相を中心に、その古典ダイナミクスと統計量を比較検討した。その結果、
(1)共存領域での構造転移ダイナミクスは、非定常過程にあり、間欠的な時系列を
持ち、この時系列が非定常であることを明らかにした。実際、この過程が非エルゴー
ド的であることを直接証明するために、30次元位相空間の体積を計算し、分子の局
所構造(ポテンシャルのベイスン)に対応するようにそれらを分割した。(この計算
自体、この分野では画期的である。)この結果は、共存領域では単純統計理論は使え
ないことを意味している。
(2)共存領域はリンデマン指数などで検出できる相と、それでは検出できない相の
二つの副相からなることを発見した。低エネルギー側の共存相(リンデマン指数など
で検出できる相)は、原子間距離の長距離に由来する融解に相当し、高エネルギー側
(リンデマン指数では液相と判断されてしまう共存相)は、短距離の融解過程に対応
していることを明らかにした。
(3)上で記したマイクロカノニカル分布は、位置エネルギー分布と運動エネルギー
分布の畳み込みで書けるから、全分布を位置エネルギー軸上にプロットし、その最大
値を与える運動エネルギーをもって、マイクロカノニカル分布における「温度」と定
義することができる。同じ全エネルギーでも、異なった分子構造に対しては、異なっ
た「温度」が与えられる。この温度は、転移速度過程の一定の役割を果たすことを明
らかにした。
次に液体類似相について、
(4)「クラスターが一つの構造(ポテンシャルベイスン)を通過して他の構造に転
移する際、そこを通過するのに必要な平均時間(平均通過時間=平均寿命)は、どの
ベイスンから入ってきてどこへ出ていくのかは関係無く、現在通過中の構造とエネル
ギーだけで決まる。」という事実を発見した。各構造の間の遷移状態のエネルギーは
高さは、すべて異なっているので、この結果は化学反応論の常識に根底から反する非
常に重要な事実である。
(5)この事実に基づいて、分子内エネルギー流の統計仮説(RRKM理論)の検証を行
った。このダイナミクスは強いカオス(混合性)のために、一つのベイスンの中で、
異なる出口へ到達する多数の古典軌道が蚕の繭のように絡み合っているであろうと想
像される。(ただし、位相空間は30次元なので、ポアンカレ面のような情報はとれ
ていない。)そこで、一本の古典軌道がポテンシャルベイスンに入ってくると、(統
計的な意味で)自分がどこから来て、どこへ出ていこうとしているのかという力学決
定論的な情報を速やかに失うであろう。このようにして、軌道は、ベイスンとエネル
ギーに固有の緩和時間(情報を失う時間)で平均通過時間がきまるであろう。結局、
カオスによる位相空間の微視的な混合構造が、転移という分岐現象を通して巨視的に
見えているということである。
(6)次に、各ベイスンでの通過時間(寿命)分布を詳細に検討し、この系では、短
寿命領域で指数関数分布よりかなり小さくなることが分かった。これを、ホールと呼
ぶ。普通 混合性が十分達成されていない時間領域(つまり、上の緩和時間よりも短
い時間)では、直接軌道と呼ばれる逸早くベイスン飛び出してくる軌道が多くなるこ
とが、Berblinger やSchlierらの研究で分かっている。我々の結果は、その逆である
。混合性が達成されているのにもかかわらず、むしろ、軌道は出口を探すまでに時間
がかかっているかのように振る舞う。この傾向は、当然、共存エネルギー領域で顕著
である。我々はこれを、従来の化学反応の統計論には考慮されていない分子内エネル
ギーの非平衡輸送現象と位置付けて徹底的に解析した。その結果、分子内非平衡エネ
ルギー移動の拡散模型を構築し、ホールの生成機構の定量的説明に成功した。
(7)我々はさらに、ホールの生成はポテンシャル関数の形状(ポテンシャルの到達
距離等)に依存してできたりできなかったりすることを見い出した。二つの典型的な
ポテンシャルの場合の比較研究を通して、構造転移のダイナミクスの起源を明らかに
すべく、カオスの強度、軌道の転回点分布、反応チューブの分岐等を用いて、位相空
間構造の特徴付けを行った。その結果、位相空間には、補足領域と輸送領域があり、
輸送領域での拡散過程がホールの生成を支配していることをつきとめた。
(8)転移する構造マルコフ的出現ダイナミクスを理解する上で、通常の混合性だけ
では不十分なので、「inter-basin mixing」とよぶ概念を導入した。また、この状態
に系が近づいていくための時間スケールを定量化するためのリアプノフ指数の拡張を
行って、実際に計算をおこなった。
1935年ごろ確立された遷移状態理論は、今世紀を通して化学反応動力学の基礎概
念を支配してきた。しかし、冒頭にも述べたように、高エネルギー・多チャンネル反
応は、遷移状態理論では記述不可能である。軌道が遷移状態領域以外の領域を易々と
通過するからである。クラスターの構造転移反応が正にその典型であって、ここで行
われた研究は、新しい化学反応論を展開するために考慮すべき基礎と、今後進むべき
方向をかなり明らかにしたと思う。
以上の結果は、世古千博氏との共同研究による。
発表論文リスト
(1997-98年度)