合意(conventions)と精神の働き(acts of the mind)

日本科学哲学会第29回大会・ワークショップ「ヒュームと心の哲学」(1996/11/17 於香川大学)での提題(事前配布資料)

 正義をはじめとする「人為的な徳(artificial virtues)」についてのヒュームの議論では、有徳な行為の動機は、単なる義務の感覚以外のなんらかの情念でなければならないことが主張される(478-9)[以下、括弧内の数字は、David Hume, A Treatise of Human Nature, edited by L. A. Selby-Bigge, Second edition, revised by P. H. Nidditch, Oxford University Press, 1978のページ数を示す。] 。また、それと同時に、人為的な徳に従う行為には、自然な動機が存在しえないと主張される(483)。では、いかにして行為の動機が生じうるかということを説明するのが、人間の合意(conventions)[大槻春彦訳では「黙約」。しかし、conventionはagreementとも言い換えられること(490, 491, 498)、conventionという語の最も通常の意味はpromiseと同じであると述べられる(『道徳原理の探究』附録三、David Hume, Enquiries concerning Human Understanding and concerning the Principles of Morals, edited by L. A. Selby-Bigge, Third edition, revised by P. H. Nidditch, Oxford University Press, 1975, p. 306)ことを考慮すると、「黙約」よりも「合意」の方が訳語として適切と考えられる。] である。合意は、互いが、他人が一定の行為を実行するという条件のもとで、自分が一定の行為を実行することに、一致して共通の利益を感じとり、この感じを互いに表出することによって成立するとされる(489)。してみると、ヒュームは、それ以前に存在する自然な動機とも、単なる義務の感覚とも異なった、ある新たな精神の働きが、合意にもとづいて生ずると論じているのでなければならない。しかし、こうして合意にもとづいて生ずるといわれる行為の動機が、結局のところいかなる精神の働きであるのかについて、ヒュームの議論は明晰とは言いがたい。
 この事情がとりわけはっきりと現れるのが、『人間本性論』第三巻第二部第五節で展開される、約束の課す責務についての議論においてである。そこでは、約束の表すべき精神の働きとして、行為を実行する決意、欲求、意志が退けられ、結局のところ、約束が何らかの精神の働きを表しているとすれば、それは責務を負おうとする意志以外ではありえないと言われる(516-7)。しかし、それに続いて直ちに、そのような意志の働きを想定することは、全くの不合理であると主張される(517)。
 では、約束の課す責務はいかにして生じうるのか。ヒュームの議論は、一見、以下のようなものであるように見える。約束の実行から生ずる利益を社会の成員全員が感じとり、その感じが互いに表出されることにより、約束にもとづく行為の動機と、人間が限られた程度においてではあるが自然に備えている善意による、利他的な行為の動機とを区別する言語表現を導入する合意が成立する(519-23)。この言語表現が表出する精神の働きは、上述の、責務を負おうとする意志であるかのように想定されるが、実際には、そのような精神の働きは捏造されたものであり、単なる虚構である(523)。
 しかし、合意にもとづいて導入された言語表現が表出するものとして虚構された「精神の働き」が、いかにして実際の行為の動機となりうるのか。ヒュームの議論が上述のようなものに尽きるあるとすれば、それが行為にかかわる精神の働きの哲学的分析としてもっている妥当性は疑わしいと言わざるをえない。少なくとも、行為の動機が情念であるというヒュームの一貫した主張との整合性は問題である。

 他方、ヒュームは約束における言語表現、わけても'I promise ...'という形式の重要性を強調している(521)。このことは、ヒュームの議論が、サール流の言語行為論の先駆をなすように見せるかもしれない[木曾好能「イギリス経験論の倫理思想I --自然主義を中心として--」小熊、川島、深谷編『西洋倫理思想の形成I』晃洋書房、1985年、p. 118。] 。ここで、特にサール流の、というのは、サールが彼の言う「表現可能性の原理」によって、言語表現の意味とその表現の発話によって実行される発語内行為の「力」とのあいだに必然的な関係を想定していること[John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, 1969, pp. 19-21.] に注意するためである。このような想定によれば、約束は、言語表現の意味を支配する規則ないし規約に本質的に依存することになる。ヒュームが、約束が本質的に規約に依存すると考えているという理解は、約束が、パンと葡萄酒をキリストの肉と血に変える等の宗教的儀式に比されている(524-5)ことによっても支持されるかのように見える。しかし、約束された行為を実行する動機は、規約から新たに生ずる、あるいは、規約に依存して新たに虚構されるというのではなく、自然に存在する情念が方向を変えたもののはずである(492, 521)。

 私の目論見は、約束において表出されると想定される精神の働きと、ヒュームのいわゆる自然な精神の働きとの関係を検討することを通じて、約束を実行する動機についての妥当な分析を再構成することである。その際ポイントとなるのは、発語内行為が規約依存的であるという言語哲学的主張に、ヒュームの議論が支持を与えるものかどうかを、約束を交わすために用いられる言語表現の役割の考察を通じて検討することである。私の考えでは、責務を負おうとする意図が、言語などの非自然的手段によって表出されることが約束の成立に必要であることは、確かにヒュームの議論において示されている。しかし、約束が、特に定型的な表現をもちいることを要求する規則ないし規約に依存することを積極的に示す議論は見出すことができない。したがって、ヒュームの議論に即する限り、約束の規約依存性は、少なくとも大いに割り引いて考えるべきであることが明らかになるであろう。

 私は、ヒュームの議論を再構成するにあたって、約束を実行する動機となる精神の働きがどこに求められるべきかを、次のような手順で示すであろう。

 第一に、発語内行為の規約依存性に関する言語哲学的な主張の代表的な一例をあげ、それと、ヒュームの議論とを対照して、両者が、仮に表面的にせよ似通っている点を確認する。
 第二に、ヒュームの約束論を理解する仕方として、規約的な手段に特別な位置を与える根拠となりそうな、二つの可能な考え方を検討する。その一つは、約束が言語の意味規則によって成立するというサール流の考え方である。もう一つは、約束を一種の儀式ないし人工的に作られたゲームと見なす考え方である。それらは、結果として両者とも退けられる。
 第三に、約束の本質的な規約依存性を認めないとしたら、ヒュームが言語表現の使用に認めている重要性はいかにして説明できるのかを考察する。約束の成立条件が言語表現の意味に言及しながら論じられる一節(523-4)の検討によって、約束にとっては、約束された行為の実行にかかわる何らかの精神の働きばかりでなく、その精神の働きを表出しようとする意図の表出もまた、本質的であることが示されるであろう。約束がこのような意図の表出と、相手によるその意図の理解とに依存するということが、約束において言語表現の果たす役割を説明する。
 このことにもとづいて、以下の結論が引き出される。約束の表す精神的働きは、上記のような意図とその理解に依存して表出されるという意味で、合意に依存する。しかし、この意図を通じて表出される精神の働きは、結局、行為を実行する決意に他ならない。また、虚構として想定される、責務を負おうとする意志なるものも、事実においては、決意が別の名で呼ばれたものにすぎない。