ファンデルワールスクラスターのダイナミックスにおける統計性と量子性
京大理学部物理第一教室 戸田幹人
[ I ] 研究の目的
近年、レーザー・分子線技術の大きな進展にともなって、クラスターをはじめとする少 数多体系のダイナミックスの実験的な研究が盛んである。特に従来の統計的な反応論に 対して、相空間のボトルネックの構造を考慮に入れた新たな反応論が提案され、実験と の比較がなされている。そのためには、カオス的な相空間の構造と反応速度などの統計 的な量との関連を調べることが必要であり、力学系カオスの研究に対する関心が高い。 また、反応生成物の分布に量子干渉による揺らぎが観測され、カオスと量子性の関わり が現実的な課題となってきた。他方、これまでの力学系カオスの研究は1自由度離散写 像を主な対象に行なわれてきた。しかし、多自由度系のカオスには、アーノルド拡散を 始めとして1自由度カオスには無い多くの現象がある。従って、力学系カオスの研究を 化学反応論に応用するには、多自由度のカオスの研究が必要である。また、多自由度系 のカオスにおける量子古典対応の研究は、まだ不十分な段階にある。
本研究の目的は、ファンデルワールス力によるクラスターを対象に、クラスター内反応 および解離のダイナミックスを、多自由度ハミルトン系のカオスと見る立場から研究す ることである。特に量子論・古典論の比較を通じて、統計的な反応論の基礎付け、カオ スにおける量子古典対応・カオス系に特有の量子効果の解析、それに基付いた実験結果 の解析方法の提案を行なうことを目標とする。
[ II ] 遷移状態とカオス
統計的な反応過程論において、遷移状態の考えは中心的な役割を果たす。従来、遷移状 態は、反応経路におけるエネルギー障壁として理解されてきた。この時、反応速度を決 定するのは,反応経路を構成する自由度とそれ以外の自由度との間のエネルギーのやり とりである。しかし従来の遷移状態論では、この過程を動力学的に扱うのではなく熱的 な過程として取り扱う。このような取り扱いは、自由度間のエネルギー分配が緩和し熱 平衡に至る時間スケールが、反応過程の時間スケールよりはるかに速い場合には正当化 できる。しかし、分子内エネルギー緩和のように、このような意味での時間スケールの 分離が成り立たない時には、反応経路を構成する自由度とそれ以外の自由度との相互作 用を力学的に扱わなければならない。
本研究が対象とするのは、このような状況である。この時、遷移状態は、単にエネルギ ー障壁であるのみならず、相空間における動力学的な意味での障壁・ボトルネックであ る。このような意味での遷移状態の概念を、初めて具体的に提案したのはDavisとGrayで あろう。彼らの基本的なアイデアは、遷移状態をセパラトリックスとして理解するとい うものである。説明を簡単にするために2自由度系を例にとろう。2自由度系では、不 安定周期軌道の安定多様体と不安定多様体の交わり(ホモクリニック多様体)からセパ ラトリックスが構成され、反応速度はこれらの多様体の交差の様子から評価できる。こ こで重要な事は、2自由度系では、セパラトリックスによって相空間が分割されるとい う点である。この時には、遷移状態は相空間上の分離曲面となっており、いわゆる recrossingが生じない。以上は2自度系に対して説明してきたが、3自由度以上の系に 対しても、不安定周期軌道に代わる適当な不変多様体 ( normally hyperbolic invariant manifold )を見つけられる場合には、Davisと Grayの方法が適用できる。
[ III ] crisis
他方で、Davisらの議論が単純には拡張できない場合もある。Ezraらは、ファンデルワー
ルス系の2自由度離散写像のモデル(連続時間では、角度方向の自由度を含めた3自由
度系に対応する。)において、ホモクリニック多様体が消失する場合があることを見い
出した。この例は、2自由度系と3自由度以上の系において、ホモクリニック多様体や
エネルギー障壁の構造が本質的に異なり得ることを示している。しかし、これまでのカ
オスの研究において、3自由度以上の系の安定多様体・不安定多様体の構造を調べた例
はほとんど無い。従って本研究では、特に4次元のポアンカレ写像においてホモクリニ
ック交差の構造を研究するとともに、それに基付いて遷移状態の概念の再検討を行なっ
た。
安定多様体と不安定多様体が交差から非交差に変わる現象(ホモクリニック多様体の消 失)は、3自由度以上の系では一般に見られ得るし、2自由度系においてもパラメータ に依存する場合に起こり得る。この時その前後において、相空間のつながり方・カオス に関与する自由度の数など、系の動力学的な性質が転移をする。この現象はGrebogiらに よってcrisisと名付けられ、主に散逸系のカオスを対象に研究されてきたが、ハミルト ン系における研究はまだほとんど無い。
本研究では、安定多様体と不安定多様体の交差・非交差が発生する条件を、解析的に調 べた。その結果crisisは、多自由度の系において、複数の非線型共鳴条件が交差してい る所で見られる現象の一つであることがわかった。特に、複数の共鳴自由度の間で、そ れらの特徴的な時間スケールに大きな差がある場合crisisが生じると予想される。これ は、分子振動の自由度と分子の回転や変形の自由度の結合や、あるいは、水素結合のネ ットワークなどの集団運動と個々の分子の運動のように、時間スケールの大きく異なる 自由度が結合した力学系において、crisisが重要となる可能性を示唆している。特に異 なる時間スケールを持った自由度の存在から、相空間の中に性質の異なるカオスの階層 が存在しているのではないかと予想している。このような立場から、ファンデルワール ス三体系以外の系に対しても、多自由度ハミルトン系としての解析を行なっていくこと は今後の課題である。
[ IV ]共鳴条件から成る Arnold の網の目
crisisを含め、多自由度ハミルトニアン系の相空間の構造をより一般的に考察しよう。
一般に3自由度以上の系では、非線型共鳴に沿った運動が可能であることが知られる。
この運動は、その存在を初めて示した Arnold の名から Arnold 拡散と呼ばれる。しか
し、多自由度系で見られる新しい現象はこれに尽きるのではない。多自由度系の相空間
は、Arnold の網の目と呼ばれる共鳴条件の網の目を成し、複数の共鳴条件が交差する場
所では、カオスの次元の変化あるいは Arnold 拡散 の方向の変化などの現象が予想され
る。crisisはその一例であるが、これら予想される現象に関して、これまで全く研究が
無いと言って良い。
多自由度系の相空間が Arnold の網の目と呼ばれる構造を成していることは、 分子内エ ネルギー緩和においても重要な意味を持つと考えられる。多自由度系の網の目状につな がった相空間の構造は、多原子分子における分子内エネルギー緩和において、異なる自 由度の関与する異なる時間スケールを持った複数の緩和過程が存在することを可能にす る。これが、多原子分子系に見られるフラクタル的なスペクトルに対して、その背後 にある力学的なメカニズムを提供すると予想できる。
[ V ] 高励起振動状態の分子におけるアーノルド拡散
以上のような推測の下で、高励起振動状態の分子におけるエネルギー緩和を研究した。
振動状態にある分子の分光学では、実験的に得られたスペクトルを、Dunham展開によっ
て得られる実効ハミルトニアンに当てはめる、ということが良く行なわれる。基底状態
に近いスペクトルでは、調和近似が良く成り立つので、Dunham展開から分子の振動状態
に関する情報を得ることができる。しかし、Dunham展開は摂動展開であるから、このよ
うな解析は、高励起振動状態では破綻することが予想される。
摂動展開が破綻する理由は、振動のモードの間に共鳴が存在するからである。共鳴は、
各モードの特徴的な周波数が整数比を成す場合に発生するが、一般に非線形振動では、
振動状態が変化するに従って、振動の特徴的な周波数が変化するため、相空間の特定
の場所で、或る特定のモードの組合せによる共鳴が発生する。相空間を全体として見る
時、共鳴条件の存在する領域はフラクタル的な編みの目を成すことが知られており
(これを、「アーノルドの編みの目」と呼ぶ。)、分子の運動は、この編みの目の上を
渡り歩くようなものとなる(これを、「アーノルド拡散」と呼ぶ。)。分子の振動状態
の言葉でいえば、分子は、初期条件で与えられる振動状態から出発し、その時その時の
共鳴条件に応じて、異なる振動状態に移っていくことになる。これは、分子の振動エネ
ルギー再分配(あるいは振動緩和)の過程を、力学的に捉えた描像に
他ならない。
以上の説明から分かるように、分子振動において、どのような共鳴条件が存在するか、 その共鳴条件が相空間のどの領域で効いてくるか、ということを知ることが重要になっ てくる。特に実験的なデータから、このような推論を、なるべく簡単に行なうことがで きれば、分子の振動エネルギー再分配の過程に対する理解が大きく進むことになろう。 ここでは、このような動機に基付いて、次のような解析を行なった。
前述したように、実験的なデータからまず得られるのは、Dunham展開の展開係数である 。Dunham展開において最低次の非調和係数が得られている時、非線形共鳴が発生する条 件は、簡単に書き下ろすことができる。この条件が、相空間のどこで効いてくるかを図 示していくと、相空間のいくつかの領域で、共鳴条件が多数重なりあっていることがわ かる。このような領域では、Dunham展開が破綻し、分子振動のモード間結合が強く起こ っていることが予想される。具体的な分子としてアセチレンを対象に、このような解析 を行なっている。
[ VI ]今後の展望
まず第一に、遷移状態論の再検討である。従来、遷移状態は反応経路の分割面として定
義される。この時、recrossing問題が生じないように分割面を選ぶとすれば、Davisと
Grayが考えたように、相空間におけるセパラトリックスを取るのが唯一のやり方であろ
う。しかし、ホモクリニック交差の消失は、この方法も万能ではないことを示している
。この場合一般に相空間は、複数の遷移状態の間を安定多様体・不安定多様体がつなぐ
編目状のネットワークと考えた方が良い。その時、遷移状態は、crisisの発生に対応し
て反応経路の分岐点という意味を持ってくるであろう。これが、遷移状態論の今後の発
展方向のひとつではないかと思う。
また、中間状態を経由して複数の遷移状態を通る反応における、動的な相関の問題があ
る。統計的な反応論では、或る遷移状態を通過する確率と次の遷移状態を通過する確率
は統計的に独立である。なぜなら、遷移状態を通過し終った後エネルギーは一旦熱浴に
返され、次に遷移状態を通過する時新たにエネルギーを熱浴から受けとるからである。
しかし、ネットワークとしての遷移状態論では、エネルギーが完全に緩和するより早く
次の遷移状態にたどり着く場合があり得る。その場合、複数の遷移状態を通過する軌道
には相関が存在している。この相関を観測する手段があれば、実験的にネットワーク的
な描像を検証することができよう。
第二に、crisisによる転移と少数多体系における「相転移」の関連である。crisisを契
機として、カオス的な相空間の体積・次元の不連続的な変化が生じるが、これは、ミク
ロカノニカルな意味でエントロピーの不連続な変化に相当する。この時、crisisは一次
相転移の力学版と見なせるであろう。このような推論から、クラスターにおける固液相
転移や高分子の折り畳みなど、少数多体系における一次相転移とcrisisの関連を調べら
れないだろうか。
さらに将来的な方向として、crisisが反応経路の分岐を起こすことを反応制御に応用す
ることが考えられる。このためには、多自由度のポテンシャル面において、crisisの位
置を近似的に予想するとともに、ネットワークのつな がり方を推測する必要がある。
そのためにも化学反応の動力学を、高次元相空間の構造解析を通して理解していく研究
の進展が望まれる。
[ VII ] 論文