『宗教から東アジアの近代を問う』(安丸良夫・島薗進他編、ぺりかん社、2002


第二部「近代との出会い」コメント

はじめに

 第二部は、十九世紀全般にわたる、西洋近代との「出会い」の中での日韓宗教の様相をそれぞれに論じている論考を集めている。それは、第三部・第四部のテーマと並んで、過去六回の日韓宗教研究者交流シンポジウムにおいて、常に一つの柱となってきたテーマであるといってよい。いうまでもなく、そこには今日の日韓宗教の構造や状況を歴史的に規定づけている問題が十九世紀にあるというシンポジウム全体の共通認識が横たわっている。しかも、それは宗教の問題に止まらず、今日に至るまでの日韓関係そのものを規定づけたものが、十九世紀の日韓双方の、西洋との「出会い」とそれに引き続く互いの不幸な「出会い」にあるということも、同じく共通の認識としてあったはずである。六回に及ぶシンポジウム(伊豆セッションと立命セッションを含む)では、このテーマの下で二十本以上に及ぶ報告が行われたが、ここには韓国側からは、申光K「旧韓末韓国キリスト教徒の生き方思惟構造にみられる伝統と近代」(第二回シンポジウム)、金洪普u韓国近代における社会変動と東学・天道教運動」(第三回シンポジウム)、廬吉明「『近代』への衝撃と甑山教運動」(同)、日本側からは神田秀雄「近代移行期における伝統的社会の変容と民衆宗教」(第二回シンポジウム)、松村浩二「儒教と宗教−近世日本儒教思想史の視点から」(第三回シンポジウム)、幡鎌一弘「明治期における社会と天理教」(第四回シンポジウム)の計六本の報告を収録した。もちろん、今回新たに大幅に加筆修正され、当初の報告原稿とは異なっているものも多い。とはいえ、やはり当初から感じられていた、この時期に対する日韓双方の視点の違いは、加筆修正後にも色濃く残っていて、それがそのまま当該期に対する日韓双方の今日の歴史認識のありようの相違をも示していることは看過されてはなるまい。

 端的にいうならば、韓国側では民族主体の形成という視点から十九世紀の宗教運動を位置づけるのに対して、日本側では(神田論文が批判的に向きあっていることも含めて)、国民国家形成(近代天皇制国家)との関連から、この時期の宗教を把握する傾向にある。この視点の相違は微妙なようではあるが、列強の侵略にさらされた上で日本の植民地支配下におかれ、戦後は引き続いて分断を強いられている韓国と、後発型の国民国家を形成し急速に韓国やアジアへの帝国主義的侵略の過程を歩み、戦後もその「清算」をなしえないままでいる日本の、それぞれの十九世紀にたどる眼差しの相違とみるならば、そこには見逃せない問題が横たわっているといわなければならない。歴史過程に即してみれば、民衆自身(個人)が直接的に帝国主義の暴力や侵略にさらされてきた韓国では、宗教運動が研ぎ澄まされた反帝国主義的民族運動として展開されて、そこに民族と宗教の問題が構成されることはひとまず理解できる。一方、日本では専制的な天皇制国家の形成によって、民衆にとっての近代とは主要には近代国家との対峙(あるいは包摂)という形となり、そこに国家と宗教という問題が構成されていくこととなる。大略はそのように理解できるのだろう。しかしここで重要なのは、そうした歴史過程の一般的了解ではない。むしろそれらの歴史過程が、そのまま十九世紀をたどる現代の歴史認識を規定づけていることをみておく必要がある。そこには、十九世紀に構成された問題群が、実はそのまま現代的課題として積み残されていることが示唆されている。以下、こうした点に留意しながら日韓双方の論文について簡単に概要を窺い、問題点と課題について考えてみることとしたい。

一、民族という視点の射程

 初めに韓国側の論文の概要をみておきたい。韓国側の論文は、いずれも十九世紀における西洋列強及び日本の侵略に対して、民衆的宗教運動がどのような認識・思想をこれに対置して立ち向かったのかを明らかにするものといえる。金論文では東学・天道教運動が、廬論文では甑山教運動が、申論文では改新教運動(プロテスタント)が取り上げられている。申論文では、冒頭に韓国における「開港」による「伝統」と「近代」の葛藤には「拒否型」「選択的受容型」「全面的な受容型」の三類型があると指摘されているが、この指摘を借りてやや大雑把に分類するならば、金論文では「拒否型」が、廬論文では「選択的受容型」が、申論文では「全面的な受容型」の思想が取り扱われているといってよいだろう。しかしながら、いずれも民衆レベルでの民族主体の形成という視点では共通しているように思われる。

 先ず金論文では、東学・天道教運動の「後天開闢」思想が取り上げられている。「後天開闢」思想とは、一言に近い将来に訪れる「後天」における「地上天国」の出現を説いた韓国における在来の『鄭鑑録』信仰に基づく千年王国思想といってよい。それを実現させるのは超人的な「真人」であるが、金論文はこの「後天開闢」思想が東学・天道教運動の創始者崔済愚から李敦化に至って「人乃天思想」という万人ハンウルニム(天主)思想と結びついて、民衆(民族)全体に開かれていったという。民衆的な「後天開闢」思想が、一八九四年の東学革命やさらに三・一独立運動、その後の新文化運動に至るまで、滔々と流れていったというのが金論文の論旨であるが、その先に「民主主義を追求する近代的民族主義」が見据えられていることに特色がある。すなわち、次のように述べられている。「この運動は、わが民族が数千年間にわたり流れてきた旧習を抜け出して新しく生まれ変わろうとする身悶えであり、自覚運動であった。それはまた、踏みつけられた人権の回復、近代民主国家の胎動、民族主体意識の高揚、民衆文化暢達運動の実践である」と。

 一方、廬論文は「新宗教運動の理念と思想には『近代』の衝撃に対する民衆の認識と対応が明らかに含まれている」という視点から、甑山教の創始者甑山の思想を分析している。甑山もまた「後天開闢」思想の影響下にあったといえるが、とくに「世運公事」が注目されている。「世運公事」とは、「末世の運度」を調整して「地上仙境」を「開闢」する思想とされるが、それは具体的には「世界史の流れを調整して韓国民族を世界統合の求心点にする」ことを目指して、近代の歴史過程全般を「運度」「運数」で説明する思想と捉えられている。この「運度」からすると、甑山においては西欧科学技術の到来や日本の「膨張」過程も一つの歴史過程として合理化されているようで、したがって甑山の思想は必ずしも反近代・反日とはならないタイプの「民族宗教運動」であったと結論づけられている。廬論文も韓国における「近代との出会い」は、「朝鮮社会の民族矛盾の深化と国家アイデンティティの喪失」をもたらし、それへの対応として甑山教運動が存在していたと指摘されている。

 申論文は、韓国プロテスタント神学の先駆者崔炳憲の思想を追ったものである。金論文と廬論文が、韓国の在来思想の上での新宗教運動を分析したものであったのに対して、ここでは儒学思想とプロテスタント思想という問題が俎上に挙げられている。崔は当初は相当の儒学系知識人であった如くであるが、「斥邪衛正」論者や「東道西器」論者と異なって、「東洋の天は西洋の天」「西帝の帝は東帝の帝」という視点を有していたと分析されている。そして、「東洋−西洋」という枠組みに拘泥されずに、「文明の本」「民主政体の本」と捉えられた改新教(プロテスタント)の受容があったと指摘されている。だが、申論文も、最終的には崔の思想は「旧韓末韓国社会の時代的課題である『文明開化』と『民族的アイデンティティの維持』の解決」を求めたものと結論づけられていて、その根底には近代化の問題と民族主体の問題が見据えられていることは間違いない。

 これらの論文を読んで痛感させられるのは、先に述べた如き、十九世紀の韓国宗教に向けられる韓国側研究者の視点が民族主体の形成という点で一貫していることである。だが、同時にみておかなければならないのは、それが民衆(個人)の自立・主体形成と結びつけられ、そこに近代という歴史過程の特質をみる視点に揺るぎがない点である。ここで想起されるのは、比較対象が中国ではあるものの、かつて竹内好が日本の近代化過程が「指導者」にリードされたもので、西洋への抵抗も小さくしたがって急速であったが、それは「敗北」「失敗」を知らない西洋への「ドレイ」化の過程に他ならず、反対に中国では「元の中国的なものは非常に強固で崩れない。だから近代化にすぐ適応できない」「反動の力は大きかった。そしてそれが革命の力を下へ下へ追いやり、底の人民のあいだに根を張らせ」「民族的なものを中心に打ち出して来た。そこに近代化が純粋になり得るポイントがあった」と述べていたことである(『日本とアジア』)。周知のように、ここで竹内は、アジアにおける近代化過程というものを、西洋との「出会い」に対する抵抗の大きさ、反動の大きさを尺度として捉えようとしており、そうした抵抗の大きさこそが民衆的主体をやがて民族的主体として立ち上げることになることを鋭くみて取っている。韓国側の論文がいずれも民族主体の形成という視点を示しているのは、それが恐らく今日の分断の克服(統一)という現代的課題と重なるものとしてあることは否定できないとしても、根底には竹内同様にアジアにおける近代化過程を何よりも民衆的抵抗・自発性との関連でみる視点が存在していることもみおとされてはならないだろう。この意味では、既に(民衆的自発性を強圧しつつ)国家主導で近代化を「駆け抜けてきてしまった」日本を、鋭く照射する視点にもなっているように思われるのである。

二、国家という視点の射程

 ところで、日本側論文でも、神田論文が韓国における民衆宗教研究にも学びながら、民衆の「救済者信仰」に即して研究を深化すべきとの視点を打ち出していて、実は旧来の国家(近代天皇制国家や国民国家)との関わりで論じる研究を鋭く批判している。すなわち、神田は、日本における従来の民衆宗教研究が、戦後の村上重良の研究から最近の国民国家論的研究に至るまで、あまりに近代批判の文脈で論じられてきたことを批判し、「社会変動を受けとめた人々の生活史的創造性の側」からの研究の必要性を強調している。神田は具体的には、「伝統的社会の内部に『近代』的な要素が発生ないし侵入しはじめた」ことを受けて、十九世紀の民衆宗教には「互恵的慣行」という生活意識や社会的「交歓」の維持・拡充のための「儀礼」的要素があったことに注意を喚起し、そこに「女性が教祖になりはじめた時代」としての十九世紀の民衆宗教の「救済者信仰」の構造を指摘している。

 神田の批判は、一方では本書にも収録されている安丸良夫の論文が、民衆宗教を「近世的コスモロジー」の枠内、「通俗道徳」論などの「此岸的信仰」の枠内に位置づけていることや、「近代家族」形成に引きつけて近代的展開を捉えていることを批判し、他方で桂島の研究が「国民国家的という意味での近代的発想をいかに民衆宗教(教団)が内面化させられていったかを描きだすことに重点が置かれている」ことを批判して提示されているものである。ここはそれに対して反論すべき場ではないが、やはり言及しておかなければならないのは、神田のいう十九世紀民衆のおかれた状況が「伝統的社会の内部に『近代』的な要素が発生ないし侵入しはじめた」状況と指摘されていても、そこには「家産」「家政」における「社会変動」が捉えられているとしても、西洋近代の衝撃を民衆レベルで捉えることを基調とする韓国側論文と好対照をなしていることである。神田自身にもこの点は自覚されていて、日本では「対外的な危機意識を深めていったのは、明らかに武士階級の方が先」と述べられているが、そのことはもっと直視されるべき問題であろう。日本における民衆宗教研究が、(旧武士階級の構築した)国家との関係において論じられることになりがちなのは、実はこの点と関わることなのであって、西洋近代の衝撃と民衆の問題を日韓共同で検討していく上でも、むしろこれまでの国家と民衆宗教という視点は有効なのではないだろうか。たとえ、「研究視点のうえで大きな懸隔がある」段階から出発せざるを得ないにしても、である。

 もう一つ、国家との関係でみおとしてはならないのは、「国民国家形成史の一環として民衆宗教の展開」捉える視点とは、国民国家が構築してきた言説の枠内で民衆宗教を捉えることに対する批判的視座として提示された方法的視点であって、ある意味ではこちらの問題の方が重要であるということである。この点を鮮明に打ちだしているのは、松村論文である。松村は加地伸行の「儒教の宗教性」の強調を手がかりとしながら(『儒教とは何か』『沈黙の宗教−儒教』)、近代以降の「近世日本儒教思想史」というアカデミズム的言説がどのようなものであったかを分析している。すなわち、それらは近代合理主義の先駆としての儒教という「近代の語り」によって近世儒教を再構成しようとするものであって、井上哲次郎、丸山真男から昨今の研究に至るまでの「近代の語り」によって、儒教の宗教性という視点が欠落させられることになったことが指摘されている。さらに松村は、儒教が「本質」として宗教であるという加地の視点も批判の俎上に載せ、それも実はアカデミズム的言説と軌を一にするもので、「儒教・儒学・儒者をめぐる言説の歴史的・社会的な展開と、その過程で派生し創出される意味」を分析する研究の有効性を提示している。示唆的なのは、本質還元論的議論が東アジアに持ち込まれるときに、「元祖中国」の「本質」とその周辺での「韓国的」「日本的」特質という議論が生まれることで、そこに近代のアカデミズム的言説の構造があったことが指摘されていることである。

 「国民国家形成史の一環として民衆宗教の展開」を捉えることにおいて重要なのも、アカデミズム的言説が民衆宗教をどのように再構成してきたのかについて、その概念などを含めて批判的に捉え返すことである。しかしながら、儒教とは異なって民衆宗教はアカデミズム的言説がむしろ排除してきた側面が強いことも勘案される必要がある。何が排除されてきたものであったのかを考えるならば、そこには近代的言説の特質が露わになると同時に、近代以前の民衆宗教の「近代ならざる」部分が照射されることになるだろう。さらに、民衆宗教に関わっていえば、実は民衆宗教自体が近代的言説の中に自己を規制づけてきた面も看過しえない。「国民国家的という意味での近代的発想をいかに民衆宗教(教団)が内面化させられていったかを描きだすこと」とは、そうした問題を前景化するための方法的視点であって、決して民衆宗教が国家に回収される側面を強調することに主眼があるものではない。この点は、教団教学、例えば金光教学における教祖研究などが既に先駆的に明らかにしてきたことでもあり、むしろアカデミズムの側に突きつけられている問題でもある。

 神田論文が、近世民衆の「民俗的慣行」にスポットを当てたものであるとすれば、幡鎌論文は、近代の民衆宗教の信者にスポットを当て、国民化という視点から民衆宗教を捉えたものといえる。近世部分は、神田と同様に「民俗宗教」「民間信仰」との関わりを重視する立論といえるが、近代部分は、安丸の視点を継承しながら明治初年の国家による「民俗的なもの」への抑圧を背景におき、その歴史過程での天理教を描きだしている。「神の呼称の変化」や「おふでさき」の執筆(教義化)などがこの時期に集中するが、信者はこの中で「霊験をえるための『民俗<宗教>』から、民衆の主体的・自覚的な信仰という意味での『民衆宗教』へと脱皮を遂げている」と捉えられている。ここで注目されるのは、この過程は村落共同体の社会的地位が低下させられていく過程でもあって、それは「『国民』としての個人の析出と宗教の私化」の過程と捉えられ、民衆宗教の近代における教勢拡大はそのことを背景としていたと明言されていることである。このことは、<国家対民衆宗教>というこれまでの民衆宗教研究においてはほとんど言及されてこなかった視点で、国家を視点とする研究が今後は意識しなければならない視点であるといえよう。また、国民国家論的研究に関わっても、昨今ではそれがあまりに一般的なシェーマの繰り返しになりがちであることを考えると、教祖・教団レベルだけではなく、信者の国民化という視点から議論を深めていくことは有効な視点であるように思われる。そのことが、国民国家論的視点に対する、神田などの呈している違和感に応えることになるのではなかろうか。

三、日韓宗教研究の交流に向けて

 以上、あまりに韓国側論文では民族を、日本側論文では国家という視点を前景化して紹介しすぎたかもしれない。しかも、いうまでもなく、民族と国家という問題は、決して二者に切り分けられる問題ではないことは明らかである。しかしながら、日本における民衆宗教研究において、(戦後の歴史学研究会のイデオロギー的議論を別とすれば)これらを有機的に結びつけて議論することが少なく、長らく国家に比して民族という視点が「忌避」されることが多かったことは、趨勢としては指摘できることのように思われる。無論、民衆宗教研究というジャンルにおいて、その民族意識(ナショナリズム)との関連が全く問題とされなかったわけではない。例えば、かつて村上重良は「国家観・民族観においては、日本中心の排外民族主義への傾斜がつよくみられ、このことが、これらの各(民衆)宗教が国家神道体制に組み込まれる過程で、天皇崇拝と国家主義に容易に妥協迎合した一因であったといえよう」と指摘していた(「幕末維新期の民衆宗教について」)。だが、それも「民族宗教の性格をうけつぐ習合神道の基盤」との関連以外には、その論点は深められることもなく、他方で近代的性格に特質が見出されていくこととなる。また、安丸良夫は民衆宗教に「より普遍主義的でヒューマンな民衆の立場からのナショナルなものの形成」を見出しているものの、それがやがて近代国家に回収されると捉えている(『日本ナショナリズムの前夜』)。小沢浩も「ナショナリズムと民衆宗教」という論考で、民衆宗教の「排外主義」について検討を加え、その「全体的大衆的ナショナリズムの思想構造」内での位置とその「止揚」の可能性について検討している(『生き神の思想史』)。小沢の研究は、民衆宗教に「国家や民族を超える」側面を見つつも、教祖の死以降にその可能性が閉じていくことを追跡したもので、今日までのこのテーマについてのもっともまとまった論考といえる。そして、ここで留意しておかなければならいのは、これらの研究から窺えることは、民衆宗教の「普遍主義的でヒューマンなナショナリズム」(安丸)が指摘されてはいても、最終的には「排外主義」が問題とならざるをえないということで、この点についての研究がその後深められることは少なかったということである。

だが、韓国側論文は、再度われわれに現代的視点からの、民族・民族意識(ナショナリズム)と向きあっての研究を迫っていると、わたくしは考える。この点では、必ずしも宗教研究ということではないにしても、「在日」の立場から韓国と日本の民族を見つめてきた徐京植の指摘は示唆的であるように思われる。すなわち徐は、柄谷行人が戦後の日本においては民族がネガティヴな概念として用いられてきたと述べたことに対して、「本当はむしろ真剣に取り上げられるべき問題が棚上げされてしまっているのではないか」と切り返している(『「民族」を読む』)。そして、日本では「ネーションというものは想像の共同体に過ぎないのであって、それから独立した個人というものを確立する、個人というものにどこまでも立脚するということが大事なのだということが、言葉としてのみ流行」し、したがって「一種の擬似独立した個人しかない。…個人が国家から独立するために経過しなければならないプロセスをいわば想像上で跳躍する。というより、忌避する」ということとなり、実は「擬似個人主義のようなものによって特権を相互に認め合うような、そういう共同体として想像されている」ものが、現代日本の「ネーション」意識ではないかと問題提起している。

 いうまでもなく、徐が前半で言及している「想像の共同体」云々という視点自体は、ベネディクト・アンダーソン、ホヴスボウムやエドワード・サイードの研究、あるいはサバルタン・スタディーズ、クレオール研究など、主要には抑圧・差別を受けてきた研究者サイドからの、先進国のアカデミズム的言説に対する鋭い批判として、すぐれて実践的に提示されたものとしてあったはずだ。だが、日本での「脱国民国家」「グロバリゼーション」「共生」「多元文化主義」の「言葉としてのみの流行」と、さらに学術研究における自らを告発する言説であるはずの脱国民国家的な視点の<消費>という状況は、自らの問題として民族や国家と不断に向きあう姿勢が、殊に最近の日本では欠如していることを物語っているように思われる。

ところで、徐は「帝国主義によって自己そのものを否定されてきた民衆の抵抗と自立は、まず自己を発見し肯定することから出発する。否定と抑圧が『個人』に向けられたものでない以上、彼が発見し肯定することになるのは『個人』ではなく、『われわれ』(ネーション)である。こうして芽生える『われわれ意識』を、私はさしあたり民衆的ナショナリズムと呼んでおく」と述べ、それが「絶えず国家によって、排外的民族主義ないし国家主義へと回収される危険性がある」が、「それを『新しい普遍性』へと発展させようとするたゆみない思想的格闘」の重要性を強調している(『分断を生きる』)。率直にいって、帝国主義化の道を歩んだ十九世紀日本における民衆宗教の歴史叙述として、この徐の指摘を役立てようとするならば、かつての村上・安丸・小沢の研究を継承しつつ、「排外的民族主義ないし国家主義へと回収」された過程を先ず検討しなければならないだろう。そして、このことは本シンポジウムでも模索されてきたことではあったが、これまで以上に今後の日本における民衆宗教研究の重要な課題の一つだとわたくしは考えている。同時に、そうした問題を見据えつつ今後の日韓宗教研究の交流を進めるならば、この「民衆的ナショナリズム」の「新しい普遍性」への「思想的格闘の場」として、他ならぬこのシンポジウムが発展しえるに違いないとも考えている。民族と国家をめぐる問題は、その過程で日韓共通の課題となるはずである。

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