言語の本性と社会性

伊勢 俊彦

梅林誠爾・河野勝彦編『心と認識 -- 実在論的アプローチ』 昭和堂、1997年10月 所収


はじめに

1 言語のはたらき−−認知とコミュニケーション
 言語のはたらきは多様である。ひょっとすると、それは際限なく多様であるのかもしれない。たとえば儀礼、あそび、芸術のような活動のなかで言語がはたしているやくわりについてかんがえてみよ。この多様性にくわえて、これまでだれも想像だにせず、いかなる既存の分類にも属しないような言語のはたらきが発明されないともいいきれない。
 しかし、ふつうに生活しているなかでおこなわれるありきたりの言語活動に範囲をしぼってかんがえると、その大半は、ふたつの基本的なはたらきをもった発話(はなす、あるいはかくという、個々の行為)からなりたっている。ふたつの基本的なはたらきの第一は、命題的な内容(事実にてらして真あるいは偽となりうるような情報)を表現することである。また、しばいのせりふの練習などは別として、おおくのばあい、命題的内容をもつ発話をおこなうことは、すなわち、言明、要求など、特定の、コミュニケーション上の目的をもった行為をおこなうということである。この、コミュニケーション的行為をおこなうことが、言語の基本的なはたらきの第二のものである。第一のはたらきは、認識や思考の内容を表現するはたらきであり、これを言語の認知的はたらきとよぶことができよう。第一のはたらきが成立することは、第二のはたらきが成立するための前提条件ともなっている。第二のはたらきは、言語のコミュニケーション的はたらきとよぶことができよう。
 小論の目的は、いわゆる言語の社会性と、これらふたつの言語のはたらきとの関係を検討することにある。

2 言語研究のふたつのアプローチ
 「言語が社会的なものである」ということは、いっけん自明の理であるかのようにおもわれる。人間の言語能力は、潜在的には、すべての人間に普遍的かつ生得的にそなわったものかもしれない。しかし、ひとりひとりの人間にとってみれば、社会のなかでうまれそだつことによってはじめて、言語能力は実現する。また、ひとりひとりがうまれそだつ社会に特有のしかたで、つまり、特定の言語をつかう技能としてのみ、言語能力は実現するのである。さらに、言語の具体的なはたらきは、言語的なメッセージの発信者と受信者とのあいだの社会的な関係をつうじて実現するのである。
 言語のしくみとはたらきにかんする理論的探究においても、言語が社会的なものであるという直観は、けっして無視されてきたわけではない。哲学的反省が言語の本性にむけられはじめた一八世紀においては、言語の起源の問題が、人間社会の歴史にたいするみかたと密接なかかわりをもって論ぜられた。もとより、ともすると空虚な思弁におちいりがちなこのての議論には、現代の言語研究は禁欲的である。しかし、研究者の禁欲と反歴史主義にかかわらず、言語が社会的なものであるという直観にささえられたアプローチは、さまざまなかたちをとって出現してきている。言語をつかうことが社会的な行為のひとつであるという認識から出発する言語行為論は、そのひとつの例である。
 いっぽうで、言語が社会的なものであることを度外視するかのようなアプローチが、言語研究のなかでおもきをなしていることも事実である。言語活動を構成するものは、言語表現の発話とそれへの反応であり、これらは、特定のときとところでしょうずる、具体的なできごとである。しかし、こうした具体的な言語活動をつうじてはたらいている言語のしくみは、その個々の実現である言語行動をつうじてかわらないかたちで存在している一般的なものであるとかんがえられる。この一般的・抽象的な構造物としての言語のしくみが言語研究のほんらいの対象であるというかんがえかた。これこそが、現代の言語研究を特徴づけている支配的なかんがえかたである。このかんがえかたは、ときをつうじて変化する言語活動のありかたにたいして、ときからきりはなされた言語の抽象的構造、その「共時態」を言語学のほんらいの対象としてたてるアプローチをささえるものである。また、数学的などうぐだてで記号表現の真偽の条件をとりあつかう論理的な意味論研究もまた、おなじ基本的なかんがえかたにたつ。科学的であることを標榜する言語研究が歴史哲学的な思弁から独立したかたちで出発するうえで、このかんがえかたが重要なやくわりをはたしたことはたしかだろう。

 言語が社会的なものであるという直観を中心にすえるアプローチと、それを度外視して出発するアプローチ。そのりょうほうとも、言語活動の全体のなかからそれぞれがとりあげて解明しようとする側面や領域にかんするかぎりでは、それなりに妥当性をもっている。しかし、言語活動を、人間の認識と行動の全体のなかに位置づけるとき、それぞれのアプローチをおたがいにどう関係づけたらいいのだろう。ふたつのアプローチは、そのままのかたちでつきあわせてみると、矛盾しているようにみえる。
 小論は、言語研究のふたつのアプローチのあいだの「矛盾」を検討することからはじまる。「矛盾」はまず、言語のしくみの抽象的な構造と具体的な言語活動とのあいだにあるものとしてとらえられる (1)。しかし、このみかけの「矛盾」は、具体的なものの世界と抽象的なものの世界とのあいだで発生しているのではなく、具体的な言語活動の総体のなかにみなもとをもっていることがわかるだろう。具体的な言語活動のなかでは、この「矛盾」は、コミュニケーションにおける個人の行為の合理性と、言語の使用が社会的に確立された規則にしたがうこととのあいだにあらわれるのである(2)。この「矛盾」は、言語の認知的はたらきのレヴェルでは、認識・言語活動にたいする社会的な要請と、個人の認知状態を規定する認識・言語行動の論理とのあいだで、はっきりしたかたちをとってあらわれる。これが、言語哲学者の呈示する、ある「パズル」の源泉ともなる。小論は、さいごの章で、この「パズル」の解決の方向をもしめしながら、この「矛盾」が、人間の認識活動にとってもつ役割を論ずる(3)。


1 言語のしくみと言語活動の「矛盾」

 言語にかんするふたつの基本的なかんがえかたのあいだの関係を、「矛盾」としてとらえる着想を、筆者はデイヴィッド・ルイスの議論 におうている。*ルイスは、つぎのふたつの主張を、「定立」と「反定立」としてしめしてみせる。
 「定立」によれば、言語とは、言語表現に意味をあたえるしくみであり、意味とは、言語表現がある状況のもとで真となるか偽となるかをきめるしくみである。このしくみは、集合と関数という数学的などうぐだてであらわすことができる。
 「反定立」によれば、言語とは、社会的な活動のひとつの形態である。この社会的な活動に参加するひとびと、つまり、言語的なメッセージの発信者と受信者は、それぞれ、個人として合理的に行動する。それと同時に、言語活動の総体は規則性をもつ。この規則性は、きまり(convention)である。まとめると、言語とは、合理的であり、かつ、きまりに支配された、人間の社会的な活動のひとつの形態である。
 conventionという語は、一般的には、大きな会合をさすか、国家や紛争当事者どうしの協定をさすか、世間でみとめられた慣習的なルールをさす。哲学の文献では、あるシステムに固有のとりきめをさすこともある。たとえば、ある論者によれば、真理がなんであるかは、真理を表現する記号体系のconventionによってきまる。また、べつの論者によれば、科学理論において、空間をユークリッド幾何学の基本的な仮定に一致するものとするか、そうでないとするかは、記述のわくぐみにかんするconventionの問題である。この文脈でいわれるconventionには、通常、規約という語があてられる。ルイスは、conventionという語のこうした多義性を利用(悪用?)して、この語に独特の理論的な内容をあたえている。このあと、conventionという概念を、言語を哲学的に理解するうえでどうとらえるべきなのか、ルイスの提案をふくめて検討する。そのとき、慣習とか規約とか、特定のニュアンスをせおった語をあててしまっていたのでは、はなしがうまくすすまない。そこで、ここからさきでは、conventionに、「きまり」という語をあてていくことにする。
 くわしい定義** は省略するが、ルイスのかんがえでは、きまりとは、ひとことでいうと、べつにそうきまっている必然性はないが、いったんきまると、それにしたがうほうが、おたがいの利益になるので、そのままつづくような規則性のことである。たとえば、自動車が道路のひだりがわをはしるというのも、ひとつのきまりである。くるまはひだり、というのはべつに必然的ではない。げんに、くるまがみちのみぎがわをはしっているくにが、たくさんある。しかし、いったん、くるまはひだり、というのがきまりになると、そのきまりと反対のことをするのは、はなはだ不便であるのみならず、危険きわまる。ルイスによれば、言語活動がそれぞれの社会でおこなわれる特定のかたちをきめているしくみも、そのようなきまりの一例であるというのである。
 ルイスの「定立」は、数学的論理学を土台にした意味論研究のかんがえかたを、単純なかたちであらわしたものである。これにたいして「反定立」は、言語活動のありかたを理解するうえで、言語をつかうことが社会的な行為のひとつであるという認識を中心におくアプローチを代表している。この傾向の議論においては、しばしば、言語をつかうことが、チェスや野球のようなゲームをプレイすることとの類比で考察される。言語をつかう活動が、さまざまなゲームとおなじように、規則にしたがっているというかんがえが、この類比のもとになっている。ルイスの議論の独創性のひとつは、この規則のはたらきを、うえにのべた、きまりの独自の概念によってあきらかにしようとしたことにあるわけだ。
 ルイスによる「定立」と「反定立」の呈示には、注目すべき点がもうひとつある。それは、「定立」と「反定立」のそれぞれにおいて、「言語('language')」とよばれているものは、内容的にちがったしかたでとらえられているだけではなく、ことなった存在形態をもつものとして、とらえられているということである。「定立」における「言語('language')」が加算名詞であり、複数形をもつのにたいし、「反定立」における「言語('language')」が非加算名詞であり、基本的には複数形をもたず、無冠詞でもちいられることに、そのことがしめされている。すなわち、「定立」における「言語」は、一定の条件をみたす抽象的な構造物であり、この条件に適合するがゆえに「言語」とよびうるような存在は、論理的にはいくらでも存在することができる。中国語や英語など、いわゆる自然言語も、抽象的にとらえれば、このような条件をみたす構造をもっている。これにたいして「反定立」における「言語」は、ひとつの社会における人間の活動の一部門の総体である。これは、定義上、ひとつの社会にたいしてひとつしか現実に存在することができないものであるから、非加算名詞でさししめされるのである。この区別は、フランス語の'langue'と'langage'のように、それぞれに対応するべつの語型の名詞をもつ言語(langue)で表現すれば、比較的あきらかである。しかし、おおくの言語は、このふたつのことがらをあらわすのに、ひとつの名詞しかもっていない。とりわけ日本語には、冠詞や単数複数の区別もないので、この区別は簡潔には表現しにくい。それだけに、日本語で議論するばあいには、この区別をみおとしがちである。しかし、「言語」を論ずるさいには、ここで区別されたふたつのうちどちらの内容で論じているのかを、つねに念頭においておく必要がある。
 では、この「定立」と「反定立」とをいかにして「綜合」することができるのか。まず、ルイスの提案をみてみよう。ルイスによれば、抽象的構造としての意味論的しくみと、社会における具体的なできごととしての言語活動の総体とのあいだを媒介するのは、きまりである。きまりをかいして、社会(ひとびとの集団)は、ある特定の意味論的しくみをもった言語を使用する。
 ルイスのかんがえでは、このこたえはたしかにただしいが、あまりにも一般的にすぎる。理論的にみのりのあるこたえは、きまりの内容をより明確にすることによって、ある特定の言語を使用するとはいかなることなのかを、あきらかにしなければならない。ルイスは、言語を使用するきまりとは、その言語における誠実と信頼のきまりであるという。このきまりにしたがって、メッセージの発信者はできるだけ真なるメッセージを発信するようにつとめ、受信者は、メッセージを真なるものとしてうけとめるようつとめる。このきまりが維持されるのは、コミュニケーションをおこなうことに、社会のメンバーの共通の利益があるからである。
 言語をつかう活動を支配するきまりは誠実と信頼のきまりであるという、ルイスの主張のポイントのひとつは、誠実と信頼のきまりというしくみをかいして、言語表現の意味論的性質、つまり真であるということと、人間の行動を説明するこころの状態、つまり信念(事実にかんするかんがえ***)、 欲求、意図、理由などとを、りょうほうとも、言語活動の説明のなかにとりいれることができることにある。なお、ここで、真であるという意味論的性質は、事実にかんしてある主張をおこなうメッセージ(言明)にあてはまるばかりでなく、ある事実の実現をあいてにもとめるメッセージ(要求)やある事実の実現にかんする責任をひきうけるメッセージ(約束)など、ほかのタイプのメッセージにもあてはまるよう、ひろく理解されなければならないのはいうまでもない。


2 言語活動のなかにある「矛盾」−−合理性と規則性−−

 ルイスが、その「定立」と「反定立」とをつうじてしめし、「綜合」によって解決しようとした問題は、数学的論理学にもとづく形式的な意味論研究のアプローチと、社会的な行為として言語活動を理解しようとするアプローチを、いかにして調和させるかということであった。ここにあらわれた問題の根本は、たんに言語という特定領域の研究のアプローチの妥当性にかかわるだけではない。それは、意味論的なしくみにかんする研究を、人間のこころと行為にかんする全体的な展望のなかにどう位置づけるかという、哲学的な洞察の必要な問題につながっている。
 このように、問題をより一般的にとらえたうえで、それにたいする解答のこころみとして、ルイスの議論をみなおしてみよう。すると、ルイスが議論のなかで当然のこととして前提しており、したがって議論の対象となっていないことがらがもつ問題のおおきさが、あらためてあきらかになってくるのではないだろうか。

1 合理的活動としてのコミュニケーション
 ルイスは、「反定立」の呈示のなかで、言語活動がきまりに支配されていることを、当然のこととみなしている。ルイスのかんがえでは、必要なのは、きまりの概念を明確にし、言語活動のなかでのきまりのはたらきをはっきりさせることだけである。しかし、ルイスもいうように、言語活動は人間の合理的な行動のひとつの形態である。合理的な行動が、同時にきまりに支配されるということがそもそもいかにして可能なのか。これじたい、おおいに説明を要することがらである。さらにいうなら、行動が合理的であるということと、それがきまりに支配されるということとは、すでにひとつの矛盾ではないだろうか。
 人間の行為を形式的に理論化するにさいして、一般に、合理的な行動は、個人の信念と欲求にてらして、適切に選択された行動であると定義される。この定義では、信念と欲求の内容や優先順位が問題にされないので、具体的な状況とあわせてかんがえると、いろいろ難点がでてくる。しかし、ここでは、行動を説明する理由を構成するのが、信念や欲求など、個人のこころの状態であることを確認しておけば、それでじゅうぶんである。
 言語行動を合理的行動としてとらえたとき、メッセージの発信者と受信者は、どのような理由によって行動を選択するということになるのだろうか。メッセージの発信者は、しかじかの音声や記号をだしてみせる、あるいはきかせることによって、受信者がある種の信念を形成し、ある種のしかたで行動するだろうとかんがえる(信念をもつ)。また、発信者は、受信者がその種の信念を形成し、その種のしかたで行動することをほっする(欲求をもつ)。受信者は、発信者がはっする音声や記号から、発信者のこころの状態と、そのこころの状態がしょうじた原因状況とを推論する。その結果、受信者は、その推論の結論をうけいれ(信念を形成し)、あるいはさらに、そこで形成された信念、および自分がもっているそのほかの信念や欲求にてらして、適切な行動をとる。
 言語行動においては、発信者と受信者がそれぞれの理由をもって行動するだけではない。おたがいは、あいての行動の理由について信念ないし知識をもっており、それが、じぶんの行動の理由の一部にもなっている。また、おたがいに、あいてがじぶんの行動の理由について信念ないし知識をもっておりとかんがえており、そのこともまた、じぶんの行動の理由の一部になる。すなわち、発信者は、ある意図をもってメッセージを伝達するとともに、その意図をもまた伝達しようと意図する。受信者は、あるメッセージを理解するとともに、その意図を理解し、意図が理解されるよう意図されていることもまた、理解する。このような複合的な意図の構造が、記号など、人為的な手段をもちいる、コミュニケーション行為の意味作用が成立するしくみの基礎にある。人為的な意味作用(非自然的な意味)のメカニズムのこの図式は、ポール・グライスの提案によるものであり、ルイスもみとめている。 ****
 言語行動を合理的に説明する理由を構成するのは、メッセージの発信者と受信者のこころの状態、すなわちその信念と欲求とである。また、これらのこころの状態は、「‥‥だ」という信念、「‥‥であるように」という欲求という形式をもつ。すなわちそれらは、命題に対応する内容をもち、意味作用をもっている。こころの状態が意味作用をもつことが、言語表現や言語表現をはっする行為(言語行為)が意味作用をもつための前提ではないのだろうか。ところが、これらのこころの状態を形成するメカニズムも、こころの状態の内容と意味作用も、いかなる人為的な規則性にも依存していない。
 言語行動においては、メッセージの発信者の側の理由、意図と、受信者のがわの理由、意図とが、おたがいに依存しあった複合的な構造をつくる。このメカニズムをつうじて、メッセージを伝達する行為の意味作用がしょうずる。つまり、コミュニケーションにおける意味作用がしょうずる。この意味作用は、人間のこころの状態の意味作用から人為的なしかたで派生する。しかし、このメカニズムのはたらきは、やはり、規則性には依存していない。するとけっきょく、合理的なコミュニケーション行動が成立するために、規則性は本質的には必要ではないのではないか。そうだとすると、規則性の一種であるルイス式のきまりも、当然、コミュニケーションにとって必要ではないことになる。

2 コミュニケーションときまり
 すると、言語活動がルイス式のきまりに支配されていることが論理的に必然的であるとすれば、言語活動を構成する言語行動の中には、たんなる合理的なコミュニケーション行動ではないものが存在しなければならない。そして、たんなる合理的なコミュニケーション行動ではないような言語行動はたしかに存在する。しかし、そのような言語行動の考察はすこしさきへのばすことにしよう。ここではもうすこし、コミュニケーションときまりとの関係についてかんがえてみたい。
 第1節でものべたように、きまりという概念の内容は一義的ではない。それはひとつの概念というより、ことなった内容をもついくつかの概念の群落である。ルイスの提案は、世間でみとめられた慣習という直観的概念の内容を、理論的に解明しようとしたものだといえよう。ルイスは、きまりの例として、(ルイスのすむ合衆国では)くるまはみぎ、毒物にはどくろマークをつける、世間のひととおなじような服装をする、などをあげている。ルイスはまた、みずからのきまりの概念の理論的な源泉として、デイヴィッド・ヒュームの議論をあげている。*****たしかに、ルイスのきまりの概念と、ヒュームのきまりの概念には、えだはの部分でにたところがある。しかし、わたしのかんがえでは、ねっこのところ、議論のもとにある根本的な直観の部分で、ふたりのきまりの概念はことなっている。
 ルイスのきまりの特徴を簡単にくりかえすと、それは、それにしたがうほうがおたがいの利益になるので、そのままつづくような規則性である。ヒュームがきまりによって説明しようとしたのは、なによりもまず、他人のものにはてをださないという、道徳的規範であった。いいかえれば、ものをそれぞれの人の所有に帰することにかんする規範、すなわち正義の問題を、ヒュームは第一の考察対象とした。ヒュームはたしかに、この規範に一致した行動が、社会的にみとめられた慣習として未来にわたってつづいていくメカニズムについてもかんがえている。このメカニズムは、ルイスのきまりを永続させるメカニズムと内容的にかさなっているといえる。
 しかし、ヒュームの議論の中心は、きまりにしたがう行動パターンを永続させるメカニズムよりも、むしろ、きまりにしたがう行動を成立させるメカニズムのほうにある。つまり、ヒュームのきまりの概念は、きまりがいったん成立したあとでそのまま存続することよりもむしろ、きまりがそもそも成立する可能性を説明しようとするものなのである。これにたいして、ルイスは、じぶんのきまりの概念のなかには、きまりの起源を説明するものはなにもないと、はっきりのべている。先行して確立した規則性を永続させるメカニズムによって、規則性そのものの成立を説明できないのは当然だろう。
 ヒュームが正義の規範の成立をきまりによって説明しようとしたとき、トマス・ホッブズの社会契約の説が念頭にあったであろう。ホッブズによれば、(ジョン・ロックのばあいとちがって、)自然状態では正義は存在せず、正義の規範は社会契約によってはじめて成立する。契約や約束がそもそもいかにして成立しうるかを説明しなければ、契約や約束によってなにかを説明することはできないというのが、ヒュームのかんがえであった。そこで、正義の成立の可能性と、約束の成立の可能性とを、ふたつながらに説明するしくみとして、きまりの概念をもちだしたわけである。したがって、きまりは、契約や約束とおなじものではない。しかし、きまりの概念の直観的内容としてヒュームが想定していたのは、世間の慣習というより、二者のあいだの協定というものであったはずである。じっさい、ヒュームは、きまりのもっとも単純な例として、ふたりのひとが一そうのふねをこぐばあいをあげている。これは、個人と個人とのあいだに、個別の状況におうじて成立する協力関係であり、その状況をはなれた、永続的な社会関係がふたりのあいだに存在することを、なんら必要としていない。このような、個々の状況におうじて成立する協力関係がきまりの原型であり、社会全体に通用する正義のような規範は、この原型を拡張した例として説明されるのである。
 ヒュームは、ひとことでいうに、きまりとは、共通の利益の感覚であるとしている。この感覚が、二者のあいだで、たがいにたいして表明されることから、決断と行動がしょうずる。きまりにしたがう行為においては、二者のそれぞれの行動は、相手の行動に依存しており、あいてがあることを実行することを前提として実行される。いいかえれば、きまりにしたがう行為においては、あいての行動の理由についての知識が、じぶんの行動の理由の一部になる。それと同時に、じぶんの行動の理由があいてに知られていて、それがあいての行動の理由の一部になることも想定されている。そして、このこともまた、あいての行動の理由についての知識の一部として、じぶんの行動の理由の一部になるのである。ここには、グライス式のコミュニケーションのメカニズムがみてとれる。グライス式のメカニズムのはたらきが、ルイス式のきまりに依存しないことはすでにみたとおりである。
 以上みたところによれば、言語行動がヒュームのいうかたちできまりに依存しているとしても、そのことから、言語行動が規則的であるということは、論理的にはでてこないのである。

3 ゲームと言語
 ただ、ヒュームのきまりの概念には、社会において確立したひろい意味での制度としてきまりをとらえることにつながる要素もまたふくまれている。それは、きまりよって成立する行為を評価する道徳的規範は、人為的であるという論点である。たとえば、正義は人為的な徳とされる。きまりに依存する行動は、ひとつひとつの行動を分離してかんがえたばあいには、道徳的な行為として、あるいは合理的な行為として評価できる完結した性質をもたない。あいてがきまりにしたがっていなければ、じぶんの行動がきまりにしたがっていたとしても、行動の目的は達成されず、期待した利得がえられないからである。きまりにしたがう行動においては、行為の理由が存在するかどうか、したがって行為が正当化できるかどうかが、いいかえれば、行為の意義じたいが、他人の行動のありかたに依存する。このような行為は、それぞれの行為そのものとして、固有な、いわば自然な意義をもたないがゆえに、このような行為を意義づける規範は、人為的とよばれるのである。
 ヒュームのきまりの概念は、規則性や永続性を論理的に含意してはいない。しかし、ヒュームがきまりの概念によって第一に説明しようとした正義は、社会的にみとめられた規範として、規則的で永続的なはたらきをもっている。ということは、論理的にいえば、きまりは規則的で永続的である必然性はないが、事実の問題としては、規則的で永続的なきまりが存在するわけである。このような規則的で永続的なきまりに支配される人間の活動の領域を、制度ということにしよう。とすれば、言語活動もまた、そのような制度であるというかんがえがなりたつだろう。このようにかんがえかたを前提にすると、人為的であるというヒューム式のきまりの性質は、言語活動のなかの、先行して確立した規則性にしたがう、慣習的な要素によくあてはまるようにみえてくる。
 ある種の言語行動は、それに先行して確立した規則や慣習をはなれて、なんらの意義ももっていないようにみえる。たとえば、各種のゲームを進行させるための定型的な発話がその例である。ルイスの「反定立」を紹介するさいにものべたように、言語をつかうことが社会的な行為であるというたちばにあっては、言語をつかうことを、ゲームをプレイすることと類比的であるとするかんがえかたが有力である。ゲームの手は、ゲームの規則をはなれては、なんらの意義をももたない。それと同様に、言語行動は、言語の規則をはなれては、なんらの意義をももたないのだろうか。言語行動がなんらかのゲームの手であるばあいには、もちろんそうであろう。このような言語行動が存在することはたしかである。しかし問題は、おなじことがはたして言語行動一般についてもあてはまるのかということである。
 言語行動一般がゲームの規則のような規則に支配されているというかんがえかたをとる論者として、ジョン・サールがいる。サールは、言語の規則は、ゲームの規則同様、構成的な規則であるとかんがえる。構成的な規則というのは、その規則にしたがう行動が、規則をはなれてはなんらの意義をももたないような規則である。たとえば、チェスにおけるチェックメイトとはなにかということは、チェスというゲームの規則に言及しなけば、いいあらわすことができない。これにたいして、構成的でない規則のばあいは、それがかかわる行動は、もともと、規則とは関係なく意義をもっており、規則に言及せずにいいあらわすことができる。たとえば、道路のうえにくるまをはしらせるという行動は、その速度を時速70kmに制限する規則とは関係なしに、それじたいとして理解することができるのである。
 サールのかんがえでは、言語行動の基本的単位は、言明、要求、約束などの言語行為である。言語行為は、言明や要求の対象である命題的内容と、その内容にかんして言明、要求など、いかなる行為をおこなうかという行為としての特徴、すなわち「ちから」とからなっている。言語行為は、本質的な特徴として、ある意味をもった言語表現の発話として実行される。いいかえれば、言語行為がある内容とちからとをもった言語行為として成立するためには、意味の規則が必要である。意味の規則が、言語の構成的規則なのである。また、いかなる言語行為についても、その内容とちからとを、なんらかの言語表現の意味によってじゅうぶんに表現することができる。それが、サールのかんがえである。******
言語行為と言語表現の意味とが本質的な関係をもっており、それゆえに言語行為はきまりに支配されているというかんがえかたは、すでにジョン・オースティンによって示唆されている。******* このかんがえかたにたいする初期の批判として重要なのが、ピーター・ストローソンの議論である。******** ストローソンによるオースティン批判のもっとも基本的な論点は、言語行為のちからは、言語表現の意味によってはじゅうぶんに決定されないというものである。
 ストローソンによれば、言語行為のちからが言語表現の意味によってつくされないばあいには、二種類ある。第一の種類のケースでは、ちからが意味の規則以外の規則や慣習によって決定される。第二の種類のケースでは、ちからは、いかなる規則や慣習にもよらず、発話の個々の状況におうじてきまる。第一の種類に属するのは、陪審員による評決、スポーツの審判の判定などである。これらの言語行為のちからは、ある事実を、制度的わくぐみのなかで公式のものとして認定することにある。第二の種類に属するのは、「そこはこおりがうすいよ」というのが、たんなる事実の言明なのか、スケートやつりをするひとたちにたいする警告なのか、発話の状況をぬきにしては決定できないばあいである。サールがのちに間接的言語行為とよんだものは、これにふくまれることになるだろう。 *********
 ストローソンがあげた第一の種類のケースにふくまれるのは、それに先行して確立した規則ないし慣習をはなれては意義をもたないような言語行為である。このなかには、ゲームを進行させる定型的な発話もふくまれる。ストローソンのかんがえでは、このように、一種のゲームの規則によって支配されるのは、言語活動を構成する言語行為の一部にすぎない。また、このような言語行為のばあいも、それを支配する規則は、意味の規則とはべつのものなのである。これ以外のばあいには、言語行為のちからは、発話された言語表現の意味および発話の状況にてらした合理的な推論によって決定される。
 このようなストローソンのかんがえにしたがって、言語行為一般をふたつの部類にわけることができる。一方は、ちからが、発話された言語表現の意味と発話の状況を理解することをつうじて決定されるような言語行為である。言語表現の意味の理解じたいがグライス式のメカニズムによるのであり、本質的には規則や慣習に依存しないと想定すれば、このような言語行為のばあいには、ちからの決定は本質的には規則や慣習に依存しないことになる。このような言語行為が、合理的なコミュニケーション活動を構成する。
 他方は、ちからが、先行して確立した「ゲームの規則」によって決定される言語行為である。このような言語行為は、本質的に「ゲームの規則」に依存する。このような「ゲームの規則」に依存した言語行為のことが、しばしば、せまい意味で「きまりに支配された」言語行為とよばれる。**********きまりに支配された」言語行為は、先行して確立した制度のわくぐみのなかで意義を獲得し、ばあいによってはメッセージの受信者がメッセージを理解しなくても固有のちからをもつ。それゆえ、このような言語行為はかならずしもコミュニケーション行為ではないのである。

4 この節のまとめ
 言語活動がきまりに支配されているというテーゼの主張内容がなんであり、それが妥当であるかどうかは、きまりという概念の内容によりけりである。きまりが、ヒュームのいうような、個々の状況におうじた協力関係を意味するなら、一般にコミュニケーションはきまりによって成立するといえ、コミュニケーション的な言語活動もきまりによって成立するといえる。このようなコミュニケーション活動においては、グライス式のメカニズムによって、メッセージの発信者と受信者がたがいの意図を理解し承認しあったうえで、合理的に行動する。
 これにたいして、きまりということで、先行して確立した規則ないし慣習を意味するなら、言語的コミュニケーションは、一般にきまりに支配されているとはいえない。この意味で、きまりに支配されている言語行動は存在するが、それは、かならずしもコミュニケーション的ではない。また、こうした形態の言語活動にかかわっているひとりひとりの人間からみて、こうした言語活動が合理的に理解できないようなばあいもかんがえられる。裁判の審理過程は、きまりに支配された言語活動の一例である。こうした言語活動が不合理(不条理)におちいる可能性は、鋭敏な作家の感受性をつうじて、文学的に表現されるばあいがある。たとえば、フランツ・カフカの『審判』をみよ。
 ルイスは、言語活動を、合理的であり、かつきまりに支配された活動として特徴づけた。しかし、これまでみてきたところによると、合理性と、先行する規則や慣習に依存した規則性とが、言語活動を構成するひとつひとつの言語行動において、つねに同時に全面的に実現するとはかんがえにくい。むしろ、個々の言語行動においては、合理性と規則依存性とは、トレード-オフの関係になるのではないか。合理的な要素と規則に支配された要素が、あい矛盾しながら、個々の言語行動と言語活動の総体のなかでそれぞれのやくわりをはたしているといえるのではないだろうか。
 このようにみてくると、意味論的なしくみと言語活動とのあいだにあるみかけの矛盾は、言語活動の総体のなかにある、合理的な要素と規則に支配された要素との矛盾から派生するものだとかんがえられる。ひとつの社会において、言語活動は、矛盾をふくみながらひとつの複合的な総体をなす。言語活動は、総体として唯一のものであるから、言語活動が社会の歴史とともに展開される過程に対応して、単一の自然言語が歴史的に発達するのであろう。この自然言語は言語活動の手段として必要な意味論的なしくみをそなえている。この意味論的なしくみが具体的な機能をもつためには、ルイスが想定するような、先行する規則性たいする追随を保障するメカニズムがたしかに必要である。しかし、合理的なコミュニケーション活動としての言語行動は、本質的には規則性を必要とせず、むしろ、規則性への追随に優先する独自の論理をもっている。このことから、意味論的なしくみと言語活動のみかけの矛盾がしょうずるのである。
 「言語が社会的である」のは、いっけん自明の理であり、じっさい、言語の重要な一側面をいいあてている。しかし、ひとつの社会において言語活動がひとつの総体をなすこと、そこで、単一の言語が言語活動の媒体となることと、コミュニケーション活動が合理的であり、独自の論理をもつこととの関係は単純ではない。これらは、潜在的には矛盾するし、しばしばこの矛盾は現実となるのである。


3 認知・言語・認識

 まえの節では、個人の合理的な言語行動の論理と、社会的に確立された言語使用の規則との潜在的な矛盾がしめされた。この節では、この潜在的な矛盾がいかにして現実のものとなるかをしめし、この矛盾と、言語の認知的なはたらきとの関係を検討する。  この矛盾の具体的なあらわれとして、この節では、まずさいしょに、ソール・クリプキが指摘した「信念のパズル」を紹介する。クリプキのパズルは、指示(言語表現をもちいて現実に存在するものをさししめすはたらき)にかんする考察からでてくるものである。そこで、クリプキのパズルがもっかの主題にとってもつかかわりをあきらかにするためには、指示と認知および認識との関係を論じなければならない。このことは、言語が、個人の思考内容すなわち認知状態の表現と、社会的な認識・言語活動とにおいてはたすやくわりを論ずることにつながる。個人の認識・言語行動と認識・言語活動にたいする社会的な要請とのあいだには、ある緊張関係があり、このことが、社会のなかでの認識・言語活動において、矛盾としてあらわれるのだということが、この節の結論となり、かつ、小論の結論となるであろう。

1 クリプキの「信念のパズル」
 信念のパズルは、指示にかんする考察のなかで発見されたものである。指示にもちいられる言語表現はさまざまであるが、なかでも、現実に存在する個々のものをさす固有名は、独特の性格をもつものとして、哲学者らの注目をあつめてきた。クリプキは、固有名による指示について、独創的な理論をしめし、哲学界に影響をあたえている。***********
 指示にかんする理論にとってつねに問題となるのは、様相的文脈(「必然的に‥‥」「可能的に‥‥」などのような構文)と認知的文脈(「‥‥だとおもう」などのような構文)での指示表現のふるまいである。************ クリプキの理論は、もっぱら様相的文脈にかんする考察からうまれたものである。しかし、この理論を認知的文脈にあてはめようとすると、きみょうな問題がしょうじてくる。この問題が、「信念のパズルで」ある。信念のパズルは、固有名をもちいて指示行為をおこなう個人が指示対象の同一性についてのある種のあやまりをおかしているとき、そのひとの言語行動を証拠に、そのひとがどのような信念をもっているかについていおうとするばあいに発生するとされる。以下に一例をしめす。*************
 まったく英語がはなせないフランス人がいたとしよう。このひとの名をかりに「ピエール」('Pierre')とする。ピエールはフランス語で'Londres'とよばれる都市、つまり英国の首府ロンドンについてひとのはなすことをきいたり、観光パンフレットをながめるなどして、これはきれいなばしょであると考えたとする。だとすると、ピエールにつぎのようなフランス語の文をしめし、賛否をとうたなら、賛意をしめすであろう。

(1) Londres est jolie. (ロンドンはきれいだ。)
 さてこのピエールが、なにものかに拉致され、ロンドンにはこばれたとする。ピエールは、じぶんのいるばしょがフランス語で'Londres'とよばれる都市だとはきがつかない。やがてピエールは直接的方法によって、つまりフランス語との対応づけをかいせずに、英語をはなす能力をみにつけ、じぶんのすむまちが'London'とよばれることをしる。しかし、ロンドンのなかでもあまり上等でないばしょばかりみているものだから、これがじぶんがかつてききしっていたきれいなまちであるとはきづかない。このとき、つぎのような英語の文をしめされたなら、ピエールはやはり賛意を表するであろう。
(2) London is not pretty. (ロンドンはきれいではない。)
 しかし、このときでも、ピエールに文(1)をしめせば、かれはいぜんとしてそれに賛意を表するのである。
 このとき、仏英両語を解する人物が、ピエールの文(1)(2)にたいする態度にもとづいて、かれのかんがえがどのようなものであるかいいあらわそうとするとどうなるか。まず、文(1)にピエールが賛意を表するということは、つぎのフランス語の文が真である証拠といえそうである。
(3) Pierre croit que Londres est jolie.
(ピエールは、ロンドンはきれいだとおもっている。)
文(3)が真であるとすれば、これを英語に翻訳したつぎの文も真であるはずだ。
(4) Pierre believes that London is pretty.
(ピエールは、ロンドンはきれいだとおもっている。)
 しかるに、ピエールが文(2)に賛成することは、つぎの英語の文が真だという証拠である。すくなくとも、文(3)が真とみとめられるとすれば、つぎの文も同様に真とみとめられねばならない。
(5) Pierre believes that London is not pretty.
(ピエールは、ロンドンはきれいではないとおもっている。)
 ところが、文(4)(5)を双方とも真とみとめるなら、ピエールはひとつのことがらについて、同時に、そうであり、またそうでないとかんがえていることになる。しかし、正気の人間がそのようなかんがえをいだくということがどうしてありえようか。
 こうして、認知的文脈のなかに、'London'や'Londres'のような固有名がでてくるばあいには、個人の認知状態をすなおに表現しようとして、すじのとおらない結果におちいるばあいがあることがわかる。このことは、たしかに、固有名のような指示表現の通常のはたらきと、個人の認知状態の表現という目的とのあいだに、緊張関係があることをしめしている。

2 指示と因果連鎖
 クリプキは、固有名のもつ独特の性格を、つぎのようにとらえる。固有名がさす個々のものは、現実に存在し、それ自体と同一である。このことは、固有名をもちいて指示をおこなう個人の認知状態とは独立の事実である。客観的に存在する指示対象と、特定の個人が特定の状況でおこなう指示行為とのあいだの、こうした独特の関係により、固有名は、固定的に指示するはたらきをもつ。すなわち、固有名は、発話の状況によっても、指示行為をおこなう個人の認知状態によってもかわることなく、つねに同一の対象を指示するのである。このような特徴をもつ指示表現は、固定的な指示語とよばれる。
 固定的な指示語という部類に属するのは、固有名ばかりとはかぎらない。クリプキは、ものの一般的な種類をさす語のなかにも、固定的な指示語があるとかんがえる。これが、自然種名である。クリプキによれば、自然種名がさすものの種類、つまり自然種は、現実に存在し、固有の本質をもつ。このこともまた、個物の存在と同一性とおなじように、指示をおこなう個人の認知状態とは独立の事実である。それゆえ、自然種名による指示のしくみは、固有名による指示のしくみと類比的なのである。クリプキが自然種として想定しているものの具体例としては、元素や化合物の種類、生物の種などをかんがえればよいだろう。
 さて、このようなクリプキの理論的見地によれば、固定的な指示語をもちいた指示は、指示をおこなう個人の認知状態に関係なく成立する。これは、指示のはたらきにかんするそれまでの定説にまっこうから挑戦する大胆なかんがえかたであった。  クリプキの指示にかんするかんがえかたの特徴は、それがもっぱら存在論的ないし形而上学的な考察にもとづいているということである。これにたいして、指示にかんするそれまでの定説は、むしろ、認識論的な考察にもとづくものだった。
 言語表現をもちいてものを指示しようとするとき、指示をおこなおうとする個人は、もちいる表現に対応するある概念的内容を把握しているとかんがえられる。その概念的内容が、さししめされるべきものをほかのものから区別して特定することによって、指示が成功する。このかんがえかたは、一般に、フレーゲに由来するものとされている。フレーゲにおいては、ほんらい、指示の対象を特定する概念的内容は、個人のあたまのなかにある心理的なものではなく、公共的な抽象的存在である。しかし、指示の成功には、公共的な意義が、指示をおこなう個人によって把握されることが必要であるから、けっきょく、指示についてのこのかんがえかたのなかでは、個人の内的な、認知状態がどのようなものであるかということが決定的な重要性をもっている。**************
 これにたいし、クリプキは、個人が内的にもっている概念的内容よりも、指示される対象と指示における語の使用とのあいだの、外的で実在的な関係のほうが、指示の成功にとって重要だとかんがえる。具体的には、指示される対象から語の使用にいたる因果連鎖が、指示の成功の条件の中心にあるとされる。この因果連鎖は、ある個人が指示表現をもちいておこなう指示行為に先行するが、別の個人による、おなじ指示表現をもちいた指示行為の連鎖として実現する。このようなかんがえかたは、一般に、指示の因果説とよばれる。

3 因果連鎖と認識活動
 因果説のみかたによれば、固定的な指示語をもちいた指示の成功と、指示をおこなう個人の認知状態とは、たがいに論理的に独立である。つまり、個人の認知状態は、指示の成功にとって、必要条件でも十分条件でもない。しかしながら、ある固定的な指示語をつかって、なんらかの現実に存在するものを指示するという行動が社会のなかで成立するためには、社会のどこかで、現実に存在する指示対象にかんする認識が成立している必要がある。個人による指示行為は、指示対象にかんする認識にもとづいて社会のなかで確立した行動にいわば寄生しておこなわれるのである。だから、指示の成功は、個人の認知状態には依存しないが、社会における認識活動に依存する。
 個人による指示行為と社会的な認識活動とのあいだにある、このような関係を、ヒラリー・パトナムは、「言語的分業」とよんでいる。*************** 金(かね、ではなく、きん、つまり、化学記号Auで名指される物質)が自然種であるとせよ。たとえばわたしが、「女神が金のおのをもってあらわれた」という文を発話するとき、わたしは、金という物質についての思考を表現している、といえる。しかしながら、金にかんするわたしの認知状態は、世間のふつうのひとなみに貧弱なものである。とりわけ重大なことに、わたしは、金を、ほかの物質、たとえば黄銅鉱から区別して特定することのできるような知識をもちあわせない。にもかかわらず、わたしが、「金」という語をもちいて金にかんする思考を表現することができるのは、「金」によって金を指示するという行動が、社会的に確立しているからである。そして、この行動は、金をほかの物質から区別して特定することのできる専門家の認識にもとづいて、確立しているのである。「金」をふくむ文を発話するというわたしの言語的作業は、「金」と金とのあいだを直接的な認識によってむすびつける専門家の言語的作業にささえられてはじめて、現実に存在する金とのかかわりをもつことができるのである。
 現実に存在する指示対象にかんする認知状態が個人個人によってことなるにもかかわらず、いかにして指示表現の意味論的値が社会的に共有されうるかを、言語的分業のメカニズムが説明すると、パトナムはみている。共有されている意味論的値が、認知状態から独立したものだとすれば、それはけっきょく、客観的に存在する指示対象そのものに帰着する。こうして、パトナムの議論は、指示表現の意味論的値を指示対象そのものであるとする、直接指示説をささえる方向へむかう。
 しかしながら、現実に存在する対象を指示する行為は、つねに、その対象にかんする思考を表現する行為の一部でもある。このことを前提としてかんがえれば、言語的分業の過程は、同時に、認識的分業の過程としてもとらえられなければならない。つまり、現実に存在するものについての個人個人の思考が、社会における認識活動にささえられて、いかにして成立するかを説明するメカニズムとして、理解しなおされる必要がある。
 現実に存在するものについての思考がいかにして成立するかという観点から、言語表現による指示を考察した論者のひとりに、ギャレス・エヴァンズ****************がいる。 エヴァンズも、現実に存在するものの指示の成立については、因果連鎖の重要性をみとめる。しかし、因果連鎖は、あくまで、指示対象にかんする思考が成立するための一条件にとどまる。指示の成功にとっては、指示対象にかんする思考の成立こそが本質的なのである。エヴァンズは、いわゆる指示の因果説にくみするものではない。かれの立場は、しばしば、新フレーゲ派ともよばれる。
 思考のありかたという面から言語的−認識的分業の過程をみなおしてみると、あきらかにきづかれるのが、指示対象にかんする直接的認識をもつひとびとと、もたないひとびととがおかれている状況のちがいである。エヴァンズは、指示表現をつかう社会的な行動を「実践(practice)」とよぶ。この実践に参加するひとびとは、指示対象にかんする直接的認識をもつかいなかにおうじて、「生産者」と「消費者」に区分される。
 指示表現をつかう実践をささえる「生産活動」は、たんに指示表現を発明するとか、それをさいしょに使用するとかいうことではない。生産活動とは、指示表現と指示対象とのつながりを確保する持続的な言語的−認識的作業である。したがって、生産者と消費者の区別も固定的ではなく、かつて消費者であった個人が、あとから生産活動にくわわることもありうる。
 生産者は、指示対象にかんする直接的認識によって、その対象をほかのものから区別して特定することができる。典型的なばあいをかんがえると、通常の固有名の指示対象となる現実に存在する個物については、この直接的認識は、知覚的な認識となる。生産者は、固有名の指示対象を知覚的認識によって特定することができ、また、この知覚的認識にもとづいて、おなじ対象にふたたびであったとき、それを再認する(もとの対象と同一であるとみとめる)ことができる。それゆえ、生産者が、現実に存在するものについての思考を、固有名をもちいて対象を指示しながら言語的に表現するばあいは、その思考内容と指示対象とは、ほかの個人の言語的−認識的作業をかいせずにつながっているのである。
 これにたいして消費者は、生産者の言語的−認識的作業に依存せずには、指示対象についていかなる思考をももつことができない。通常の固有名のばあいには、消費者は、指示対象にかんする知覚的認識をもたず、それを再認することができないという点で、生産者と決定的に区別される。消費者の、指示対象にかんする思考内容は、指示表現をもちいた指示行為の因果連鎖に本質的に依存して成立するのである。このように、生産者と消費者とでは、指示対象についてもつ思考の認知的内容も、その思考の成立における言語のやくわりも、おおきくことなるのである。

4 認知的値と意味論的値
 では、まえの節の考察をふまえ、言語表現の発話において、どのような認知的内容の思考が表現されているかという新フレーゲ派的な観点から、信念のパズルをみなおしてみよう。
 さしあたってきがつくのは、ピエールが指示表現を使用する実践にくわわるしかたが、語'Londres'と語'London'とにかんして、ことなっていることである。この結果、ピエールは、このふたつの語を、指示対象をおなじくするものとしては理解していない。
 'London'の指示対象にかんしてピエールがもつ理解は、指示対象にかんする直接的認識にもとづいている。かれは、ロンドンのあれこれの街区を知覚的に認識しており、それらを再認することができる。こうした認識は、ロンドンのなかをあるきまわり、そこで生活するというしかたで、ロンドンと密接にかかわりをもつ行動からしょうずると同時に、その行動をささえるものでもある。ピエールは、'London'をもちいる実践にかんしては、あきらかに生産者のたちばにいるのである。
 'Londres'にかんしていえば、ピエールによるこの語の理解をささえる認識は、より間接的であり、対象との密接な行動的かかわりをふくんでいない。とはいうものの、ピエールが、たんなる消費者のたちばにいるとばかりもいいきれない。かれは、写真やビデオをとおしてえた認識をもとに、ロンドンにある建築物や街区のいくつかを再認することができるかもしれない。もとより、写真やビデオをとおした認識が、直接の知覚にたいしてどういう関係にあるのかについては議論があろう。しかし、厳密には直接的でないしかたでも、対象にかぎりなく肉薄する認識をうることは可能である。たとえば、実験装置をとおした観測にもとづく認識は、いつでも推論や論理的構成にとどまるわけでなく、現実に存在する対象にかかわることができるのではないか。
 いずれにせよ、ここで問題なのは、ピエールが、'London'にかんしては生産者であるのにたいし、'Londres'にかんしては消費者であるかどうかではない。問題は、ピエールが、それぞれの語を、対象にかんすることなった認識のしかたにもとづいて理解しており、それゆえ、このふたつの語を、指示対象をおなじくするものとしては理解していないということなのである。このことを、ピエールにとっては、ふたつの語は、ことなった認知的値をもつというふうに表現することができよう。
 このように、ふたつの語がピエールにとってもつ認知的値がことなることによって、これらの語をふくむ文が、ピエールの思考にぞくするものとして表現することのできる内容は、制約をうける。
 フランス文(1)、英文(2)に賛意を表することによって、ピエールがある思考内容を表現しているものとせよ。このときさらに、ピエールは、じぶんのなまえが‘Pierre'だとしってると仮定せよ。また、ポールは、ピエールとは別人で、英語とフランス語の両方をはなすとせよ。ポールは、ロンドン在住の、フランス人団体旅行客専門のガイドであり、当然、'London'と'Londres'とを、指示対象をおなじくするものとして理解しており、ロンドンのあらゆる街区を知悉しているものとする。つまり、ポールにとっては、'London'と'Londres'とは、おなじ認知的値をもつ。
 以上の仮定のもとで、ピエールが(1)で表現できる思考内容をもっているということを、ポールが、フランス文(3)によって表現するのは正当である。ピエールじしんも、(3)をしめされたばあい、やはり賛意を表するであろう。このときまた、ポールは、ピエールが(2)で表現できる思考内容をもっているをもっているということを、英文(5)によって正当に表現できる。ピエールじしんも、(5)をしめされれば賛意を表するであろう。
 問題は英文(4)である。ピエールじしんは、(4)をしめされたばあい、不同意を表明するであろう。つまり、ピエールは、自分が(1)の表現する思考内容をもっているということを、(4)によっては表現することができないのである。これにたいし、ポールは、(4)によって、(3)とまったくおなじ内容を表現することができるようにおもわれる。しかし、この「翻訳」の正当さは、ピエールがそれをうけいれないことによって疑問にふされる。つまり、(3)と(4)は、意味がおなじであるとは無条件にはいえないのである。指示表現の意味論的値は指示対象そのものにほかならないとする、直接指示説によれば、'London'と'Londres'とは、おなじ意味論的値をもつ。しかし、(3)から(4)への「翻訳」が無条件にはなりたたないとすれば、'London'と'Londres'との意味論的値の同一性もまた、おなじように疑問にふされなければならない。

5 意味と認識
 まえの節のようなかたちで、認知の次元の問題が、意味の次元の問題に影響をあたえると主張すると、議論のレヴェルの混同という非難をうけるかもしれない。たしかに、ピエールの特異な言語行動がひきおこす解釈上の問題は、かれのア・ポステリオリな知識の欠如に起因する。しかし、だからといってそれが言語の理解と運用の問題でなく、言語表現の解釈の問題ではないということにはならないのである。***************** 認知の次元と意味の次元の連動をみとめるなら、信念のパズルにたいする解答は、容易にえられる。その解答とは、つまり、おなじ言語をはなすすべての個人が、その言語にぞくする表現について、おなじ意味論的値を共有することを否定することである。
 信念のパズルがいかにしてしょうずるかにかんしては、ピエールのような人物のおかれた認識的状況をかんがえれば、明晰に理解でき、そこになんらなぞはない。それにもかかわらず、パズルにたいするもっともかんたんな解答をうけいれるのにはつよい抵抗がある。これがこのパズルのやっかいなところである。
 この抵抗の理由を説明することは、共有された意味論的値というかんがえの魅力を説明することでもある。さきに紹介したパトナムのかんがえかたが、おそらく、この魅力をもっともよく説明するだろう。パトナムによれば、個人のあいだの認知状態のちがいにもかかわらず、指示表現が、おなじ対象を指示することをはじめとする、一定の共通の機能をもつことができるのは、社会における認識活動のおかげである。この認識活動によってえられる認識内容じたいも、歴史をつうじて変化するばあいがある。たとえば、水のような化合物や電子のような基本粒子にかんする科学的知識の変化をかんがえよ。それでも、この知識の変化によって、「水」の指示対象がかわったり、「電子」の指示対象がかわったりすることはない。意味論的値がこれらの表現の指示機能を説明するものであるとすれば、その意味論的値もまた、知識の変化をつうじて同一のものであるはずだ。したがって、意味論的値は、人間の知識の変化と独立に同一性をたもつ、現実に存在する指示対象そのものにほかなるまい。この意味論的値は、個人の認知状態のちがいによっても変化することなく、指示表現を使用するすべての個人に共有されるのである。
 たしかに、表現の指示機能の同一性を説明するために、意味論的値の同一性を想定することは自然である。このような想定は、直接指示論者だけでなく、意味論的値を公共的な抽象的存在とみなすフレーゲの見解にしたがうもののとるところでもある。
 しかし、意味論的値を同一にして不変のものとして想定することには、思考の内容をあらわすために表現を使用するしかたを、ただひととおりしかないとする帰結をまねく。思考の内容をあらわすために指示表現がもちいられるしかたは、ひととおりではなく、思考をもつ個人と、その当人であれ、他人であれ、その思考の内容を指示表現をつかってあらわす個人との認識的状況によってことなりうることは、クリプキのパズルにかんするこれまでの議論がしめしているとおりである。
 であるとすれば、指示機能の同一性を説明するのは、意味論的値という存在者の同一性という、形而上学の次元の事実というよりも、むしろ、指示をささえる言語的・認識的作業に内在的な、言語使用の主体のがわにぞくする事実なのではないだろうか。つまり、現実に存在する対象にかかわる言語・認識活動、つまりエヴァンズのいうところの実践の連続性こそが、指示機能の同一性を説明するのではないだろうか。もとより、現実に存在する対象の同一性と、それにかかわる実践の連続性は、ともに、指示機能が成立するための必要条件である。しかし、指示機能の同一性の条件として、いずれをより根本的とみなすかによって、言語のはたらきと認識との関係のとらえかたには、すくなからぬちがいがでてくる。
 そのちがいの第一は、指示表現の機能の同一性が、実践の連続性に依存するとすれば、その同一性は、実践に参加するひとびとの共同体に相対的なものとなるということである。この相対性をみとめるなら、ことなった指示表現について、それらが指示対象をおなじくするというだけで、それらの機能が同一であるとはいえなくなる。ことなった指示表現の機能が同一となるためには、それらをもちいる実践が融合し、一体のものとなる必要があるのである。
 第二のちがいは、現実に存在するものの同一性は、同一であるか、あらぬかというふたつのひとつの問題であるのにたいし、実践の連続性は、より連続的であるか、より連続的でないかという、程度を許容するところからしょうずる。つまり、指示機能の同一性が実践の連続性に依存するとすれば、指示機能の同一性もまた、程度の問題となるのである。このことから、おなじひとつの実践に参加するひとびとのあいだでも、指示表現をもちいるしかたに差異があることが予想できる。
 それにしても、ととわれるかもしれない。おなじ対象を指示すること以外に、指示表現の機能の同一性をなりたたせ、差異をしょうじさせるようなものがあるだろうか。そのようなものはたしかにある、とわたしはかんがえる。それこそすなわち、指示表現をふくむ文がもつ、一定の思考内容を表現するはたらきにたいして、指示表現がおこなう貢献であり、指示表現の認知的機能なのである。

6 認識の共同体と言語共同体
 指示表現の機能と言語的・認識的実践との関係にかんする以上のようなみかたからすれば、ひとつひとつの指示表現にたいして、実践に参加するひとびとからなるひとつひとつべつの共同体が存在することになる。
 この主張にたいして、つぎのような疑問がしょうずるかもしれない。指示表現は、一定の意味論的なしくみをもった自然言語の一部として機能するものではないか。そして、ひとつの自然言語には、それがはなされるひとつの社会、すなわち言語共同体が対応するのではないか。だとすれば、指示表現に対応する共同体は、けっきょく、この言語共同体と一致するのではないか。そのばあい、指示機能の同一性を実践の共同体に相対的なものとし、それに程度の問題をみとめる議論は、なんら実際的な利点をもたないのではないだろうか。
 しかし、こうした疑問はあたらない。じっさい、指示表現、とくに固有名の圧倒的多数は、ひとつの言語をはなす社会全体とくらべるのもおかしいほど、わずかのひとびとにしか理解され、使用されることがないのである。こういうありふれた固有名をじぶんのなまえとしてもつひとびとのことを、「なもないひとびと」という。他方、ひとつの言語をはなす社会の境界をこえて、理解され、使用される指示表現もある。'Descartes'、'Goedel'のような固有名、科学的探究の対象になる物質の種類をあらわす自然種名などが、その例である。クリプキは、「有名な都市、国、人物、惑星のなまえは、われわれの共通の言語の共通の貨幣である」とのべた。しかし、むしろ、それらは、認識の共同体の共通貨幣であるとのべるべきだったろう。
 以上から結論するに、指示表現をもちいる言語行動は、個人の認知状態にそくしてのみ、合理的に理解されるのである。ただし、その認知状態じしんを理解するには、その個人のおかれた言語的・認識的状況、とりわけ指示表現をもちいる実践におけるそのひとの位置を参照する必要がある。このようにかんがえれば、クリプキのパズルは、指示表現をもちいるわれわれの言語活動に、内在的な矛盾があることをなんらしめしてはいない。

7 言語の認知的はたらきと言語活動への社会的要請
 では、クリプキのパズルによってしめされた、「指示表現の通常のはたらきと、個人の認知状態という目的とのあいだに」ある、「緊張関係」(3-1)は、たんにみかけ上のものにすぎないのだろうか。かならずしもそうではない。
 クリプキは、上に引用した「共通の貨幣」うんぬんの叙述に関連して、'Londres'や'London'などの固有名の使用にかんする事実を習得することは、フランス語や英語を習得することの一部であるとのべている。この主張は、たしかにもっともらしくきこえる。また、この主張がもっともであるとおもわれるだけ、それだけに、ピエールのおかれた状況は、きみょうな、あるいは、異常といってもいいようなものだとおもわれるのである。しかし、ここでいうようなしかたで、正常であるとか異常であるとかいうことは、なにによってきまるのだろうか。
 現代にいきるひとりの人間が、指示表現をもちいることによって、それについての思考を表現できるような、現実に存在する対象は、みぢかな人物から宇宙のかなたの天体にいたるまで、きわめてかずおおい。しかし、通常のばあいは、これらの対象のひとつひとつのすべてについて、対象そのものと密接にかかわる行動にともなってえられるような認識をもつことはできない。つまり、われわれはだれしも、おおくの対象について、それを指示する表現をもちいる実践において、消費者のたちばにとどまらざるをえないのである。ひとが、指示表現をもちいる実践に、消費者としてくわわる理由はさまざまであろう。指示対象そのものに、その本人が直接的なかかわりをもつことはないにせよ、おなじ実践にくわわる他人と共有する生活上の状況全体にとって、指示対象のはたすやくわりが重要であるゆえに、その対象にかんする思考を表現する手段が必要になるばあいもあろう。わたしが、ガリレオやアダム・スミス、はたまた金やウラニウムと直接の交渉をもつことはあるまいが、これらの対象にかんする思考をもたずして、現代の人間がおかれている状況についてまともな理解をもつのはむずかしいにちがいない。
 他方、指示対象にかんする思考を表現する内発的な動機がないか、希薄であるにもかかわらず、外からの圧力によって、なかば強制的に消費させられる指示表現が、多数存在する。これらは、公的・私的な教育装置やマスメディアをつうじてわれわれの言語生活にはいりこんでくる。「楠正成」「キグチコヘイ」「大川隆法」などはこのたぐいであろう。指示表現が、純粋に内発的な動機や、純粋に外的な圧力によって消費されることはむしろまれであって、おおくのばあいは、内発的な動機と外的な圧力とが、りょうほうともに、指示表現の消費をかいした認識・言語行動に影響をあたえるであろう。
 ピエールのばあいのような緊張関係は、指示表現の消費活動に参加させようとする外からの要請と、個人が現実におこなっている消費活動への参加のしかたのずれからしょうずるといえないだろうか。フランス語を母語とする人間が英語を習得するばあい、'Londres'と'London'が指示対象をおなじくすることをも習得するのが正常とされ、これを習得しそこなうのは異常とされる。なぜなら、第二言語を習得するものは、一方の言語をはなす個人からなる認識の共同体と他方の言語をはなす個人からなる認識の共同体とがかさなる部分にたって、ふたつの共同体を、したがってふたつの実践を結合するやくわりをはたすことが、社会的に要請されるからである。クリプキのパズルがしめす緊張関係にかんするこの診断がただしければ、言語の認知的はたらきのレヴェルにおける「矛盾」は、認識・言語行動における、個人にぞくする内発的な論理と、認識・言語活動にたいする社会的な要請のあいだに発生するといえる。
 いま、認識・言語活動にたいする外的な圧力を、社会的なもの、と特徴づけた。直接には、この圧力は、さきにのべたのように、公的・私的な教育装置やマスメディアをつうじてはたらく。これを社会的なものいうことばでひとくくりにするのは、すこしあらっぽいやりかたかもしれない。しかし、これらの装置のはたらきをささえるシステムのはたらきが、ひとつの社会における認識・言語活動のわくぐみとなっているという意味で、やはり、ここでは、社会的な要請という表現をえらぶことにする。
 もとより、社会的な要請が、人間の認識・言語活動にとってたんなる外的な夾雑物だというつもりはない。外的な圧力による言語表現の消費が、個人個人の認識活動の範囲をひろげ、思考内容をもゆたかにするやくわりをもちうることもたしかである。ただ、認識・言語活動の社会的な側面は、個人の認識・言語行動によってささえられてはじめてなりたつものである。認識・言語活動の社会的な側面を、言語共同体、意味論的値などの概念をもちいて固定的に理論化するなら、クリプキのパズルのようなケースは、ときがたい背理としてのこるだろうということを、さいごに確認しておきたい。


附録 知識・理解・解釈

 クリプキは、以下にのべる'Paderewski'/'Paderewski'の例を、'Londres'/'London'のばあいとおなじ問題をふくむものとしてあげている。
 パデレフスキ(Paderewski)は音楽家でありかつ政治家である。ピーター(Peter)は英語を母語として話すとしよう。かれはある場所で'Paderewski'という名の才能ある音楽家について聞きしった。この結果、かれはつぎの文に同意する。

(I) Paderewski has musical talent.(パデレフスキには音楽の才能がある。)
 ピーターはまたべつの場所で'Paderewski'という名の政治家について聞きしった。かれは、政治家は音楽の才能がないものだという通念をうけいれているので、政治家のパデレフスキが音楽家のパデレフスキと同一人物ではないかなどとおもってもみない。かれはつぎの文に同意する。
(II) Paderewski has no musical talent.(パデレフスキには音楽の才能がない)
 'Londres'/'London'のばあいと同様にして、これより、つぎのふたつの文が真であることになる。
(III) Peter believes that Paderewski has musical talent.
(ピーターは、パデレフスキには音楽の才能があると思っている。)
(IV) Peter believes that Paderewski has no musical talent.
(ピーターは、パデレフスキには音楽の才能がないと思っている。)
 ピーターが、自分が'Peter'という名前であることを知らないというようなばあいをのぞいては、ピーターに(III)と(IV)をみとめさせることはできるだろう。それでもかれは自分が矛盾した内容の信念をもっているとはみとめないだろう。このときピーターがこれらの文を理解しているしかたは、どうみても特異である。かれは、(III)における‘Paderewski'と(IV)における'Paderewski'を、同一の語として理解しているのではなく、ことなった認知的値をもつふたつの語として理解しているのである。
この例では、'Londres'/'London'の例よりもひとつすくないステップで、すなわち「翻訳」ぬきで、パズルが導出されるようにみえる。しかし、じつは、つぎのように考えるのがより正確である。ピエールがフランス語の文(1)と英語の文(2)に同意することからパズルをひきだすのには「翻訳」が必要であった。それとおなじように、ピーターがふたつの英語の文(I)と(II)に同意することからパズルをひきだす過程で、ピーターの言語行動に、ピーターじしんの解釈とはことなった解釈がほどこされている。このような解釈のおしつけは、いいかえれば、ピーターの個人方言から解釈者の個人方言への不適切な「翻訳」である。ふたつのばあいにおけるパズルの導出過程は、「同音翻訳」のかくされたステップをおぎなうことによって、まったく並列的なものであることがわかる。
 「同音翻訳」が必要であることによって、おなじ言語をはなす個人のあいだでも、表現の意味論的値が共有されていることは無条件には保証されていないことがわかる。それゆえ、おなじ言語をはなす個人の言語行動をもとに、そのひとに思考内容を帰属させるばあいでも、(I)から(III)、(II)から(IV)のような進行のしかたがつねに妥当とはかぎらない。ア・ポステリオリな知識の差によっておなじ言語をはなす個人のあいだに言語運用上のゆれがしょうずるばあいがある。そのようなばあいには、個人の認知状態を考慮にいれなければ、適切なしかたで、そのひとの思考内容を表現する文に解釈をあたえることができないばあいがあるのである。


* David Lewis, 'Language and Languages', in Keith Gunderson, ed. Minnesota Studies in the Philosophy of Science, Vol. 7, Minnesota University Press, 1975. Repr. in David Lewis, Philosophical Papers, Vol. 1, Oxford University Press, 1983.

** 議論の詳細は上掲論文およびおなじ著者による Convention, Harvard University Press, 1969 をみよ。

*** 英語圏の哲学者が belief とよぶのは、事実にかんする内容の、確信をともなったかんがえのことである。このさき、信念という語をつかうときは、このなかみをさすものと承知されたい。つけくわえると、通説によれば、知識とは、真であるような、すなわち事実に一致した、信念の一種である。信念が知識となるためには、たまたま事実と一致しているというだけでなく、さらにいくつかの条件をみたさねばならない。その条件がなんであるかについては、もちろん論争があり、定説はない。

**** H. P. Grice, 'Meaning', Philosophical Review, vol. 66, 1957. Repr. in his Studies in the Way of Words, Harvard University Press, 1989 and various anthologies. 意味作用ということをはばひろくとらえれば、自然現象のなかにも意味作用を認めることができる。たとえば、けむりは火を意味する、などともいえる。グライスは、このようなはばひろい意味作用のなかで、とくに、言語をふくむ人為的な記号使用の意味作用を解明しようとした。このように限定されたありかたの意味作用が、非自然的な意味である。

***** ヒュームがきまりについて議論している著作はつぎのとおりである。A Treatise of Human Nature, 1739-40, Bk. III, Pt. ii, Sect. 2; An Enquiry concerning the Principles of Morals, 1751, Appendix III.

****** 言語行為にかんするサールの理論についてはつぎの文献をみよ。'What is a Speech Act?' in Max Black, ed. Philosophy in America, Allen and Unwin, 1965. Repr. in John R. Searle, ed. The Philosophy of Language, Oxford University Press, 1971 and various anthologies; Speech Acts, Cambridge University Press, 1969.

******* John L. Austin, How to Do Things with Words, Oxford University Press, 1962.

******** Peter F. Strawson, 'Intention and Convention in Speech Acts', Philosophical Review, vol. 73, 1964. Repr. in Searle, 1971 (see note 7) and various anthologies.

********* Searle, 'Indirect Speech Acts', in P. Cole and J. Morgan, eds. Syntax and Semantics, vol. 3, Speech Acts, Academic Press, 1975. Repr. in Searle, Expression And Meaning, Cambridge University Press, 1979.

********** このような見地からの言語行為の分類は、つぎの文献にみられる。 Kent Bach and Robert M. Harnish, Linguistic Communication and Speech Acts, MIT Press, 1979.

*********** Saul A. Kripke, Naming and Necessity, Harvard University Press, 1980.

************ 基本的な文献については、Leonard Linsky, ed. Reference and Modality, Oxford University Press, 1971; Nathan Salmon and Scott Soames, eds. Propositions and Attitudes, Oxford University Press, 1988, などをみよ。

************* Kripke, 'A Puzzle about Belief', in A. Margalit, ed. Meaning and Use, Reidel, 1979. Repr. in Salmon and Soames, 1988 (see note 12).

************** Gottlob Frege, 'Ueber Sinn und Bedeutung', Zeitschrift fuer Philosophie und philosophische Kritik, C, 1892. Repr. and trans. in various anthologies.

*************** Hilary Putnam, 'The Meaning of 'Meaning'', in Gunderson, 1975 (see note 1). Repr. in Putnam, Philosophical Papers, vol. 2, Cambridge University Press, 1975.

**************** Gareth Evans, The Varieties of Reference, John McDowell, ed. Oxford Univeristy Press, 1982, esp. chap. 11.

***************** このことは、クリプキが提出しているいまひとつの例を検討することによってよりはっきりする。附録を参照されたい。