これは私自身の研究資料として作成したmemoです。ご利用になる場合は、sigemori@kic.ritsumei.ac.jpまでご一報いただけると幸いです。
19世紀史のなかにベンサムならびにベンサム主義を位置づけることの難しさは、一つにはベンサム思想に内在すると想定されている「矛盾」に起因している。しかし、その「矛盾」は結局のところ、レッセフェールと国家介入の関係の理解と深い関係をもつ。パリスの論文は、こうした視角からベンサム主義をめぐる論争を整理している。アレヴィはベンサムの法政治理論と経済理論の間に矛盾があることを指摘した。法政治理論においては利益の人為的な同定が主張されているのにたいし、経済理論においては利益の自然的同定が想定されているからである。また、サー・セシル・カーによると、「ベンサム主義者がその法理論をレッセフェール説への自然的性向とどう和解させられるのかは、政治科学の難問の一つである」と指摘している。また、理論と現実世界との矛盾としてこれを理解しようとする立場もある。
19世紀英国におけるレッセフェールはけっして一つの体系だったわけではない。具体的な政策や施策に対抗する原則や論拠としては、たしかにレッセフェールは多くの人々に受け入れられていた。しかし、レッセフェールは絶えず現実世界の中では敗北を喫したのである。強い確信をもったリベラル派はけっしてレッセフェールを貫徹することができなかった。リベラル派はいつの間にか政府が産業部門のある部分にたいする規制に関与する施策を弁護する結果になった。国家介入は政策だったのではなく、次第に輪郭をあらわにしだした現実そのものだったのである(Prouty)。マクドナーにとっても、これは問題だった。彼の研究の関心の一つは、「自由社会の台頭と現実とのあいだにみられる顕著なコントラスト」を明らかにすることにある。「専制的な行政裁量の形式が、どのようにしてリベラルな個人主義とレッセフェールの黎明期に浮上してきたのか」を明らかにすることが研究課題だとされた。この問題を極端な形で解決しようとしたのが、ブレブナーである。ダイシーの研究にたいする彼の態度は、ちょうどヘーゲルにたいするマルクスの態度によく似ている。ダイシーは、ベンサム主義の帰結が実践世界においてはレッセフェール論の促進に限定されていたと主張する。ブレブナーはこれにたいして、「レッセフェールは政治的、経済的な神話だった」のだという。「レッセフェールは英国においても、他のどの近代国家にあっても支配的原理になったことはないが、多くの人々はそう信じ込んでしまっている。ダイシーは、この点で、レッセフェールの神話を維持する尖兵だった」。ダイシーの『法と世論』は、「台頭しつつあった集産主義を反駁する議論に満ちあふれている。この講義の動機は、法制史・憲政史の観点からレッセフェールの神話を大真面目に再論することにあったといってよい。ベンサムを英国個人主義の一つの典型として理解することで、ダイシーははからずも真理の別の側面を提起することになった」。たしかに、レッセフェール思想は発展した。しかし、それはベンサムの思想に由来するのではない。むしろ、アダム・スミスを震源とする別の意見の潮流の産物だった。レッセフェールがときにベンサム主義と共同歩調をとることがあったにせよ、ベンサム主義をレッセフェールに解消することはできない。
ブレブナーの主張はダイシーの見解にたいする一つの極端な反応だといえるだろう。しかし、レッセフェールと国家介入という二つの主題はともに19世紀中期の発展の特長をなすものであって、必ずしも両者を矛盾するものとみる必要はない。ロビンソンによると、両者は経済理論の中ですでに融和させられていた。ベンサムの法理論と経済理論の間にある矛盾を指摘したアレヴィの議論そのものが否定されている。「かりに古典的な経済学者たちがある種の調和を主張していたとしても、それは真空状態のなかで発生する調和なのではなく、法の枠組の内部で生みだされる調和である。経済学者たちは、適切な法制の枠組と経済的自由の体系の両者を一つの社会過程がもつ二つの側面だとみていた」。経済学者たちは、消費者の便益にもっとも大きく寄与するものとして、経済問題における一般原則としての自由経済を提唱した。しかし、彼らは自由企業の自然権を擁護したわけではない。自由の要求一般がそうであるように、企業の自由にも功利の原則による正当化が必要だったのである。原則として自由経済は正当である。しかし、国家が介入を行なうべき状況はいくらでもある。