宣長の「外部」――十八世紀の自他認識―
|
(『思想』932号、2001年12月)
一、「ナショナリズムの預言者」
「ナショナリズムの場合には(他の運動については必ずしも同じことは言えないが)一つ、もしくは複数の観念が実際にどう形成されたか、あるいは誰が正確に何を言ったか、もしくは書いたかといった問題は、大して重要ではない。いずれにせよ、鍵を握る観念は、あまりにも単純で簡単であり、およそ誰でもが、いつでもそれを作り上げることができるということなのだ。そして、ナショナリズムは常に自然なものであるとナショナリズム自体が主張できる部分的な理由はここにある。重要なのは、他のほとんどの状況の下ではその観念が奇妙なものであると思われるのに反して、その観念が説得力があると思わせるような生活状況が存在しているかどうかなのである」(『民族とナショナリズム』)(1)。
アーネスト・ゲルナー(Ernest Gellner)は、ナショナリズムについてこのようにのべることで、ややもすると「ナショナリズムの預言者たち」の言説に目を奪われがちな動向に対して、むしろ「その観念が説得力があると思わせるような生活状況」、かれの言葉を借りるならば「匿名的、流動的、動態的」で「文化的に同質的」かつ「高文化」である「産業社会」の形成に着目すべきことを主張している(2)。ここで興味深いのは、ゲルナーはこれ以上は語ってはいないが、「いつでもそれを作り上げることができる」にもかかわらず、われわれの目が「ナショナリズムの預言者」に注がれ、しかもそれにさまざまな合理的と目される解釈を付け加えることでこれを「反復」すること自体が、疑いもなく「その観念が説得力があると思わせるような生活状況」を晒けだしているということである。日本における「ナショナリズムの預言者」の一人と目される本居宣長(1730−1801)の言説に幻惑され続けている状況は、そのようなものとして捉えられるであろう。いうまでもなく、宣長を非合理主義的な古道学・神道学と実証主義的な文献学・歌学との間で折り合いをつけたいという明治以来の「宣長問題」とは、問題をそのようにしか構成しえないことで宣長の言説を「説得力があるもの」として捉え、実は近代学術自体が「その観念が説得力があると思わせるような生活状況」、換言するならばナショナリズムと不可分のものであったことを明白に物語っているのである(3)。
ゲルナーの興味深い指摘をふまえるならば、宣長とは疑いもなく「古昔」における言語的始源の仮構から流出する「皇国」の同質性と外部との差別的境界を主張することで、「意と事と言」における「皇国」の同質性を内部的に構成しようとした「ナショナリズムの預言者」の一人であったことになる。それは「皇国の正音」の仮構によって、最終的に中華文明圏の表象として存在してきた漢字を「異国」の言語として見いだし、「仮字」として排除し、それによって「皇国」の自明性を確保する強力な言説の登場としてあった(『漢字三音考』)(4)。注目すべきなのは、かく「皇国の正音」が漢字の彼方に仮構されることで、いまや「あだし道」とされた中華文明圏と対峙しての「古昔」からの「皇国」の文化的同質性が、立ち現れることになったそのことである。たとえば、宣長のいうところは次のようなものである。
「凡て人のありさま心ばへは、言語のさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上代の万の事も、そのかみの言語をよく明らめさとりてこそ、知べき物なりけれ、漢文の格にかける書を、其隨に訓たらむには、いかでかは古の言語を知て、其代のありさまをも知べきぞ、古き歌どもを見て、皇国の古の意言の、漢のさまと、甚く異なりけることを、おしはかり知べし」(『古事記伝』一之巻)(5)。
これをみるならば、宣長は「漢文の格にかける書」との対比で「漢のさまと、甚く異なりける」ものとしての「皇国の古の言語」を所与のものとして提示し、それを「明らめさと」るべきことをのべ、そのことによって「皇国の上代の万の事」が知られるとしている。この史料は、宣長の方法論としてよく知られたものだが、ここでわれわれが「人のありさま心ばへは、言語のさまもて、おしはからるゝ物」という宣長の主張に導かれて、「古き歌どもを見て、皇国の古の意言の、漢のさまと、甚く異なりけることを、おしはか」りつつ、「漢のさまと、甚く異なりける」「皇国の古の言語」によって「皇国の上代の万の事」を明らかにするそのことが、ほかならぬ「皇国の古の言語」を仮構していく当のものであることがよく示された史料といえる。そして何より重要なことは、この「皇国の古の意言」の仮構によって、「ただ漢の潤色文のみをむねとして、その義理にのみかかづら」うものとして、ここに「儒仏」・中華文明圏の言説は普遍性を剥奪され、「異国の儒仏」となったことである(『古事記伝』一之巻)(6)。ここで再び、ゲルナーのいうところに従えば、「ナショナリズムの預言者」の言説とは以下のようなものとしてあった。
「ナショナリズムは連続性を説き、また擁護すると言うが、そのすべてを、人間の歴史における決定的で言語を絶するほどに深い断絶に負っているのである。それは、文化的多様性を説き、また擁護すると言うが、実際には、政治単位内部で、そして程度は低いが、政治単位間でも同質性を強要するのである。(中略)したがって、一般的に言えば、われわれはナショナリズムそれ自体の預言者たちを研究することによって、ナショナリズムについて多くを学ぶことはないであろう」(ゲルナー前掲書)(7)。
ここでゲルナーがのべる如く「われわれはナショナリズムそれ自体の預言者たちを研究することによって、ナショナリズムについて多くを学ぶことはない」。したがって、われわれは、宣長による「皇大御国は、掛まくも可畏き神御祖天照大御神の、御生坐る大御国」といった主張や、「皇統は、すなはち此世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壌無窮の神勅の如く、万々歳の末までも、動かせたまふことなく」といった「皇国」の隔絶的優位性の主張に目を奪われるべきではない(『古事記伝』一之巻、『玉くしげ』等)(8)。そうした主張の内容については、なるほど多くの論者が指摘してきたように非合理性が際だっている点において特筆されるべきものであったとしても、のちにのべるように、一七世紀以来の日本型華夷思想論者、日本中華主義論者も似かよったことをいっているのであって、その非合理性の度合が問題なのではない。そのように捉えることは、戦前の国体史観的著述が、山鹿素行(1622−1685)、熊沢蕃山(1619−1691)、山崎闇斎(1618−1682)学派(崎門派)・垂加派、さらに契沖(1640−1701)、荷田春満(1669−1736)、賀茂真淵(1697−1769)の「大成者」として宣長を取り扱うことで(9)、宣長が解体しさったもの、そしてそのことによって自明視されるようになった事態をかえって捉えにくくしていることと通じている。なるほど、古代憧憬論や神道論、「もののあはれ」論にしても、宣長がさまざまな「当代文化」と関わって理論構築したものであることはいうまでもなく(10)、そこに「大成者」としての宣長という言説が説得力をもって登場しえる余地があることは事実である。のちにのべるように、「自然之神道」という初期の宣長の主張が、賀茂真淵の神道論と一脈通じていることも、そのように捉えられるだろう。
だが「ナショナリズムの預言者」としての宣長が行い、自明化したものはもっと別のところにある。繰り返しになるが、宣長が「決定的で言語を絶するほどに深い断絶」をもたらしたものとは、「皇国の古の意言」の仮構による「皇国」の同質性の宣揚によって、「儒仏」・中華文明圏の言説が「異道の意には、いさゝかもかゝはるべきわざにあらず」と宣告され(『玉勝間』七の巻)(11)、「異国の儒仏」となったこと、このことである。それはそれまで、「礼・文」という価値の中にあってその文明圏での共同性に立脚しつつ、価値の外にあると見なされた周辺部や文化的階層的「他者」と対峙してきた自他認識が、「虚構的エスニシティ」としての言語共同体の同質性に立脚しつつ、「想像の自然」の外にあると見なされた共同体を境界外に排出する自他認識へ移行することで(12)、一八世紀の思想空間を激しく切り裂くことを意味していた。だが、無論宣長がいなかったとしても「誰かが彼の場所を埋めたであろう」(13)。われわれは、結論を急ぐ前に、宣長の「外部」について、すなわち宣長が生きた一八世紀という時代について、その自他認識の動向について検討してみる必要があるだろう。
二、一八世紀の自他認識
1.日本型華夷思想と日本中華主義
いうまでもなく、宣長が生きた時代は、一八世紀徳川日本という時代である。一言で表現しえないまでも、自他認識という問題からいえば、求心力を失いつつあったとはいえ、「明風」の流行など、やはり中華文明圏内にあった徳川日本が、中華文明を相対化し、あるいはそこから「自立」し、さらにいえばロシアの接近を契機として「近代世界システム」と接触を開始する時代であったということができる。中華文明を相対化すること自体は、無論、明を中心とした通交システムから距離をおかざるをえなかった徳川時代当初より開始されていたという見解も成立するが(14)、何よりも一七世紀における儒学・朱子学の体系的導入と、同じく一七世紀のほぼ一世紀にわたってアジア地域を揺るがした明清王朝交代(華夷変態)が、一七〜一八世紀の知識人にとっては、相対化の前提をなす自他認識形成により大きなインパクトを与えていたといわなければならない。すなわち、前者によって「礼・文」という文明基準に基づく自他認識の枠組み(=「礼・文」中華主義)、「理」や「天」の彼我の普遍性を前提としての「礼・文」の中華としての中国像、東夷としての徳川日本像が理念的に導入され、だが後者によって、それは現実に存在する中国=清を夷狄とする眼差しもあって、「日本的内部」を何らかのかたちで自覚した日本型華夷思想や、中国よりもむしろ徳川日本に「礼・文」の存在を認める日本中華主義をうみだしていた(15)。ここでいう日本型華夷思想や日本中華主義とは、一七〜一八世紀の山鹿素行、熊沢蕃山、山崎闇斎学派、垂加派などの自他認識を想定しているが、明中華主義から脱却しての「日本的内部」の文化的優位性を主張しようとする言説、清=夷狄論を前面に押しだしての日本=中華論などを意味している。崎門派・垂加派の場合は、日本書紀に依拠しながら、多くはそこから儒学的な教説を日本の古来の「自然の教」として抽出し、儒学的な教説をまたずにも日本に道が存在していたことが主張されている。もっとも、いずれの場合も、未だ中華(夏)を軸とする視点は失われていないことにも留意しておく必要がある。谷秦山(1663−1718)ら垂加派の日本中華主義にあっても、中華文明圏内での「礼・文」の彼我の優劣(かつては中華に存在していた「礼・文」の所在)が争われているのであって、この限りで「礼・文」中華主義の構造は自他認識の枠組みとして、なお基本的な規制力を発揮していたといえる(16)。
このような日本型華夷思想や日本中華主義は、実は一八世紀になると、学派を超えた影響力を有していたと考えられる。すなわち、太宰春台(1680−1747)の『弁道書』をめぐる論争を始め(17)、一八世紀知識人の言説の随所には、反発も含めて何らかの日本型華夷思想・日本中華主義の痕跡を窺うことができる。たとえば、「国際人」「朝鮮との『誠信外交』の推進者」として称揚されることの多い雨森芳洲(1688−1755)も、自他認識に注目するならば、日本型華夷思想論者であったといえる(18)。すなわち、芳洲は、清を「中華ノ体態」を失った「夷ヲ以テ華ヲ変シ」たものとみなし(『続縞紵風雅集』巻之一四)(19)、他方で日本については、次のように称揚している。
「我ガ国タルヤ、太陽ノヨリテ始ル所ニシテ地ノ東ニ在リ。或ル曰ク君子ノ国ト、其ノ仁ヲ言フ也。或ル 曰ク東方ノ寿域ト、其ノ齢ヲ言フ也。…我地ノ東ニ在リテ春ニ当リ此其レ仁タル所以也」(『橘窓文集』 巻之一)(20)。
「此国は人のこゝろすなほにして、夏商の風にちかし」(『たはれぐさ』巻一)(21)。
「このくには国のさま、周の封建にちかく、国々の士大夫、みな其禄を世々し、いとけなきより、とした くるまで、あさゆふしたしみなれ、人がらのよしあし、互にしりたるうちより、それぞれのかしらすべき ものをえらびて用ふるなれば、もろこしの科挙にて人をとるには、はるかまさるべし」(『たはれぐさ』 巻二)(22)。
芳洲が、日本をこのように称揚するのは、「霄壌無窮」なる「神胤聖孫」(=天皇)への賛美に基づく「天皇=国王」論、さらに三教一致論が存在しているからであるが(23)、新井白石(1657−1725)による朝鮮通信使宛国書における日本国王号「復号」に反発したのも、「天ヲ体シ日ト並ブ聖統」たる天皇こそが「国王」であって、将軍がそれを名のることは「無稽ノ新規」であり「恭順ノ義ヲ失シ」「祖上ノ法ニ悖ル」ものであるとされたからであった(『橘窓文集』巻之二)(24)。この天皇論や日本論は、学派は異なるとはいっても、崎門派・垂加派を彷彿させるものといえる。
さらに、芳洲とは異なって「将軍=国王」論者と考えられる新井白石も、「武」のみならず、「礼・文」による「国体」の演出に努め(『江関筆談』)(25)、朝鮮との「敵礼」外交や、何よりも中華文明圏での徳川「国王」の「自立」に意を払っていたことが注目される。白石については、対朝鮮観が芳洲との比較で注目されることが多いが、朝鮮に対抗的な「礼・文」の徳川日本での実現をめざしたという意味では、実は日本型華夷思想論者とさほど遠いところにはいなかったと考えられる。「三代之礼の我国に遺れるすくなからず」というのが、白石の歴史認識の一つの柱であったことも、このことを物語っている(『古史通或問』下)(26)。
また、伊藤東涯(1670−1736)にも、中華文明相対化の言説を意識せざるをえなかった状況が垣間みえる。
「政治の道は、上古の事異国の風にして、今日日本の俗にかなはすとおもふ人あり、(中略)何も道といふものを格別におもひ、古今水土の異にて変通のあることをしらすして、かくのことくおもひまとふことなり、道といふものは、本聖人の心思智恵を以て、こしらへ設けられたるものにあらす、天地自然の道なり、(中略)聖人の道といふものは、これに本つきて節文条目を立たるものなれは、即天地の間の道にて、聖人の所為中国の風俗とおもふは、おろかなることなり、(中略)それ礼儀風俗のちかひは、上世のこと異邦のわさのみならす、十年二十年のさきのこと、今日の風俗にあはさることあり、(中略)まして異国千年二千年さきのこと、日本に全く用ゆへきにあらす、(中略)斟酌損益して、よろしき方につくへきことなり」(『訓幼字義』巻之二)(27)。
ここで東涯は、道に「古今水土の異にて変通」があることをのべ、「道」を「聖人の所為中国の風俗」として相対化しようとする言説(日本型華夷思想)を批判している。この意味では東涯は日本型華夷思想論者と対極にある儒者といってよい。だが、一方で伊藤仁斎(1627−1705)が後景に斥けた「天地自然の道」という言説を前面に押し立て、他方で「異国千年二千年さきのこと、日本に全く用ゆへきにあらす」とのべていることをみるならば、東涯にあっても「聖人の所為中国の風俗」との隔絶が意識にのぼっていたことは間違いないのであって、そこに日本型華夷思想の意外な侵食が看取される。
この他、崎門派や垂加派に日本型華夷思想・日本中華主義的言辞をひろいだせることはいうまでもなく、それはここでは割愛する(28)。
以上の自他認識は、中華文明相対化の言説であるとはいっても、文明の価値基準自体、すなわち(学派の違いはあるとはいえ)中華に存在する「礼・文」を真っ向から否定するものではなかったことは、最初にのべたとおりである。朱子学者たる芳洲が、「仁」「君子」「周」などを基準として徳川日本を称揚していることは当然としても、中華文明に否定的言辞を連ねる垂加派においてすら、この構造に変化はない。一例だけあげておくならば、正親町公通(1653−1733)に学んだ佐々木高成(生没年不詳)は、「西土を中華と云ふは、あちらこちらの取ちがへなり」とのべる日本中華主義論者であったが、そこで比較されているのは「人倫の道」であり、それも「儒教も中庸の誠命の章は、神道に妙契す、(中略)孟子性善養気四端を説けるは、前聖未発にして、其功天地と共に尽きず」とされるような、朱子学的言説とともにある「人倫の道」であった(以上『弁弁道書』)(29)。中華文明自体を否定することは、日本型華夷思想・日本中華主義にとっては、比較の前提自体を否定することにつながることなのであって、到底なしえるところではなかったのである。これらのことは、日本型華夷思想・日本中華主義も含めて、一八世紀の知識人の多くの自他認識が、依然として中華文明圏の内部にあったことを鮮明に物語っている。
2.国学的言説と日本中華主義
平田篤胤(1776−1843)など後代から道統論的な眼差しで捉えられる国学的言説も、その道統論を離れ、一八世紀という同時代的な思想空間の中に位置づけてみると、既述してきた日本中華主義との緊密な関係が浮かびあがってくる。まず、荷田春満についていえば、門人賀茂真淵の言説よりも崎門派や垂加派との共通性の方が目につかざるをえない(30)。最初に注目されるのは、「本朝の道は神代上下に尽してある也」とする春満は(『日本書紀神代巻箚記』)(31)、日本書紀至上主義の立場にたっていたことである。ちなみに、春満は旧事記を偽書としており、また古事記についても「正書」ではあっても「大なる意味違ある」ものと位置づけられていた(同前)(32)。このようにのべられているのも、日本書紀を「後世人にも違ひのなり所を慎むべきのために、被挙被伝たる」書とみる春満にとって、崎門派や垂加派と同様に、日本書紀の通釈自体が「教」を読みだす作業としてあったからであった。そして、その「教」も概して儒学的言説からも影響を受けたもので、日本書紀の開闢説についても「儒説とは大概同意也」としていた。もっとも「文字の上にて義理を付て解く」「唐」と「目前の物を以て譬ふる」「本朝」は「伝へ様」は違うとされていて(33)、そこに徂徠学的な朱子学批判も看取されるのだが、「気」による生成論によって日本書紀を解釈している点などには、朱子学的思弁の影響を色濃くとどめている。その春満は次のようにのべている。
「皇孫降臨し給はねば、天地国土地気蒙昧として、善悪是非邪正の差別なく、君臣上下の隔なき也。因茲天神造化成し給ふ国土を、其儘に不被置、不得止事御徳を国に被施んとありて、天照大神、高皇産霊神、皇孫を降し給ふ也。(中略)非道不見、非道不居、非道不娶、是非善悪を明に弁へたる徳化の御魂の徳の光をもて、国を治むるところにて、人一人も実の人とはなり、葦原の国も実の国土の恵を受くる也」(『日本書紀神代巻箚記』)(34)。
大方の儒者が、儒学の伝搬などで「天地国土地気蒙昧」からの開化を説くのに対して、「皇孫降臨」によってそれを説明している違いはあるものの、「皇孫降臨」によって「善悪是非邪正」「君臣上下」の「徳」がもたらされたと説いている点には、春満の「徳」(「義理道徳」)への揺るぎない信念が看取されよう。このように考えると、「正統の天子にその本を司り給ふと云ふものは、万国に勝れて、日本は神苗の留り給ふ国にて、教も万国に勝れたる国」(同前)(35)という主張も、垂加派と同様の日本中華主義的主張といってよい。この他、「本段一書経緯の伝」「最終一書本義の伝」なる「奥意」「秘伝」の日本書紀からの抽出という方法(36)にも、垂加派同様の方法が看取される。
そして、賀茂真淵も、日本中華主義から影響を受けていたことは、もっと注目されてよいことがらである。この点は、何よりも「先年太宰純か弁道書といふ物を一冊出せしを鳥羽義著といふ人悪みて破却しから国の聖人と称せらる人を証を挙て皆罵下せし弁弁道書といふ一冊有之皇朝之大意をよく得たる人と見ゆ」とのべられているように(明和五[1768]年本居宣長宛書簡)(37)、佐々木高成らの主張に共鳴を示している点に明らかである。以下の「天地の心のまにまに治」まってきた日本、「おのづから国につきたる道のさかえ」る日本という主張も、日本中華主義が主張してきた「自然」の日本という像を継承したものと見ることができる。
「こゝの国は、天地の心のまにまに治めたまひて、さるちひさき理りめきたることのなきまゝ、俄かにげにと覚ることどもの渡りつれば、まことなりとおもふむかしの人のなほきより、伝へひろめて侍に、いにしへより、あまたの御代 、さかえまし給ふを(中略)凡世の中は、あら山荒野の有か、自ら道の出来るがごとく、こゝも自ら神代の道のひろごりて、おのづから国につきたる道のさかえは、皇いよいよ さかえまさんものを(中略)然るを、よく物の心をもしらず、おもてにつきたゞかの道をのみ貴み、天が下治るわざとおもふは、まだしきことなり」(『国意考』)(38)。
「自然」が日本中華主義と不可分の主張であったことを、『弁道書』をめぐる論争から、一つだけ例示しておくならば、先にもふれた佐々木高成は「吾国の教、天地自然の道あり、自然の教あり、自然の神性あり」とのべて、「禽獣同前の国」であるが故の「教」を説く『弁道書』に対置する論法を採っている。この「自然」は、高成の意識の上では朱子学的な「自然」であるかの如くであるが、「万国皆吾国の余光を得て建つ御徳を以て見れば、宇宙の間に幾億万の国有りとも、日神の御徳に比べていふべきものなし」と「日神の御徳」が先験的にもちだされていることに明らかなように、思弁的なものではなく著しく不可知的な「自然」であることに特質がある。いわば、「一年にしては春夏秋冬の変化、寒暑往来生長収蔵、一日にしては昼夜十二時の明暗、万物日徳に依て其所を得」た「神国」は、先験的に「自然の教」「自然の神性」にかなったものと説かれているのである(『弁弁道書』)(39)。真淵の「自然」には、老荘思想の影響も顕著であるが、こうした日本中華主義における「歴史的・社会的差異を想像の自然という領域に投影する」思惟と軌を一にする面もあったといってよいだろう。
この他、『国意考』冒頭部での堯の禅譲批判、武の放伐批判なども日本型華夷思想・日本中華主義の主張を継承するものと考えられる。さらにいえば、これらに対置された皇統連綿たる日本像、あるいは「日本=武威国」論なども、一七世紀以来の日本型華夷思想の日本賛美論の常套句であって、こうした賛美さるべき日本像の内実については、実は宣長も含め後期水戸学に至るまで徳川日本を通じて大きく変わることはなかったといわなければならない(後述三節二項)。
とはいえ、真淵には日本中華主義とは決定的に異なる主張がある。すなわち、「古へ」の「うた」、とくに万葉集から抽出された「おのづから」という主張である。
「うたてふ物はかり、上つ代の心ことはをいささかのかけもあらて今も伝はれり、然れはこれを年月に唱ふるにつけてこそ、上つ代の人のこゝろことはもおのつからふかく思ひしるられ、其ことはを知ときは、その代々のありさまをも今も見ることくしらるへし」(『書意考』)(40)。
「古の歌もて、古の心・詞をしり、それを推て古への世の有様を知べし、古への有様をしりてより、おしさかのぼらしめて神代のことをおもふべし」(『国意考』)(41)。
ここで真淵は、「うた」によって「上つ代の人のこゝろ」「ありさま」が知れるとのべ、そこから「のどにも、あきらにも、さやにも、遠くらにも、おのがじゝ得たるまにまになる物」としての「神皇の道」を知ることができると主張している(『邇飛麻那微』)(42)。このように主張されることで、「古へ」の「自然」から「唐国の教」を批判していく論法は、日本中華主義には見られない主張であった。つまり、いかに不可知論的ではあったとしても、多分に朱子学的な「自然」による文化比較を経た上での日本像に日本中華主義の特質が認められるとするならば、明らかに真淵は文化比較を拒絶した「古へ」からする「自然」な日本像という論法に立脚しているのである。無論、これまで指摘してきた日本中華主義における「自然」的日本像も、徂徠学的作為論への対抗という面もあるにせよ、それが地理的先験的になればなるほど、文化的差異性の固定化となっていく面があることは否めない。事実、のちの後期水戸学における「自然」はその「最終版」としてあった(43)。この意味では、日本中華主義とは、やはり中華文明圏の内部にありつつも、それを切り裂く言説であったということができる。しかしながら、その「自然」の先験性が、真淵の如くに、「古へのうた」、さらに「古への詞」から導出されることで、「自然ならざるもの」は、日本の「古へ」ならざるものとして一括して排出され、ここに(現状の徳川日本も含め)既成の「礼・文」を基準とする中華文明圏的文明の一切が拒絶されていくこととなる。
だが、真淵が中華文明圏の「外」に出ることは、ほかならぬ文明自体の否定に帰結したことにも注意しなければならない。あまりに有名な「人を鳥獣にことなりといふは、人の方にて我ほめにいひて、外をあなどるものにて、また唐人のくせなり、四方の国をえびすといやしめて、其言の通らぬごとし、凡天地の際に生とし生るものは、みな虫ならずや、それが中に、人のみいかで貴く、人のみいかむことあるにや。唐にては、万物の霊とかいひていと人を貴めるを、おのれがおもふに、人は万物のあしきものとかいふべき(中略)、世の中の生るものを、人のみ貴しとおもふはおろか成こと也、天地の父母の目よりは、人も獣も鳥も虫も同じこと成べし、夫が中に、人ばかりさときはなし」(『国意考』)(44)という言説も、文明否定論によって確かに中華文明自体を否定できる地平が切り開かれた衝撃的なものといえるが、逆にいえば、一八世紀の知識人にあっては中華文明の価値基準の拒絶が、やがて文明自体の否定にいきつくことも示唆している。皮肉なことに、真淵の言説は、一八世紀の思想空間において、中華文明圏の価値基準がいかに強力なものとして作動しているかを物語るものにもなっているのである。
三、宣長――華夷思想の解体とその行方
1.「自然之神道」と「神の道」
周知のように、宣長は、京都遊学中の宝暦六・七(1756・1757)年頃と推定される清水吉太郎宛の書簡で次のようにのべている。
「上古の時、(君と民と皆)其の自然の神道を奉じて之れに依り、身は修めずして修まり、天下は治めずして治まる矣。礼儀は自のづと有りて存す。又奚んぞ聖人の道を須ひんや焉。(中略)不佞不肖と雖も、(幸ひに此の神州に生まれ)大日霊貴の寵霊に頼り、自然の神道を奉ず。(而うして)之れに依れば、(則ち)礼儀智仁、?めずして有り焉。(中略)不佞の六経論語を読むや、唯だ其の文辞を玩ぶ(而)己。而うして六経論語は(是れ)聖賢の語にして、(或ひは)以て自然の神道を補ふ可き者有れば、則ち亦た之れを取る耳」(45)。
この書簡は、宣長が「自然之神道」を最初に表明したものとして、あまりに有名なものであるが、「身は修めずして修まり、天下は治めずして治まる矣。礼儀は自のづと有りて存す」という「自然」を戦略的な拠点としながら、儒学(「聖人之道」に注目するならば、それは徂徠学であったと思われる)批判を試みたものといえる。この時点での宣長への真淵の影響は想定しにくいが、宣長が先行する日本中華主義や真淵と同様の戦略を出発点としたことは明らかであろう。つまり、あたりまえといえばあたりまえだが、宣長も一八世紀の思想空間・自他認識の中にあったということである。東より子は、「自然」の概念について、日本書紀斉明紀や「惟神」の注記に典拠を求めているが(46)、それはそれとして首肯しえるとしても、一八世紀における多くは反徂徠学的であった日本中華主義が、「自然」に依拠して日本を宣揚していたことがより注目されるべきだろう。宣長の「自然之神道」は、真淵同様に、こうした日本中華主義と軌を一にする主張であったと考えられる。「六経論語」「聖人之道」を全面的に否定せずに「自然之神道」を補うものとされているのも、そのように考えられる。宝暦八(1758)年頃に執筆されたと考えられる『あしわけをぶね』における「吾邦ノ大道」としての「自然ノ神道」論が、「儒ハ身ヲ修メ家ヲトヽノヘ、国天下ヲオサムルノ大道也、仏ハマヨヒヲトキ、悟ヲヒラキ、凡夫ヲハナレ、成仏スルノ大道也、カクノコトク心得ル時ハ、ミナソレ ニ大道ナリトシルヘシ」(47)とあるように、「儒仏」と並列的にのべられるものであったことも、同様に考えられる。推測ではあるが、京都遊学時代と思われる宣長の随筆を見ても、徂徠『?園談余』を強く意識していたことや、さまざまな漢籍の日本論が並んでいるほかに、谷川士清の『日本書紀通証』の引用も見られ、垂加派の神道論から何らかの影響を受けていたことは間違いない。また、多田義俊(1698−1750)『南嶺子』から「大日本ニ天子マシ 、年号アリ、我国ハワカ中華ノミ」とする箇所がメモされているのも、同時代の日本中華主義的思潮への宣長の関心を窺わせるものといえる(48)。
ところで、「自然之神道」論に一つの変化がみられるのは、『蕣庵随筆』(松坂帰郷後、宝暦一一年前後執筆か)頃からであるといわれている。
「吾邦ノ道ハ、開辟以来万国ニスグレテ、言語道断、人間ノ智ノハカルシルヘカラザル所ノ、霊妙奇異ナル所アルユヘニ、神ト云也。(中略)ソノ異国ニスグレ、万国ニ見モ聞モ及バヌ霊妙奇異トハ、何ヲ云ゾトナレバ、第一天子開闢来、天照大神天下ノ主トナリテ、天上天下ヲ統御シ玉ヒシヨリ、今ニ至リ、万々代無窮ニ至ルマデ、一系ノ神胤ヲ継デ、他姓ニウツラズ、(中略)タダ自然ノ勢ニヨツテアラタマリユク事也、其自然ノ勢ト云ハ、ミナ天照大神ノ御心ヨリ出ルナリ、(中略)吾邦ノ道ハ、カクノゴトク何事モ天照大神ノ神意ニマカセテ、少モ後人ノイロフ事能ハザル道ナルユヘニ、是ヲ自然霊妙ノ神道ト云」(『蕣庵随筆』)(49)。
ここでは、「自然霊妙ノ神道」「自然ノ勢」という表現がみられ、先の「自然之神道」と同様に「自然」を未だに拠点にしているかの如く見えるが、その背景に「天照大神ノ御心」が登場していることが注目される。それとともに一段と強く主張されているのが、のちの宣長の特色的な言説となる「スベテ神ハ神妙不測」「第一奇怪ナルモノハ、今此天地万物也、天地ノ間、一物トシテ奇怪ニアラザル事ナシ」という不可知論である(50)。「自然」から「天照大神ノ御心」への移行は、したがって日本中華主義が有していた文明の価値基準を、「自然」だけではなく不可知論によって無効化しようとするものであったといえる。『石上私淑言』巻三では「そも 神は、人の国の仏聖人のたぐひにあらねば、よの常におもふ道理をもてかく思ひはかるべきにあらず。神の御心はよきもあしきも人の心にてはうかゞひがたき事にて、この天地のうちのあらゆる事は、みなその神の御心より出て神のしたまふ事なれば、(中略)天の下の青人くさも只その大御心を心としてなびきしたがひまつる。これを神の道とはいふ也」(51)とのべられていて、ほぼのちの宣長の主張と同様の「儒仏」との比較自体を拒絶したものへ変化していることも、宝暦一一(1761)〜一三(1763)年頃に宣長の思想に変容があったことを示唆している(52)。そして、しばしば指摘されているようにこれ以降は、宣長は「自然之神道」といわず、「神の道」と称するようになる。
だが、不可知論については、真淵も「世の中のことは、さる理りめきたることのみにては、立ぬ物と見ゆる」とのべており(『国意考』)(53)、真淵なり宣長の「神観念の深化・変化」云々がここでの主題ではない以上、ひとまずおいておく。注目すべきは、宣長が「自然之神道」という言辞を用いなくなった意味であろう。このことについて、東より子は「人情という『内なる自然』が産巣日神の御霊によるものだとした時に、『自然』を超える神という観念を獲得したのである。(中略)宇宙の究極を『自然』ではなく『神』とし、天皇制の永続と世の中の不条理を弁証する神学を創出」したものであると指摘している(54)。だが、ここで見ておかなければならないのは、宣長において「自然」とは切断された「皇国の古の言語」の仮構が一段と明確になったことであろう。ちなみに、真淵も先に見たように「古の歌もて、古の心・詞をしり、それを推て古への世の有様を知べし」(『国意考』)(55)とのべ、「古の詞」による「古への世の有様」を明らかにすることを主張していた。だが、その真淵は、「古の詞」の「音」について、「天つちのおのづからなるいつらの音」、すなわち「天地自然」に通じる「音」であると捉え、ここでも「おのづから」に依拠する姿勢を崩していなかった(『語意考』)(56)。いわば、真淵における「古への詞」は、「自然」に通じるものとして見いだされているのである(57)。ところが宣長は、『石上私淑言』巻二では、「吾御国は天照大御神の御国として。佗国々にすぐれ。めでたくたへなる御国なれば。人の心もなすわざもいふ言の葉も。只直くみやびやかなるまゝにて」(58)とのべ、さらに同巻三では「心さかしだちて。こちたき事を好む」漢字=詩との対比で、「いにしへの情言葉」「古への雅やかなるこゝろことば」による「皇国」の歌が、「神の御国のこゝろばへ」であると宣揚するに至っている(59)。巻二では確かに未だ「おのづから」という言辞が存在しているが、巻三では極端に減っていることも合わせ考えるならば、「自然」ではなく、「古への雅やかなるこゝろことば」に託された「皇国」像が前景化してきていることは間違いなかろう。「うた」の彼方に見すえられているものは、今や「から国の意言」を完全に払ったところにあるはずの、「自然」ならざる、所与の「いにしへの情言葉」であった。
以上の初期宣長の思想「形成」や「自然之神道」については、しばしば論じられてきたところであって、ここでは行論上必要な箇所について概観してみたにすぎない。しかも、そのことも、あくまで一八世紀の自他認識との関連で、宣長の「外部」を考えるためのものであって、それ以上の意味はない。ここでは、宣長によって「虚構的エスニシティ」としての言語共同体の同質性が「いにしへの情言葉」として仮構され、この言語共同体による自他認識がいいだされることで(60)、中華文明圏内の自他認識、「礼・文」に基づく彼我の共通の文明基準が、決定的に切り裂かれるに至ったことを見てきたわけである。
2.「反中国」の言説の行方
ところで、先に簡単に言及したように、中期以降の宣長によって語られる「皇国」像自体は、一七世紀の日本型華夷思想以来の日本賛美論の常套句の繰り返しという側面が濃厚である。たとえば次の如き言辞など。
「皇国は格別の子細ありと申すは、まづ此四海万国を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本国なるが故に、万国の元本大宗たる御国にして、万の事異国にすぐれてめでたき、(中略)本朝は、天照大御神の御本国、その皇統のしろしめす御国にして、万国の元本大宗たる御国なれば、万国共に、この御国を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなる」(『玉くしげ』)(61)。
「さて其不可測の理はさしおきて、現に目に見えたることにても、皇国の万国にすぐれて尊きことはいちじるし、まつ皇統の不易なる御事はさらにも申さず、其余第一に人の命をたもつ稲穀の美しきこと、万国とは天地懸隔せり、其外すくれたる、あぐるにいとまあらす、又境域は広大ならすといへ共、神代よりして外国に犯されず(中略)、大かた戸口稠密にして、殷富隆盛なること、宇内に於て皇国に及ふ国なし」(『呵刈葭』)(62)。
ここでのべられていることについて、天照大神(=太陽)「皇国」出生論に基づく「万国元本大宗国」論などは、無論、儒者などは到底容認しえるものではない宣長の独創的(?)見解と考えられる。しかしながら、皇統論などが当時にあっては真新しい主張ではなかったことは、日本中華主義と比較するならば明らかだろう。だが、宣長の「皇国」像には、その内実にとらわれたのでは窺うことのできない大きな問題が横たわっている。再三のべてきたように日本型華夷思想・日本中華主義においては、それがいかに尊大な日本論であったとしても、結局は「礼・文」という中華文明圏内部での優劣が争われ、その意味ではそれは中華文明圏に回収される性格を有していたといえる。だが、宣長の如き主張は、「礼・文」という中華文明圏における価値基準に立たない以上は、「反中国」としての「皇国」像は、結局のところ「反中国」が自己目的化したものとなっていくことを示唆している(「異国(中国)」を「反照板」としての「自己=皇国」像)(63)。ちなみに『呵刈葭』での主張も「異国の隣国のためになやまされて、つひに併呑せらるゝ」「彼国なとは土地こそ広大なれ(中略)、田地甚すくなく、人民甚稀少」云々という言辞と対をなして提示されていることは明白である。そして、それは対をなしてのみ提示されているものであることが注目されねばならない。このような自己目的化した「反中国」論は、やがてヨーロッパ世界との<出会い>を経て、「脱亜」論的言説につながるものであったとわたくしは考えているが、それについては近代における学術的言説との関連でのちに簡単にふれる。ここでは、宣長の「反中国」論が、容易に<参照系としてのヨーロッパ世界>を呼び込むものであったことについて簡単に検討を加えておきたい。
いうまでもなく、宣長の言説は、ロシア接近などの「近代世界システム」との接触期に成立した言説であった(『古事記伝』は寛政一〇[1798]年完成。ラックスマン根室来航は寛政四[1792]年)。もっとも、宣長において、その著作を通覧してみても、管見の限りではヨーロッパ世界は自らを脅かすようなものとしては捉えられてはいない。ロシアに関しても、わずかに清書『西域聞見録』に基づく走り書きがある程度である(『玉勝間』一四の巻)(64)。さらにいえば、『職方外記』を宣長がみていたことは明白であり(『玉勝間』一一の巻、『本居宣長随筆[第八巻]』など)(65)、『天地図』『天文図説』『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』などからも宣長の洋学的知識への関心が窺えるが(66)、そこから宣長の言説が大きく影響を受けたと速断することはできない。だが、少なくともヨーロッパ世界についても、「反中国」との関連で肯定的に参照されていたらしいことは理解される。たとえば、宣長は次のようにのべている。
「阿蘭陀ト云国ナドハ、天文地理ニクハシキ国ナルガ、其国ノ暦法ナドハ、唐国ノ暦法トハ殊ノ外ニ異ナリタルモノニテ、一月ノ日数モ大ニチガヒ、閏月ト云コトモナケレドモ、其通リニテモ年々差フ事ハナキナリ」(『真暦不審考弁』)(67)。
「於蘭陀といふ国の学問をする事、はじまりて、江戸などに、そのともがら、かれこれとあめり、ある人、もはらそのまなびをするが、いひけるおもむきをきくに、於蘭陀は、其国人、物かへに、遠き国々を、あまねくわたりありく国なれば、其国の学問をすれば、遠き国々のやうを、よくしる故に、漢学者の、かの国にのみなづめるくせの、あしきことのしらるゝ也」(『玉勝間』七の巻)(68)。
無論、宣長にとって、洋学的知識は、「反中国」との関連でのみ言及されるものであって、「皇国の、万の国にすぐれて、尊きこと」という主張は微塵も動じない。したがって、ヨーロッパ世界と宣長本人の思想との関連については、なお慎重な検討が必要であるが、宣長以降については一つの展望を見いだすことが可能である。すなわち、宣長が服部中庸(1757-1824)『三大考』を『古事記伝』一七之巻の付録としたことが、ここでは注目される。『三大考』、さらにはそれに触発されて成立した平田篤胤『霊之真柱』については、すでに多くの研究が存在しているので詳論はそれらに譲るが(69)、ここでは『三大考』が「皇国」を中国とヨーロッパ世界との関連で捉える言説であることに注目しておきたい。すなわち、中庸は次のようにのべている。
「近き代になりて、遙に西なる国々の人どもは、海路を心にまかせて、あまねく廻りありくによりて、此大地のありかを、よく見究めて、地は円にして、虚空に浮べるを、日月は其上下へ旋ることなど、考へ得たるに、彼漢国の旧き説どもは、皆いたく違へることの多きを以て、すべて理を以ておしはてに定むることの、信がたきをさとるべし、然るに皇国の古伝説は、初に虚中に一物の成れりしより、つぎ 其云ることども、凡て今の現のありかたに、合せ考るに、いさゝかもたがふことなし」(『三大考』『古事記伝』一七之巻付録)(70)。
ここで中庸は、「西なる国々」の説を参照系としながら、それと「皇国の古伝説」とが符合し、「漢国の旧き説」が「いたく違へる」ことが理解されたとのべているわけである。宣長がこの中庸に『天地図』を貸与し(71)、かつこの『三大考』についても、「めづらかに考へ出たるかも、くすしくも考出たるかも」と賞賛していることからも(72)、少なくとも「西なる国々」の説を参照系としながら、「反中国」の言説として「皇国の古伝説」を称揚することは、宣長においても肯定的に捉えられていたことは明らかである。やがて、篤胤さらに幕末国学は、その方法を全面的に展開していくこととなる。無論、対外危機の進展やアヘン戦争などによって、中国像はなお屈折した像を提示し、あるいは表層的言辞においてはヨーロッパ排斥の攘夷論がこれに重なり合っていくこととなる。しかしながら、これらの過程を通じて、否定的「中国」と<参照系としてのヨーロッパ世界>に構造化されながら、「皇国」をうち立てていく思惟は、より確実に定着していったと考えられる。そして、この思惟が、中華文明圏から「脱した」日本の一九世紀以降を基本的に呪縛していくこととなる。
3.「海禁環境」の変容
以上、一八世紀における日本型華夷思想や日本中華主義、国学的言説の様相を宣長に至るまで駆け足でスケッチしてきた。宣長の「外部」を検討するためには、最後に「海禁環境」の変容も見ておかなければならない(73)。無論、「海禁環境」の変容と思想空間、さらに宣長学が直ちに連動するものとは考えにくいが、十八世紀の自他認識には、通交・貿易の統制が強化されたことに伴う、中華文明の現実的求心力の低下が関係していることは想定されよう。
すなわち、多くの研究が明らかにしているように、公式の貿易という点で見るならば、一八世紀は長崎における通交・貿易の幕府管理が強化され、対馬口・薩摩口も含めて貿易量が制限された時代であった。対東アジア関係について見るならば、1683年に鄭克●が清に投降して以降、清は展開令を発布し、日本銅輸入の必要もあって、長崎への清からの交易船は著しく増大したが、それが日本からの貴金属の流出を招き、貞享・元禄から正徳期の貞享令、長崎会所設立、糸割符仲間の復活、正徳新令などに見られる管理貿易体制が敷かれていくこととなる。この管理・制限体制は対馬口・薩摩口などでの朝鮮・琉球との貿易にも影響を及ぼし、前者では朝鮮における輸出品の供給不足もあって貿易は公私ともに減退し、後者でも輸出銀額の制限がなされたことが明らかにされている(74)。一方、ヨーロッパ諸国で対日貿易を独占していたオランダも、東インド会社に関してイギリスとの間での競争力を失い、イギリス・フランス間の確執の「緩衝」としてかろうじて対日長崎貿易を維持する状況となっていた(75)。総じて一八世紀の通交・貿易は、銅から俵物・諸色による代替もあって取引高総額の減少は緩慢であったとはいえ、定高の制限によって全体に収束傾向を示していて、木村直也の言を借りれば、「『鎖国』的な実態への接近」を示していたといえよう(76)。
このように見てくると、一八世紀という時代は、朝鮮通信使(正徳度・享保度・寛延度・明和度)を除くならば、「外」からの刺激は十七世紀よりは減少していたかに見える。事実、宣長の『日記』等には、朝鮮通信使関連以外は、現実の清やヨーロッパ諸国の動向についての言及は、ほとんど見られない(77)。
もっとも、思想史上の問題としては、勘案しなければならないことが幾つかある。まず、明清王朝交代後の黄檗僧の来日などを契機として、一八世紀には「明儒の風」「明風」が流行していたこと(78)。徂徠学派の流行も、那波魯堂(1727−1789)『学問源流』がのべる如くに、「明風」の流行の一環とする見方もあるほどで(79)、それは儒学・道教・詩文のみならず、絵画や書道、茶道や花道など、要するに儒者・文人の「雅俗」文化にかなり大きな影響を与えていたといわれている。宣長も「明の代の人は、又見識ひらけて、宋の理窟のわろき事をしり、又古より世々の物しり人の説の、誤り、心もつかざりしことなどをも、見つけたる人多きは、めづらしき事なり」と明学を宋学よりは評価している(『玉勝間』一四の巻)(80)。要するに、現実には中華文明との接触の機会が少なくなっていたにもかかわらず、依然として、理念的存在としてではあれ、明中華主義の吸引力がなお強力に作動していたことを示すものこそが、これら「明風」の流行の背景であったと考えられる。そして、そうした「明風」の流行に対する、同じく観念的な反発も、日本型華夷思想・日本中華主義や国学的言説の登場を考える上では無視しえないことがらであろう。もっとも、大庭脩の詳細な研究が明らかにしているように、享保以降には徳川吉宗の蒐書方針もあって、『大清会典』や『六諭衍議』、清の地方志が伝えられ、清研究も初めて本格的に開始されようとしていた(81)。だが、清儒が思想史上に影響を与えてくるのは、一八世紀末期以降としなければならない。宣長は、顧炎武の書の一部は読んでいたかの如くであるが(『玉勝間』八の巻)(82)、その影響については今は詳らかにはしえない。
そして、もう一つ無視しえないことは通交・貿易の統制の強化にもかかわらず、拡大していった蘭学・洋学の知識である(83)。その詳細をのべる余裕はないが、世界像・アジア像に関わる西洋系地理書の普及が、宣長にも一定の影響を有していたことはすでにのべた。宣長はともかくとしても、当の蘭学・洋学者において、意図的に「支那」という呼称が用いられ始めたのは、中華文明圏からの「自立」の志向性が強まってきていることを示唆している(84)。だが、杉田玄白(1733-1817)や大槻玄沢(1757-1827)においても、依然として「天地の道」「人倫の道」を価値基準とする認識は、強力に存在していた。玄白は「何れの国か中土となさん。支那もまた東海一隅の小国なり」(『狂医之言』)(85)とし、玄沢も「妄リニ支那ノ諸説ニ眩惑シ、彼ニ?テ中国ト唱ヘ、或ハ中華ノ道ト称スルハ差ヘリ」(『蘭学階梯』)(86)とのべるなど、いずれも中国中華論を批判はしているが、一方で「道なるものは、支那の聖人の立つるところにあらず、天地の道なり。日月の照らすところ、霜露の下るところは、国あり人あり道あり。道とは何ぞや。悪を去り善を進むるなり。悪を去り善を進むれば、人倫の道明らかなり」(『狂医之言』)(87)とものべ、「天地の道」「人倫の道」への信頼は揺らいでいない。要するに日本型華夷思想・日本中華主義の内部にかれらも存在していたのである。
最後に、一八世紀後期の「海禁環境」の変容という点でいえば、無論ロシアの接近という問題がある。宣長において、それがどの程度自覚されていたか定かではないことは先にのべたが、安永年間頃からウルップ島や蝦夷地でのアイヌ人とロシア人の接触が頻繁となり、また工藤平助(1734-1800)の『赤蝦夷風説考』など北方情報がもらされるようになると、田沼時代の蝦夷地開発政策もあって幕府を中心に「北方」への関心は高まっていくが、それが明確な危機感として意識されるのは、寛政元(1789)年のクナシリ・メナシのアイヌ人蜂起事件からであった(88)。つづく寛政四(1792)年のラックスマンの来航は、対外方針をめぐって松平定信(1758-1829)ら幕閣内部に深刻な動揺を生むことになる。藤田覚ののべる如く、ラックスマン、さらにレザノフの来航という過程において、初めて「鎖国祖法・国法」観がうちだされ、ここに「鎖国」が一七世紀に遡っての徳川日本の外交方針であったという言説が成立していく(89)。こうした外交過程は、実は知識人世界で起こっていた自他認識の劇的変容とパラレルに進行していたことも看過されてはならないだろう。たとえば、「鎖国祖法」観をうちだした定信も、蝦夷地については「天のその地を開き給はざるこそ有り難けれ」とのべ(『宇下人言』)(90)、蝦夷地を「夷」とする日本型華夷思想の発想から蝦夷地非開発論を唱えていた。だが、対外危機が深まるにつれ、わずか数年にして幕府は蝦夷地を直轄地とし、実施には至らなかったものの言語・風俗教化を伴う「内国化」政策がうちだされていくこととなる。寛政一一(1799)年に東蝦夷地仮上知にあたって布達された「開国之御趣意」には、「彼島未開地に有之、夷人共衣食住三も不相整、人倫之道も不弁」なので「耕作之道」「日本言葉」「日本の服」「日本風の家作」によって「日本風の風俗に帰し、厚く服従」させるべきとの見解が見える(『休明光記付録』)(91)。明確に華夷思想的自他認識とは異質な、ロシアと国境によって隔てられた「日本国家」という言説が(92)、幕府方針の上でも登場したのである。これを幕府が「開国」と称していたことも示唆的なことであった。そして、これよりやや遅れて、篤胤は北方情報の収集を行い(文化四[1807]年)、のちにそれを『千島の白波』としてまとめていく(文化八[1811]年序文)(93)。宣長以降の一九世紀の国学的言説や後期水戸学、さらには広く知識人全般の自他認識は、こうした対外環境と関わって展開されていくことはいうまでもない。
四、おわりに−宣長の「発見」
本稿では、「ナショナリズムの預言者」の一人と宣長を目し、一八世紀の自他認識との関連で、その「外部」から宣長を理解するようにつとめてきた。だが、「ナショナリズムの預言者」の一人として宣長を捉えることには、実はいささかの躊躇がある。宣長やそれ以降の国学的言説が、現実のナショナリズム運動において、のちにいわれるような大きな役割を果たしたかどうかについては、疑問の余地があるからである。明治維新と国学や後期水戸学との関連についても、その影響を全く否定しさることはできないまでも、近代歴史学や近代思想史学がのべるほどに影響力を有していたといえるかどうか、最近の研究では、国学者が明治維新に果たした役割などについては慎重な見解が目立つことを勘案するならば、そこにはなお再考の余地があるといわなければならない(94)。
とりわけ考慮しなければならないのは、近代における学術的言説こそが、宣長を「ナショナリズムの預言者」として、この場合は積極的に遇し、かつその方法が学ばれていったことである。この点で、一番わかりやすいのは、いうまでもなく日本思想史学という学術的言説の場合であろう(95)。すなわち、日本思想史学という学術的言説は、日本という仮構された境界領域内において、「古へ」から継起的に連続して存在すると捉えられた、国民(民族)を担い手とする日本思想の一貫した記述が可能であることを前提に成立する学問である。そこでは、日本思想の固有性が前提され、外来文化と規定された「儒仏二教」などとの交渉(包容、同化)で日本思想の展開を捉え、まさに徳川時代までの思想全体に、固有性と異質性という二つのメスによる外科的手術を施すことで、中国(東洋全般)から自覚的に日本を摘出する作業が行われていくことになる。津田左右吉による、「支那」文化の影響を極力否定し、それを取り払ったところに日本文化(日本思想)を見る『文学に現れたる我が国民思想の研究』や(96)、芳賀矢一による太古からの日本語の一貫性という揺るぎない仮構によって、日本の文学やそれに内在する日本の精神を保障しつつ、中国文化と差異化しえる何か、原初から存在していた何かによって日本文化を捉える言説(97)などは、その典型的なものであろう。
しかも、こうした日本思想史学における、中国文化(思想)との差異性による固有性の「発見」は、同時に<参照系としてのヨーロッパ世界>という眼差しによって生みだされたものであった。そして、ヨーロッパ世界を参照しての日本思想史学の記述にとって決定的であったことは、ベルリン大学のヴォルフ(August
Wolf)が確立したといわれる文献学(Philologie)としての国学の「発見」、それを継承する学術的言説としての日本文献学、日本思想史学の構築であった。この点については、芳賀がフンボルト(Wilhelm H
umboldt)に従って国学=文献学との規定を行い、それが「国民を外の国民と区別する」ために「既に学び得た所の古文学の知識を以て、その社会全体の政治・文学・語学・法制・歴史・美術等のあらゆる一切の事柄を」知る学問である、とのべていることに典型的に看取される(98)。
村岡典嗣を狭義の意味の日本思想史学の確立者とするならば、日本思想史学は間違いなくこの芳賀によって提唱された日本文献学の申し子といえる。すなわち、村岡はまさにこの芳賀に示唆を受けて『本居宣長』を著し(明治四十四[1911]年)、文献学という概念で国学・宣長の思想の「意義」を捉える。ベエク(August
Boeckh)にならい、文献学を「人間精神から産出されたもの、即ち認識せられたものゝ認識」と定義づけた村岡は、宣長の思想を「概括的意義は文献学的思想」「古代を対象とし目的とせる客観的学問的意識の展開及びその変態」と規定づけるが(99)、それはやがて日本思想史学の方法自体に発展し、「フィロロギーとしての国学が(中略)史的文化学として完成された時、ここに日本思想史を見ることが出来る」と述べられることとなる(「日本思想史の研究法について」)(100)。村岡は、このように宣長学を規定づけた上で、次のように述べる。
「上代から中世を経て、近世に入つた変遷発達の形式上では両者は(日本と西欧の両者は−引用者)、互ひに相似てゐる。而して、前代文明が近世文明に入る間に、或過渡時代を有したこと、亦、同様である。殊に、その過渡時代に於いて、鬱勃としてゐた学問の発生が、外部の好事情の下に、益々その機運を増長して、近世の初期を経て、ある時期に至つて、新学問となつて出現した次第は、両者頗る相似てゐる。(中略)かのルネッサンス、及び文教上これに属すべき時代を、我が足利季世から、徳川幕府樹立後、数十年の間に擬し得べしとしたならば、ベエコン出で、デカルト出でゝ新学問が勃興した現象は、やがて之をわが元禄時代前後に於いて見るのである。而して、この時代に発生して、ベエコンや、デカルトの学問−そは、ルネッサンス以来の古代学即ち文献学の範囲を脱した点に於いて、新学問たる意義を有せる−に比すべきものは、我国に於いては、同じく在来の古典学のうちに発達した、特別の意味に於ける古学であつたのである」(『本居宣長』)(101)。
ここには、西洋哲学史の文脈において、換言するならば、ヨーロッパ世界を参照系として古学や国学を捉えようとする村岡の眼差しがある。そして、その眼差しこそが、宣長学を文献学と規定づけた当のものであった。村岡も日本の学問的研究は「混淆的性質に囚へられざるを得なかつた」とし、「仏理」「儒意」を付会した「附会的妄説」が中世までの学問界を覆っていたとのべる。それを脱して「真の学問を発生せしめる機運」が、村岡のいう古学であり国学であり、こうした「近世古学の大成者」として宣長が登場すると捉えられている。
こうして、国学=文献学とする「西洋の学問社会」からの視点が、奇しくも芳賀と村岡の両者において、自らの先駆としての宣長学を見いださしめ、かくて宣長に淵源するものとしての自らの学問の位置づけが行われていく。換言するならば、「ナショナリズムの預言者」として宣長が「発見」されることで、日本思想史学が学術的言説として成立するに至るのである。
だが、本稿で宣長を「ナショナリズムの預言者」の一人と目したのは、こうした学術的言説による、宣長の「発見」をふまえてはいるものの、だからといって、それを追認するためではない。宣長が仮構したもの、さらに宣長以降に展開されていく学術的言説に、われわれがいかに呪縛されているのか、換言するならば、未だ「宣長の時代」を生きているわれわれの位置を探るために、ここでは「ナショナリズムの預言者」とされた宣長が、一八世紀の思想空間のなにを切り裂いたのかを検討してみたのである(102)。
註
(1) アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(加藤節監訳)岩波書店、2000年。211頁。
(2) 同前第三章「産業社会」参照。
(3) ここでいう「宣長問題」とは、加藤周一がのべた如き、「実証性」と「狂信的国家主義」という宣長の「二面性」に着目する言説をさす(1988年3月22日付『朝日新聞』夕刊)。この言説は、村岡典嗣『本居宣長』(岩波書店、1928年、初刊は1911年)以来の、最近の加藤典洋『日本人の自画像』(岩波書店、2000年)に至るまでの、大方の知識人の宣長に向けられた眼差しであった。子安宣邦は、そのような近代知識人の宣長への眼差しが繰り返し反復されることが、実は「宣長問題」であるとのべ、そこに宣長とともにある近代の学術的言説の構造を鋭く暴きだしている(『「宣長問題」とは何か』ちくま学芸文庫、2000年所収、初出は1989年)。
(4) 『漢字三音考』の中で、宣長が「皇国」は「天照大御神ノ御生坐ル本国」であるが故に「人ノ声音言語ノ正シク美キ」「純粋正雅ノ音ノミ」であるとし、それに対して「外国ノ音」は「鳥獣万物ノ声ニ近キ者ニシテ、皆不正ノ音」であるとしているのは、あまりに有名なことがらであろう。『本居宣長全集』第五巻(筑摩書房、1965−93年)、381−384頁。以下、宣長の引用は全てこの全集によるので、『宣全集』五、381-384のように略記する。また、本稿全体にわたって旧漢字については、原則として新漢字に改め、句読点についても現代用法に改めてある。
(5) 『宣全集』九、33頁。
(6) 同前33頁。
(7) ゲルナー前掲書208頁。
(8) 『宣全集』九、49頁、『宣全集』八、311頁など。
(9) 戦前戦中の国体史観的著述をいちいち例示することはしないが、ここではさしあたり重松信弘『日本思想史通論』(理想社、1944年)が、近世思想史を「国体に目覚める」過程として描き、「近世の国民は儒教の真意を把握して自己のものとし、或はこれが限界を知悉して国体に帰一せしめる事の為に、その学的努力の過半を傾けた。国学はこの思想活動にやや後れて出発して、これと並行し対抗しつゝ自国固有の道の省察と主張とに熱意を傾けた」とのべていることを、一つの典型的な著述パターンとして掲げておく。
(10) 宣長と「当代文化」の関わりについては、日野龍夫『宣長と秋成』(筑摩書房、1984年)を参照。
(11) 『宣全集』一、229頁。
(12) ナショナリズムと「自然」については、バリバール(Etienne Balibar)「人種主義とナショナリズム」(須田文明・若森章孝訳)(バリバールほか著『人種/国民/階級』所収、大村書店、1995年)を参照。
(13) ゲルナー前掲書207頁。
(14) 荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988年)は、1630年代の日明国交回復の挫折を背景に、「武威」による幕藩制国家の確立などを根拠として、朝鮮・琉球・中国人・オランダ・アイヌの服属を内容とする「日本型華夷秩序」が形成されたと捉えている。
(15) 十七世紀における日本型華夷思想・日本中華主義の詳細については、拙著『思想史の十九世紀』(ぺりかん社、1999年)を参照されたい。
(16) 谷秦山は「我が本国を中国とし、我が国の政化のとゝのはぬくにを夷と心得べきなり」とする日本中華主義者であったが(『俗説贅弁』、後藤三郎『闇斎学統の国体思想』所収、金港堂書籍、1944年)、一方いうまでもなく「程朱の書を捨て候て一方ばかり左様仕るにては御座無候」とのべる闇斎門の朱子学者であった。なお、谷秦山については、西内雅『谷秦山の学』(冨山房、1945年)、『関田駒吉歴史論文集(上)(下)』(高知市民図書館、1979-81年)、小林准士「近世における知の配分構造」(『日本史研究』439号、1999年)などを参照。
(17) 溝口駒造「改題」(『国意考』改造社、1944年)、小笠原春夫『国儒論争の研究』(ぺりかん社、1988年)などを参照。
(18) 雨森芳洲については、上垣外憲一『雨森芳洲』(中央公論社、1989年)、竹内弘行・上田日出刀『木下順庵・雨森芳洲』(明徳出版社、1991年)、泉澄一『雨森芳洲の基礎的研究』(関西大学出版部、1997年)などを参照。なお、芳洲を日本型華夷思想論者と捉えることについては、閔徳基『前近代東アジアのなかの韓日関係』(早稲田大学出版部、1994年)のほかに、拙稿「雨森芳洲再考」(『立命館文学』551号、1997年)を参照されたい。
(19) 『関西大学東西学術研究所資料集刊一一−一 雨森芳洲全書一』(関西大学出版部、1979年)259-260頁。原漢文。
(20) 『関西大学東西学術研究所資料集刊一一−二 雨森芳洲全書二』(関西大学出版部、1980年)12-13頁。原漢文。
(21) 『日本随筆大成 第二期』一三巻(吉川弘文館、1994年)188頁。
(22) 同前218頁。
(23) 芳洲の三教一致論については、『橘窓茶話』巻上・中を参照のこと(前掲『日本随筆大成 第二期』七巻、353、376、378、396頁など)。
(24) 前掲『関西大学東西学術研究所資料集刊一一−二 雨森芳洲全書二』40-42頁。原漢文。
(25) 『新井白石全集』第四(国書刊行会、1906年)727頁。
(26) 同前『新井白石全集』第三、392頁。
(27) 『日本倫理彙編』五(育成会出版部、1902年)349−351頁。
(28) 跡部良顕(1659-1729)、伴部安崇(1667-1740)、若林強斎(1679-1732)など。
(29) 『大日本文庫神道篇 垂加神道』下(春陽堂書店、1937年)299-329頁。
(30) 荷田春満については、三宅清『荷田春満』(国民精神文化研究所、1940年)が道統論から離れた賀茂真淵との切断面に注目していて、大いに示唆を受けた。このほか、上田賢治『国学の研究』(大明堂、1981年)を参照。
(31) 『荷田全集』第六巻(吉川弘文館、1931年)10頁。
(32) 同前1頁。
(33) 『日本書紀神代巻箚記 別本』同前131頁。
(34) 同前86-87頁。
(35) 同前63頁。
(36) 前掲三宅清『荷田春満』第三篇第三章「神典解釈論」を参照。
(37) 『稿本賀茂真淵全集思想篇』下巻(弘文堂書房、1942年)1341頁。なお、賀茂真淵の思想については、前掲小笠原春夫『国儒論争の研究』のほかに、井上豊『賀茂真淵の学問』(八木書店、1943年)、三枝康高『賀茂真淵』(吉川弘文館、1962年)、平野豊雄「国学思想論」(『講座日本近世史9近世思想論』有斐閣、1981年)、真淵生誕三百年記念論文集刊行会編『賀茂真淵とその門流』(続群書類従完成会、1999年)などを参照。
(38) 『賀茂真淵全集』十九巻(続群書類従刊行会、1980年)9-10頁。なお、ここに所収されている『国意考』は、文化三(1806)年刊の流布版本であり、『稿本賀茂真淵全集思想篇』には、このほかの写本が、『日本思想体系39近世神道論/前期国学』には寛政元(1789)年刊本が、それぞれ収録されている。適宜参照したが、引用はすべてこの流布版本によった。
(39) 前掲『大日本文庫神道篇 垂加神道』下299-329頁。
(40) 前掲『賀茂真淵全集』十九巻、57頁。
(41) 同前184-185頁。
(42) 同前200-204頁。
(43) 周知のように、会沢安(1781-1863)にあっては、「天ツ理ト云フハ、後儒ノ主張スル所」であって、「道」に「理」は不要とされている(『読級長戸風』)。この「理」の不在の上で「国に正気と偏気との別ありて、正気の国は五倫明に、偏気の国は明ならず。神州は太陽の出る方に向ひ、正気の発する所なれば、君臣父子の大倫明なること、万国に比類なし」(『読直毘霊』)とされるならば、差別相(「気」)を普遍相(「理」)へ収斂する回路は断ち切られ、地理的先験的に固定された「自然」から「皇国」の優位性が語られていくこととなる。『日本儒林叢書』第四冊論弁部(東洋図書刊行会、1929年)7頁(頁は著作別)、『日本思想闘争史料』七巻(名著刊行会、1969年復刻)116頁。
(44) 前掲『賀茂真淵全集』一九巻11-12、18頁。
(45) 『宣全集』一七、21頁。原文は漢文体。括弧は後に宣長が付け加えた箇所を示している。
(46) 東より子『宣長神学の構造』(ぺりかん社、1999年)28頁。
(47) 『宣全集』二、45頁。
(48) 『本居宣長随筆[第二巻]』『宣全集』一三、119-120頁など。多田義俊については、浅野三平『近世国学論攷』(翰林書房、1999年)を参照。また、宣長の思想形成については、前掲東より子『宣長神学の構造』のほか、相良亨『本居宣長』(東京大学出版会、1978年)、安蘇谷正彦『神道思想の形成』(ぺりかん社、1985年)などを参照、
(49) 『宣全集』一三、600-603頁。
(50) 同前598頁。
(51) 『宣全集』二、175頁。
(52) 『石上私淑言』巻三あたりから、宣長の思想が微妙に変化することについては、前掲東より子『宣長神学の構造』のほかに、前掲相良亨『本居宣長』を参照。
(53) 前掲『賀茂真淵全集』一九巻、7頁。
(54) 前掲東より子『宣長神学の構造』46、54頁。
(55) 前掲『賀茂真淵全集』一九巻、14頁。
(56) 前掲『賀茂真淵全集』一九巻、124頁。流布本。
(57) この点については、子安宣邦『本居宣長』(岩波現代文庫、2001年所収、初刊は1992年)を参照のこと。
(58) 『宣全集』二、154頁。
(59) 同前169、177、186頁。
(60) 酒井直樹『死産される日本語・日本人』(新曜社、1996年)には、この点に関する鋭い分析があり、「十八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された。しかも、日本語と日本民族の存在は、古代には存在しても現在には存在しないもの、現在においてはすでに喪失されたもの、として仮設されなければならなかった。つまり、日本語の誕生は、日本語の死産としてのみ可能であったのである」(187頁)とされている。
(61) 『宣全集』八、311-312頁。
(62) 同前406-407頁。
(63) 前掲子安宣邦『本居宣長』40、51-53頁。
(64) 『宣全集』一、441頁。
(65) 同前346頁。『宣全集』一三、458-461頁。
(66) 『宣全集』十四、145-171頁。
(67) 『宣全集』八、241頁。
(68) 『宣全集』一、212頁。
(69) さしあたり、西川順土「三大考を中心とする宇宙観の問題」(『肇国文化論文集』1940年)、同「三大考の成立について」(『皇学館大学紀要』一〇輯、1972年)、中西正幸「三大考以後」(『国学院雑誌』七四ー一一号、1973年)、同「服部中庸の生涯」(『神道宗教』七五〜七九号、1975年)、及び三木正太郎『平田篤胤の研究』(神道史学会、1969年)、表智之「語られる<神代>と<現>−三大考における<語り>の構造転換」(大阪大学文学部『日本学報』第十二号、1993年)などを参照。服部中庸『三大考』が宣長の思想と整合的なものであるかどうかについては、古くから議論があるが、村岡典嗣『宣長と篤胤』(創文社、1957年)、同『神道史』(創文社、1956年)に見られるように、『三大考』と宣長を非連続的に捉える見解が優位であった。子安宣邦は「平田篤胤の世界」(『日本の名著・平田篤胤』中央公論社、1972年)では、慎重な見解を示していたが、前掲『本居宣長』では、「『古事記伝』という『古事記』の注釈的作業は、こうした『天地図』の作成をともなう作業であったのである。つまり『古事記伝』の注釈的言説とは、まさしく三層(天地泉−引用者)の世界像を提示するような、しかも神々の物語の時間的な展開にしたがって三層の世界の生成過程を構想するような言説であったのである。それは『古事記』神話にしたがってする新たな世界解釈の言説であったということである。服部中庸はこの『古事記伝』の注釈的言説のもつ方向を宇宙生成論として明示化し、『三大考』として実現させるのである」(130-131頁)とのべ、宣長の言説自体の「方向性」という視点を打ち出し、そこに国学の「世界解釈の言説としての始まり」を見いだしている。宣長学と幕末国学との関連を考える上でも傾聴すべき見解である。
(70) 『宣全集』一〇、298頁。
(71) 『宣全集』二〇、433頁。
(72) 『宣全集』一〇、316頁。
(73) 以下の「『海禁環境』の変容」については、前掲荒野泰典『近世日本と東アジア』のほかに、大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』(同朋社出版、1984年)、ロナルド・トビ『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990年)、茂木敏夫「中華世界の『近代』的変容」(溝口雄三他編『アジアから考える(2)地域システム』(東京大学出版会、1993年)、深谷克己「一八世紀後半の日本」(『岩波講座日本通史』十四巻、岩波書店、1995年)、藤田覚「一九世紀前半の日本」(同前十五巻)、曽根勇二・木村直也編『新しい近世史』2(新人物往来社、1996年)、岩下哲典・真栄平房昭編『近世日本の対外情報』(岩田書院、1997年)、浜下武志『朝貢システムと近代アジア』(岩波書店、1997年)、紙谷敦之『大君外交と東アジア』(吉川弘文館、1997年)、岸本美緒「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」(『岩波講座世界歴史』一三巻、岩波書店、1998年)などを参照した。
(74) 小山幸伸「近世中期の貿易政策と国産化」(前掲『新しい近世史』2所収)。
(75) 前掲深谷克己「一八世紀後半の日本」。
(76) 木村直也「近世中・後期の国家と対外関係」(前掲『新しい近世史』2所収)。
(77) 宣長は、その『日記』に詳細に明和度の朝鮮通信使について記載している。『宣全集』十六、217、220頁。とくに、いわゆる「崔天宗殺害」事件については、詳細に経過を記録しているが(224頁)、さまざまな朝鮮観が垣間見れるといわれるこの事件について(池内敏『「唐人殺し」の世界』臨川書店、1999年)、宣長が何を感じたのかは、残念ながら窺うことはできない。なお、宣長の朝鮮観をめぐっては、子安宣邦「<朝鮮問題>と一国的始源の語り」(『江戸の思想』4号、1996年)を参照。
(78) 石崎又造『近世日本における支那俗語文学史』(清水弘文堂書店、1967年、1940年初刊)、中村幸彦「唐話の流行と白話文学書の輸入」(『中村幸彦著述集』七巻、中央公論社、1984年)、中野三敏「都市文化の爛熟」(前掲『岩波講座日本通史』一四巻所収)。
(79) 「徂徠ノ説享保ノ中年以後ハ、信ニ一世ニ風靡スト云ヘシ、(中略)世ノ人其説ヲ喜ンテ習フコト信ニ狂スルカ如シト謂ヘシ、明ノ李王七子謂先秦以上ノ古文ヲ学フヘシ、是レ真ノ古文辞ナリトテ、古語ヲ綴集シテ文ヲ作リ、(中略)当時明人詩文ニ於テハ、七子ニモ非ス、唐宋元ニモ非スシテ、明一代ノ風アリ」(『学問源流』『日本文庫』第六編、博文館、1891年、24頁)。
(80) 『宣全集』一、441頁。
(81) 前掲大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』参照。
(82) 『宣全集』一、253-254頁。
(83) 華夷思想との関連でとりわけ注目されるのは、西洋地理書の普及である。この点については、鳥居祐美子「近世日本のアジア認識」(溝口雄三他編『アジアから考える(1)交錯するアジア』(東京大学出版会、1993年)が示唆深い。このほか、清水教好「華夷思想と一九世紀」(『江戸の思想』7号、1997年)、岸野俊彦『幕藩制社会における国学』(校倉書房、1998年)を参照。
(84) 荒野泰典「近世の対外観」(『岩波講座日本通史』一三巻、岩波書店、1994年)。
(85) 『日本思想大系64洋学(上)』(岩波書店、1976年)230頁。
(86) 同前339頁。
(87) 同前229-230頁。
(88) 前掲藤田覚「一九世紀前半の日本」。
(89) 藤田覚『松平定信』(中央公論社、1993年)。
(90) 『宇下人言・修行録』(岩波書店、1942年)144頁。
(91) 『新撰北海道史 第五巻・史料一』(清文堂、1991年、初刊は1936年)548-551頁。
(92) テッサ・モーリス=鈴木(Tessa Morris-Suzuki)『辺境から眺める』(大川正彦訳)みすず書房、2000年。
(93) 『新修平田篤胤全集』補遺五巻(名著出版、1980年)。この書は「丙寅の年、蝦夷の嶋へ、於魯西亜人の、ゆくりなく来りて、荒びたる故よし」に関わる記録を、篤胤が蒐集したものである。冒頭で「皇大御国の大御稜を輝して、怖畏れしめ、御蕃と白して、常しへに貢物奉り、仕へ奉るべく物すべき事とぞ思はるゝ」という篤胤の基本的立場がのべられてはいるものの、具体的な思想が窺える史料ではない。しかしながら、詳細を極めた記録群の蒐集からは、篤胤の危機感が十分に伝わってくる。のちの篤胤の思想を考える上では、看過しえない史料といえる。
(94) 武田秀章「近代天皇祭祀形成過程の一考察」(井上順孝他編『日本型政教関係の誕生』第一書房、1987年)、阪本是丸『明治維新と国学者』(大明堂、1993年)、羽賀祥二『明治維新と宗教』(筑摩書房、1994年)など。
(95) この点については、拙稿「一国思想史学の成立」(西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房、1999年)を参照されたい。
(96) 津田の中国観については、子安宣邦『「事件」としての徂徠学』(筑摩書房、2000年、初刊は青土社、1990年)を参照。
(97) 『国文学史十講』(『芳賀矢一選集』第二巻、國學院大学、1983年、初刊は1899年)188頁以下。
(98) 「国学とは何ぞや」(同前第一巻、1982年、講演は1904年)155頁以下。
(99) 前掲『本居宣長』379-380頁。
(100) 『続日本思想史研究』(岩波書店、1939年)35頁
(101) 前掲『本居宣長』382-383頁。
(102) ホブスボーム(Eric Hobsbawm)は、「今日、われわれは人種=言語による民族の定義にあまりに慣れ親しんだため、この定義が本来、一九世紀末に創案されたものだということを忘れている」とのべている(『帝国の時代T』野口建彦他訳、みすず書房、1993年、206頁)。一八世紀に、宣長が切り裂いたものは、十九世紀の学術的言説の成立をまって、「慣れ親しんだもの」となっていくこととなる。ちなみに、華夷思想自体は、十九世紀に入ってからも、佐藤一斎(1772-1859)、勝海舟(1823-1899)の言説に見られるように、自他認識として完全に払拭されたわけではなかった。最終的には、日清戦争後にそれはほぼ日本では解体されたとわたくしは考えているが、それはまさに学術的言説が確立していく過程と重なっている。そして、脱亜論に対抗しての屈折した自他認識としての興亜論=アジア主義がこれに代わって登場することとなる。なお、中国(清)における儒学的自他認識の帰趨を論じたものとしては、佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』(東京大学出版会、1996年)を参照。