復古神道と民衆宗教
−−幕末宗教史研究序説−−
(1)
幕末期に成立した一連の民衆宗教は、今日でも多くは神道系の宗教に分類されているようである。それは、これらの民衆宗教が、広義の神道系と目される民間信仰から影響を受けて成立している点、更に明治以降の別派独立に至るまでの間神道事務局の傘下に置かれていた点等を勘案するならば妥当であると思われる。更に、如何に強要された形ではあれ、明治以降の教義変質を窺ってみるならば、われわれは其処に紛うことなき「国家神道」の匂いを嗅ぐことも出来るのである。
勿論、神道系といっても、民衆宗教は「創唱宗教系の教派神道」として分類されて「神道は宗教にあらず」という強弁のうえに成立した「国家神道」とは明確に区別されている。しかし、同じく神道系と冠されることで民 衆宗教と「国家神道」・近代天皇制イデオロギーとの内在的質的差が曖昧にされてきた点も看過できない。例えば、安丸良夫氏は次のように述べる。
神道説の系譜の思想(民衆宗教等を指す―――引用者註)は伊勢神道や、記紀神話に結びついて天皇制イデオロ ギーに癒着しやすい。
ここでは、民衆宗教が「神道説の系譜の思想」と一括され、「元来の性格」さえも無視されて、天皇制への屈服の必然性が述べられている。だが、〈似而非〉こそ最も鋭く本質を穿つ批判思想に転化する点が、ここでは考慮の外に置かれている。われわれは、今一度、同じく神道系と冠される中で曖昧にされる〈似而非〉を探り、その内在的質的差の中に民衆宗教、ひいては民衆思想の攻撃性を甦生させるべきではないか。
本縞では、こうした課題を達成するために復古神道と民衆宗教の主神に光をあてることとしたい。その際に、復古神道と民衆宗教の主神のいずれもが、太陽神やアマテラスの神格や神性から影響を受けている点が重要な手がかりになる。無論、復古神道が直截的に近代天皇制イデオロギーや「国家神道」に繋がるわけではない。しかしながら、間接的ではあれ近代天皇制を思想的に準備した復古神道の主神を民衆宗教のそれと付き合わせることによって、少なくとも民衆宗教の地平に新しい光をあてることが可能になる筈である。以下、中世・近世のアマテラス解釈、復古神道のアマテラス解釈、民衆宗教の太陽信仰という順で分析を進めていきたい。
(2)
記紀神話に示された皇祖神アマテラスは、言うまでもなく古代において国家的王朝的太陽祭祀が成立していたことを物語っている。ここには、日本の古来の太陽信仰が、一方で民間伝承や民間祭祀に継承されつつも、総じて特殊な支配階級の権威と結合した皇祖神のそれとして収斂せしめられていった点が暗示されている。この特殊的な皇祖神としてのアマテラスは、無論皇祖神である点に重点が置かれており、系譜観念と結合せしめられている点に特色がある。
ところで、王朝権力の衰退とともに、皇祖神アマテラスの解釈にも変化が出てきた点が注目される。すなわち、神仏習合・神儒一致と呼ばれる思潮の中で、アマテラスの神性が幾分普遍的なものに変化していっているの である(以下本縞全体にわたって、私は特殊的神性と普遍的神性を中軸的に対照させる。前者は皇祖神・「民族」神の側面であり、後者は造化神・宇宙神のそくめんである。両者は勿論密接な関係にあるが、その関係が歴史 的に変容する)。幾つか中世神道論の中から例を引いておきたい。
@大日 貴尊。此ヲ日神と名付くる也。日は則ち大毘慮遮那如来、智慧月光の応変也。梵音の毘慮遮那、是れ日の別名なり。即ち暗を除き遍く照らすの義也。日とは天の号なり。故に常住の日光と世間の日光と、法性の体に於いて相似タル義有り。故に、大日●貴を天照太神と名付くる也(『大和葛宝山記』)。
A希夷ハ視聴ノ外、氤氳気象ノ中ニ虚ニシテ霊有リ一ニシテ體無シ。故ニ広大ナル慈悲ヲ発シ、自在ノ神力ニ於ヒテ種々ノ形ヲ現ハシ、種々ノ心行ニ隨ヒテ方便ノ利益ヲ為ス。表ハルル所ヲ名ヅケテ大日 貴ト申シ亦天照神ト曰フ。万物ノ本躰ト為テ万品ヲ度ス。世間ノ人ノ兒ノ母ノ胎ニ宿レルガ如シ(『豊受皇太神御鎮座本紀』)。
B天照太神ハ則チ火気ヲ主リテ光ヲ和ゲ塵ヲ同ジクシ、止由気太神ハ則チ水気ヲ主リテ万物長ク養ハルル也。故ニ両宮ハ天神地祇ノ大宗、君臣上下ノ元祖也(『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』)。
C神ハ是レ天然不動の理、即ち法性身なり。故に虚空神ヲ以テ実相ト為て、大元尊神ト名づク。所現ヲ照皇天ト曰ふ。日ト為リ月ト為る。永く懸りテ落チず。神ト為リ皇ト為る。常ニ以テ不変ナリ。衆生業起スルが為に、宝基順弥ノ磐境ヲ樹テ、三界を照シ、万品ヲ利ス。故ニ遍照尊ト曰ヒ、亦ハ、大日●尊ト曰フ(『中臣祓訓解』)。
@は初期の両部神道を代表する所であるが、密教の影響が顕著な中に、アマテラスは「常住の日光」であるとされ、又「自性法身の応化の如来」であると言われている。ABは、著名な神道五部書の一節であるが、アマテラスは「万物ノ本躰」「天神地祇ノ大宗」として位置付けられ、Cでも「万品ヲ利ス」ものと言われている。本地垂迹説の展開の中で、アマテラスが思弁的な最高神の位置に昇華せしめられ、いかに密教の教説の付会ではあれ、普遍神的性格を帯びているのが特徴的である。
もっとも、いわゆる神国思想の成立に見られるように、それは飽くまで皇祖神として「日本」に結びつけられた存在ではあった。
国は是れ神国也。道は是れ神道也。国主は是れ神皇也。太祖は天照太神也。一神の威光、遍ク百億の世界ヲ照らし、一神の付属、永ク万乗の王道ニ伝ふ。天ニ二ノ日無く、国ニ二ノ主無し。故ニ日神天に在すの時、月・星は光を双べず。唯一天上ノ証明是れ也(『唯一神道名法要集』)。
この主張から窺えるのは、アマテラスが「太祖」として皇祖神でありながら、しかし最高神・普遍神として強調されている点である。だがその両者の関係を見るならばアマテラスの普遍性と絶対性が強調されつつ、他方、その普遍性の権限が「此国の主」「日本国ノ大棟梁」であることが述べられ、「普遍的神性・神格の統べる日本の神国性」が主張される論理構成になっている点が浮かび上がるのである。皇祖神アマテラスが、仏教や儒教による付会の中で、神話的存在から思弁的最高神へと変容していっている点に注目しておきたい。
近世初期の所謂儒家神道についても事情は同じである。
始メテ人倫ノ道ハ君臣ノ道ヲ最上ト立玉フ所天命ノ元里ニシテ(中略)天照太神御子達ノ内ニ女神ニ坐シマセ ドモ、徳スグレ玉ヘリ。四海ノ人主ト定玉ヘリ。改テ如此ク君臣ノ道ヲ正シ玉フ処ヲ、益々君臣ノ礼儀厳然トシ テ差別セリ。(中略)日用ハ唯日ヲ守ル所第一ノ要敷也。天ヨリ太陽ノ妙霊ヲ受ケルト雖ドモ、此ノ形相ニ預カ ルトキハ人欲ヲ免レガタシ。面足ノ形ヲ受ケレバ人欲又隨フ。日を守ル所ハ畢竟敬也。ツヽシムトキハ日一身ニ ミチシキ、我ガ身即チ日月ノ宮也。天下ノ一人ハ日ヲ守リ玉フ所ニ四海ハ安ラケク平カ也。日ハ太陽ニシテ一理 ノ神ノ徳用也。其業ヲ言ヘバ即日輪ノ日ハ光リヲ四海ニ照ラシ玉ヒテ、万物其ノ光ヲ受ズト云モノナシ。天人一 体ノ理リニシテ、人ハ其一理ヲ受ル所、上下賢愚同一ニ受テ増減ナシトイヘドモ、天下ノ一人ハ位ト徳ト事理天 理ト同一ニシテ、天命ヲ受玉ヒテ、天下ノ一人ノ君トハ生レ玉フ。(中略)故ニ常ニ人欲ヲ払ヒ日ヲ守リシキ玉 フトキハ、政道天理ニ出デヽ四海徳沢に潤フ(吉川従長『神籬磐境之大事』)。
ここでは、儒教・朱子学の影響下で、アマテラスは徳治を行なった「聖人」であると同時に、太陽としての側面では「理」とほぼ同義に位置付けられ、「日ヲ守ル」ということで内面から人間の道徳(敬)を支える根拠に位置付けられている。度会延佳は、更に『陽復記』の中で「神道儒道其旨一」との立場を明らかにしているが、アマテラスは朱子学的「明徳」と同義に扱われ、「誰も誰も心をかゞみのごとくせば、吾心則天御中主尊、天照大神に同からんか」とさえ述べられ、朱子学的思弁の中にその存在は溶解している。勿論、『陽復記』の中にも「神国に生まれたる人は神代のむかしを思ひ国法の古をしたふこそ儒道にも本意ならめ」と言う神国思想が見られる。しかしながら、それも「其道によりて修する教のかはる所はあるまじけれども、異国と我国と制度文為はちがひめ有」と述べられているような時処位論的な枠組みにおいてであり、朱子学的思弁の前では、相対的な主張に転化している点が看過されるべきではない。
同様の論理は垂加神道の中にも看取される。
日の神御出生ならせられ、二尊かの天柱をもて、日神を天上に送り挙たてまつりて、御位に即させ給ふより、天下万世無窮の君臣上下の位足りて、さて日の神の御所作は、但父母の命をつゝしみ守らせられ、天神地祇を斉祭て、宝祚の無窮、天下万世の安穏なるようにと祈らせ玉ふより外の御心なし、神皇一體といふも是なり、祭政一理といふも是なり(中略)、神道、神孫、神国とは、まずかういふ事なり(若林強斎『神道大意』)。
この主張では、アマテラスが如何に上下の「礼」を尽くし、又、仁生政を祭政一致の下に行なおうとしたかを強調することで、その徳の伝わる国=神国という論理構成が取られている。儒学的価値観が前提に存在し、それを体現した聖人としてのアマテラス、その徳を伝える神国という論法になっているわけである。
総じて、近世の儒家神道の主張においてはアマテラスを形而上学化、あるいは理念化する傾向と、加えて聖人化する傾向が見受けられる。そして前者がアマテラスの神性を汎神論的ではあれ絶対神化・普遍神化する結果を招来しており、後者はそうした聖人の存した神国という形での特殊的神性(神国思想)を表象しているように思われる。だが、この神国思想も、アマテラスの聖人化という作業を経て構成されている以上、中国の聖人と並存する形になっており、一定の相対性を孕む、従って非合理的絶対的主張にはなっていないが注目されよう。
以上、極めて粗雑ではあるが、記紀神話のアマテラスが思弁化する過程(普遍的神性に発展する過程)を略述してきた。それというのも、以下における国学・復古神道におけるアマテラスの画期的変容を検討する前提として必要だったからである。
(3)
最初に国学の神観を検討しておきたい。国学における儒学的価値観への抵抗は概ね老荘的自然観に依拠して進められてきたが、それは神観においては汎神論として展開されている。代表的には賀茂真淵を見れば鮮明であろう。初期の本居宣長の「自然ノ神道」にも「自然」と結びついた汎神論的世界が認められる。ところが、歌論から古道論に重点を移行させていく中期以降の宣長になると、神観は大きく転回していく。非合理的ではあっても、人格的な絶対的な神観が其処に見出されていくのである。幾つか代表的な例を引いておきたい。
迦微と云は體言なればただに其物を指て云のみ(『古事記伝』)。
いともいとも妙に霊しく奇しくなむ坐ませば、さらに人の小き智以て其理などどちへのひとへも測り知らるべきわざに非ず。たゞ其尊きをたふとみ可畏きをい畏みてぞあるべき(同上)。
天地は器物のごとく神はその器物を用ふ人の如し(『くず花』上)。
神は人にて幽事は人のはたらくが如く世中の人は人形にて顕事は其人形の首手足など有てはたらくが如し(『玉くしげ』)。
そもそも神代の神は日となれども神なるが故に神といふ。神ならざるただの人を神とはいはず(『くず花』下)。
こうした神観は、神を思弁的な性質として把える発想や全ゆる合理主義的解釈を厳しく拒絶し、不可知な中にも超人間的・絶対的な、しかし人格的で活動的な神を描き出す。しかも、この神は、人倫的な道徳的価値をも超えてむしろ、その価値の根底でこれを規定する働きを有する。更に、宣長の神は具体的には「真心」(=神と人間の唯一の共有物)を通じて人間に「触れる」神である。注目されるのは、この宣長の神観には、確かに文献考証に基づく古代的神観の反映も認められるが、他方でそれとは明確に区別される新しい神観が見られる点である。そこに吉田神道、朱子学、更にキリスト教の影響さえ認める見解もあるが、確かなことは、宣長の主観的意図とは別に、其処に近世社会までに発展してきた種々の神観の一つの到達点が示されていることであろう。人格的絶対神の登場は、他の流行神の活性化現象や後に述べる民衆宗教の誕生とも軌を一にする江戸時代後期の歴史的現象であると考えられるが、ここではその指摘のみに止めておきたい。
さて、こうした宣長の神観は、アマテラス像にも新しい転回をもたらすこととなった。
@天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即今此世を照しまします天津日の御事ぞかし(『玉くしげ』)。
此大御神は即今まのあたり世を御照し坐々天津日に坐々り(『古事記伝』)。
A宇宙の間に天照大御神にならぶ尊き神はあることなし(中略)高天原にしては天照大御神は現御身の天皇也(『伊勢二宮さき竹の辨』)。
B皇大御国は、掛まくも神にならぶ可畏き神御祖天照大御の御生坐る大御国にして、萬国に勝れたる所由は先ヅこゝにいちじるし。国といふ国に此大御神の大御徳かがふらぬ国なし(『直毘霊』)。
C皇国の朝廷は天地の限をとこしなへに照しまします天照大御神の御皇統にして、すなわちその大御神の神勅によりて定まらせたまえるところなれば、萬々代の末の世といへども日月の天にましますかぎり、天地のかはらざるかぎりは、いづくまでも、これを大君主と戴き奉りて畏み敬ひ奉らでは、天照大御神の大御心にかなひがたく、この大御神の大御心に背き奉りては、一日片時も立ことあたはざればなり(『玉くしげ』)。
D皇大御国ハイザナギイザナミノ大神ノ共ニ生坐ル御国、天照大御神ノ生坐ル御国、天照大御神ノ御孫ヲ天降坐シメテ天地ノムタトコシヘニ知看ス御国ナリ。外ハミナ然ラス。故ニ皇大御国ハ萬国ノ至尊萬国ノ大君ニ坐々セリ。然レハ天照大御神ノ御照シ坐スカキリ、天地ノ間ニアラユル国々ノ王ドモハミナ臣ト称シテ仕奉ヘキコトワリ也。(『衝口発論駁な覚書』)。
宣長の理解は鮮明である。すなわち、アマテラスは太陽自体であるが(@)、同時に人格的な「現大神」の神であり、しかも宇宙全体の最高神である(A)。しかし、この太陽は日本に生まれたのであるから、日本は元来宗主国であり、その証拠として、その古への伝えが正しく残っており、かつ天照大神の子孫が天皇として「万世一系」の王位を伝えている。(BC)この事実の中にこそ道の本質は存在しているのであり、この定まれる事実を奉讃していくことこそ青人草の生き方である(C)。そして、かかる事実の不可知を疑うことは、一切「漢意」として排斥される。
この宣長のアマテラスは、太陽であることによって確かに普遍的神性を有している。事実その最高神・絶対神であることが宣揚されるに際して、太陽であることがしばしば引かれている。
だが全体を通じての神性の重点は、明らかに太陽が日本で生まれ、それが天皇の皇祖神であるという特殊的神性に関わるものである。つまり、アマテラスは太陽であると述べられることで、返ってそれまで思弁的ながら形而上学的普遍性を有していた側面の一切を剥ぎ取られ、特殊的神性に純化してしまっているのである。
又、アマテラスが人格神として甦生した点もこの特殊的神性の強化に役立っている。つまり、現に存在している天皇との血縁的関係の強化がそれである。思弁的形而上学的存在としてのアマテラスは、この血縁的意義をやや稀薄なものにしてきたが、今や人格的系譜の上に再度据え直されたわけである。
こうして宣長の「神国思想」は、既に見た中世のそれとは遙かに隔たった地平に立つことになる。すなわち、アマテラスと血縁的に繋がる天皇への外国の臣従の主張である(D)。この宗主国意識は、中世の神国思想からの大きな飛躍とすべきであろう。ちなみに、中世のそれは普遍性が如何に日本に顕現しているかを主張するものではなかったのである。そして、この面こそ後期水戸学に継承され、明治期に整備されていく「神勅万世一系・現一神」天皇観の最初の誕生なのだと言うべきであろう。
ついでながら、宣長においてもう一つの重要な神は産霊神である。
世間に有とあることは、此天地を始めて、萬の物も事業も悉に皆、此二柱の産霊日大御神の産霊に資て成出るものなり(中略)されば世に神はしも多に坐ども、此神は殊に尊く坐々て、産霊の御徳申すも更なれば、有が中にも仰ぎ奉るべく、崇き奉るべき神になむ坐ける(『古事記伝』)。
ここに明言されているように、産霊神は万物の根源とも言うべき神であり、「萬国の産霊の神」である。しかも、ここに万物と言われているのは、単に可視的な宇宙をのみ言うのではなく、「真心」=「備へ持て生まれつるまゝの心」をも含んでおり、この故に「一はみな、産霊日神の御霊によりて、生れつるまに生れつるまにまに、身にあるべきかぎりの行は、おのづから知てよく為る物」と述べられている。人間の内面をも根源から支える宇宙神として産霊神は描き出されているのである。換言するならばこれまで見てきた普遍的神性をほぼ体現している神であると見てよい。従って、中世神道論や近世儒家神道のアマテラスの中に含意されていたこの神性は、宣長において産霊神に引き寄せられ、その分だけアマテラスが特殊的な皇祖神に純化していったとも考えられるのである。
(4)
宣長が開示した人格的な特殊的神性としてのアマテラス像は、概ねそれ以降の国学の展開の中に刻印されている。だが、平田派国学以降の復古神道は、必ずしもアマテラスを中心に構想されているわけではなかった。
@されば此神(天御中主神―――引用者註)は、天真中に坐々て、世中の宇斯たる神と申す意の御名なるべし(中略)。宇宙の萬物を、悉く主宰り給ふ事と聞こえたり(『古史伝』)。
道生一。一生二。二生三。三生万物。とある條の、一とは既に注ふ如く、彼上皇大一の、元気に成れる一物なるが故に、其未分の間を、大一とも称せるが、其謂ゆる上皇大一神はしも、疑なく神典なる、天之御中主神になも在ける(『赤縣太古伝』)。
A未有天地之時、空中自神人焉。漢人所謂天地主宰、先天無始、後天無終者。名日天御中主。次高皇産霊。次神皇産霊。是為造化三神矣。漢人所謂上帝。印度人所謂梵王帝釈等恐是(『本教異聞』)。
Bさて其産須那神の太古と云ひて神代より其處此處と境界を持分て社々に鎮坐し給ひて、その産須那の土地々々の人民は申に及ばず、山川草木鳥獣の類に至まで一切の事を掌り支配し給へれバ(『産須那社古伝抄広義』)。
幕末国学の多くが、天之御中主神(平田篤胤−@ 鶴峯戊申−A 鈴木重胤、鈴木雅之等)や産霊神(六人部是香−B)に注目しているは、宣長と異なって記紀に宇宙創造神話を求めている。したがって、宇宙を創造し主宰する神として天之御中主神等が浮上する。しかも、天之御中主神はアマテラスと異なって記の最初に登場する以外は記述も少ない。ここから中国の上皇大一などとの付会も容易に行なわれ(@A)、かくて普遍的神性が付与されていくこととなる。
こうした宇宙創造神話が求められた背景には、幕末国学が宗教的傾斜を深めていった点が考慮されねばならない。篤胤を始め、その門人達「礼の行方の安定」や幽冥への関心を中軸に、その手掛かりを記紀に探っていったのである。従って幕末国学で中心的役割を演じたのは明らかに皇祖神たるアマテラスではない。中心に立つ神は、既述した創造神主宰神としての天之御中主神、産霊神であり、更に幽冥を宰る神たる大国主神(篤胤等)、産霊神(六人部)である。
抑此世は、吾人の善悪きを試み定賜はむ為にしばらく生しめ給へる寓世にて幽世ぞ吾人の本世なる(中略)その本廷はと言はゞ出雲大社ぞ本なりける(『古史伝』二三)。
諸国の産須那社は、遠国の奉行所、代官、或は国主領主の如くにして、其産須那社にして執政し給ふ幽政は、則ち出雲の本府の幽冥政なる事、奉行所の代官所にして行はるゝ政令は則ち公方の政令なるが如し(中略)幽冥政とは幽冥に坐す神等は多在る中に其の大元を執り続て坐すは彼の産霊二柱の大神に坐し(『顕幽順考論』)。
ここで述べられているように、「幽世ぞ吾人の本世」なのであり、当然にも幽冥主宰神が根本関心となる。
では、アマテラス解釈はどのようになっているのか。ここに幽冥論も顕界と密接な関連のもとに展開されている点、すなわち、顕界における倫理的有り方こそ幽冥における人間の帰趨を決定するという論理が浮かび上がってくる。
仁慈は産霊の恩頼の御洪福を吾が身に顕し行ふ術なれば専幽政の方に就き、忠誠は天照大御神の大御言を畏み重みして仕へ奉るの道なれば専ら顕明の方に隷り、さて其の幽政に就ける仁慈を行ふは即ち顕明なる忠誠を竭すの基にして、顕明にして忠誠を竭すは即ち歿後幽政に関係るの本源と成もて行なる幽き契を熟考へ悟べし。されば此二つは鳥獣車輪の如く何れの一方たりとも闕べからざる心掟の肝要最第一の大義なり(同前書)。
顕界における倫理的有り方とは、アマテラスへの「忠誠」に他ならない、とする論理がここで展開されている。そして、それはやがて「天照大御神の御麻命の次々、萬代無窮に、君と照臨て知看す皇国」においては天皇への絶対的服従を意味する。かくて、死後安心の問題と皇祖神・天皇への臣従が結合する論理展開になっているのである。実は、幕末国学のアマテラス観のネックはこの点に存在しているとは言っても過言ではない。つまり、宣長において不可知であるが故に、ただ無条件の臣従が説かれたアマテラス・天皇は、幕末国学において死後安心、魂の問題とも関係することとなり、内面から自主的に臣従することを促す存在に転化していっているのである。以上の点を更に明らかにするために例示すれば以下の如くである。
人毎に、仁慈を心の本體として.全君上に仕へ奉りて忠誠を抽で大功績を建、傍ら父母を孝養し妻子を愛憐し家門の栄を謀り祖先の名を辱じと勤むべく(中略)斯く勤成さば幽冥に到りては幽冥政の重政に挙け用ひ給はん事、穴畏神典の上と代々の事実の上とに照々たれば疑ふべきにあらず(同前書)。
されば人たるもの常々君父子孫の為またハ世の為にもすへて善き幸福をなさむと志し有ば身死際にも其志撓まずして遂に神となりて幽冥に在とも世間に幸福をなすべきものなり(『千世乃住處』)。
こうして幕末国学は、その中心関心が幽冥に在りつつも現実には封建倫理、更にアマテラス・天皇への内面的服従を保障するものとして機能することになる。しかも付け加えておくならば、宇宙創造神・主宰神としての普遍的神性が天御中主神、産霊神、大国主神等に集中している分だけ、アマテラスの皇祖神としての神性への純化が進行している点は、かの宣長と同様である。
以上の幕末国学のアマテラス像をまとめておくならば、その神性は特殊的神性に純化しつつ、しかしながら、その特殊的神性への臣従をも支える普遍的神性が顕幽貫く神格として別に設けられ、この神格こそ全体の基調を構成していること。だが、この神格への信心を通してアマテラス・天皇への臣従が内面から促される論理が構成されていること。このことを指摘し得ると思う。幕末国学に見られる二重奏とでも言うべき色調の構造は、かくて、壮大な宇宙論的スケールを有する普遍神・世界宗教へのベクトルと、更に磨きをかけて純化された民族神の内面への潜行と、この両者の不安定な並存の上に成立していると考えられるのである。そして、儒家神道とは異なって、宗教的で内面的な世界にアマテラス・天皇が特殊的神性として触れていくところにこそ、近代天皇制の「共同幻想」の一つの源流を見ることが出来るのではなかろうか。
(5)
さて、ここで眼を転じて民衆宗教におけるアマテラスの様相を検討したい。始めに近世の民俗宗教におけるアマテラス信仰が検討されねばならないが、その事例研究自体が未だ端緒に着いたばかりと思われ、従って近世の民衆信仰の中に広汎に存在していたであろう日拝や太陽信仰(日様、日天子様、日月様等)とアマテラスが如何なる関係に立つものであるかを知ることも容易なことではない。ただ、伊勢御師の活動を通じて現世利益化したアマテラスが村落上層に及びつつあったことは想定される。しかしながら、その現世利益化に端的に看取される様に、アマテラスは特殊的神性として展開されていたとは考えられず、神国思想の下降化の中で一定神話化したそれが伝播していたとしても、尚、他の現世利益神や流行神が、民衆においては重要な位置を占めていたと思われる。ともあれ、ここでは基本的に既述したアウトラインの指摘のみに止め、詳細の検討については他日を期したい。
民衆創唱宗教が既成の信仰とのきびしい緊張の中から生み出されてきた点は既にしばしば指摘されているが、それは太陽信仰やアマテラスの様相からも窺える。この点をまず黒住教から検討してみたい。
周知の如く黒住教の主神は天照大神である。それは、神官たる黒住宗忠の既成神道の知識を抜きには到底考えられないことであろうが、しかしその神性は既成神道のそれからは大きく飛躍したものであった。この点を示す例を『黒住教教書』から抜き出しておきたい。
@天照す神の御心人心 一つになれば生き通しなり(4)。
Aなきというなきに人の迷ふらん なきこそ有の本の本なり(20)。
B有難や我日の本に生れ来て その日の中に住と思へは(44・45)。
C活死も福も貧苦も心なり こゝを智るこそ誠こと成らん(65)。
D神風や伊勢とこゝとは隔つれと 心は宮の内にこそあれ(84)。
E月は入日の今いつる曙に 我こそ道の始め成けれ(106)。
Fねてもさめても御心のはらひ一筋に御座候。(6)。
G御自身を御自身と不思召、天地の物とおもひ給はゞ、ただ難有のみに相成可申し候(10)。
H心こそいき物也。心をのければ彼の死人斗りに相成申し候(3)。
I万事日月に打まかせ何時までも子供のこゝろを御はなれ不被成、日月様を恐れながらをやさまとおもひ、形の事を御忘れ被成、心ばかりと思召し(後略)(7)。
言うまでもなく黒住教の特質は徹底した唯心論である(CH)。形、欲、有の全てを放棄し、有無をも超える「天地の誠」に心を一体化させることが修養の目標とされる(AFGI)。ところで、この心は実は黒住教の主神たる天照大神の「分心」であって、従って我欲によって独占することを許さぬものである(G)。従って、有無を超える心の状態とはこの本来の「分心」たる姿に立ち返り、天照大神と一体化=「生き通し」する境地を指す(@)。又、天照大神は絶対神であり、人格神的側面を有しているが(Iでは「をやさま」と称されている)、太陽自体でもあるため、我々は日拝や太陽光線を受けることを通してこの一体化に著しく進むことが可能である。こうした境地に達するならば、現世利益を受けることは勿論、生活の有り方が変革され、「救済」を実現することが出来る。
黒住教の教義をまとめるならば、ほぼ以上のようになるであろう。この中で特に天照大神に注目するならば、次の点を指摘することが出来る。
第一に、神官たる黒住宗忠において、それは確かに記紀中の存在であり、「天照皇太神」であった。天照大神への信仰が、度重なる伊勢参宮の中で育まれ(D)、又、「高天原」等の表現からも、ひとまずそのように考えなければならない。又、その点が例えば、「神国の人の生れ」「難有事は、此国の自然の天のをしへうくる事、他の国よりは、格別の事と奉存候。」というような(他にB等)素朴な「神国」意識につながっているのであろう。しかし、それは何ら天照大神にとって本質的なことではない。第二に、最も本質的な天照大神の神性として、それが主宰神・絶対神として、宇宙はもとより人間の身体や心を支配している点が指摘されねばならない。「こゝろも日月より来り給ふこゝろ」なのであり、「心を養ふ時は、自然と形はたつしやに相成り候」と述べられている。こうして、重要なのは、こうした人間と不断に交流している天照大神と主体的かつ人格的な交わりを維持することなのである。しかも、第三にそれは具体的な個々人と関係を有しているのである。特に宗忠には天照大神の言葉を伝えることが出来るという信仰が存した。宗忠の「講釈」を「天言」であると信じた逸話や、更に宗忠自身が「大神の御神慮自然と某が胸に来舎りて(中略)されば我が講釈とな思いそ。忝くも天照大神の御講釈なるぞや」と述べたと伝えられている点などからそのことが窺える。天照大神は、天皇という血縁的関係を問題とせずに、宗忠という具体的人格を媒介にして顕現するのである。そして、第四に、もし天照大神の「御心」に叶うならば、天照大神は「祈念」に応えて、具体的な治病等の救済を行なう神である。この点は天照大神が未だに汎神論的性格も有していたことと関係があると思われる。すなわち、天照大神は日神として太陽自体であるが、一方「神といゝ仏というも天地の誠の中に住める活物」「心、神に成り候得ば、則ち神也」という表現から知られるように、それは天地間に充満し、心に働きかける「活物」としても把握されている。こうした神性を受けて、宗忠は「陽気の吹きかけ」やまじない、霊符等の呪術を行ない、その働きを具体的治病に用いたのであろう。
以上の天照大神像を既に述べてきたアマテラスと比較するならば、それはアマテラスの普遍的神性の発展と把えることが出来る。恐らくは、現世利益神として伊勢信仰の中に生き続けてきたアマテラス信仰が、人格神的に発展する中で生み出された質的変容と言ってもよいだろう(勿論、既に述べたように汎神論的性格や心学的哲学からくる呪術的性格が色濃く残っているのであるが)。
ところで問題となるのは、アマテラスの特殊的神性が何ら本質的ではないにせよ天照大神の神性内に継承されている点である。恐らくは、宗忠自身はこの点を何ら対象化せず(この点は後述する金光教と対照的である)、さして矛盾も感じなかったのかもしれない。しかし、私はこの点にこそ黒住教の展開の限界と悲劇を見る。後に赤木忠春を中心とする京都グループは、宗忠の天照大神を特殊的神性としてのアマテラスに純化させ、尊攘運動の最底辺を形成していくこととなる。赤木忠春の思想には、「世直り」観念が見られ農民的表現が見られる等、幾つかの点で黒住宗忠と異なっている点が指摘されている。しかしながら、幕末から明治期にかけての特殊的神性としての人格的アマテラスの抬頭の前に、容易に屈伏してゆく内在的脈絡は、やはり宗忠も天照大神信仰の中にも認められるように思うのである。
(6)
これに対して金光教の場合には、特殊的神性としてのアマテラスとの鋭い緊張が認められる。本節ではこの点を検討してみたい。
金光教の主神、天地金乃神は、周知の如く、厄神たる鬼門金神が、救済神的絶対神に転換せしめられて生成された神である。その転換過程に、長尾の楠木屋→連屋の文十郎→小野はる(うた)→香取繁右衛門(金光大神の弟)→赤沢文治(金光大神)という金神信仰の系譜が存在し、言わば金神信仰の流行神化は見られたことが近年の研究で明らかにされている。この過程は、近世時代に福神・厄神という二元的機能の様々に交錯した世界に存在した民衆の神々が、そのような機能の枠を突破し、非日常的神々から日常的な神に変容していく過程と把えられるが、ここでは詳述しない。
今ここで検討したいのは、金神が天地金乃神に止揚されていく過程に、「日天四」(=日天子)信仰が介在していたことであり、この太陽信仰が重要な役割を演じていたことである。つまり、天地金乃神は、金神信仰に加えて、日天四、月天四信仰を統合して生成された神なのである。この点は『金光大神覚』中に見られる神名変遷に明らかである。これに加えて、最近の研究に依れば、日天四は赤沢文治に神号が与えられる「お知らせ」に関連して登場しており、一貫して文治の信仰の中で重要な位置を占めていた。この点は次の史料からも窺える。
日中と日の入りぎわにお礼出来たり。「日様、家のうえをまわりて通る。皆出て拝めい」と言われ(後略)(『金光大神言行録』621)
九日十日は金光さま。二十一、二十二日は金神様。二十三、二十四日は日月様(同前295)
この史料に依れば、文治は日拝をよく行なっており、又、日を定めて日月信仰・崇拝が行なわれていたらしい。更に、死期を察した生神金光大神としての文治は、「わしに会おうと思えば何時でも会える。真日中が来たら空を見い。丸いものが来る。それが金光ぞ」(同前153)と語ったと伝えられており、自らをも太陽に擬していたらしい。このように、日天四信仰が文治において重要な位置を一貫して占め続けていたことは、ほぼ確実であると思われる。
銘記しておかなければならないのは、伝統的な民衆信仰の中で、「日待ち」等とも結合して比較的広汎に存在し、従って普遍的神性をも表象していたと思われる日天子信仰が、赤沢文治の金神にまつわる個人的な救済体験と結び合わされて、金神自体を普遍神化する過程、金神を絶対的救済神へ変質させる様相が、この中に凝縮して表現されている点である。換言するならば、アマテラスという対象ではないにせよ、太陽信仰の有する普遍的神性が天地金乃神の中に止揚、表象されていると考えられるのである。
しかも、赤沢文治において、アマテラスの特殊的神性が明確な緊張対象として自覚されていたと思わせる史料が存在する。
天照皇大神様、戌の年氏子(赤沢文治のこと―――金乃神のこと)。へい、あげましょうと申され、戌の年、金神が其方もろうたから金神の一乃弟子にもらうぞ(『金光大神覚』)。
この対話は、赤沢文治の金神信仰の深化の過程で、彼が天照皇大神の拘束から解き放たれ、「金神の一乃弟子」になることを物語っているものである。この対話の意味は、確かに若い頃から伊勢神宮の御師の働きを手伝ってきた文治が、そうした村内の伝承的諸行事から身を引き、独自の位置を確立した点を宣揚したものと考えられる。だが、それに加えて、これは単なる村内の伝承的諸行事との緊張には押さまりきらない内容を帯びていると思われる。この『覚』が明治七(一八七四)年に書き始められたことも考慮するならば、この天照皇大神は、皇祖神を直接意味するものではないせよ、明らかに伝統的歴史的アマテラスとしてのそれであり、「日本の総氏神」を含意していると思われる。金神が天照皇大神に文治を「くだされ候」とお願いしているのも、少なくとも文治が総氏神輩下に所属していたことを前提としていると見るべきであろう。従って、この問答によって、文治は日本の総氏神輩下を脱することが約束されたわけであり、民族的枠組みを超える普遍的地平に身を置くことが可能になったと考えられるのである。
ちなみに、赤沢文治が語ったと伝えられえる伝承では、更に明確に次のように言われている。
伊邪那伎、伊邪那美の命も人間、天照大神も人間なら、そのつゞきの天子様も人間じゃろうがの。宗忠の神も同じ事じゃ。神とは言ふけいども、皆、天地の神から人体を受けて居られるのじゃ(『金光大神言行録』145)
あの、天照皇大神様と言ふは日本の神様であります。天子様の御祖先であります。この神様は日本計りの神様ではありません。さんぜん世界を御つかさどりなれます神様であります(同前1490の1)。
ここでは、「天子様」の血縁的「祖先」としてのアマテラス、換言するならば特殊的神性としてのアマテラスは「日本の神様」「人間」として位置付けられ、天地金乃神はそれを遙かに超える三千世界を主宰する宇宙的神として描き出されている。
かくて、金光教における天地金乃神は太陽崇拝の普遍的神性を事故に吸収することで、アマテラスの特殊的神性を相対化し得る視座を獲得したと考えられる。こうして、金光教は原理的には神国思想とは切断された世界宗教の地平に到達したわけである。そして又、明治天皇制国家の側も、この緊張を鋭敏に自覚していたが故に弾圧の手を弛めず、具体的には天地金乃神に孕まれた太陽信仰を特殊的神性としてのアマテラスに切り詰めることを強要し続けたのであった。
最後に不十分ながら天理教にも一言しておきたい。天理教の主神天理王命は別名月日様(月日親神)とも呼ばれ、文字通り伝統的な太陽信仰の系譜に立つものである。しかも、初期の中山みきの信仰を比較的正確に伝えると言われる史料では、みきに神がかった神は「大神宮」とも謂われ、当時盛り上がりつつあった伊勢信仰の影響を予想される。かくて、われわれは、ここにもアマテラスの普遍的神性の民衆的発展を認めることが出来る。民衆の中で育まれてきた太陽信仰がアマテラスと結合しつつ、独自の「親神」が生成されていったわけである。
だが、如何に必要に迫られたとはいえ、記紀神話との折衷によって教義形成が計られたことは何を意味するのであろうか。確かに「泥海古記」に天皇制神話とは全く異なった民衆独自の神話形成を認め、その真価と可能性を論じることも可能である。だが、それ以上に私には其処に日本の太陽信仰がアマテラス信仰と交錯して存在してこなければならなかった問題性が表象されているように思われる。つまり、民衆の太陽信仰が如何に普遍的神性としてのアマテラスではあれ、剃れと結合して展開されることになった時、其処に特殊的神性としてのアマテラスとの新しい緊張が生まれてくるのである。そして、その緊張が明確に対象化され、異質性が宣告される時、民衆宗教は近代天皇制と真向から対決する舞台に立たされることになる。中山みきの晩年の研ぎ澄まされた信仰は、その好例である。だが、その後の天理教の歩みは、特殊的神性としてのアマテラスによって、伝統的太陽信仰や普遍的神性としてのアマテラスが侵蝕されてゆく過程であったのも事実であろう。其処には現代の民衆宗教や神道諸派が学ばなければならない重大な問題が孕まれているように思われる。
(7)
以上考察してきたところをまとめておけば別表のようになる。最後にここで簡単に要言しておきたい。
アマテラスの特殊的神性と普遍的神性は、幕末期に向けての宗教的昂揚の中でそれぞれ質的変容を遂げつつあった。民衆宗教のそれに注目するならば、彼らは伝統的太陽信仰を新しい神格に止揚しつつ、彼らの日常生活に密着した普遍的神性を発展させつつあった。黒住教の天照大神信仰は、たしかに一方で伝統的特殊神性から自由ではなかったにせよ―――そして、その分だけ黒住教の天皇制への収斂は早急かつ主体的なものであったと考えられるのだが―――、しかし史上初めて天照大神の完全なる個人信仰化、救済神化を押し進めたものであった。又、金光教の天地金乃神は日天四宣長神性を揚棄する中で生み出された救済神であり、この中で伝統的太陽信仰は完全に特殊的神性としてのアマテラスから解き放たれ、普遍神化を完成させつつあった。太陽信仰は、公然とアマテラスから分離し、全く新しい信仰に転化したのである。
一方、特殊的神性も人格神的皇祖神化を遂げつつあった。宣長を画期とするこの動向は、幕末の対外危機の中で醸成されつつあった排外主義的<ナショナリズム>とも結合して、天皇の政治神学的浮上の基盤になっていった。勿論それは単線的なものではなかった。宣長が人格神として解き放った記紀の神々は、一時的にせよ独自の幽冥観・宇宙観に利用され、救済宗教性のベクトルさえ有した。だが他方で現実の天皇に直結する人間神・人格神としての皇祖神アマテラスは、内面化の契機をもつかみ、やがてそれは天皇制支配の重要な槓杵に転化していくことになるのである。その主役となったのは、当初は維新官僚をトップとするプラグマティックな集団に指導された国学者、水戸学派等であり、やがて彼らも天皇制教化路線の整備と共に歴史の舞台を去ってゆく。しかしながら、天皇制神学が、最後まで彼らが蓄積してきた人格的皇祖神アマテラスを基盤とし続けなければならかったのも争えないところであろう。
翻って考えてみると、支配・被支配の貫通的<場>には、常に擬制に媒介された神の世界が存在してきたと思われる。近代入口の日本において、それは象徴的にはアマテラスをめぐる神観念をめぐる争闘の<場>であったと見てもよい。一体、アマテラスをども方向に揚棄していくのか、この神性ベクトルの行方に天皇制神学とこれに衝突する部分の帰趨が読み取れるとすれば、それは現代においても尚あまりに示唆的な事態なのではなかろうか。
註は省略した。詳しくは、『幕末民衆宗教の研究』を参照されたい。