統計的手法による少数多体系のダイナミックスの研究
奈良女子大学理学部 田崎秀一
抽象的な力学モデルを用い、少数多体系で期待されるダイナミックスの 統計的諸性質に ついての以下の研究を行った。
(1)輸送現象と力学的フラクタル構造
開いたカオス系では不安定周期軌道が多数存在し,その総体は相空間内でフラクタル集
合(フラクタル・リペラー)が形成され、これは輸送現象において重要な役割を果たし
ている。リペラーの構造は非平衡定常分布がフラクタル分布になることに反映されてい
る。他方,臨界点に近い気体などのシミュレーションで有効であると考えられているNose- Hoover-Evans 法では、着目している量の保存則を破らない‘摩擦力’を含む散逸的ダイナミックスを用いるため、輸送現象を伴う定常分布はフラクタル的アトラクター上にあるSinai-Ruelle-Bowen(SRB)測度で記述される。このように輸送現象と力学的フラクタル構造には密接な関係がある。本研究では、化学反応とフラクタル構造の関係、Nose- Hoover- Evans 法での相空間の具体的構造についてパイこね変換型の抽象力学モデルを用いて数理的構造の研究を行った。
パイこね変換を総面積が一定で各部分の面積が保存しないように変更すると
Nose-Hoover-Evans 型の可逆なパイこね変換が得られる。このモデルでは面積非保存
(=散逸)のためt→∞で軌道はアトラクターに吸引され、定常状態は相空間を埋め尽く
すフラクタル的SRB分布となる。時間発展は可逆であるからt→−∞でのアトラクターも
存在するが、これはt→∞でのアトラクターとは別物である。これはt→∞とt→−∞で
相空間の延びる方向と縮む方向が互いに逆になっているためで、これが散逸的ダイナミ
ックスと運動の可逆性が両立できる機構であることが明らかになった(文献1)。
いくつかのパイこね変換をつなぐと異性化反応のような簡単な化学反応を記述する
モデルを作ることができる。このモデルでは、反応のフラックスは厳密に反応系の密度
と反応率の積になる。さらに反応系と生成系の密度を一定にするという境界条件の下で
定常状態を構成することができ、これは遷移状態にあるフラクタル・リペラーの構造を
反映したフラクタル性を持つ。つまり化学反応でも反応過程は力学的フラクタル構造と
密接に関係している(文献1)。
Nose-Hoover-Evans 型パイこね変換を多数張合せる(多重パイこね変換)とドリフト流
を伴う拡散を示す系が得られ、その非平衡定常状態もフラクタル的になる。系が十分大き
い極限ではこの分布は一個のNose-Hoover-Evans 型パイこね変換に見られる定常分布に帰
着する。この定常分布はドリフト流を伴う保存的多重パイこね変換で見られる定常分布と
本質的に同一であり、保存開放系のアプローチとNose- Hoover- Evans 型アプローチの間
に密接な関係があることを示唆している(文献2)。
(2)2次元量子ビリヤード系の数理的構造(文献3)
金属クラスターのサイズが大きい時、その電子状態はクラスターに相等する領域に閉じ
込められた自由電子の電子状態で良く近似できる。このように量子力学的粒子が限られ
た領域を自由に動き回る系を量子ビリヤードと呼ぶ。2次元の量子ビリヤードでは、
ディリクレ境界条件付きのヘルムホルツ方程式を境界上で定義される積分方程式に書き
換え、それを離散化して得られる連立一次方程式の行列式の零点からエネルギー準位を
求めるという方法がとられる。これを境界要素法と呼ぶ。境界要素法に現れる行列式は
自由グリーン関数の法線微分についてのフレドホルム行列式である。我々は、境界要素
法に出てくる行列式 が領域内部の寄与と領域外部の寄与の積で表され、
ア)内部の寄与はエネルギーの関数として原点の分岐点を除いて解析的で、束縛エネル
ギーに零点を持つアダマール型無限乗積表示を持ち、
イ)外部の寄与はノイマン散乱の位相のずれの総和についてのコーシー積分で表され、
実軸上にカットを持つ解析関数であり、ウ)外部の寄与の解析接続がノイマン散乱の
S行列の行列式に逆比例し、結果、束縛エネルギーの決定方程式が共鳴エネルギーも解
に持つことを厳密に示した。
(3)カーボン・ナノチューブの光学的性質(文献4)
フラーレンの一種、カーボン・ナノチューブはグラプァイトが円筒状にまるまった構造
をしており、数ナノメートルの直径、1ミクロン程度の長さを持つ。ナノチューブは
ナノサイズの円筒であること、擬一次元性を持つこと、まきかたによって電子状態が
大きく異なることからその物性に興味が持たれている。我々は、構造の内、炭素原子の
螺旋配列に由来するキラリティに注目し、これが反映される光学的性質を
tight- binding モデルに基づいて調べ、実験との比較を行った。
チューブ軸に平行または垂直な偏光に対する誘電率については,安食・安藤による
k・p-モデル,Lin-Shungによる微分近似 ,Mintmire- White による第一原理密度汎
関数法による理論計算とも比較し,π-電子の寄与が主と考えられるエネルギー領域で
良く合うことが分かった。整列した多層ナノチューブに対応する誘電率は de Heer ら
による 実験結果,特に偏光方向による誘電率の違いをよく再現する。さらにBommeli
らにより反射率測定から求められたプラズマ振動数は今回の理論値(ランダムに合成
されたナノチューブでの値)の約3分の1になる。この差異をチューブの多層性で説
明することは困難であり,金属的チューブの合成率が理論で期待される値(3分の1)
より小さい(約30分の1)ためと推定した。
旋光分散及び円二色性スペクトルは周波数の関数として振動関数であり,金属的チュ
ーブと半導体的チューブで定性的差異はない。また,直径約4nmのチューブの場合,
旋光分散及び円二色性は観測可能な大きさで,チューブ半径が大きくなると光学活
性は減少することを見い出した。
<発表された文献>