合意と精神の働き

日本科学哲学会第29回大会・ワークショップ「ヒュームと心の哲学」(1996/11/17 於香川大学)での提題(当日読まれた原稿)

 私の今回の提題は、ヒュームの心の理論を、道徳論、とくに人為的な徳に関する議論との関係で検討することをテーマにしています。
 事前にお配りした資料では、約束の課す責務に関する細かい議論の検討に、かなり力点が置かれています。その議論をここで要約的に繰り返すのは、退屈であろうと思われますので、ここでは、論じている問題の一般的な性格と、他の提題者の方々の論じておられる問題との関係について、主に述べたいと思います。
 みなさんもよくご存じのように、ヒュームは、道徳的な善悪の区別は、理性に基づいてなされるのではなく、道徳感覚(moral sense)に基づいてなされると主張します。ここでいう理性は、観念の比較による論証と、経験に基づく因果推論の働きの両方を含みます。ヒュームが、道徳的な善悪の区別が理性に基づくことを否定する際、論拠としているのは、論証的な知識や経験的な原因と結果に関する判断が、行為に直接の影響を与えないということです。ヒュームは、『人間本性論』において第三巻の道徳論に先立つ、第二巻の情念論の中で、すでに、行為の直接の原因となるのは、理性ではなく、情念であると主張しています。これらのことから、ヒュームにおいて、道徳的な区別は、実際に行為の動機に影響し、行為を導く、prescriptiveな性格を持っていること、したがって、ヒュームの言う道徳感覚は、行為の直接の原因となる欲求や嫌悪の情念を伴うものであるということが確認できると思います。そういたしますと、ヒュームにおいて、行為の持つ道徳的な性質や責務の説明は、その行為の動機に関する因果的な説明を、少なくとも含意するものであるはずです。
 このようなヒュームの道徳論の性格を確認した上で、人為的な徳に目を向けることにしましょう。人為的な徳は、正義、すなわち他人の財産に対する自制にはじまり、国際法や女性の貞節にいたるさまざまな項目を含みますが、ここでは、正義と、約束の遵守を、主な考察の対象とします。人為的な徳に関して、ヒュームは、二つの問題を立てています。第一の問題は、人為的な徳がいかにして成立するかという、その起源の問題です。第二の問題は、人為的な徳に伴う道徳的な感情がいかにして生ずるかという、その道徳性の問題です。いいかえますと、他人の財産に手を出さないことや、約束を守ることの動機は、いかにして生じるのか、そして、その動機はなにゆえに道徳的と見なされるかという、二つの問題への答えが、ヒュームの議論から引き出されるべきだということになります。
 このうち第一の問題、つまり人為的な徳の起源の問題に関するヒュームの答えは、よく知られているとおり、人間の合意(conventions)です。正義を成立させる合意は、次のように説明されます。
「この合意は、共通の利益を全員が感じとること(general sense of common interest)にすぎない。社会のすべての成員はこの感じ(sense)をたがいに表出する。そして、この感覚(sense)に誘導されて、一定の規則にしたがって自分の振る舞いを規制するのである。相手が私と同じしかたで行動するという条件のもとで、相手の財を彼が保有するに任せておくのが自分の利益にかなうと、私は見て取る。相手は、自分の振る舞いを規制することに、同様の利益があることに気づいている。この、利益の共通の感覚が相互に表出され、両者に知られると、それは、適切な決意と行ないを産み出す。」(T490)[以下、David Hume, A Treatise of Human Nature, edited by L. A. Selby-Bigge, Second edition, revised by P. H. Nidditch, Oxford University Press, 1978のページ数を、T***として示す。]
 合意は、共有された利益の感じがたがいに知られることから生ずるというしかたで、他者の心に関する知識の成立を前提とします。伝統的に、他者の心の問題、他我問題は、心の哲学の主要な問題の一つとして論じられるわけですが、ここでヒュームは、他者の心に関する知識を、当然成立しうるものとして、ナイーヴに仮定しているように見えます。
 しかし、ヒュームにおいて、他者というものの持つ問題は、他者の心に関する知識の可能性の問題にとどまりません。そのことは、ヒュームが次のように述べていることからも明らかです。
「社会を知らない人間どうしは、たとえたがいの考えを直観によって見て取ることができたとしても、たがいに何らの契約(engagements)を交わすこともできない。」(T516)
 今引用した箇所は、約束の課す責務についての節の冒頭近くです。この節でヒュームが最初に立てた問いは、約束が、約束する者の現在の精神の働きを表すとすれば、それがいかにして、未来における行為に拘束を課すことができるか、というものだったといえます。すると、この引用で述べられた問題点、つまり、他者の心に関する知識だけでは不十分であるということは、約束だけにあてはまることであって、正義他の人為的な徳一般にはあてはまらないと考えられるかもしれません。
 確かに、正義を成立させる合意の性質が、一艘のボートをこぐ二人の人の例によって説明されることなどからも、合意一般の条件は、現在の状況と、現在の心の状態によって十分に与えられるように見えます。しかし、合意が支えるのは、ボートをこぐ場合を含め、一定の規則に従った行為を、現在行うだけでなく、次の時点でも継続することです。また、この行為の継続は、直接に、ないし無条件に欲求の対象となるのではなく、他人が同じ規則に従い続けることを条件としています。このことから考えると、約束のパラドクシカルな性格は、人為的な徳一般に、少なくとも潜在的には共通に見られるものだといえるでしょう。また、パラドックスは、合意に支えられた行為の規則が、現在だけでなく、未来の行為をも支配するという点にだけあるのではなく、規則に従う行為の動機が、直接的でなく、条件つきのものである点にもあるといえるでしょう。
 すると、ヒュームにおける他者の問題としては、他者の心の現在の状態に関する知識の問題に加えて、未来における他者の行為について、いかなる保証が得られるかということがあり、そして、この後者こそが、ヒュームにとってはより困難な問題と考えられていたといえます。また、人為的な徳にかかわっては、自分の行為の動機自身が、未来における他者の行為に関する想定に依存しますから、未来における他者の行為の問題は、ヒュームの道徳論にとってきわめて重要といえます。
 また、他者の心の現在の状態に関する知識の問題自体についても、合意に支えられた行為の保証の問題と合わせて考えると、一見してそう見えるほどナイーヴな態度をヒュームに帰することはできないと思われます。このことを明らかにするためには、精神の働きの表出(expression)というものの含む問題を検討する必要がありまが、それが、事前にお配りした私の原稿で、中心的に扱われているものです。
 精神の働きが表出されるという場合に、二つのしかたが考えられます。まずひとつは、意図せずして精神の働きが表に現れるという、いわば自然な標による表出であり、典型的な例としては、顔の表情や身体の動きによって強い情念が表出される場合があげられるでしょう。もうひとつは、意図的な表出であり、典型的な例として、言語による表出があげられるでしょう。この二つは、グライスの言い方を借りれば、自然に意味される場合と、非自然的に(non-naturally)意味される場合という風に、区別できると思います。ヒュームは、言語の意味について主題的に考察してはおらず、したがって、この区別をヒューム自身が行っているとみることはできないのですが、ヒュームの議論が取り扱っている事柄を理解する上では、この区別を行うことが有益であると思います。
 約束の課す責務に関するヒュームの議論では、最初に、約束において表出される精神の働きがなんであるか検討され、決意、欲求、意志が退けられて、結局、約束においては、いかなる自然な精神の働きも表出されていないと結論づけられます。ここでヒュームが述べているのは、約束において表出されるのは、約束された行為を、直接に、無条件に引き起こす原因となる精神の働き、つまり自然な動機ではないということです。すると、ここではまた、約束が、精神の働きの自然な標であるという想定が検討され、否定されているともいえます。というのは、自然な標によって表出されうるのは、自然な精神の働きであり、自然な精神の働きのないところでは、自然な標による表出もあり得ないからです。
 この議論と対比して考えてみると、さきほど、他者の心に関する知識をナイーヴに仮定しているように見えると言った、正義を成立させる合意に関する箇所でも、「利益の感じの表出」は、自然な標による表出ということではないように思われます。なぜなら、この利益の感じの対象は、相手のものに手を出さないということですが、この利益は、いうまでもなく、相手もまた、自分のものに手を出さないという条件のもとで、はじめて生じるものです。したがって、ここで表出されているのも、行為の自然な動機ではありません。したがって、この利益の感じの表出も、合意と無関係に理解可能な、自然な精神の働きの、自然な標による表出ではあり得ないと思われます。
 しかし、私の原稿でも書いたように、ヒュームは、約束が自然な精神の働きを表出することを否定する議論の一方で、このようにも述べています。
「人があることを「約束する」と言うとき、この人は、実のところ、そのことを実行する決意を表出している」(T522)
このことは、一見、ヒューム自身の先行する議論と矛盾するようですが、実はそうではないことが、直ちに続けて次のようにいわれることからわかります。
「[この人は]それと共に、この言語表現を用いることによって、それを実行しない場合には決して再び信頼されることがないという罰に、自ら服しているのである。」(ibid.)
明らかに、ここで問題にされているのは、決意が、言語表現によって表出される場合であり、ヒュームは、それを、自然な標による表出とは区別しています。ある人の心に実際に決意が生じ、それが直観や自然な標によって他の人に知られたとしても、それだけでは責務は生じないというのが、先に確認したヒュームの議論から帰結します。これに対して、言語表現によって決意が表出される場合は、表出されているはずの決意が実際には生じていないこともあり得ます。にもかかわらず、決意の表出を含意する約束の言語表現の使用からは、同じように責務が生ずるのです。
 このような、言語表現による精神の働きの表出の持つ特徴は、最初に正義を成立させる合意にも見られるように思われます。もちろん、一般的な合意が成立する場面と、一般的な合意を前提にして個々の行為が行われる場合の違いはあります。しかし、「利益の感じ」や「決意」は、ともに、ある行為に対する肯定的な態度、pro-attitudeであり、pro-attitudeが表出されはするものの、それを実行する実際の理由が生じるには、それがpro-attitudeの表出として相手に受け入れられることを必要とするという構造は、両者に共通するといえます。
 このようなかたちで、pro-attitudeが表出され、相手に受け入れられるにさいしては、当のpro-attitudeが表出の対象ないし内容として理解されると同時に、それを表出しようとする意図が理解される必要があるでしょう。私が、お配りした原稿の中で、約束にかかわる2種類の意図を区別したのは、このことを明らかにするためです。約束によって責務を負おうとする意図が、約束において表出される対象ですが、この意図が実際の行為の動機となるには、その意図を表出しようとする意図が相手に理解される必要があります。約束において表出されるのは行為へのpro-attitudeの一種であり、ヒュームはこれを決意という場合もあるわけですが、しかし、このpro-attitudeは単独で行為を直接引き起こすことはできず、それが行為の動機を生むための条件として、そのpro-attitudeを表出する意図が理解され、受け入れられることを必要とするという意味で、このpro-attitudeは、精神の自然な働きとはいえないのです。
 そうしますと、ヒュームのいう人為的な徳は、一般にコミュニケーション的意図の理解を前提として成立するといえるでしょう。するとしかし今度は、コミュニケーション的な意図は、いかなる精神の働きであり、いかにして表出され、理解されるかということが問題となります。これはまさに、先ほど名前を挙げたグライスなどが取り組んだ問題そのものであり、それについて、ここで主題的に論じる余裕はありませんし、ヒュームのテクストに即する限りでは、大したことがいえるわけでもありません。ただ一ついえるのは、人為的な徳に関するヒュームの議論が、今述べているようなかたちでコミュニケーションを組み込むべきであるとすれば、メッセージの内容として表出されるものの理解は、グライスのいう意味で、またヒュームに即しても、非自然的であるとしても、それと同時に表出される、コミュニケーション的意図自体は、自然な精神の働きとして理解可能であろうということです。そうでなくて、コミュニケーション的意図自体の理解が非自然的であり、合意に依存するとすれば、人為的な徳の基礎である合意の説明は、無限遡行に陥ってしまうでしょう。ヒュームによる人為的な徳の分析が、情念の自然な動きに基づく因果的分析として成立しうるとすれば、この無限遡行は避けられるべきであると思われます。
 以上が、人為的な徳を支える合意が、いかなる精神の働きに基づいて成立するかということに関するヒュームの議論について、私が持っている大まかな見通しと問題意識です。この中で、他の提題者の方と議論になりそうな点をもう一度繰り返しますと、一つは、他者理解の問題です。ヒュームの議論、とくに共感に関する議論は、他者の心の状態に関する知識の可能性をナイーヴに前提しているように見えるのですが、他方でヒュームは、他者の心の状態を直観によって知り得たとしても、それだけでは人為的な徳を支える合意の成立に十分ではないと考えている、と私は解釈するのですが、この点について、他の方々の意見はどうか。
 もう一つの点は、意味、ないし志向性と因果性の関係という風にいえるかと思いますが、合意において表出される精神の働きというのは、直接的な欲求ではなくて、それが行為の原因となるためには、非自然的な表出、ないし表象作用とその理解を前提とする。これが、行為と情念の因果的説明の中にうまく位置づけられるかどうかという問題です。
 以上述べてきたことの他に、私の原稿の中では、とくに、約束が、規則依存性という意味でのconventionalな性格をどの程度持つのかということにかかわる、いくつかの言語哲学的論点が出されているわけですけれども、それについては、もし議論になりましたら触れさせれいただくということにして、ここでの私の話はひとまず終わらせていただきます。