Abstract You use a name to refer to a particular, really existing object. Your utterance of a sentence involving the name expresses your particular thought about the referent. There are some philosophers, though, who say that the value of the name is socially determined and does not depend on your particular way of thinking about the object. I think they are wrong for the simple reason that a theory of reference must explain how people use names on the basis of their understanding of those names. The way people understand a name is not, of course, merely subjective or solipsistic. The understanding of a name by an individual depends on her relation to the communal practice that connects her reference act to the object. I will describe a basic form of such a linguistic-epistemic practice and of the community determined by the practice. By means of this apparatus I will propose a solution to a puzzle about names in epistemic contexts.
はじめに
言語のはたらき−−認知とコミュニケーション
言語のはたらきは多様である。ひょっとすると,それは際限なく多様であるのかもしれない。たとえば儀礼,あそび,芸術のような活動のなかで言語がはたしているやくわりについてかんがえてみよ。この多様性にくわえて,これまでだれも想像だにせず,いかなる既存の分類にも属しないような言語のはたらきが発明されないともいいきれない。
しかし,ふつうに生活しているなかでおこなわれるありきたりの言語活動に範囲をしぼってかんがえると,その大半は,ふたつの基本的なはたらきをもった発話からなりたっている。ふたつの基本的なはたらきの第一は,命題的な内容を表現することである。また、しばいのせりふの練習などは別として,おおくのばあい,命題的内容をもつ発話をおこなうことは,すなわち,言明,要求など,特定の,コミュニケーション上の目的をもった行為をおこなうということでもある。このようなコミュニケーション的行為をおこなうことが,言語の基本的なはたらきの第二のものである。第一のはたらきは,認識や思考の内容を表現するはたらきであり,これを言語の認知的はたらきとよぶことができよう。第二のはたらきは,言語のコミュニケーション的はたらきとよぶことができよう。第一のはたらきが成立することは,第二のはたらきが成立するための前提条件ともなっている。
小論の目的は,言語のはたらきといわゆる言語の社会性との関係を,もっぱら言語の認知的はたらきに焦点をしぼって検討することにある。
意味論的しくみと言語活動との矛盾
「言語が社会的なものである」ということは,いっけん自明の理であるかのようにおもわれる。人間の言語能力は,潜在的には,すべての人間に普遍的かつ生得的にそなわったものかもしれない。しかし,ひとりひとりの人間にとってみれば,社会のなかでうまれそだつことによってはじめて,言語能力は実現する。また,言語活動は,ひとつの社会においては,ひとまとまりの総体として展開される。このひとまとまりの総体としての言語活動が社会の歴史とともに展開される過程に対応して,単一の自然言語が歴史的に発達するのであろう。このことにより,人間の言語能力は,ひとりひとりがうまれそだつ社会に特有のしかたで,つまり,特定の自然言語をつかう技能としてのみ実現する。さらに,言語の具体的なはたらきは,言語的なメッセージの発信者と受信者とのあいだの社会的な関係をつうじてのみ,実現する。
しかし,ひとつの社会において言語活動がひとつの総体をなすこと,そこで,単一の言語が言語活動の媒体となることと,言語活動を構成する認知的・コミュニケーション的行動が合理的であり,独自の論理をもつこととの関係は単純ではない。これらは,潜在的には矛盾する。
自然言語は,言語活動の手段として必要な意味論的しくみをそなえている。この意味論的なしくみが具体的な機能をもつためには,先行する規則性にたいする追随を保障するメカニズムが必要である。しかし,合理的な認知的・コミュニケーション的活動としての言語行動は,本質的には規則性を必要とせず,むしろ,規則性への追随に優先する独自の論理をもっている。このことから,意味論的しくみと言語活動とのあいだに,矛盾があらわれる場合があるのである。1)
この矛盾のあらわれの具体的な例として,小論では,まずさいしょに,ソール・クリプキが指摘した「信念のパズル」を紹介する。クリプキのパズルは,指示(言語表現をもちいて現実に存在するものをさししめすはたらき)にかんする考察からでてくるものである。そこで,クリプキのパズルがもっかの主題にとってもつかかわりをあきらかにするためには,指示と認知および認識との関係を論じなければならない。このことは,言語が,個人の思考内容すなわち認知状態の表現と,社会的な認識・言語活動とにおいてはたすやくわりを論ずることにつながる。この議論の結論として,個人の認識・言語行動と認識・言語活動にたいする社会的な要請とのあいだには,ある緊張関係があり,このことが,社会のなかでの認識・言語活動において,矛盾としてあらわれるのだということが確認されるであろう。
I クリプキの「信念のパズル」
信念のパズルは,指示にかんする考察のなかで発見されたものである。指示にもちいられる言語表現はさまざまであるが,なかでも,現実に存在する個々のものをさす固有名は,独特の性格をもつものとして,哲学者らの注目をあつめてきた。クリプキは,固有名による指示について,独創的な理論をしめし,哲学界に影響をあたえている。2)
指示にかんする理論にとってつねに問題となるのは,様相的文脈(「必然的に‥‥」「可能的に‥‥」などのような構文)と認知的文脈(「‥‥だとおもう」などのような構文)での指示表現のふるまいである。3)クリプキの理論は,もっぱら様相的文脈にかんする考察からうまれたものである。しかし,この理論を認知的文脈にあてはめようとすると,きみょうな問題がしょうじてくる。この問題が,「信念のパズルで」ある。信念のパズルは,固有名をもちいて指示行為をおこなう個人が指示対象の同一性についてのある種のあやまりをおかしているとき,そのひとの言語行動を証拠に,そのひとがどのような信念をもっているかについていおうとするばあいに発生するとされる。以下に一例をしめす。4)
まったく英語がはなせないフランス人がいたとしよう。このひとの名をかりに「ピエール」('Pierre')とする。ピエールはフランス語で'Londres'とよばれる都市,つまり英国の首府ロンドンについてひとのはなすことをきいたり,観光パンフレットをながめるなどして,これはきれいな場所であるとかんがえたとする。だとすると,ピエールにつぎのようなフランス語の文をしめし,賛否をとうたなら,賛意をしめすであろう。
さてこのピエールが,なにものかに拉致され,ロンドンにはこばれたとする。ピエールは,じぶんのいるばしょがフランス語で'Londres'とよばれる都市だとはきがつかない。やがてピエールは直接的方法によって,つまりフランス語との対応づけをかいせずに,英語をはなす能力をみにつけ,じぶんのすむまちが'London'とよばれることをしる。しかし,ロンドンのなかでもあまり上等でないばしょばかりみているものだから,これがじぶんがかつてききしっていたきれいなまちであるとはきづかない。このとき,つぎのような英語の文をしめされたなら,ピエールはやはり賛意を表するであろう。
しかし,このときでも,ピエールに文(1)をしめせば,かれはいぜんとしてそれに賛意を表するのである。
このとき,仏英両語を解する人物が,ピエールの文(1)(2)にたいする態度にもとづいて,かれのかんがえがどのようなものであるかいいあらわそうとするとどうなるか。まず,文(1)にピエールが賛意を表するということは,つぎのフランス語の文が真である証拠といえそうである。
文(3)が真であるとすれば,これを英語に翻訳したつぎの文も真であるはずだ。
しかるに,ピエールが文(2)に賛成することは,つぎの英語の文が真だという証拠である。すくなくとも,文(3)が真とみとめられるとすれば,つぎの文も同様に真とみとめられねばならない。
ところが,文(4)(5)を双方とも真とみとめるなら,ピエールはひとつのことがらについて,同時に,そうであり,またそうでないとかんがえていることになる。しかし,正気の人間がそのようなかんがえをいだくということがどうしてありえようか。
こうして,認知的文脈のなかに,'London'や'Londres'のような固有名がでてくるばあいには,個人の認知状態をすなおに表現しようとして,すじのとおらない結果におちいるばあいがあることがわかる。このことは,たしかに,固有名のような指示表現の通常のはたらきと,個人の認知状態の表現という目的とのあいだに,緊張関係があることをしめしている。
II 指示と因果連鎖
クリプキは,固有名のもつ独特の性格を,つぎのようにとらえる。固有名がさす個々のものは,現実に存在し,それ自体と同一である。このことは,固有名をもちいて指示をおこなう個人の認知状態とは独立の事実である。客観的に存在する指示対象と,特定の個人が特定の状況でおこなう指示行為とのあいだの,こうした独特の関係により,固有名は,固定的に指示するはたらきをもつ。すなわち,固有名は,発話の状況によっても,指示行為をおこなう個人の認知状態によってもかわることなく,つねに同一の対象を指示するのである。このような特徴をもつ指示表現は,固定的な指示語とよばれる。
固定的な指示語という部類に属するのは,固有名ばかりとはかぎらない。クリプキは,ものの一般的な種類をさす語のなかにも,固定的な指示語があるとかんがえる。これが,自然種名である。クリプキによれば,自然種名がさすものの種類,つまり自然種は,現実に存在し,固有の本質をもつ。このこともまた,個物の存在と同一性とおなじように,指示をおこなう個人の認知状態とは独立の事実である。それゆえ,自然種名による指示のしくみは,固有名による指示のしくみと類比的なのである。クリプキが自然種として想定しているものの具体例としては,元素や化合物の種類,生物の種などをかんがえればよいだろう。
さて,このようなクリプキの理論的見地によれば,固定的な指示語をもちいた指示は,指示をおこなう個人の認知状態に関係なく成立する。これは,指示のはたらきにかんするそれまでの定説にまっこうから挑戦する大胆なかんがえかたであった。
クリプキの指示にかんするかんがえかたの特徴は,それがもっぱら存在論的ないし形而上学的な考察にもとづいているということである。これにたいして,指示にかんするそれまでの定説は,むしろ,認識論的な考察にもとづくものだった。
言語表現をもちいてものを指示しようとするとき,指示をおこなおうとする個人は,もちいる表現に対応するある概念的内容を把握しているとかんがえられる。その概念的内容が,さししめされるべきものをほかのものから区別して特定することによって,指示が成功する。このかんがえかたは,一般に,フレーゲに由来するものとされている。フレーゲにおいては,ほんらい,指示の対象を特定する概念的内容は,個人のあたまのなかにある心理的なものではなく,公共的な抽象的存在である。しかし,指示の成功には,公共的な意義が,指示をおこなう個人によって把握されることが必要であるから,けっきょく,指示についてのこのかんがえかたのなかでは,個人の内的な,認知状態がどのようなものであるかということが決定的な重要性をもっている。5)
これにたいし,クリプキは,個人が内的にもっている概念的内容よりも,指示される対象と指示における語の使用とのあいだの,外的で実在的な関係のほうが,指示の成功にとって重要だとかんがえる。具体的には,指示される対象から語の使用にいたる因果連鎖が,指示の成功の条件の中心にあるとされる。この因果連鎖は,ある個人が指示表現をもちいておこなう指示行為に先行する,別の個人による,おなじ指示表現をもちいた指示行為の連鎖として実現する。このようなかんがえかたは,一般に,指示の因果説とよばれる。
III 因果連鎖と認識活動
因果説のみかたによれば,固定的な指示語をもちいた指示の成功と,指示をおこなう個人の認知状態とは,たがいに論理的に独立である。つまり,個人の認知状態は,指示の成功にとって,必要条件でも十分条件でもない。しかしながら,ある固定的な指示語をつかって,なんらかの現実に存在するものを指示するという行動が社会のなかで成立するためには,社会のどこかで,現実に存在する指示対象にかんする認識が成立している必要がある。個人による指示行為は,指示対象にかんする認識にもとづいて社会のなかで確立した行動にいわば寄生しておこなわれるのである。だから,指示の成功は,個人の認知状態には依存しないが,社会における認識活動に依存する。
個人による指示行為と社会的な認識活動とのあいだにある,このような関係を,ヒラリー・パトナムは,「言語的分業」とよんでいる。6)金(かね,ではなく,きん,つまり,化学記号Auで名指される物質)が自然種であるとせよ。たとえばわたしが,「女神が金のおのをもってあらわれた」という文を発話するとき,わたしは,金という物質についての思考を表現している,といえる。しかしながら,金にかんするわたしの認知状態は,世間のふつうのひとなみに貧弱なものである。とりわけ重大なことに,わたしは,金を,ほかの物質,たとえば黄銅鉱から区別して特定することのできるような知識をもちあわせない。にもかかわらず,わたしが,「金」という語をもちいて金にかんする思考を表現することができるのは,「金」によって金を指示するという行動が,社会的に確立しているからである。そして,この行動は,金をほかの物質から区別して特定することのできる専門家の認識にもとづいて,確立しているのである。「金」をふくむ文を発話するというわたしの言語的作業は,「金」と金とのあいだを直接的な認識によってむすびつける専門家の言語的作業にささえられてはじめて,現実に存在する金とのかかわりをもつことができる。
現実に存在する指示対象にかんする認知状態が個人個人によってことなるにもかかわらず,いかにして指示表現の意味論的値が社会的に共有されうるかを,言語的分業のメカニズムが説明すると,パトナムはみている。共有されている意味論的値が,認知状態から独立したものだとすれば,それはけっきょく,客観的に存在する指示対象そのものに帰着する。こうして,パトナムの議論は,指示表現の意味論的値を指示対象そのものであるとする,直接指示説をささえる方向へむかう。
しかしながら,現実に存在する対象を指示する行為は,つねに,その対象にかんする思考を表現する行為の一部でもある。このことを前提としてかんがえれば,言語的分業の過程は,同時に,認識的分業の過程としてもとらえられなければならない。つまり,現実に存在するものについての個人個人の思考が,社会における認識活動にささえられて,いかにして成立するかを説明するメカニズムとして,理解しなおされる必要がある。
現実に存在するものについての思考がいかにして成立するかという観点から,言語表現による指示を考察した論者のひとりに,ギャレス・エヴァンズがいる。7)エヴァンズも,現実に存在するものの指示の成立については,因果連鎖の重要性をみとめる。しかし,因果連鎖は,あくまで,指示対象にかんする思考が成立するための一条件にとどまる。指示の成功にとっては,指示対象にかんする思考の成立こそが本質的なのである。エヴァンズは,いわゆる指示の因果説にくみするものではない。かれの立場は,しばしば,新フレーゲ派ともよばれる。
思考のありかたという面から言語的−認識的分業の過程をみなおしてみると,あきらかにきづかれるのが,指示対象にかんする直接的認識をもつひとびとと,もたないひとびととがおかれている状況のちがいである。エヴァンズは,指示表現をつかう社会的な行動を「実践(practice)」とよぶ。この実践に参加するひとびとは,指示対象にかんする直接的認識をもつかいなかにおうじて,「生産者」と「消費者」に区分される。
指示表現をつかう実践をささえる「生産活動」は,たんに指示表現を発明するとか,それをさいしょに使用するとかいうことではない。生産活動とは,指示表現と指示対象とのつながりを確保する持続的な言語的−認識的作業である。したがって,生産者と消費者の区別も固定的ではなく,かつて消費者であった個人が,あとから生産活動にくわわることもありうる。
生産者は,指示対象にかんする直接的認識によって,その対象をほかのものから区別して特定することができる。典型的なばあいをかんがえると,通常の固有名の指示対象となる現実に存在する個物については,この直接的認識は,知覚的な認識となる。生産者は,固有名の指示対象を知覚的認識によって特定することができ,また,この知覚的認識にもとづいて,おなじ対象にふたたびであったとき,それを再認する(もとの対象と同一であるとみとめる)ことができる。それゆえ,生産者が,現実に存在するものについての思考を,固有名をもちいて対象を指示しながら言語的に表現するばあいは,その思考内容と指示対象とは,ほかの個人の言語的−認識的作業をかいせずにつながっているのである。
これにたいして消費者は,生産者の言語的−認識的作業に依存せずには,指示対象についていかなる思考をももつことができない。通常の固有名のばあいには,消費者は,指示対象にかんする知覚的認識をもたず,それを再認することができないという点で,生産者と決定的に区別される。消費者の,指示対象にかんする思考内容は,指示表現をもちいた指示行為の因果連鎖に本質的に依存して成立するのである。このように,生産者と消費者とでは,指示対象についてもつ思考の認知的内容も,その思考の成立における言語のやくわりも,おおきくことなるのである。
IV 認知的値と意味論的値
この節では,まえの節の考察をふまえ,言語表現の発話において,どのような認知的内容をもつ思考が表現されているかという新フレーゲ派的な観点から,信念のパズルをみなおしてみよう。
さしあたってきがつくのは,ピエールが指示表現を使用する実践にくわわるしかたが,語'Londres'と語'London'とにかんして,ことなっていることである。この結果,ピエールは,このふたつの語を,指示対象をおなじくするものとしては理解していない。
'London'の指示対象にかんしてピエールがもつ理解は,指示対象にかんする直接的認識にもとづいている。かれは,ロンドンのあれこれの街区を知覚的に認識しており,それらを再認することができる。こうした認識は,ロンドンのなかをあるきまわり,そこで生活するというしかたで,ロンドンと密接にかかわりをもつ行動からしょうずると同時に,その行動をささえるものでもある。ピエールは,'London'をもちいる実践にかんしては,あきらかに生産者のたちばにいるのである。
'Londres'にかんしていえば,ピエールによるこの語の理解をささえる認識は,より間接的であり,対象との密接な行動的かかわりをふくんでいない。とはいうものの,ピエールが,たんなる消費者のたちばにいるとばかりもいいきれない。かれは,写真やビデオをとおしてえた認識をもとに,ロンドンにある建築物や街区のいくつかを再認することができるかもしれない。もとより,写真やビデオをとおした認識が,直接の知覚にたいしてどういう関係にあるのかについては議論があろう。しかし,厳密には直接的でないしかたでも,対象にかぎりなく肉薄する認識をうることは可能である。たとえば,実験装置をとおした観測にもとづく認識は,いつでも推論や論理的構成にとどまるわけでなく,現実に存在する対象にかかわることができるのではないか。
いずれにせよ,ここで問題なのは,ピエールが,'London'にかんしては生産者であるのにたいし,'Londres'にかんしては消費者であるかどうかではない。問題は,ピエールが,それぞれの語を,対象にかんすることなった認識のしかたにもとづいて理解しており,それゆえ,このふたつの語を,指示対象をおなじくするものとしては理解していないということなのである。このことを,ピエールにとっては,ふたつの語は,ことなった認知的値をもつというふうに表現することができよう。
このように,ふたつの語がピエールにとってもつ認知的値がことなることによって,これらの語をふくむ文が,ピエールの思考にぞくするものとして表現することのできる内容は,制約をうける。
フランス文(1),英文(2)に賛意を表することによって,ピエールがある思考内容を表現しているものとせよ。このときさらに,ピエールは,じぶんのなまえが'Pierre'だとしってると仮定せよ。また,ポールは,ピエールとは別人で,英語とフランス語の両方をはなすとせよ。ポールは,ロンドン在住の,フランス人団体旅行客専門のガイドであり,当然,'London'と'Londres'とを,指示対象をおなじくするものとして理解しており,ロンドンのあらゆる街区を知悉しているものとする。つまり,ポールにとっては,'London'と'Londres'とは,おなじ認知的値をもつ。
以上の仮定のもとで,ピエールが(1)で表現できる思考内容をもっているということを,ポールが,フランス文(3)によって表現するのは正当である。ピエールじしんも,(3)をしめされたばあい,やはり賛意を表するであろう。このときまた,ポールは,ピエールが(2)で表現できる思考内容をもっているをもっているということを,英文(5)によって正当に表現できる。ピエールじしんも,(5)をしめされれば賛意を表するであろう。
問題は英文(4)である。ピエールじしんは,(4)をしめされたばあい,不同意を表明するであろう。つまり,ピエールは,自分が(1)の表現する思考内容をもっているということを,(4)によっては表現することができないのである。これにたいし,ポールは,(4)によって,(3)とまったくおなじ内容を表現することができるようにおもわれる。しかし,この「翻訳」の正当さは,ピエールがそれをうけいれないことによって疑問にふされる。つまり,(3)と(4)は,意味がおなじであるとは無条件にはいえないのである。
指示表現の意味論的値は指示対象そのものにほかならないとする,直接指示説によれば,'London'と'Londres'とは,おなじ意味論的値をもつ。しかし,(3)から(4)への「翻訳」が無条件にはなりたたないとすれば,'London'と'Londres'との意味論的値の同一性もまた,おなじように疑問にふされなければならない。
V 意味と認識
まえの節のようなかたちで,認知の次元の問題が,意味の次元の問題に影響をあたえると主張すると,議論のレヴェルの混同という非難をうけるかもしれない。たしかに,ピエールの特異な言語行動がひきおこす解釈上の問題は,かれのア・ポステリオリな知識の欠如に起因する。しかし,だからといってそれが言語の理解と運用の問題でなく,言語表現の解釈の問題ではないということにはならないのである。8)認知の次元と意味の次元の連動をみとめるなら,信念のパズルにたいする解答は,容易にえられる。その解答とは,つまり,おなじ言語をはなすすべての個人が,その言語にぞくする表現について,おなじ意味論的値を共有することを否定することである。
信念のパズルがいかにしてしょうずるかにかんしては,ピエールのような人物のおかれた認識的状況をかんがえれば,明晰に理解でき,そこになんらなぞはない。それにもかかわらず,パズルにたいする上記のかんたんな解答をうけいれるのにはつよい抵抗がある。これがこのパズルのやっかいなところである。
この抵抗の理由を説明することは,共有された意味論的値というかんがえの魅力を説明することでもある。さきに紹介したパトナムのかんがえかたが,おそらく,この魅力をもっともよく説明するだろう。パトナムによれば,個人のあいだの認知状態のちがいにもかかわらず,指示表現が,おなじ対象を指示することをはじめとする,一定の共通の機能をもつことができるのは,社会における認識活動のおかげである。この認識活動によってえられる認識内容じたいも,歴史をつうじて変化するばあいがある。たとえば,水のような化合物や電子のような基本粒子にかんする科学的知識の変化をかんがえよ。それでも,この知識の変化によって,「水」の指示対象がかわったり,「電子」の指示対象がかわったりすることはない。意味論的値がこれらの表現の指示機能を説明するものであるとすれば,その意味論的値もまた,知識の変化をつうじて同一のものであるはずだ。したがって,意味論的値は,人間の知識の変化と独立に同一性をたもつ,現実に存在する指示対象そのものにほかなるまい。この意味論的値は,個人の認知状態のちがいによっても変化することなく,指示表現を使用するすべての個人に共有されるのである。
たしかに,表現の指示機能の同一性を説明するために,意味論的値の同一性を想定することは自然である。このような想定は,直接指示論者だけでなく,意味論的値を公共的な抽象的存在とみなすフレーゲの見解にしたがうもののとるところでもある。
しかし,意味論的値を同一にして不変のものとして想定することには,表現を,思考の内容をあらわすために使用するしかたを,ただひととおりしかないとする帰結をまねく。思考の内容をあらわすために指示表現がもちいられるしかたは,ひととおりではなく,思考をもつ個人と,その当人であれ,他人であれ,その思考の内容を指示表現をつかってあらわす個人との認識的状況によってことなりうることは,クリプキのパズルにかんするこれまでの議論がしめしているとおりである。
であるとすれば,指示機能の同一性を説明するのは,意味論的値という存在者の同一性という,形而上学の次元の事実というよりも,むしろ,指示をささえる言語的・認識的作業に内在的な,言語使用の主体のがわにぞくする事実なのではないだろうか。つまり,現実に存在する対象にかかわる言語・認識活動,つまりエヴァンスのいうところの実践の連続性こそが,指示機能の同一性を説明するのではないだろうか。もとより,現実に存在する対象の同一性と,それにかかわる実践の連続性は,ともに,指示機能が成立するための必要条件である。しかし,指示機能の同一性の条件として,いずれをより根本的とみなすかによって,言語のはたらきと認識との関係のとらえかたには,すくなからぬちがいがでてくる。
そのちがいの第一は,指示表現の機能の同一性が,実践の連続性に依存するとすれば,その同一性は,実践に参加するひとびとの共同体に相対的なものとなるということである。この相対性をみとめるなら,ことなった指示表現について,それらが指示対象をおなじくするというだけで,それらの機能が同一であるとはいえなくなる。ことなった指示表現の機能が同一となるためには,それらをもちいる実践が融合し,一体のものとなる必要があるのである。
第二のちがいは,現実に存在するものの同一性は,同一であるか,あらぬかというふたつにひとつの問題であるのにたいし,実践の連続性は,より連続的であるか,より連続的でないかという,程度を許容するところからしょうずる。つまり,指示機能の同一性が実践の連続性に依存するとすれば,指示機能の同一性もまた,程度の問題となるのである。このことから,おなじひとつの実践に参加するひとびとのあいだでも,指示表現をもちいるしかたに差異があることが予想できる。
それにしても,ととわれるかもしれない。おなじ対象を指示すること以外に,指示表現の機能の同一性をなりたたせ,差異をしょうじさせるようなものがあるだろうか。そのようなものはたしかにある,とわたしはかんがえる。それこそすなわち,指示表現をふくむ文がもつ,一定の思考内容を表現するはたらきにたいして,指示表現がおこなう貢献であり,指示表現の認知的機能なのである。
VI 認識の共同体と言語共同体
指示表現の機能と言語的・認識的実践との関係にかんする以上のようなみかたからすれば,ひとつひとつの指示表現にたいして,ひとつひとつべつの,実践に参加するひとびとからなる共同体が存在することになる。
この主張にたいして,つぎのような疑問がしょうずるかもしれない。指示表現は,一定の意味論的なしくみをもった自然言語の一部として機能するものではないか。そして,ひとつの自然言語には,それがはなされるひとつの社会,すなわち言語共同体が対応するのではないか。だとすれば,指示表現に対応する共同体は,けっきょく,この言語共同体と一致するのではないか。そのばあい,指示機能の同一性を実践の共同体に相対的なものとし,それに程度の問題をみとめる議論は,なんら実際的な利点をもたないのではないだろうか。
しかし,こうした疑問はあたらない。じっさい,指示表現,とくに固有名の圧倒的多数は,ひとつの言語をはなす社会全体とくらべるのもおかしいほど,わずかのひとびとにしか理解され,使用されることがないのである。こういうありふれた固有名をじぶんのなまえとしてもつひとびとのことを,「なもないひとびと」という。他方,ひとつの言語をはなす社会の境界をこえて,理解され,使用される指示表現もある。'Descartes','Goedel'のような固有名,科学的探究の対象になる物質の種類をあらわす自然種名などが,その例である。クリプキは,「有名な都市,国,人物,惑星のなまえは,われわれの共通の言語の共通の貨幣である」とのべた。しかし,むしろ,それらは,認識の共同体の共通貨幣であるとのべるべきだったろう。
以上から結論するに,指示表現をもちいる言語行動は,個人の認知状態にそくしてのみ,合理的に理解されるのである。ただし,その認知状態じしんを理解するには,その個人のおかれた言語的・認識的状況,とりわけ指示表現をもちいる実践におけるそのひとの位置を参照する必要がある。このようにかんがえれば,クリプキのパズルは,指示表現をもちいるわれわれの言語活動に,内在的な矛盾があることをなんらしめしてはいない。
VII 言語の認知的はたらきと言語活動への社会的要請
では,クリプキのパズルによってしめされた,「指示表現の通常のはたらきと,個人の認知状態という目的とのあいだに」ある,「緊張関係」(§I)は,たんにみかけ上のものにすぎないのだろうか。かならずしもそうではない。
クリプキは,上に引用した「共通の貨幣」うんぬんの叙述に関連して,'Londres'や'London'などの固有名の使用にかんする事実を習得することは,フランス語や英語を習得することの一部であるとのべている。この主張は,たしかにもっともらしくきこえる。また,この主張がもっともであるとおもわれるだけ,それだけに,ピエールのおかれた状況は,きみょうな,あるいは,異常といってもいいようなものだとおもわれるのである。しかし,ここでいうようなしかたで,正常であるとか異常であるとかいうことは,なにによってきまるのだろうか。
現代にいきるひとりの人間が,指示表現をもちいることによって,それについての思考を表現できるような,現実に存在する対象は,みぢかな人物から宇宙のかなたの天体にいたるまで,きわめてかずおおい。しかし,通常のばあいは,これらの対象のひとつひとつのすべてについて,対象そのものと密接にかかわる行動をおこない,それにともなってえられるような種類の認識をもつことはできない。つまり,われわれはだれしも,おおくの対象について,それを指示する表現をもちいる実践において,消費者のたちばにとどまらざるをえないのである。
ひとが,指示表現をもちいる実践に,消費者としてくわわる理由はさまざまであろう。指示対象そのものに,その本人が直接的なかかわりをもつことはないにせよ,おなじ実践にくわわる他人と共有する生活上の状況全体にとって,指示対象のはたすやくわりが重要であるゆえに,その対象にかんする思考を表現する手段が必要になるばあいもあろう。わたしが,ガリレオやアダム・スミス,はたまた金やウラニウムと直接の交渉をもつことはあるまいが,これらの対象にかんする思考をもたずして,現代の人間がおかれている状況についてまともな理解をもつのはむずかしいにちがいない。
他方,指示対象にかんする思考を表現する内発的な動機がないか,希薄であるにもかかわらず,外からの圧力によって,なかば強制的に消費させられる指示表現が,多数存在する。これらは,公的・私的な教育装置やマスメディアをつうじてわれわれの言語生活にはいりこんでくる。「楠正成」「キグチコヘイ」「大川隆法」などはこのたぐいであろう。
指示表現が,純粋に内発的な動機や,純粋に外的な圧力によって消費されることはむしろまれであって,おおくのばあいは,内発的な動機と外的な圧力とが,りょうほうともに,指示表現の消費をかいした認識・言語行動に影響をあたえるであろう。
ピエールのばあいのような緊張関係は,指示表現の消費活動に参加させようとする外からの要請と,個人が現実におこなっている消費活動への参加のしかたのずれからしょうずるといえないだろうか。フランス語を母語とする人間が英語を習得するばあい,'Londres'と'London'が指示対象をおなじくすることをも習得するのが正常とされ,これを習得しそこなうのは異常とされる。なぜなら,第二言語を習得するものは,一方の言語をはなす個人からなる認識の共同体と他方の言語をはなす個人からなる認識の共同体とがかさなる部分にたって,ふたつの共同体を,したがってふたつの実践を結合するやくわりをはたすことが,社会的に要請されるからである。クリプキのパズルがしめす緊張関係にかんするこの診断がただしければ,言語の認知的はたらきのレヴェルにおける「矛盾」は,認識・言語行動における,個人にぞくする内発的な論理と,認識・言語活動にたいする社会的な要請のあいだに発生するといえる。
いま,認識・言語活動にたいする外的な圧力を,社会的なもの,と特徴づけた。直接には,この圧力は,さきにのべたのように,公的・私的な教育装置やマスメディアをつうじてはたらく。これを社会的なものいうことばでひとくくりにするのは,すこしあらっぽいやりかたかもしれない。しかし,これらの装置のはたらきをささえるシステムのはたらきが,ひとつの社会における認識・言語活動のわくぐみとなっているという意味で,やはり,ここでは,社会的な要請という表現をえらぶことにする。
もとより,社会的な要請が,人間の認識・言語活動にとってたんなる外的な夾雑物だというつもりはない。外的な圧力による言語表現の消費が,個人個人の認識活動の範囲をひろげ,思考内容をもゆたかにするやくわりをもちうることもたしかである。
しかし,認識・言語活動の社会的な側面は,個人の認識・言語行動によってささえられてはじめてなりたつものである。認識・言語活動の社会的な側面を,言語共同体,意味論的値などの概念をもちいて固定的に理論化するなら,クリプキのパズルのようなケースは,ときがたい背理としてのこるだろう。このことを,さいごに確認しておきたい。
附録 知識・理解・解釈
クリプキは,以下にのべる'Paderewski'/'Paderewski'の例を,'Londres'/'London'のばあいとおなじ問題をふくむものとしてあげている。
パデレフスキ(Paderewski)は音楽家でありかつ政治家である。ピーター(Peter)は英語を母語としてはなすとしよう。かれはある場所で'Paderewski'という名の才能ある音楽家についてききしった。この結果,かれはつぎの文に同意する。
ピーターはまたべつの場所で'Paderewski'という名の政治家についてききしった。かれは,政治家は音楽の才能がないものだという通念をうけいれているので,政治家のパデレフスキが音楽家のパデレフスキと同一人物ではないかなどとおもってもみない。かれはつぎの文に同意する。
'Londres'/'London'のばあいと同様にして,これより,つぎのふたつの文が真であることになる。
(IV) Peter believes that Paderewski has no musical talent.
(ピーターは,パデレフスキには音楽の才能がないとおもっている。)
ピーターが,自分が'Peter'という名前であることをしらないというようなばあいをのぞいては,ピーターに(III)と(IV)をみとめさせることはできるだろう。それでもかれは自分が矛盾した内容の信念をもっているとはみとめないだろう。このときピーターがこれらの文を理解しているしかたは,どうみても特異である。かれは,(III)における'Paderewski'と(IV)における'Paderewski'を,同一の語として理解しているのではなく,ことなった認知的値をもつふたつの語として理解しているのである。
この例では,'Londres'/'London'の例よりもひとつすくないステップで,すなわち「翻訳」ぬきで,パズルが導出されるようにみえる。しかし,じつは,つぎのようにかんがえるのがより正確である。ピエールがフランス語の文(1)と英語の文(2)に同意することからパズルをひきだすのには「翻訳」が必要であった。それとおなじように,ピーターがふたつの英語の文(I)と(II)に同意することからパズルをひきだす過程で,ピーターの言語行動に,ピーターじしんの解釈とはことなった解釈がほどこされている。このような解釈のおしつけは,いいかえれば,ピーターの個人方言から解釈者の個人方言への不適切な「翻訳」である。ふたつのばあいにおけるパズルの導出過程は,「同音翻訳」のかくされたステップをおぎなうことによって,まったく並列的なものであることがわかる。
「同音翻訳」が必要であることによって,おなじ言語をはなす個人のあいだでも,表現の意味論的値が共有されていることは無条件には保証されていないことがわかる。それゆえ,おなじ言語をはなす個人の言語行動をもとに,そのひとに思考内容を帰属させるばあいでも,(I)から(III),(II)から(IV)のような進行のしかたがつねに妥当とはかぎらない。ア・ポステリオリな知識の差によっておなじ言語をはなす個人のあいだに言語運用上のゆれがしょうずるばあいがある。そのようなばあいには,個人の認知状態を考慮にいれなければ,適切なしかたで,そのひとの思考内容を表現する文に解釈をあたえることができないばあいがあるのである。
註
1) 言語活動の規則依存性とコミュニケーション活動の論理との関係については,拙稿「「言語が社会的である」という「矛盾」」,関西唯物論研究会編『唯物論と現代』16号,文理閣,1995年を参照されたい。
2) Saul A. Kripke, Naming and Necessity, Harvard University Press, 1980.
3) 基本的な文献については,Leonard Linsky, ed. Reference and Modality, Oxford University Press, 1971; Nathan Salmon and Scott Soames, eds. Propositions and Attitudes, Oxford University Press, 1988, などをみよ。
4) Kripke, 'A Puzzle about Belief', in A. Margalit, ed. Meaning and Use, Reidel, 1979. Repr. in Salmon and Soames, 1988 (see the previous note).
5) Gottlob Frege, 'Ueber Sinn und Beduetung', Zeitschrift fuer Philosophie und philosophische Kritik, C, 1892. Repr. and trans. in various anthologies.
6) Hilary Putnam, 'The Meaning of 'Meaning'', in Keith Gunderson, ed. Minnesota Studies in the Philosophy of Science, vol. 7, Minnesota University Press, 1975. Repr. in Putnam, Philosophical Papers, vol. 2, Cambridge University Press, 1975.
7) Gareth Evans, The Varieties of Reference, John McDowell, ed. Oxford Univeristy Press, 1982, esp. chap. 11.
8) このことは,クリプキが提出しているいまひとつの例を検討することによってよりはっきりする。附録を参照されたい。