これは私自身の研究資料として作成したmemoです。ご利用になる場合は、sigemori@kic.ritsumei.ac.jpまでご一報いただけると幸いです。
行政発展史研究の視座
歴史現象の理解を再構成するためには、まずこの現象に関する説明の基本要素を記述し、検証することが有効である。人々が何を考えていたのか、人々が何を感じていたのか、同時代の慣行が何であったのか。また、事態の進行方向を決定的に変えてしまった出来事は何だったのか、人々に時代の趨勢を意識させるきっかけになったのは何か。基本的な社会的、経済的圧力はどのようなものか、その当時の医学、工学、技術のポテンシャルはどの程度のものだったのか。ガバメントの内部でどのような変化が進行していたのか。これらの要素にたいして、様々な説明が行なわれてきた。人々の思想や感情に関しては、ベンサム主義、時代精神、人道主義などの抽象概念を指針にした説明が可能である。しかし、功利主義と当時の多くの改革との関係を強調することは、因果関係の理解に混乱を来す危険がある。人道主義のような時代精神をもとに説明するやり方にも同じことがいえる。改革の積み重ねが人道主義的な時代精神を生みだした可能性があるからである。この点、ダイシーはまだ賢明だったのかもしれない。「法律そのものが立法に関する意見をつくりだす」と指摘しているからである。
次に、統治様式の変化をうまく説明できるものの、相互連関作用をうまく説明できない要素がある。たとえば、政治史は王室の影響力の衰退を調査する。パトロネージの配分や機能が変化したこと、庶民院と政府の関係が変化したことを発見する。しかし、そうした衰退の前後で、政治家や官吏に何かの変容があったのかどうか、手続的なルールは同一だったのか、その行動に何か顕著な変化があったのかどうか、これらのことにほとんど関心をもつことはない。
また、変化の前提条件にもっぱら注意を払う説明もある。これは、解決を必要とする問題群を評価するために、広大な社会経済的後背地をめざす。そして、ひとたび社会形態における革命が発見されるやいなや、そこから半ば自動的に統治の変化も導き出されると考える。一定の状況で一定の変化が生じるというこの見方は間違ってはいない。しかし、この説明様式を強調しすぎることは控えたい。いかなる変化も自動的に、しかも同一のパターンで発生することはないからである。社会問題と行政によるその救済策の関係は、つねに不安定である。問題解決が争点となるとき、行政や政治の責任者の動機はパーソナリティ、イデオロギー、政治、財政、専門家の意見によって「歪められる」。また、改革の単なるタイミングでさえ大きな影響をもつ。というのも、改革はその後の行政過程に半ば恒久的な影響を及ぼすからである。あまりにも速すぎる発展をとげてしまった産業が古い生産過程との格闘を余儀なくされるのと同じように、早すぎる問題の発生は、古い行政手段による解決を余儀なくするからである。
新たな行政課題が台頭するにつれて、長い伝統をもつ組織が「人知れず変形する(silent metamorphosis」ことがある。その結果、新しい権限を組織はもつようになる可能性さえある。英国の場合でいえば、植民省、内務省、商務省などがその典型だろう。統治革命について十分な説明を行なうためには、こうした観察されざる変化と発展をも視野に入れる必要がある。
しかし、ビクトリア期の統治革命とよぶべき変化は、最初の三つの要素によってもっぱら行なわれてきたといってよい。そうした傾向をもたらしたのは、ダイシーの研究の影響力である。ダイシーの研究はすぐれたものである。それは19世紀の英国における統治過程の発展と変化をはじめて明確に説明した。しかし、それは法学者、政治思想研究者の研究である。歴史家の研究ではない。したがって、その研究の中に、国家の本性の変化の歴史を見いだすことはできない。この研究には一人の行政官、政治家も登場しない(同時にその人物が思想家でないかぎり)。議会の審議、官庁の調査、その報告書にはまったく言及がない。法律がどの程度、執行されたのかとか、実験科学の発展がどのようなものだったのかについての言及もない。変化を引き起こしたのは政治理論であり、明確に表明された意見であり、成立した制定法であり、裁判所の判決である。この誤りは、問題そのものを主知主義的に解釈することに起因するそれだといってよい(intellectualizing the problem altogether)。
次にファイナーの研究をみてみよう(S.E.Finer, The Life and Times of Edwin Chadwick, Methuen, 1952, reprint 1970)。チャドウィックに関するその研究は、先に言及した説明の要素をすべて含んでいる。イデオロギーとしての功利主義、(1833年の工場法のような)明確に確認できる「離陸」、新産業都市の状態、実験科学の水準、政治家との関係、救貧法委員会の法解釈、委員体の行動などが網羅された研究である。しかし、統治革命の研究という観点からいえば、次の視点が欠落している。まず、研究の主題が人物、理論、エピソード、省内事情であって、行政そのものの変化ではない。同じことは、ルイスのチャドウィック研究にもいえる。歴史家にとって19世紀の統治革命はまだ主題化されていないのである。個別省庁、個別政策、政治家や行政官、思想家についての研究は数多くある。また、近代国家の発展を主題にした研究もないわけではない。しかし、前者の研究は自己完結的である。後者の研究も、算術的・累積的な発展像しかもっておらず、有機的な成長の視点をもっていない。じっさい、ダイシーの研究ほど大きなスケールで政府の成長を解明しようとした研究はまだない。ダイシーにたいするオールターナティブはまだ登場していない。
マックドナーによると、統治革命とよばれる歴史的変化の現象は、「社会における国家の作用と機能の変容」のことであり、しかもそれは変化そのものの過程が終了するまでそれとは気がつかない性格のものである。この変容によって解体されたのは、「社会は個人間の契約関係の累積によって構成されており、また社会はそういうものであるべきだ」とする信念である。19世紀特有の「状況連鎖」が、こうした変化へ向かう強い衝動を生みだした。こうした状況を一般的な用語で表現すれば、蒸気機関の力に促された工業化に起因する社会問題の「前例のない規模とスケール」での噴出だということになる。当然のことながら、それには人口の爆発、移動、集中が伴った。大量生産の発展によってそうした問題解決の潜在力は向上した。安価で高速な輸送手段の発達は、労働力と技術と資本を集約する新たな可能性を切り開いた。技術や科学の新しい発展は経済成長とむすびついた。人道主義的な感情が広がり、かつ成長しつづけた。また、厳格な性道徳と人間の品位を強調する見方も広がっていく。政治と公衆の圧力が次第に強く感じられるようになっていく。立法活動が量的に飛躍する。その都度、、政府の責任が追加される。議会の運用規則が変更され、議会の調査手段の組織化が急速に進んでいく。
マクドナーの行政発展モデル
立法と行政が一体となって進行したこのプロセスには一定のモデルをみることができる、とマクドナーはいう。まず、変化の共通の起源は社会的害悪の露呈である。社会問題の輪郭がほぼ十分に明らかになると、救済の要求が噴出し、これが変化の起動因となる。次に、問題が公衆に知られるようになる(publisezed sufficiently)。たとえば、狭い炭坑で石炭を手で採掘する女性、海上で餓死した移民たち、安全柵が施されていない機械に触れて手足を切断してしまった子供たち、こうした事象が公になると、問題そのものが「許容しがたい・放置できない(intolerable)」ものとみなされるようになる。マクドナーによると、この「許容しがたい」という表現はヴィクトリア期を通じて、ある種の切り札として作用した。こうして、人々は問題除去のための立法活動という形で本能的に反応する。しかし、この本能的な反応がすぐに社会に受容されるわけではない。立法を促す圧力が大きくなるにつれて、立法によって不利益を被る集団が政治的アクションをはじめる。同時に、慣性的な力が立法による改革を阻むことになる。ただし、どの場合でも妥協できるポイントがある。法案を作成する段階で、しばしば利害関係集団は利益表出を行なう。委員会における審議の段階でも、原案の条文を何らかの仕方で緩和させること、罰則規定を削除すること、緩やかな施行細則を作成することは可能である。たとえ、原案とくらべて著しく「去勢された」内容だったとしても、法律化されることで、一つの前例ができあがる。これが問題解決の第一段階である。
第二段階は次のようにして始動する。あれこれの問題に対処するために行なわれる規制立法(禁止的立法)は、多くの場合、問題の除去に役立たない。問題の多くは経済生活や社会生活に深く根差しているため、法律を制定しただけで問題が解決されるはずもない。遅かれ早かれ、事態が部分的にしか改善されていないこと、場合によっては、まったく改善されず以前の状態のままであることが露呈する。規制立法は、上にみたように、ある種の妥協の産物である。原案が無傷のまま議会を通過することはまずないといってよい。規制立法がもつこのような性格も、問題の残存に影響することは言うまでもない。また、女性や子供の工場における労働条件にせよ、上下水道、大気汚染、自然資源保全にせよ、立法に責任をもつ議会や官庁の関係者は、多くの場合、問題そのものの基本的な性格や問題を生みだした社会の実態について、ほとんど知らないことが多い。さらに、法律の執行過程についての配慮がしばしば欠落する。つまり、法律による規制を実現するためには、人々の活動を監視(モニター)し、逸脱行為を発見し、これに法的な制裁を加えうるだけの証拠を収集・整理するための組織的活動が必要不可欠である。そうした組織的活動にはコストがかかるだけでなく、新たな権限(権力)を社会内に発生させることになる。新たな予算項目の確保と新たな権力の創出は、政策過程の中でももっとも論争的な部分にあたるといってよい。それゆえ、多くの場合、規制立法の執行過程にたいする配慮は、規制そのものよりも遅れて実現することになる。ともあれ、こうして最初の規制立法は一般に「善意のアマチュア的表現」といったものに留まりがちである。
こうしたアマチュア型規制立法の欠落部分(執行過程への配慮)を埋めるために、司法過程の簡略化と監視を主な業務とする特別な官職が定められる。マクドナーによると、通常の立法手続で作成された法律の無力さとこうした制度的な手直しが重ねられる中で、個々の政策分野で「古いタイプの立法活動がまったくのところ不十分である」といった認識が広がっていく。
規制立法の執行を強化するために任用される新しい執行官職の創設は、しばしば思わぬ帰結をもたらすことになる。最初は、ごく少数であるとはいえ、法執行過程に専門家の集団が責任をもつことになる。現場で法の執行にあたる専門家たちは、数多くの失敗と挫折を含む職務体験をもち、その体験をもとにしばしば現行制度(法)の根本的な欠陥を指摘さし暴露する。そして、彼らはごく自然に現行制度(法)の修正を要求しはじめるが、彼らの要求は、専門家としての知識と一定の職務体験に根差しているだけに、詳細かつ膨大になりがちである。こうした要求の堆積によって、彼らは「古いタイプ」の立法府・行政府にたいして一種の新しい権威をもつようになる。彼らの手によって、動かしがたい事実、論争の余地のない社会的害悪の証拠が蓄積され、それが各種の報告書の中に盛り込まれる。多くの場合、専門家としての彼らが提起する改善勧告には和解不可能なほどの不一致はみられず、問題の「緊急性」の認識についてもおおむね彼らの評価は一致する。
マクドナーによると、こうした専門家の法執行過程への浸透とともに、中央集権化の要求が浮上する。というのも、法執行にあたる専門家たちは、明確な上位の権威とその権威によって作成される業務指針がなければ、統一的な法執行を行ないえないからである。これには執行官のパーソナリティ、クライアントとの関係など様々な要因が介在するが、いずれにせよ、ときに過剰に厳格な法執行が行なわれるかと思えば、ほとんど不作為に近いおざなりな法執行しかなされないケースが出てくることになる。中央集権化の要求には他の理由もある。体系的な証拠の収集と整理、これをもとづく改革要求の作成にはある種の情報の集約が不可欠である。また、立法府である議会と現場の執行官との一種の媒介機関がどうしても必要になる。遅かれ早かれ、職務体験をもとにした圧力は新たな立法と集権的な監督権限を生みだすことになる。これが第三段階である。
次の第四段階になると、行政官の態度が変化しはじめる。執行官の要求をもとに新たな立法措置が重ねられるが、しかし、問題解決は進まない。次第に、最初は執行官の間に、次いで中央の監督部局の担当者の間に、立法措置を重ねても満足できる解決は期待できないのではないかといった疑念が生まれてくる。たしかに、修正立法の繰り返しによって、事態はある程度改善されはする。しかし、規制立法を潜り抜ける方法が次から次へと登場し、すべての脱法行為を予測できるような法的規制など不可能だということが経験的に知られるようになる。これが行政官の態度の旋回をもたらことになる。行政官は担当する社会問題を立法措置によって解決可能なものと考えることをやめるようになる。いくら多くの法規制を行なっても問題はなくならない。彼らは、事態の改善がごくゆっくりとしか進まないことを知るようになり、改善の過程は「不確実な螺旋運動」のようなものであり、「継続的な経験と実験の積み重ね」による漸進しかありえないことを悟る。ここにみることができるのは、「静態的な行政観から動態的な行政観への転換」であり、専門知の観念の結晶化なのである。
こうして最後の第五段階が到来する。新たな漸進主義が統治様式として浸透しはじめる。執行官とこれを監督する行政官は、法の適用、課罰、規制の枠組作成などの面で裁量権を要求しはじめる。それは自律の要求であり委任立法の要求である。また、それは流動的で実験的な規制行政の要求であり、行政業務の分割と専門化の要求、ひいては社会における政府のダイナミックな役割を求める声でもある。これが、新しい国家の様式に他ならない。
ノースコート=トレヴェリアンの改革
1850年代の行政改革運動を生みだしたのは、ピール主義と中産階級の急進主義である。中産階級の急進主義はのちに自由主義思想の中核をなすようになる。第一に、この運動は1832年の選挙法改革の総仕上げ的性格をもっている。トレヴェリアンの支持者たちの多くは、統治における貴族支配を緩和したいと考えていた。また、1832年の改革後も残存し、一部はこの改革によって生みだされた政治腐敗の一掃を願っていた。行政改革運動は、今日の企業人が言うような意味での経済改革に他ならなかった。そこで目指されたものは、統治費用の節約であり、余情職員の整理による倹約であった。残った職員に課せられたのは金銭価値の尊重である。そのために、聡明で誠実な人々によるマネジメントが期待され、それをもとにした「生産様式」の改善が期待されたのである。また、自助と競争の急進的な倫理の浸透がはかられた。適者は生存する。不適者は消え去るのみである。公開競争試験、検定試験、能力評価尺度、これらは公共サービスに携わる者の間に出現した一種の自由市場だった。この改革の背後につねに存在したのはグラッドストーンである。そこには官僚制的要素、コレクティヴィスト的要素はまったくなかった。公的支出は許されなかった。国家活動の範囲の拡大も認められなかった。国家の支出が経済成長を促進するとか、あるいは少なくとも阻害しないなどという考え方は愚かな誤解だった。要するに、ノースコート=トレヴェリアンの行政概念は、多くの点で統治革命のモデルと逆行していた。かりに、公開競争試験と大蔵省による支出のコントロールが統治革命に寄与したとしても、それは意図せざる結果であったにすぎない。
ベンサム主義と行政発展
統治革命はベンサム主義とも無縁である。ベンサム主義は明らかに法の規制的側面、法の執行、行政のイニシアティブ、慣習の拒絶、専門家主義、統計的調査などに強い関心を示す。したがって、ベンサム主義は統治革命の一つの要素であるといえばいえるだろう。しかし、ベンサム主義が具体的な事例のいずれかにおいて推進的影響力をもっていたという判断を下すときには、よほど慎重でなければならない。概して、行政に関係する問題についていえば、ベンサム主義は公務職員の多数意見に何ら影響を及ぼさなかった。ベンサム主義の影響をみることができるのは、ごく少数の個人、チャドウィックやフィッツジェームズのように強い権力的地位にあった一握りのベンサム信奉者たちの行動においてだけである。19世紀における実利主義、合理主義、集権主義をもたらした変化がベンサム主義に起因するものだという仮説ほど誤りにみちたものはない。この変化は、具体的な日常的問題にたいする自然な応答として生まれてきたものであり、問題とされた事態に緊急性があったがために表面化したといった性格をもつ問題への応答だった。パノプティコンのような高度に特殊な性格をもつ問題についていえば、こういうことがある。1840年代後半に、英国とニューヨークの移民局の執行官が、彼らが直面していた問題の唯一の解決策が中央集権的な監視官職の創設しかないと提案している。しかし、彼らはベンサムの名前などまったく聞いたことがなかった。
ベンサム主義の貢献について限定をつけなければならない理由は他にもある。ベンサム主義には抜きがたい反集産主義、政治的個人主義、経済の自然的調和論がある。たしかに、ベンサム主義者の中には功利主義者としてベンサム主義の行政指向の側面を保持しつづけた者がいるが、それはベンサム主義者の多数派ではなかった。その行政指向のベンサム主義でさえ、その経験主義と科学についての考え方が災いしてか、統治革命の尺度から逸脱してしまう。経験主義については、オークショット教授の指摘をそのまま受け入れることができる。「政治を純粋に経験的な活動とみなすと政治を誤解することになる。経験主義それ自体はけっして一定の内容をもった活動形式ではないからである。経験主義が具体的な活動になるには、何か別のものがそこに接木されなければならない」。科学についてはどうか。ベンサム主義が科学とみなしていたものは、対象との間に距離をおいた合理的な研究のことである。ベンサム主義が行なったことは、実験ではなくデータの分類にすぎない。しかも、その科学的研究が生みだすものは仮説ではなくドグマだった。個々のベンサム主義者たちが遂行した調査は、期待外れのものが多かった。網羅的ではなく断片的、客観性を指向しながら主観的、深遠ではなく浅薄な独善でしかなかった。ベンサム主義は、それにも関らず先験的に自らに比肩すべきものはないと思いこんだ。抽象的で原子論的に理解された政治人は次のように想定することになる。幸福計算は行政と立法が知るべき事項のすべてを包摂する。行政官と立法者の職務の本質は社会的アンバランスの調整にある。つまり社会的均衡の維持である。こうした普遍主義的思考があったがゆえに、ベンサム主義は、致命的にも社会行動と政治行動には複数のパターンがあることを見抜くことができなかった。それは、チャドウィックの救貧法委員会の不幸な末路がよく示している。フランス型の官僚制度は英国特有の権力の割拠状況の中で引き裂かれる結果となったのである。一般的にこう言っていいだろう。統治の近代化にたいするベンサム主義の貢献は、具体的な個人の具体的な行動の観点から評価しなおす必要がある。ベンサム主義は近代的統治の発展にとっては障害でしかなかった。行政指向のベンサム主義もまた、19世紀の行政にごく例外的な影響を与えたに過ぎない。しかも、その影響は、発展の基本線から逸脱し、ときにはこれに逆行する影響でしかなかった。