『科学主義工業』解題 第2章

2.「科学主義工業」の概念と総合雑誌への転換

1)「科学主義工業」とは

雑誌のタイトルとなった「科学主義工業」という言葉は、大河内正敏の造語である。大河内にとって「科学主義工業」とは、資本主義工業の対立概念であり、「生産の手段・方法に科学の枠をとり入れての良品廉価生産」によって高賃金と低コストの両立を実現しようという自らの経営理念を表現するものでもあった(長幸男編『現代日本思想体系11・実学の思想』筑摩書房、1964年、 273ページを参照)。

長幸男氏は、同書の「解説・実学の思想」に「六 科学的生産力の発展ー大河内正敏」という節を設け、大河内の経営思想を、第一次大戦後の日本経済史全体の中に位置づけて考察されている。そこでは、「大河内の科学主義王業は近代生産力的な産業資本主義への日本型資本主義の改作であり、彼の農村工業の構想と相まって(中略)、生産力における日本資本主義の歴史的展開の基本線に沿ったものであった」と評価されている。

雑誌『科学主義工業』は、この経営理念を日本社会全体にあまねく普及することをめざしていた。第3号の「編集後記」には、「科学主義工業」の理念が次のように高らかと明言されている。

科学主義工業とは大河内博士の所論にも看取せられる通り、資本を中心とせる在来の王業態様の対蹠的位置に立つ唱導であって、従来の工業の常套手段たる労働強化・生産制限等の醜態を暴露することなしに、科学を墓調として「高賃金低コスト」の生産をなす工業である。今や資本と熟練とに頼る従来の資本主義工業は行詰った。

更生の道は唯一つ、180度の転回をして、この科学主義工業の旗幟の下に参ずるのみである。単に従来の資本主義工業ばかりではない。狭隘なる大地の無限の資源を獲得するものはー天然資源に拮抗し得るものは、科学的智能を除いては何もない。新興産業と称せられるものも科学主義工業にして初めて可能になり得るのである。

なお、大河内の経営恩想には、「科学主義工業」論とともに農村工業論も内包されていたことにも注意を払う必要がある。太田一郎氏は、後者の面に注目して、大河内の思想の柳田国男や河上肇らの思考との類似性と大河内の独自性とを描き出している(太田一郎、「地方産業振興問題の展開ー大河内正敏の農村工業論を中心にしてー」『帝京経済学研究』第21巻第1・2号含併号、1987年)。

2)総合雑誌への転換

『科学主義工業』は、第3号から表紙に「工業経済総合雑誌」と銘打って、その編集方針を大きく転換させる。すなわち、理研産業団の社内雑誌としての記事は『理研コンツェルン月報』という新雑誌に引き継がれ、『科学主義工業』の方は、文字通り「科学主義工業」の理念を提唱する総合雑誌へとその性格を変えたのである。発行所も株式会社科学主義工業社に移されている。第3号の「編集後記」では「本誌は(中略)経済人に必要な科学知識を供給し、技術者に緊密な経済知識を提供して、其処に科学と工業の渾然たる境涯を作り出そうとするのである」と、新しい編集方針が説明されている。

新装なった『科学主義工業』においては、ほぼ毎号、大河内正敏が論説を寄稿して、彼の経営理念が唱導されたが、同時に、広く外部の研究者や評論家からの論考が集められた。第3号には、評論家の大宅壮一、経済評論家の高橋亀吉、東洋経済新報社の三宅晴輝といった、著名な知識人、文化人、ジャーナリストの文章が掲載されている。以後、思想的傾向の面でも、学問的分野の面でも、きわめて幅広く執筆者が選ばれており、それがこの雑誌の大きな特徴をなしている。


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