ここで紹介している文章等の無断利用・引用は、固くお断りいたします。
ドイツのビザンツ研究者であるH.-G.Beckは、ビザンツ帝国の社会の特色を説明するにあたって社会的流動性の高さを重要なファクターとして考え、「従者団(Gefolgschaft)」という概念を導入して説明を行った。
それに対して本稿では、はじめにベックがその例としてあげた9世紀中盤の皇帝、ミカエル3世(在位842-867年)の「従者団」について分析し、「従者団」は実際には社会的上昇の手段としては利用されてはおらず、その成員はミカエル3世とともに政治の実務を行っていた高官・高位保持者たちであることを明らかにした。またミカエル3世を暗殺して帝位についたバシレイオス1世(在位867-886年)は、ベックによるとこの時代の急速な社会的上昇を遂げた人物の例として議論される。だが実際には彼の地位上昇は「従者団」を通じて達成されたものではない。さらにバシレイオス1世の「従者団」も、社会的上昇の手段としては機能していないのである。
ミカエル3世の時代には、中央行政機構の中枢にいた高官・高位保持者たちが大きな政治的発言力を有していた。それゆえ本稿ではさらに、ミカエル3世はこのような状況下でいかにして、皇帝としての政治的発言力を保持していたのかに関しても考察を行った。ミカエル3世の「従者団」は、社会的上昇の手段としての意味はなかった。だが彼の「従者団」は、高官・高位保持者たちに対して発言力を獲得・保持するためのミカエル3世の対策の一環として、機能していたのである。
ニケフォロス1世(在位802-811年)のおこなったスクラヴィニアへの住民の強制移住政策は、同時代の年代記作者テオファネスによって、いわゆる「10の悪政」の1つとしてあげられている。スクラヴィニアとは、当時ビザンツ帝国の実効支配領域から離れてスラヴ人が生活していたバルカン半島の大半の地域を指す。本稿ではこのニケフォロス1世の強制移住政策について、当時の帝国やバルカン半島の状況を念頭に置きつつ検討を加えていく。
住民の移住政策はニケフォロス1世時代以前にも繰り返して行われていた。だがニケフォロス1世の住民移住政策はそれらとは異なり、最近帝国領に再編入された未開拓の土地〜当時の人々にとっては何ら帝国外と変わらない状況の土地〜へ、帝国内部の人々をいわば「植民」させた政策であった。
また移住の目的としては、従来はブルガリアとの関係を念頭に置いた解釈がなされてきた。だがそれだけでは十分な説明は不可能である。当時中部地中海・アドリア海方面ではムスリムやフランク王国の勢力が活動を活発化させていた。特に北アフリカのアグラブ朝の艦隊はギリシアにまで進出してくるようになっていた。ニケフォロス1世はこれに対応して中部地中海方面における海軍力の強化にのり出している。住民の強制移住政策も、この政策の一環として機能していたのである。
8世紀末〜9世紀初頭にかけて、ビザンツ帝国の政情は大きく混乱していた。その背景には、相次ぐ政権交代などによる皇帝権力の弱体化と、それと対照をなす高官・高位保持者たちの政治的影響力の拡大、さらには8世紀には安定していた地方と中央の関係の動揺があった。このような混乱状態に終止符を打ち、帝国に再び平穏をもたらした皇帝が、本稿で集中的に分析を行ったテオフィロス(在位829-842年)である。
本稿の検討課題は以下の2点である。第一に、テオフィロスが即位するまでの約半世紀の情勢にも注意を払いつつ、テオフィロスがいかにして高官・高位保持者たちの強大な政治的影響力を掣肘していったのか検討する。また第2点目としては、中央に対して反抗を繰り返していた地方に対して、テオフィロスはどのような関係を構築しようとしていたのか、という点である。
テオフィロスは政治の遂行に当たって、高官たちを尊重する姿勢を示した。また水陸の軍事力を掌握して高官たちの行動を抑え込んだ。その一方で中央行政機構の中にも自らと親密な関係を持った人々の集団を構築していった。それに加えてテオフィロスは血縁関係をも積極的に構築した結果、テオフィロスは高官や高位保持者たちを皇帝の強力な支持基盤へと作り替えることに成功したのである。
7世紀中盤のビザンツ帝国皇帝コンスタンス2世(在位641-668年)は、首都コンスタンティノープルから遠く離れたシチリア島のシュラクサに宮廷を構え、その地で暗殺されて没した。このコンスタンス2世のシチリア進出に関する研究は少ない。ゆえに本稿では、コンスタンス2世がシチリア島に移動することを決めたのはいつか、そしてコンスタンス2世がシチリア島で何を行い、行おうとしていたのかについて、検討を加えていく。
コンスタンス2世の移動の目的としては、しばしばイタリア半島での勢力拡大があげられる。だが彼の行動を分析した結果、彼の移動の目的地は最初からシチリア島にあったのであり、イタリア半島における勢力拡大はほとんど考慮されていなかったことが明らかとなる。
またシチリア島への移動の目的としては、経済的理由や政治的理由も考えられるが、最大の目的は対アラブ戦争である。この時期アラブはエジプトから西進し、カルタゴに迫りつつあった。コンスタンス2世はシチリア島を拠点とする艦隊を建設して、後方からカルタゴや中部地中海への関与を強化しようと考えていた。またこうした政策を通じて、ビザンツ帝国におけるシチリア島の重要性も飛躍的に高まっていったのである。
8世紀のビザンツ皇帝レオン3世(在位717-741年)は、イコノクラスム(聖像画破壊政策)を推進した皇帝として有名である。そしてまた、7世紀前半以来のアラブの攻撃を食い止めることに成功した皇帝としても知られている。皇帝になる前にテマ・アナトリコンのストラテーゴス(長官)だったこともあって、レオン3世は軍人のイメージが非常に強い。
だが、レオン3世の経歴を詳しく検討すると、軍人としてのキャリアは非常に少ないことがわかる。確かに彼はアラブ軍のコンスタンティノープル包囲の時(717-718年)に軍の指揮を行っている。だがこの時、彼は陸上兵力ではなく艦隊の陣頭指揮を行っているのである。その他にも、レオン3世は艦隊との関係が深い。
それゆえ本論文では、レオン3世と艦隊との関係について分析を行う。
ビザンツ帝国の艦隊は、地中海にも進出してきたアラブに対抗するために、7世紀中盤に強化された。7世紀には、艦隊はシチリア島の艦隊と、地中海の東部を管轄するカラビシアノイに分かれていた。
レオン3世の時代、カラビシアノイは分割される。この理由として、カラビシアノイがレオン3世が即位するまでの時期に反乱などを繰り返して起こしていた点があげられる。だが同じく反乱を起こしていたテマ・オプシキオンはレオン3世時代には分割されていない。なぜカラビシアノイだけが分割されたのだろうか?
この理由は、アラブとの戦争の状況から説明できる。レオン3世の時代、アラブの陸上兵力は繰り返して小アジアに攻撃を行っていた。このため、オプシキオンの分割は不可能だった。それに対して地中海ではアラブ艦隊の活動は停滞しており、レオン3世時代にカラビシアノイの分割が可能となったのである。
一方シチリア島のビザンツ艦隊は、7世紀末にイフリーキーヤ(北アフリカ)を制圧したアラブの艦隊と戦っていた。イフリーキーヤのアラブ艦隊はレオン3世時代に激しくシチリア島やサルディニア島を攻撃した。だが攻撃は成功せず、ビザンツ艦隊の反撃を受ける。これは、特に730年代にシチリア艦隊が強化されたためである。そしてレオン3世の治世末までには中部地中海域でもでもビザンツ艦隊がアラブ艦隊を圧倒していく。
このように、レオン3世の時代はビザンツ艦隊がアラブ艦隊に勝利を収めていく時代であった。レオン3世も艦隊に大きな関心を寄せていた。艦隊に関心を持つのは7世紀のビザンツ皇帝の主要な政策であり、レオン3世はこうした政策を受け継いだ最後の皇帝だった。すなわちレオン3世は最後の「海の軍人皇帝」と呼ばれるにふさわしい人物なのである。
ビザンツ帝国の都市では7世紀に「『ポリス』から『カストロン』への変化」が進んだ、という見解が、1950年代以降大きな影響力を持っている。この見解によると、ペルシアとアラブの侵入によって、ギリシア・ローマ的な古代都市(ポリス)が大きなダメージを受け、多くの都市が破壊・放棄された。そしてわずかに存続した都市も規模が縮小するとともに防備を強化した。その結果、都市は防備を備えた小村落(カストロン)に転化した。
だがこの見解は修正をおこなう必要がある。近年の発掘成果などの情報によって、「『ポリス』から『カストロン』への変化」はより長い過程をかけて進行したものであり、既に6世紀から始まっていたことが明らかになってきたからである。確かに、この過程は7世紀も続いていた。だが7世紀はこの過程の決定的な局面をなしていたわけではない。変化に関係するすべての要素は既に6世紀の段階で看取でき、7世紀は変化の最終段階を示しているに過ぎない。「『ポリス』から『カストロン』への変化」という見解の最大の問題点は、すべての変化が7世紀に起きたと誤解したことにある。
7世紀末から8世紀初頭にかけての約20年間(695-717年)、ビザンツ帝国の国内は大きく混乱した。すなわち反乱や陰謀が頻発し、この時期のすべての皇帝が短期間でその地位を失っているのである。このような「混乱の時代」は、レオン3世(在位717-741年)が即位するまで続いた。本稿ではこのような「混乱の時代」とレオン3世の治世初頭における時期の皇帝選出のダイナミクスに関して分析を行っていく。
今日まで、この時期の皇帝選出に際しては、テマの影響力が重視されることが多かった。特にコンスタンティノープル近郊に駐屯し、この時期には皇帝直属軍としての意味合いをも持っていたテマ・オプシキオンに対しては大きな関心が払われてきた。
確かに、この時期の帝国の政情を分析するにあたって、テマの動向を無視することはできない。しかしながら我々は、地方に拠点を置くテマのみならず、コンスタンティノープルの中央行政機構の高官たちにも注目しなければならない。たとえば、プロアセクレティスだったアルテミオスが皇帝となり、アナスタシオス2世(在位713-715年)と改名した際には、彼は中央の高官たちやコンスタンティノープルのデーモス(コンスタンティノープルの高官たちの強い影響の下にあった)の支持を獲得している。その一方でテマはこのクーデターに際して重要な役割は果たしていない。アナスタシオス2世の治世を通じてテマ、特にオプシキオンとの関係は緊張が続いていた。すぐにオプシキオンは715年に反乱を起こしてテオドシオス3世(在位715-717年)を擁立する。だがテオドシオス3世は中央の高官たちや、オプシキオン以外のいくつかのテマの支持を獲得することができなかった。彼が無能だったことも相まって、彼はすぐに帝位を追われるのである。
このように、「混乱の時代」のすべての皇帝たちはテマか中央の高官たちのいずれか、あるいはその双方の支持を獲得することができていなかった。それに対してレオン3世は双方の支持の獲得に成功している。彼は有能な軍人で、即位前はテマ・アナトリコンのストラテーゴスであった。それゆえテマは彼の即位を承認した。それに加えて、レオン3世は中央の高官たちの支持をも獲得していた。なぜ高官たちはレオン3世の即位を承認したのであろうか?その理由は彼の経歴から明らかとなる。彼はアナスタシオス2世によってストラテーゴスに任命され、アナスタシオス2世が失脚した直後にテオドシオス3世に対して反乱を起こしている。おそらくレオンはアナスタシオス2世(彼もまた、テマ内部での支持者の拡大を必要としていた)と親密な関係を持っていた。そしてそれゆえに、高官たちは717年にレオンを支持したのである。
本稿の結論は以下のようになる。この時期帝位を維持するためには、地方に根拠を置くテマ(軍)と、中央行政機構の双方の支持を獲得する必要性があった。レオン3世はこれに成功した。そしてこれが、彼が20年以上にわたる帝位の維持に成功した要因なのである。
886年8月、ビザンツ帝国の皇帝バシレイオス1世(在位867-886年)がこの世を去り、息子のレオン6世(在位886-912年)が後を継いだ。この886年の帝位継承は、決して平穏裏に行われたわけではないし、さらに言うならバシレイオス1世の晩年自体、決して平穏なものではなかった。晩年のバシレイオス1世を恐らく最も悩ませていたのは後継者問題だった。バシレイオス1世は883年、当時共同皇帝だったレオン6世を後継者の地位から排除していた。レオンは3年あまりにわたって宮殿内の一室に幽閉されていたが、886年7月に赦免され、旧来の地位に復している。直後にバシレイオス1世が急死したため、レオン6世がバシレイオス1世の統治権を継承した。
他方でこの886年の春には、バシレイオス1世に対する大規模な陰謀計画が露見したほか、バシレイオス1世が没した直後にはコンスタンティノープル総主教のフォティオス(在位858-867, 877-886年)が罷免・追放されている。こうしたことから、バシレイオス1世の治世末期からレオン6世の実権掌握に至るまでの期間に、何らかの政治的変動が起きていたことが容易に想像できる。ゆえに本稿では、バシレイオス1世の治世(特に後半)に焦点を当てて、何ゆえかかる政情不安がこの時期に現出したのか明らかにしていく。
これらの問題を分析する際に、看過できないいくつかの要素が存在する。その第一は、当時エウカイタ府主教を務めていたテオドロス=サンタバレノスなる人物の行動である。彼はフォティオスと密接な関係を持っており、また晩年のバシレイオス1世から非常に信任されていた人物だった。バシレイオス1世によるレオン6世の幽閉に関して報告を行っている年代記・聖人伝等の各史料はほぼ一致して、この事件へのテオドロス=サンタバレノスの関与を伝えている。そしてバシレイオス1世が没すると、テオドロス=サンタバレノスはフォティオスとともに失脚・追放される。本稿での考察にあたっては、テオドロス=サンタバレノスとレオン6世の対立を無視することはできない。
第二に、総主教のフォティオスのおかれていた立場を考察する必要がある。フォティオスはミカエル3世(在位842-867年)や、ミカエル3世時代に大きな力を持っていたカイサル(副帝)のバルダスによって総主教に抜擢された人物である。バシレイオス1世はこの2人を相次いで暗殺することによって皇帝位についた人物であり、ミカエル3世を暗殺するとほどなく、バシレイオス1世はフォティオスを罷免・追放している。ゆえにバシレイオス1世がなにゆえフォティオスを復権させたのか、考慮しなければならない。また先述したようにフォティオスはテオドロス=サンタバレノスと密接な関係を持っており、フォティオス自身もまたレオン6世によって総主教の座を追われ、追放されている。ここからフォティオスもまた、バシレイオス1世とレオン6世の対立に関与していたことが示唆される。従ってフォティオスがバシレイオス1世の治世末期にどのような行動をとっていたのかについての考察も不可欠である。
第三に、バシレイオス1世とレオン6世の関係についての分析が必要である。この二人の関係が(少なくともバシレイオス1世の治世末期には)緊張していたことは明らかである。かかる緊張関係が何ゆえ生まれたのかについて、検討を加えていかなければならない。
そして最後に、この時期に皇帝や総主教らの周囲にいた人々の動向に関しても、注意を払う必要性がある。旧稿で分析したように、ミカエル3世を暗殺して実権を握ったバシレイオス1世は、少なくともその治世初期には、ミカエル3世時代に政府高官などとして重用されていた人々との関係は微妙であった。バシレイオス1世時代、特に本稿で主に検討をおこなう治世末期に、高官たちと皇帝との関係がどのように展開していったのか、検討していく作業もまた、必要となろう。
不安定な状況下で幕を開けたバシレイオス1世の治世。バシレイオス1世はどのような方策を用い、あるいはどのような行動をとることによって皇帝としての地位や権威を固め、帝国の統治を行っていこうとしていたのか。本稿での考察はかかる問題に対して答えるものである。そしてそれはまた、11世紀にまで及ぶ帝国の繁栄を支えていた統治システムがどのようなものであったのかを知るための一助ともなるだろう。
本稿では、7世紀に資料に現れるようになるテマが、7世紀以降ビザンツ帝国の中核領域となった小アジアの地域社会、そしてビザンツ帝国自体にどのような影響を与えたのか考察することを目的としている。その前提条件として、現在までのテマに関する研究史を概観すると、かつてG・オストロゴルスキー(Ostrogorsky)が主張したような、7世紀前半のテマ設置説はもはや成立しない。テマは6世紀以前からの各方面軍が小アジアに移動してきたものであり、7世紀には帝国の軍事・行政システムに大きな変化は起きていない。
7世紀、アラブ軍の恒常的な攻撃によって小アジアは大きな被害を受け、住民構成も大きく変化した。しかしながら特に小アジア東部・中央部では新たな大土地所有が成長した。彼らは中央政府と密接に結びつく一方で、地域社会の維持や小アジアの防衛に大きな役割を果たしていた。それゆえ7世紀のビザンツ帝国では、コンスタンティノープル・中央政府の求心力が再生したとも言えよう。
7世紀前半まで比較的安定した状況にあった小アジアは、7世紀中盤以降アラブ軍の侵入が激化した結果、各地が荒廃した。こうした状況に対応するため、コンスタンス2世(Constans II、在位641-668/9年)の治世後半以降、各地で「壁」=防壁や城塞の建設・強化・改修が進められた。だが、「壁」が整備されたからといって、それらが常に効果的に機能していたわけではなかった。「壁」を備えた都市でも、アラブ軍にほとんど抵抗せず、制圧されたり降伏したりすることがあった。
このような状況が変化していくのは、660年代以降である。その背景には、654年のアラブ軍によるコンスタンティノープル攻撃の「失敗」があった。アラブ軍が無敵ではないことが認識され、それが抵抗の意思へと結びついたのである。
コンスタンス2世の治世後半には、さまざまな新たな施策が実行された。つまり、「壁」が機能するための基礎が作られた時期であった。「壁」を支える国家システムの整備や、アラブに対する抵抗の意思などが生み出されたことによって、「壁」はようやくその力を発揮できたのである。
630年代以降、アラブがビザンツ帝国の領域への侵攻を開始し、シリア・パレスティナ地域やエジプトなどが短期間にビザンツ帝国の手から奪われた。当初ビザンツ帝国の人びとは、アラビア半島からの侵攻者がどのような人びとであるのか、十分に理解できていなかった。だがアラブ国家が安定し、彼らとのさまざまな形の交渉が進むにつれて、アラブがどのような人びとであるのか、ビザンツ帝国の人びとも徐々に理解していく。そしてアラブとの対峙が続く中で、自らを「神の加護を得ている皇帝が支配するキリスト教徒の共同体・地域=ローマ帝国」とみなすアイデンティティも再確認されていった。
一方アラブもビザンツ帝国を滅ぼすことができなかったため、「ローマ帝国の後継者」となることができなかった。そのためビザンツ帝国との併存が確定的となった7世紀末以降、独自のイスラーム文明を形成していく道を選ぶことになる。
536年にユスティニアヌス1世によってユスティニアヌス軍財務官管区(Quaestura Justinianus Exercitus)が新設された。ユスティニアヌス軍財務官管区はオリエンス道の一部を分割して設置されており、オリエンス道と同様に複数の属州を統括する行政管区としての意味を持っていた。そしてそれとともに、同時期に新設された“Justinianus”を名称に含む他の官職と同じく、ユスティニアヌス軍財務官管区の長官であるユスティニアヌス軍財務官(Quaestor Justinianus Exercitus)は、管轄区域内に展開する軍に対しての指揮権をも持っていた。
6世紀後半以降もユスティニアヌス軍財務官管区は存続していく。だが6世紀後半にバルカン半島でアヴァール人などの活動が活発になると、ユスティニアヌス軍財務官管区内に展開する軍がトラキア方面軍長官などの指揮下に入って軍事行動を取ることも増えていった。そして620年頃にビザンツ帝国がドナウ国境を放棄すると、それまで主にドナウ川で防衛の任にあった艦隊も撤退して、コンスタンティノープル近郊などでペルシアやスラヴ人の艦隊と対峙した。そして7世紀中盤以降、アラブが地中海に進出してきたのに対抗するため、旧来からある艦隊を母体としつつ、ビザンツ帝国も艦隊の拡充を進めていった。
541年から約200年の間、ペスト菌による疫病の流行が断続的に続いた。いわゆる「ユスティニアヌスのペスト(Plague of Justinian)」である。「ユスティニアヌスのペスト」に関しては、その流行が社会にどの程度影響を与えたのかについて、特に1989年のデュリアの論考以来議論が続いている。デュリアの見解に対してはサリスが「修正主義者」と批判をおこなっている。それに対して近年、モーデカイとアイゼンバーグがサリスらを「最大化主義者」と批判するなど、議論は現在でも決着がついていない。本稿では「ユスティニアヌスのペスト」に関するデュリア以降の議論を概観し、今後の議論をどのように進めていくべきか、若干の考察を加える。
7世紀中盤のビザンツ史に関しては、従来からの見解やクロノロジーにさまざまな修正が加えられてきている。アラブによるコンスタンティノープル攻撃も、近年の新たな研究状況の中で再検討が進められてきている点の一つであり、654年にもコンスタンティノープル攻撃が行われたことが明らかになった。また674-678年にあったとされてきた攻撃も、最近では667-669年に行われたとする見解が提出されている。
だがこの2回の攻撃の間には、アラブがコンスタンティノープル自体を攻撃するにいたるまでの経過に、大きな違いがある。654年にはアラブ軍は小アジアで抵抗を受けることなくコンスタンティノープルに到達したのに対して、667-669年の攻撃ではアラブは5年あまりの時間を小アジアでの軍事行動にかけている。654年とは異なり、660年代にはアラブがコンスタンティノープル攻撃までに何ゆえこれほどの時間が必要だったのか、本稿ではアラブ側とビザンツ側双方の要因を考察する。
アラブ側の要因としては、660年代にはアラブ軍は小アジアをも支配下に収めるための軍事行動を行っていたことが挙げられる。アラブはコンスタンティノープル攻撃に不可欠な艦隊の再建が進むまで、陸上兵力による小アジアでの攻撃を余儀なくされていた。また小アジアを攻撃することによって、ビザンツ帝国の経済力の疲弊をも目ざしていた。
他方ビザンツ側の要因としては第一に、コンスタンス2世が西方に軍隊を引き連れて移動して小アジアにおける軍事力が減少したため、それまでのような軍事行動が困難になっていたことが挙げられる。
また654年とは違って小アジア西部の軍や住民が、アラブ軍に対する抵抗を行った、という点も無視できない。なぜ660年代になって、小アジア西部の住民はアラブ軍に対する抵抗を「突然」始めたのか。その要因は、「654年にアラブがコンスタンティノープル攻略に失敗した」からに他ならない。セベオスは「神がふりおろした一撃によって、首都は救われた」と述べているが、この「勝利」によってアラブに対する士気が復活し、軍事的抵抗を続ける強い動機が生まれたのである。
660年代にはアラブへの抵抗はなおコンスタンティノープルや小アジア西部にほぼ限定されていた。だが8世紀前半までに、「神がふり下ろした一撃」そして神への信頼は、アナトリア全域で広く共有されるようになった。8世紀後半までに成立する、アナトリア全域を面として活用する防衛システムも、アナトリア全域の人々がアラブに対して抵抗する意識なしには成立しない。「神がふりおろした一撃」は、ビザンツ帝国の防衛システムの前提条件となったのである。
(1) 環境
(2) 問題の所在
(1) はじめに
(2) 7世紀の変化
(3) 8世紀の展開
(4) 皇帝権力の後退 〜775-820年〜
(5) おわりに
(1) はじめに
(2)ミカエル2世の政権
(3)テオフィロス政権を支えた人々
(4) 地方行政機構の整備
(5) テオドラの政権
(6) おわりに
(1) はじめに
(2) 親族ネットワークとミカエル3世
(3) 「従者団」の分析
(4) ミカエル3世と高官層
(5) おわりに
(1) はじめに
(2) バシレイオスの経歴と「従者団」
(3) バシレイオス1世の即位と政治支配層
(4) バシレイオス1世の時代
(5) おわりに
(1) 小アジア軍事家門の出現
(2) 変化の背景
(3) おわりに
(1) はじめに
(2) レオン6世の即位
(3) レオン6世の政権
(4) アレクサンドロスの政権
(5) おわりに
(1) はじめに
(2) 摂政政権の時代
(3) ロマノス=レカペノスの権力獲得
(4) ロマノス1世の政権
(5) コンスタンティノス7世の復権
(6) おわりに
ビザンツ帝国の皇帝が保持していた権力は、何に由来しているのかという点が、本稿での根源的な問題となる。本稿では中期ビザンツ時代、9世紀から10世紀前半期におけるビザンツ帝国の皇帝権力の展開について考察を行っていく。本稿で特に注目していきたいのは、皇帝をめぐる人々との人間関係である。皇帝が最高権力者であるとはいえ、皇帝個人単独で政治を行うことはできない。官僚たちを始めとして、多くの人々と協力、あるいは対抗することによってさまざまな関係を持っていた。そしてそれらの関係の総合が皇帝の権力行使に大きく影響したのである。
8世紀後半以降、皇帝は中央権力を強化する一方で地方の独立性を弱め、中央集権的体制を再構築する政策を推し進めていくようになる。だがこうした政策によって中央権力が着実に強大化するにつれて、中央政権内の実力者たちが新たに大きな政治的影響力を持つようになってきていた。すなわち帝国行政を主導していた高官たちである。そして8世紀末から9世紀初頭の、相次ぐ皇帝交替によって皇帝の政権担当能力が低下した時期には、彼らは弱体化した皇帝権力に代わって中央政府の影響力を補完する一方で、皇帝の自由な権能の行使をも抑制する力を持つにいたっていた。かくして9世紀の諸皇帝には、地方に対する中央の影響力を拡大する一方で、中央政府内のこうした新たな勢力を皇帝権力の下に完全に組み込むという、二つの課題を追うことになったのである。
この二つの課題を解決したのがいわゆるアモリア朝の3人の皇帝である。ミカエル2世は小アジアのテマ幹部出身である。彼やテオフィロスが皇帝に即位するのに伴って、かつてミカエル2世の同僚だったテマの幹部たちが大挙して中央政権に進出してきた。そして彼らは皇帝にきわめて忠実な高官グループを形成した。そしてそれと同時に地方と中央とを皇帝権力の下に結びつけることにも大きく資した。
そしてテオフィロスやミカエル3世はこのような新しい高官たちを中心として、広範な血縁関係を構築する。さらに帝国の行政とは関係のない点でも高官や官僚たちと親密な人間関係を構築した。その結果、皇帝は中央の高官たちを完全に把握することに成功しただけではなく、高官たちを自分たちに忠実な集団としてまとめあげることにも成功した。そしてその集団の頂点に皇帝自らが立つことによって、きわめて強力な皇帝権力の構築に成功したのである。9世紀中盤には、皇帝に忠実で皇帝権力を補助する集団として、高官層が出現したのである。
だがミカエル3世が暗殺されてバシレイオス1世が即位すると、皇帝権力は大きく動揺する。彼はテオフィロスやミカエル3世のように、高官たちと良好な関係を構築することができなかった。高官層が、バシレイオス1世の時代には皇帝と対立して皇帝権力を大きく阻害する集団へと変わったのである。バシレイオス1世の時代には、中央に進出せずに地方に比較的自立性の高い集団が成立しつつあった。彼らはテマやタグマタで官職を得ることによって、バシレイオス1世や以降の諸皇帝と結びつくようになった。彼らは10世紀に入ると皇帝権力に大きな影響を与える集団となっていく。
レオン6世は即位に当たってバシレイオス1世と対立する高官層の支持を得て即位した。高官層と皇帝との結合が復活したのである。だが高官層の全てがレオン6世を支持していたわけではなかった。
親皇帝派の高官層、反皇帝派の高官層、宦官・家産官僚勢力、そして陸海軍という諸勢力の連合・対立関係がもっとも鮮明化したのがコンスタンティノス7世の摂政政権時代である。この時期、地方の陸軍勢力と宦官・家産官僚勢力が結びついたのである。一方親皇帝派の高官層の影響力は後退した。このような対立を利用して帝位についたのがロマノス1世レカペノスである。ロマノス1世の時代、ロマノス1世を支持していた人々はもはや「高官」ではなかった。彼らは皇帝と私的に結ばれた人々であって、家産官僚や宦官たちと実体としては大差がなくなっていた。9世紀には皇帝権力は個人的紐帯のみならず、制定された合法的制度—官僚制度—にも依拠していた。しかし10世紀に入ると皇帝権力は急速に人的結合への依存度を強めていくのである。無論それは皇帝権力の後退へと直結するものであった。
それゆえ本稿で取り上げた高官層は、貴族と言いうるものではない。彼らは帝国の官僚制度に依拠していた集団であり、法的身分として確立していたわけでもない。また当然のことながら本質的には血統を通じて伝承できるものではない。確かに何代にもわたって要職についている家門も存在しているが、法的に保証されたものではなく基本的には個人の才覚に依拠していた。
また彼らが集団としてまとまりを持った最大の要因はテオフィロスやミカエル3世らの諸皇帝による組織化であった。その後は長い分解過程に入り、ロマノス1世の時代には集団としての実体を喪失した。すなわち彼らは古代ローマの元老院貴族層のような永続性や社会的団体としての独自性を強固に持っていたわけではない。
9世紀初頭のビザンツ帝国は、ブルガリアやムスリム勢力の侵入、イコノクラスム(聖像画破壊論争)の再開、そしてトマスの反乱(821-824年)といった内外の大変動に見舞われた時代であった。そのような多難な時期に皇帝として即位したのがミカエル2世(在位820-829年)である。
ミカエル2世は先帝レオン5世(在位813-820年)の暗殺を受けて皇帝位についた。そのため当初は政権基盤が脆弱であったと考えられる。事実先述したトマスの反乱においては、大きな軍事的・政治的実力を保持していた小アジアのテマの大半が、ミカエル2世に対して反旗を翻している。にもかかわらず、ミカエル2世はトマスの反乱を収拾するとそれ以降大きな政治的脅威を受けることがなかった。そしてミカエル2世の息子で後継者のテオフィロス(在位829-842年)の時代になると、皇帝の権力は安定し、テオフィロスは皇后テオドラの一族を結節点として、中央政府内で高位についている人々の間に広範な親族ネットワークを形成するに至るのである。
本報告ではこのような経過を持つミカエル2世・テオフィロスの時代の政治体制について検討を加えた。その際特に問題となるのは、レオン5世時代にきわめて強固な支持基盤を持っていたとは言い難いミカエル2世が、トマスの乱のような重大な脅威に直面しつつもそれを乗り切って、テオフィロス時代の政治的安定をいかに現出させていったかという点である。そのために皇帝の行動のみならず、皇帝の周囲にいた高官・皇位保持者たちの動向にも注意を向けた。また、ミカエル2世・テオフィロスの時代以降ビザンツ帝国の中央集権化が完成段階に向かうことを踏まえつつ、ビザンツ帝国の地方組織であるテマの幹部層の動向にもあわせて注意を向けて検討した。
ロマノス1世レカペノス(在位920-944年)政権の成立、およびその展開に関しては、いくつかの問題がある。
第一に、919年の彼の政局への登場が特異であることである。第二に、ロマノス=レカペノスが宮廷に入って政権の中枢を掌握した後も、彼の権力が絶対的なものではなかったということである。彼が実権を握り、さらに皇帝位についた後もしばらくは、彼に対する陰謀が絶えず起きていたことがそれを示している。
ロマノス=レカペノスが政治の実権を掌握できた背景には、当時の政府内での対立が大きく影響していた。すなわち中央行政機構を拠点とする高官たちと、皇帝に私的に奉仕する家産機構のメンバーたちとの対立である。そして高官たちは伝統的に海軍と深いつながりがあり、当時海軍の長官だったロマノス=レカペノスと結んだ。高官との結びつきを契機としてロマノス=レカペノスは中央政府内に足掛かりをつかみ、最終的には政権の獲得に成功したのである。
またロマノス1世は従来高官たちと連結していた中央政府内での人間関係を、婚姻関係の構築などによって皇帝自身に強力かつ広範に連結する個人的ネットワークに再編した。その結果彼の支持基盤は強固なものとなり、安定政権を現出させることができたのである。
9世紀末〜10世紀初頭の皇帝レオン6世(在位886-912年)はバシレイオス1世(在位867-886年)の息子であり、886年にバシレイオス1世からその地位を受け継いだ。だがバシレイオス1世からレオン6世への政権交代は、決して平穏な帝位継承ではなかった。レオン6世はその直前までバシレイオス1世の怒りを買って、883-886年の3年あまりにわたって後継者の地位を剥奪され幽閉されていた。またレオン6世が復権した直後のバシレイオス1世の死の状況に関しても、何人かの研究者によって疑念が表明されている。
こうしたことから、バシレイオス1世とレオン6世の関係が緊張していたことが示唆されるのであるが、バシレイオス1世からレオン6世への政権交代をめぐっては他にもさまざまな要素がからみ合っている。特に留意すべき点は2つあげられよう。1つは当時総主教だったフォティオスの影響力である。フォティオスはレオン6世の即位直後に更迭・追放されており、バシレイオス1世とレオン6世との緊張関係にも大きく関わっていた。2つ目はレオン6世が実際にはバシレイオス1世の息子ではないという、当時から広く語られていたと考えられる 「うわさ」の影響である。
本報告ではこうした点に留意しつつ、どのような状況のもとでレオン6世がバシレイオス1世から地位を引き継いだのかを検討した。バシレイオス1世の治世末期、バシレイオス1世は政権運営に際してフォティオスに聖俗双方で全面的に依存していた。それに対して反発を持った人々が、ミカエル3世(在位842-867年)の息子であるという「うわさ」によってある種の正統性を持つようになっていたレオンのまわりに結集するようになっていた。ゆえに883-886年の政情不安は、基本的には「レオン派」と「フォティオス派」の、実権をめぐる政治抗争として理解できるのである。
バシレイオス1世(在位867-886年)は、活発な建築活動や法律編纂作業などで知られているが、そうした華やかな側面とは裏腹に、くり返される政治的陰謀に悩まされ、不安定な政治運営を余儀なくされていた。かかる不安定な状況が頂点に達したのは治世末期、882年頃にアウグスタのエウドキア=インゲリナが没してからのことであった。彼女の死に引き続いて、バシレイオス1世とエウドキア=インゲリナのあいだの子であり共治帝でもあったレオン(6世、在位886-912年)が陰謀の疑惑をかけられて失脚する。レオンはバシレイオス1世の死の直前、886年まで実に3年にわたって幽閉された。この間にもレオンと近い関係にあった人々の失脚や、バシレイオス1世に対する、ドメスティコス・トーン・ヒカナトーンのヨハネス=クルクアスを首謀者とする、元老院議員らの陰謀計画(886年春)などが続く。こうした政治的な混乱は、レオンの復帰直後の886年8月にバシレイオス1世が急死した後、コンスタンティノープル総主教のフォティオスがその地位を追われ、その一族などが連座して失脚するまで続いた。
本報告では、バシレイオス1世の治世末期に連続して継起した、政治的混乱に関して分析を行った。レオン6世が失脚しながら復帰を果たせたのはなぜか、またレオン6世が何ゆえフォティオスを失脚に追い込んだのかなど、留意すべき問題点は多い。しかしながらレオン6世時代になって、フォティオスのみならずその一族までもが失脚したことに示唆されるように、こうした混乱の要因は「バシレイオス1世とレオン6世」といった、個人的な人間関係の結果のみに由来するのではなく、彼らの背後にいた人々や集団が彼らとさまざまな結合関係を持ち、何らかの政治的意図を持って行動した結果と考えねばならない。本報告ではそうしたことに留意しつつ分析をおこなった。さらには9〜10世紀のビザンツ帝国がいかなる人々・集団によって動かされていたのかについても、展望をおこなった。
8〜9世紀にかけてのビザンツ帝国では、皇帝の妃(アウグスタ)を選ぶ際に、帝国各地から若い女性を選抜して首都のコンスタンティノープルに集め、審査を行なって決定するという儀礼が行われた。その特異さゆえにこの儀礼についていくつかの研究が行われている。しかし「なぜこの儀礼が行われたのか」という問題に関する議論はなお不十分である。
本報告では何ゆえ8世紀から9世紀という比較的短い期間にのみ、このような形式でアウグスタを選出する必要性があったのかについて検討を行う。これはこの時期、ビザンツ帝国においてアウグスタという存在がどのような位置を占めていたのか、という問いとも密接に関連する。この時期のビザンツ帝国の政治シス
テムにおいて、アウグスタ、さらには女性がどのような意味を持っていたのか。本報告ではかかる問題に関しても一定の展望を示していきたい。
8世紀から9世紀にかけてのビザンツ帝国では、皇帝の妃(アウグスタ)を選ぶ際に、帝国各地から若い女性を選抜して首都のコンスタンティノープルに集め、審査を行なって決定するという儀礼が行われた。その特異さゆえにこの儀礼は研究者の注目を浴び、これまでもいくつかの研究が行われている。しかしそこでは関心は主に「本当にこの儀礼が行われていたのか否か」におかれていた感がある。そのため「なぜこの儀礼が行われたのか」という問題に関する議論はなお不十分と言わざるを得ない。
報告者は本報告では、「花嫁コンクール」は(本当に厳正な審査が行われていたとは考えにくいものの)現実に実施されていたという立場に立った上で、何ゆえこの儀礼が行われたのかについて分析を行う。その際、これまでは看過されてきた2つの点に着目して分析を行う。第一に、この期間のすべての皇帝が「花嫁コンクール」によってアウグスタを選出したのではない、という点である。即位時に既に妻がいた簒奪皇帝は別としても、「花嫁コンクール」をおこなうのに十分な条件が揃っている人物でもこの儀礼がおこなわれていない場合が数多くあることは、これまでは注目されてこなかった。「花嫁コンクール」の実施・不実施はどのような条件によるのか、分析が必要である。
第二に、「花嫁コンクール」によって選ばれた女性たちのあいだに一定の関係性が看取できることがあげられる。先述した、「花嫁コンクール」に際して厳正な審査が行われていたか否か、ということとも関連するが、「花嫁コンクール」は単なる「美人コンテスト」ではなく、何らかの政治的意図をも持った儀礼であることを考慮に入れなければならない。
本報告ではこうした点に着目しつつ「花嫁コンクール」の分析をおこなった上で、何ゆえ8世紀から9世紀という比較的短い期間にのみ、このような形式でアウグスタを選出する必要性があったのかについて検討をおこなう。
これはこの時期、ビザンツ帝国においてアウグスタという存在がどのような位置を占めていたのか、という問いとも密接に関連する。ローマ〜ビザンツ帝国を通じて史上最初の女帝であるエイレーネーが、「花嫁コンクール」の最初の開催者であることも、恐らく無関係ではない。この時期のビザンツ帝国の政治システムにおいて、アウグスタ、さらには女性がどのような意味を持っていたのか。本報告ではかかる問題に関しても一定の展望を示していきたい。
9世紀半ばのビザンツ皇帝ミカエル3世(在位842-867年)は年代記などの資料では、競馬や酒にうつつを抜かした愚帝であるという評価がされている。彼の愚行の中でも特に目を引くのが、彼の「飲み友達」であったグリュロスなる人物によって主導された典礼のパロディーである。10世紀の『続テオファネス年代記』などによると、ミカエル3世はグリュロスをコンスタンティノープル総主教、そして自らを含む12人の仲間たちを府主教に「任命」し、典礼のパロディーをしながら乱痴気騒ぎを行っていた。そして時にはコンスタンティノープル市内に繰り出して「行列」を行い、本当の総主教であるイグナティオスを嘆かせたという。
しかし近年ではミカエル3世に対する評価は変化している。資料では隠蔽されているが、グリュロスらミカエル3世の仲間たちが政府内の有力者であることも明らかになりつつあり、彼らの行動の背景にも、政治的目的があったことが示唆されている。
しかし、彼らが何ゆえ典礼のパロディーを行ったのかという問題は残る。また彼らの「典礼」には俳優や踊り子たちが付き添っていたが、彼らは7世紀末以降、公的には活動を禁止されていた存在であった。皇帝であるミカエル3世やその側近たちが、何ゆえこのような人々とかかわりを持ち、それをコンスタンティノープルの人々の前にあらわにしたのか。本報告ではこうした問題についていくつかの視点を提供したい。
ローマ〜ビザンツ帝国の歴史上、複数の皇帝が即位して政情が混乱した年が何回かある。有名なのが後68年のいわゆる「4皇帝の年」である。だがその600年あまり後、641年にも「4皇帝の年」が出現して、帝国は大きく混乱した。
641年の混乱の契機となったのは、ヘラクレイオス帝治世末期の状況である。シリア・パレスティナの喪失が決定的になったのに続いて、エジプトにもアラブの脅威が伸びていた。国内でも単一エネルゲイア論・単意論をめぐる宗教的論争に加えて、庶子アタラリコスの陰謀など、皇帝一門内の不和も生じた。
ヘラクレイオスは、かかる状況を解決することなく、641年に没した。あとを継いだのが、ヘラクレイオスの最初の妃の子であるコンスタンティノス3世と、再婚した妃マルティナの子のヘラクロナスだった。統治3ヶ月あまりでコンスタンティノス3世が没した後、秋にマルティナとヘラクロナスが失脚して、コンスタンティノス3世の子のコンスタンス2世が即位するまで、混乱は続いた。
このような混乱の背景にあったのが、コンスタンティノス3世とマルティナ・ヘラクロナスの対立であると年代記などでは記述されるが、井上浩一氏はこうした対立の存在を否定している。しかし641年の混乱は、コンスタンティノープル内部だけの文脈から解釈すべきではなく、帝国規模での混乱を強く意識する必要がある。
本報告では特に、エジプトの状況に留意する。なぜならまさにこの641年に、マルティナ・ヘラクロナスによってアレクサンドリア総主教に再任されたキュロスが交渉して、エジプトがアラブに引き渡されている。そしてキュロスは、638年に没したコンスタンティノープル総主教セルギオスとともに、単一エネルゲイア論・単意論の推進者でもある。キュロスの行動やエジプトの状況を看過して、641年の「4皇帝の年」の混乱の背景を解明することはできないのである。
古代末期、ローマ帝国の南東の辺境、アラビア半島には、ローマ人が「アガレノイ」などと呼ぶ人びとが居住していた。だが7世紀になると彼ら「アガレノイ」は急速に勃興して、アラブ国家を生み出した。彼らは642年までにシリア・エジプトを支配下に収め、650年代初頭までにササン朝ペルシアをも併合した。661年に成立したウマイア朝はさらなる征服活動を進め、8世紀前半にはイベリア半島から中央アジアに及ぶ大国家が形成されることになる。
アラブ国家の出現は、単に大国家、大帝国が成立・形成されたという以上の意味を持つ。『クルアーン』に代表されるイスラームの信仰体系や法慣習、そして生活習慣が形成・整備されていった。また7世紀末に導入されたディナール金貨・ディルハム銀貨のような新しい貨幣や新しい度量衡のシステムなどの整備なども進んだ。アラブ国家は(古代地中海世界やオリエント地域の文明の後継者という側面はもちろんあるものの)、独自のイスラーム文明を新たに創造したのである。
このような、新たな文明の出現という状況への対応を迫られたのが、それまで地中海世界を支配してきたローマ帝国であった。ローマはアラブの急速な勃興によって、シリア・エジプトなど多くの地域を喪失しつつも、8世紀以降も存続し、その後も長期にわたって併存していくこととなった。そしてそれはローマにとって、自らの生き残りをかけた戦いだけでなく、(滅亡したササン朝ペルシアとは異なって)生まれつつある新たな文明との長期的な対峙をも、余儀なくされることを意味した。「アガレノイ」はもはや辺境の蛮族ではなく、独自の文明を生み出しつつある巨大な隣人であり、「アガレノイ」に対する認識や評価も、彼らとの対峙や対話を通じて大きく変容していった。そして、「アガレノイ」との長期にわたる「対話」「対峙」を通じて、ローマ帝国も自らの姿を変え、「ビザンツ帝国」へと変容していくことになる。
本報告では、アラブ国家・イスラーム文明に対するローマ〜ビザンツ国家の視線や認識の変化を分析し、それらを踏まえた上で、ローマ〜ビザンツ国家が生まれつつある新たな文明にどのように対峙し、そして自らの姿を変化させていったのか、検討していく。
7〜8世紀は、アラブの攻撃によって東方属州などを中心にビザンツ帝国の領域が急速に縮小した時代である。その結果、シリアやアルメニアといったアラブの支配下・影響下に入った地域や、アラブの脅威をうけている境域部から避難・逃亡してくる者たちも多かった。こうした避難民の中にはそれまで現地の有力者だった者たちも多く、彼らは生き残りのために皇帝や中央政府に接近する必要があった。
このような状況を体現している一人が、皇帝レオン3世である。彼自身シリア北部出身であり、皇帝ユスティニアノス2世の知遇を得て最終的には皇帝にまで昇りつめるという経歴を持っている。レオン3世だけでなく、似たような経歴を持つ人物は同時代に他にもいた。むしろレオン3世にはじまるいわゆるイサウリア朝は、中央に進出してきた境域部の出身者によって形成された政権ということも可能だろう。そのためレオン3世をはじめとする8世紀の皇帝は、地方と中央の関係性の強化に心を砕いていた。文献資料がコンスタンティノープルの状況を中心に書かれているため状況は明確ではないが、8世紀にも「地元」である各地域で所領を経営したり、地方の官職に就任している有力者が残っていたことが想定できる。
アラブの脅威が低減した8世紀中盤以降も、皇帝たちは彼らを不断に取り込み、「中央に進出してきた地方・境域出身者が支える政権」という性格を維持することをめざした。コンスタンティノス5世が後継者のレオン4世の妃にアテネ出身のエイレーネーを選んだり、またレオン4世の息子のコンスタンティノス6世の妃としてパフラゴニア出身のアムニアのマリアが選ばれたりしていることも、このような観点から再検討する必要がある。このような行為は、コンスタンティノープルにいる皇帝や中央政府との目ぼしい関係性を持っていない地方の有力者たちにとっても中央への進出のきっかけとなるものであり、魅力的なものだった。そしてこのような方向性は、9世紀にも受け継がれていくことになる。
7世紀前半のイスラームの出現・急拡大は、ローマ(ビザンツ)帝国の領域縮小と、ササン朝ペルシアの滅亡を引き起こした。そしてそれは、紀元前2世紀末以来地中海東部・中近東地域で並立・共存していたローマ国家(共和政〜ビザンツ帝国)とイラン国家(パルティア〜ササン朝ペルシア)の覇権(勢力均衡)の終わりをもたらしたと理解されることが多い。
では、なぜ7世紀前半にイスラームが急拡大できたのであろうか。その直接的な要因としては、603-630年のローマ・ササン朝戦争が挙げられる。30年近くに及んだこの戦争でローマもササン朝も大きなダメージを受け、それがイスラームに拡大の好機をもたらしたのである。しかし当然ながら、この戦争だけですべてを理解・説明できるわけではない。まず第一に、上述したようにローマ国家とイラン国家は長期にわたって対峙し、比較的長期の戦争状態にあったことも皆無だったわけではない。にもかかわらず、なぜ7世紀のこの戦争(だけ)がかくも破滅的なものとなったのであろうか。第二に、ローマ国家とイラン国家が疲弊したとしても、イスラームがなぜこの好機を生かすことができたのかは、別個に考えなければならない問題であるし、そもそもなぜこの時期にイスラームが出現したのかという、これまでもしばしば論じられてきた論点を考慮に入れなければならないだろう。
これらの点は、7世紀前半のみに着目していたのでは十分に論じることができないことが多い。そこで本報告では、先行する6世紀の状況を意識しつつ、長期にわたって続いていたローマ国家とイラン国家の並立・共存という状況から、7世紀中盤以降のイスラームの覇権という状況へと、地中海東部・中近東地域の秩序が変化していった要因について概観する。