これは私自身の研究資料として作成したmemoです。ご利用になる場合は、sigemori@kic.ritsumei.ac.jpまでご一報いただけると幸いです。
ヴィクトリア中期の立法改革に関するダイシーの解釈
ダイシーは、ベンサム主義がレッセフェール思想の発展に影響を与えた根拠を数多くあげている。しかし、重要なことは、ダイシーが列挙するそうした証拠の取扱いを検証することである。その中には、ダイシーの一般的主張を必ずしも根拠づけない事例がある。たとえば、工場検査官制度、財務府による教育助成の決定、改訂救貧法などである。まず、工場法に関するダイシーの解釈をみておこう。ダイシーはベンサム主義が必ずしも円滑に受容されなかったことを認めている。「ベンサム主義にリベラリズムはその初期の段階で手痛い敗北を喫した」。その理由は二つあった。一つは、同時代の意見がベンサム主義にたいして敵対的だったことである。工場法運動は、議会内に個人主義と集産主義のあいだのコンフリクトを生みだした。しかし、ダイシーはそう指摘するだけで、オウストラー、サドラー、シャフツベリが一貫した哲学をもっていたとは考えなかった。ダイシーによると、集産主義を代表する思想家は存在せず、集産主義は一つの系譜をなす思想を形成しているわけでもなかった。二つめは、彼がベンサム主義の敗北の原因を「トーリー党の人道主義」に求めていることである。工場法運動はもともとトーリー党が主導することで導入されたものだった。その中心を担った人物は、サウジー、オウストラー、サドラー、そしてシャフツベリである。
教育助成についてはどうか。この分野における政府の「離陸」は1833年だとされる。「初等教育のシステムは集産主義の台頭を促す機縁となった」ものである。それでは、集産主義に起動を支えた当時の意見とはどのようなものだったのか。ダイシーは、財務府による最初の二つの教育助成の決定を証拠とみなしている。それは「不用意にも一つの原則が議会法令のなかに持ち込まれ、最初はごく限定された影響しか見込まれていなかったが、それが結果的に法領域の全体に浸透するほどの立法思想にまで肥大化していった」のである。ヒュームやレーベックといった人たちが教育に関心をもちはじめていたこと、そして、そうした関心に教育助成政策の原因をみることは、ベンサム主義思想の全体の中で教育が果たす役割を無視することにつながる。しかし、ダイシーはヒュームをはじめとした人々の役割を理解することができなかった。「ジョセフ・ヒュームこそ当時の政治家の典型である。彼は狭い意味での功利主義者だった。彼は全力をつくして、公的支出の削減に努力した」。ヒュームは1833年の助成に反対している。しかし、それは助成額が大きかったからではなく、助成額が少なすぎるからだった。
改訂救貧法を自分の解釈枠組の中におさめることは、ダイシーにとってきわめて困難なことだった。「哲学的急進派の貢献とみなしうる有名な立法改革を、財産の自由の項目の下に整理することは、言葉の歪曲であるように思われるかもしれない。1834年の救貧法は、表面的にはいかなる種類の自由をも目指していないように思われる。通俗的に想像されているところにしたがえば、この立法改革の帰結は作業所の設立であり、これは貧者の監獄だということで、バスティーユと呼ばれていた」。ダイシーは1834年法の帰結が国家権力の拡大を帰結したことを認めている。「新救貧法は救貧事業を国家の監督下においた」。また「中央政府のコントロールの下におかれた救貧法の科学的な管理は個人の自由の領域を縮減することになった」。
ダイシーの時代区分について
ダイシーの時代区分の是非を論じることにはそれほど意味があるとは思えない。大事なことは、三区分が適切なのか、それとも二区分なのか、あるいは四区分、五区分が考えられないかという点である。ダイシーの主張の歪みは、1870年代を境にして意見のトレンドが変化したことを立証しようと決意したところに起因する。ダイシーの三区分は、(1)立法停止の時代、1800-30、(2)ベンサム主義と個人主義の時代、1825-70、(3)集産主義の時代、1865-1900であった。ダイシーがもっとも苦悩するのは、二つめのターニングポイントの部分である。英国の立法世論の特長について述べている箇所で、彼はこう述べている。「少なくとも近代英国の法の発展に影響を及ぼした意見はしばしば一人の思想家もしくは思想家集団を発信源としている。明らかに、支配的な信念なり意見なりが『充満していた』と語りうる時期がいくつかある。つまり、事物についての一定のものの見方がほぼ完全に共有されるようになっていたということである。支配的な信念が一世代の全体によって採用されるとはいえ、広く共有された確信が自生的に多くの人々の間に成長することはめったにない」。
要するに、ダイシーは第一期から第二期への移行のところで、ベンサムとベンサム派についてこのことを言いたかったのである。しかし、次の時期転換のとことへ来ると、同じような役割を果たした思想家にダイシーはめぐりあうことができずにいる。「ここから、ベンサム主義を扱う場合と集産主義を扱う場合の研究方法の奇妙なコントラストが生まれてくる。一方の時期については、ベンサムの自由主義思想に言及することで英国法の発展を説明することができる。しかし、もう一方の時期については、いくつかの議会立法がもつ社会主義的な性格なり傾向なりを示すことでしか、集産主義の存在を立証することができない」。
いったい個人主義はいつ集産主義にとって代わられたのか。これについての説明にもダイシーは成功していない。過去の時代を区分する作業はどのみち恣意的になる。各時期は互いに重なり合い、明確なターニングポイントを決めることなどできないだろう。しかし、ダイシーによると、「個人主義時代の立法と集産主義時代の立法の間にある落差は本質的かつ根本的である。この違いは人間と国家の関係についての理解の仕方の相違に出立するものであり、またこれを指示するものでもある」。そこまではっきりした相違があると主張するのであれば、やはり明確なターニングポイントを示すべきだろう。ダイシーはこれを1865年だという。
ところが、ダイシーの議論の中には実に多彩な「日付」が登場する。社会主義の思想が立法論の中に登場するのは1865年以後のことである。そして、立法活動への影響が明確に知覚されるようになるのは1868年もしくは1870年以後のことで、さらにそれが支配的になるのは1880年である。有限会社に関する1856年から62年の立法の時期には、個人主義と集産主義が混淆していた。個人企業から団体企業への転換は集産主義の成長にとって好条件だった。1854年にベンサム主義の反対者たちはゆっくりと公衆の支持を獲得しはじめた。集産主義の影響は、1851年の住宅法、1850年以後の公営事業法、1848年の公衆衛生立法までは見られない。穀物法の廃棄は個人主義の勝利を意味していた。工場法の成功は、完全に社会主義的とはいえないまでも、社会主義すなわち集産主義へ向かう傾向をもつ信念に権威を付与した。1830年から1840年までのあいだ、個人主義者と集産主義者の争点は完全にむすびあっていた。初等教育は集産主義の影響力拡大の起動因であった。その起源は1833年である。
このように、ダイシーの議論を丹念に追っていくと、集産主義の起源は1833年だということになる。つまり、立法休止の時代が終わってからわずか三年後のことである。
ダイシーの誤解はどこから生じてくるのか。それは細かな誤解だけではない。議論の根幹に関る大きな誤解も含んでいる。フランス行政法とイングランドにおける行政法の不在に関する誤解はその典型であろう。『法と世論』はいわばダイシーの専門外の領域での研究である。彼は、立法論の変遷を解明するために「歴史家」としての作業を行なわざるを得ないことを自覚していた。また、法律家が境界線を踏み越えて歴史家、道徳思想家、哲学者の領地へ侵入することには限界があることも認めていた。ダイシーがこの講義について書いていたのは19世紀末のことである。彼は、自分より二世代前の人々が考えていたこと、やっていたことを超えようと試みることはなかった。また、彼は1835年生まれであり、その記憶は1848年以前に遡らないと自分自身が認めている。アレヴィはダイシーが育った時代の知的雰囲気を次のように整理している。
ベンサムが死去して20年のあいだに新しい単純化された功利主義の哲学が登場した。ベンサムの弟子である以上にアダム・スミスの弟子であったこれらの功利主義者たちは、もはや人為的な利益の同定の観念を自己の理論に組み込むことはなかった。すなわち、統治と行政の思想を放棄したのである。自由貿易と自然的な利益同定の思想が新しい功利主義の社会観の基軸になっていった。彼らはいかなる種類の規制立法にも敵対した。ダーウィンがマルサスの法則をあらゆる種類の動物に援用した。バックルは歴史哲学をスミスの政治経済学に解消した。「社会静学」のスペンサーは経済学者の自然法則を法学者の自然法則として読み替えた。スペンサーはシャフツベリの介入主義的保守主義にも、エドウィン・チャドウィックの介入主義的ラディカリズムにも反対した。いずれも、社会関係にたいする政府の権威の介入を要求するからである。こうした思想のトレンドは、行政分野でも共有されていた。1847年、チャドウィックは最終的に救貧行政から離れることになる。1844年法によって、工場検査官は規制権限を失うことになる。そして、1878年まで検査官は継続的に工場の検査を行なうことができなくなる。1847年に鉄道規制法案が廃案になったことは、鉄道の公的規制を進めるトレンドのターニングポイントになった。その後、20年間、鉄道規制は姿を消すことになる。1849年にはケイ-シャトルワースが教育省を辞職する。民間助成による学校の中央による統制を進める彼の政策は放棄された。そして、1862年には「結果による支払payment by result」の原則が導入される。ダイシーが思想形成を行なったのはこのような思潮の中においてである。彼は、こうした思潮がすでに1830年から存在していたと誤解した。そこから19世紀の統治に関する神話の確信が生まれてくる。政府による中央統制は、1830年から1870年までのあいだに、減少することはなかったが、肥大化することもなかったという神話である。マクドナーモデル
マクドナーは世論の役割を認めないわけではない。しかし、その世論観はギャロップ調査で測定されるようなたぐいのものである。つまり、その時代の争点に関係する公衆の感情であり態度のようなものである。マクドナーはベンサム主義がそのような意味での公論であったとは考えない。しかし、人々がベンサム主義によって影響されていたと主張することが愚かしいのであれば、その逆---ベンサム主義によって影響されていなかったと主張することも同じように不条理であろう。いずれの主張にも証拠が必要である。しかし、マクドナーは証拠らしい証拠を提出していない。それはいたしかたないかもしれない。否定命題を歴史的に立証することはきわめて難しいからである。しかし、証拠の欠如が彼の議論の弱点であることは確かである。また、行政世界を構成する人々がきわめて不平等であるという点も重要である。無名の官吏の貢献を無視すべきではないという主張はもっともなことである。しかし、やはりチャドウィックは数百のランク・アンド・ファイルの職員よりも歴史的に重要である。結局、マクドナーは思想の精神世界への影響をまったく認めようとしないようである。パノプティコンに類似した提案を行なった官吏たちが無意識の内にベンサム主義の影響を受けたということも十分にありうることである。 マクドナーのモデルがあてはまらないケースがある。鉄道規制(1840)、鉱山検査(1842)、蒸気船(1846)、公衆衛生(1848)、教育助成(1856)などがそれにあたる。これらは最初の立法から執行官職をさだめてスタートした。マクドナーモデルは、経験や体験の中から執行官の創設が始まるとしている。1825年以前にも、人々はそうした経験をしていた。しかし、当時の人々は経験から何かを学ぶことをしなかった。1835年以後は、経験から学ぶ時間がなかった。しかし、執行官をすぐに創設した。もちろん、マクドナーはこうした批判を予測している。「この過程を構成する諸段階を神聖不可侵のものと考えてはならない。これはあくまでも、発展を理解するための論理的で有用なタイプであるにすぎない」。しかし、もう一方でマクドナーは、「この過程に生命力を与えるのは執行官の任命である」ともいう。もしも、この過程が進行するステップが経験の帰結でないとすれば、別の説明が必要になる。これはそう難しい課題ではない。1835年以後、中央行政の諸部門の間にデモンストレーション効果が発生していた。最初に執行官を設置した実例が一つのパターンを構成する。そして、それが他の分野に波及して初めから執行官の設置が行なわれることになる。たとえば、枢密院教育会議は検査官制度をもっていた。これはケイ-シャトルワースが組織したもので、彼は1839年に救貧法委員会からこの部局に移動してきた。彼が前任部局で学んだ方法に影響を受けたことは十分にありうる。移民規制が他の行政分野に影響与えたことを論証できるならば、マクドナーモデルは容易にデモンストレーション効果を許容できるだろう。しかし、彼の見解によると、それは「未だに名称さえもっていない不分明な行政分野であり、担当官にたいして何の配慮もなされていなかった分野であった。じっさい、英国民はそれによって何の影響も受けていないし、その存在すら知らなかった」。他の行政サービスが登場したとき、それらは、警視庁、工場検査官、新救貧法などのよく知られた先例をモデルにした。結果的に、それらはベンサム主義の影響を受けることになる。
要するに、マクドナーのモデルは移民規制のようなケースにはよく適合する。というよりも、この政策分野はこのモデルを生みだした唯一の母体なのである。しかし、他の分野の発展を検証してみると、一つもモデルと現実との適合性を占めすものはない。そこで次のような問題が考えられる。
最初と最後はダイシーが無視したことの多く、また、マクドナーが注意を喚起している点を組み込むことになる。しかし、社会環境の変化にたいする制度の応答には何も必然性らしいものは存在しない。19世紀の統治革命、フランス革命、ヒトラーの体制も、そうした応答の一つの事例である。これら三つの事例に相違をもたらしたのは、社会、社会問題、問題解決に関する時代の思想にみられる相違である。ベンサムがその抽象的な思想のみをもって英国の統治を刷新したなどと主張するのはおかしなことである。ベンサムの思想が影響力をもったのは、それが変化しつつある環境の中から生まれてきたものだからである。しかし、だからといって、ベンサムの業績がなかったとしても、同じ変化が生じたとはいえないだろう。第二点目についていえば、これは1870年以後の変化を否定するわけではない。しかし、この変化は、集産主義の哲学を採用した結果というよりも、主として大恐慌、選挙権の拡大、行政部門自身の圧力が大きな要因になっている。功利主義はこの時期にあっても依然として作動していた。「世紀のはじめにベンサムを登場させた思潮は最終的にフェビアン主義へと流れ込んだ」のである。第四点目はやや逆説的にみえるかもしれない。しかし、レッセフェールと国家介入を同時に信奉していた人々が当時たしかに存在していた。たとえば、ナソー・シニアはレッセフェールを信奉していたが、いわゆる夜警国家を信奉していたわけではない。
- 社会経済の変動への応答としての19世紀の統治革命は、当時の政治組織、社会組織についての思想が果たした役割と切り離して理解することはできない。ダイシーの用語を借りて言えば、法と公論のあいだには密接な関係があった。
- 法と公論の関係についていえば、19世紀は二つの時期に区分される。その分水嶺は1830年前後である。
- 後半の時期に支配的だったのは功利主義である。
- 功利主義の主要な原則は功利の原則である。この原則を適用したことの帰結として、レッセフェールと国家介入の双方が生まれてきた。
- 法の執行のために専門家が任用されると、彼らは立法において指導的な役割を果たすようになる。同時に彼らの権力が増大する。
政治を論じてきた多くの人々は、政府の職務が保護し、廃止し、国内外の暴力や犯罪に対処し処罰することであって、これを超える政府の活動は簒奪だとのべてきた。しかし、私はこの立場をとらない。政府の唯一の合理的な基礎は、便益の提供(expediency)にある。つまり社会の一般的な便益である。被治者の福祉に寄与することは何であれ行なうことが政府の責務である。一方、国家介入の擁護者として有名なチャドウィックは、私企業にかなり広範囲な活動領域を認めていた。チャドウィックは自己利益に大きな信頼をおいていた。彼は自己利益を個人の強さと効率性の源泉だとみなしていた。自己利益は人間のキャラクターを規定するもっとも持続的かつ予測可能な要素である。しかし、彼は社会の便益が自己利益の追求から自動的に発生することは自明ではないと考えていた。法がうちたてる障壁がなければ、方向感覚を失った自己利益が社会を倒壊させるとみた。したがって、彼は、個人の利益と社会の利益を神秘的な和解へと融合させる「見えざる手」ではなく、レッセフェールという迷信を放棄した上で、個人の活動を社会的な福祉という望ましい目標へ向かわせる国家の権威を信じていた。既成の制度が功利のテストをうけるとき、その結果は自由化でも規制の強化でもありうる。「穀物法が最大多数の幸福に寄与するか」という問いにたいする1846年の回答はNoであった。「鉄道事業においては自由競争の原理が作動しないがゆえに、公的規制は最大多数の最大幸福に寄与するのか」という問いにたいする1840年の回答はYesであった。今日においてもそうであるが、問題はレッセフェールか国家介入かではなく、変化する環境のなかでこれら二原理の境界線をどこに引くかが問われるのである。