コミュニケーションと権力--ヒュームの正義論の場合--

2000年10月29日 唯物論研究協会第23回研究大会(千葉商科大学で開催)における口頭発表
伊勢俊彦(立命館大学)

ハンドアウト
草稿
(話し言葉で準備したが、実際には半分くらいしかしゃべっていない)
・合意における合理性と自由(理性と自己決定)

 「合意によって決める」ということがなぜ正当なのかというと、合意に加わる各人は、各人の知的能力=理性を用いた判断にもとづき、自由な意志によってそうするのだと考えられるからであろう。しかし、ここで登場する合理性と自由という概念自体が超歴史的な普遍性をもつと考えるのでないかぎり、合理性と自由そのもののあり方が、ある種の条件によって制約されていることを認めなければならないであろう。
 今日お話ししようと思うことの中心は、合意ないし個人の間の相互承認にもとづく行為の決定にかんする問題です。合意や同意というのは、非常に重んずべきものである。このことは、誰しも認めるであろうと思います。一方では、政治権力の正統性は、人々の合意にもとづくとされ、他方では、パートナーとの性愛的関係が、合意に基づくべきものとされる。このように、個人的で私的なレヴェルから、公共的・政治的レヴェルにいたる人間どうしの関係。これらの関係において、正当なものと不当なものを分かつ基準に、合意や同意の観念が入り込んでいる。少しでも考えてみると気づかされるのがこうした事情です。
 合意・同意というものにおかれている非常な価値。この背後にあるのは、自由と合理性を重んずる考え方でしょう。一人の人間が他の人間との関係においていかなるものとして扱われ、またいかなるものとして振る舞うことを引き受けるか。このことは、理性に基づく自己決定によるべきである。これもまた、多くの人に認められることであると思われます。
 さて、ここで、多くの人にと言って、すべての人にと言いきらないのには理由があります。「理性」や「自己決定」という晴れがましいことばを何の条件もつけずに用いるのはいささか無防備ではないか。哲学の議論で身につけた用心深さの習慣が、幾人かの人にはこう教えるでしょう。まして、ここで私は、道徳における理性主義や意志自由の説に対する厳しい批判者であるヒュームについてお話ししようとするわけです。ここで私が「理性に基づく自己決定」を持ち出すのは、あとの議論を有利にするためのわなであると思われるのも無理のないところでしょう。
・合理性と自由の状況依存的性格--大きな状況と小さな状況

 では、その条件とは何か考えようとするとき、合意による正当化という思想の歴史的系譜をたどり、その思想を有力なものとして働かせている近代社会のあり方を鳥瞰的にとらえるのもひとつの方向であろう。しかし私はそれとは別の途をとり、個々の人間が合意による未来の決定を行なう場に即して、合理性と自由がどのような条件に制約されているかを考えたい。そのような途をとっても結局、そこにおける個々人のあり方やたがいの関係が近代社会という条件に規定されていることは考慮に入ってくることになろうが、その場合も、社会から個人へというトップダウンの方向でなく、個人のレヴェルの現象に分け入ることによって社会のあり方を見通すことを目指す。個別的な行為に即して考察を行なうために、約束を取り上げる。
 より積極的に述べるなら、「理性」や「自己決定」は、抽象的にではなく、具体的な社会的・歴史的文脈に条件づけられたものとしてとらえられるべきである。「理性に基づく自己決定」には、この但し書きが必要であるといえます。「理性」や「自己決定」という観念がいかなる歴史的段階において生じたものか、というような問題に、たとえば近代的自我の覚醒というようなごく大まかな答えを提出するのはそう難しくないでしょう。ただ私がまず求めたいと思うのは、そうした大きな問題に対する大きな答えではありません。むしろ、私が合意を通じて他の人間との関係で人間としてのある振る舞いやあり方を引き受けるとき、あるいは逆に、他の人間にある振る舞いやあり方を課するとき、私の「自由」や「合理性」がどのような制約のもとにあるのか。私自身が埋め込まれている小さな状況の中での「理性」や「自己決定」のあり方を私は問いたいと思います。
・約束の言語行為論とヒューム

 50年代オクスフォードの日常言語の哲学から発生した言語行為論は、約束を好んで取り上げてきた。言語行為論が注目した約束の特徴は、
  • 非表象的性格:事実や思想の鏡像的表現ではないこと。
  • 他者志向的性格:他の個人に向けてなされる行為であること。
  • 制度依存的性格:一定の手続きに従ってなされること。
であるが、これらの特徴はいずれもヒュームがすでに注意しているところである。
 小さな状況における他者のと関係、その文脈での自由と合理性、これらを考える手がかりとして、約束の問題を以下ではとりあげたいと思います。約束は、言語を用いてなされること、言語行為の一つです。言語行為という考え方を導入したのは、いわゆる日常言語学派の時代のオクスフォードの哲学者、オースティンであり、それを言語学者にも利用可能なような体系的な理論に仕立てたのが、オースティンの学生であったサールです。サールの理論にはいろいろ問題があって、当初はそれについて多少立ち入った話をする予定だったのですが、考えているうちにほかの問題の方が前面に出てきてしまったので、サールのことはまたの機会にまとめるとして、ここではとりあえず、言語行為という観点から見た場合、約束は特に興味深い例を提供することを指摘しておきたいと思います。というのは、約束というタイプの言語行為では、言語の使用の他者志向性がことに際だったかたちで現われるからです。言語行為という考え方は、言語の機能は単に客観的事実や主観的な思想内容を表象することにあるのではなく、言語を使用する人間が、置かれた状況の中で何らかの行為を遂行する仲立ちとなることにある。こういう事実に着目することから出発します。言語を仲立ちとする行為の成立は、当然、言語を使用する側とその受け手の側の関係をはじめとする社会的な要素に左右されます。約束のポイントは、未来においてある行為を実行する責任を引き受ける、コミットメントを行なうことにあり、このコミットメントは、単なる事実の表象や意思の表明によってではなく、約束を受ける他者との関係においてはじめて生じるものです。
 約束をはじめとする言語の使用の他者志向性に注意を喚起したことは、言語行為論の功績ですが、この議論はある意味ではすでに200年以上前に、ヒュームによって先取りされていたといえます。『人間本性論』第三巻第二部第五節で、ヒュームは、約束において生ずるコミットメントが、約束する者の意志や決意といった心の作用を表象することだけで成立させることはできず、ヒュームがconventionとよぶ、社会の成員どうしの協調を前提としてはじめて成立することを指摘しており、この議論と言語行為論との関係は、すでに幾人かの注釈者の注意しているところです。
・ヒューム道徳哲学における約束の位置

 ヒュームの約束論は、「人為的な徳」の理論の中に位置づけられており、そこでは、人間の社会を可能にする条件が、ピュシスではなくノモスにもとづくことが明らかにされる。ヒュームにおいてノモス的なものの成立を特徴づける根本概念がconventionである。conventionは一種の合意の概念であるといえるが、契約や約束の概念とは異なる。conventionの概念を解明することは、ヒュームの道徳哲学を整合的に解釈する上で最も重要なポイントである。
 また、約束論が所有の確定をはじめとする「人為的な徳」論の中で論じられることは、約束の主体が単に言語使用の主体としてばかりでなく、最初から所有と交換の主体として登場することを意味する。
 ヒュームのこうした観点は、道徳哲学への彼のアプローチの基本からの帰結といえます。ヒュームは、約束に伴う義務を含め、権利や義務といった基本的概念を、自然な状態における個人に固有のものというよりも、個人どうしの相互関係に依存してはじめて生ずるものとして考察しています。しかもヒュームは、こうした個人どうしの相互関係を単に一般的・抽象的に想定するのではありません。ヒュームが想定しているのは、個人がたがいに物の所有と交換の主体として現われるような、歴史的状況に埋め込まれた関係です。
・約束の理論へのヒュームの独自の貢献

 こうして約束が所有と交換を通じた富の増大を促進するシステムとしての社会という力の場の中に必然的に位置づけられることがヒュームの約束論の独自の意義のひとつである。
 他方、特定の社会システムのあり方をより根底的に支えるノモス=convention概念を参照することによって、人間のあいだの合意は、市場における交換を媒介するだけでなく、多様な形態をとりうることが明らかになる。広義の約束は、これら多様な形態の合意を含む概念であり、それらの伴う自由や合理性のあり方も一様ではない。ヒュームの道徳哲学はこうした多様性への視点をも提供する。
 物の所有と交換の主体としての個人が、利害に動機づけられて行なう約束。これがヒュームの約束論の主題であり、こうした約束の有効性は、約束の当事者である諸個人の上に立った社会的な強制力によって裏づけられる必要があると、ヒュームは論じています。約束における「自由」や「合理性」は、こうした強制を含む社会的な力の場に制約されている。人間が他の人間に対して合意にもとづくコミットメントを行なうとき、このような力の場による制約を全く免れることはできない。私がヒュームの議論の検討を通じて確認したいと考える結論の一つはこれです。
 他方、一見これと矛盾するようですが、合意という概念には、当事者以外の第三者の介入からの自由という要素がやはり含まれているように思われます。ヒュームの約束論の本筋ではカヴァーできないように見える、合意のこうした側面についても、実は、ヒュームの道徳論を全体としてみるときには、解明の手がかりを見出すことができる。このことを私は、私的・家族的秩序から公的および政治的秩序への発展の論理、それを支えるconventionの概念の検討によって示したいと思います。このことがこの発表のもうひとつの目的です。
・正義論の横の論理と縦の論理

 ヒュームの正義論の主題には、所有の確定、同意による所有の移転、約束から生ずる責務、統治すなわち政治権力の起源と統治への服従、国際法、そして貞節と慎みが含まれる。これらの諸主題の議論に横断的に登場するいわば横の論理と、私的な個人間の権利と義務の問題にはじまって、国家と政治社会の成立へ、さらに、国家間の秩序の問題へという主題間の移行を推進する縦の論理とを見いだすことができる。
 ここから本論にはいり、まず、ヒュームの正義論の全体的構造を見ておきましょう。『人間本性論』では、第三巻「道徳について」の第二部が「正義と不正義について」と題されており、その中で、所有の確定、同意による所有の移転、約束から生ずる責務、統治すなわち政治権力の起源と統治への服従、国際法、そして貞節と慎みが論じられます。これらの主題は、大まかには、私的な個人間の権利と義務の問題にはじまって、国家と政治社会の成立へ、さらに、国家間の秩序の問題へという順序で展開されていることが見て取れます。この主題の一覧を見るとき、その最後に、女性の貞節と慎みがとりあげられるのはなぜかという疑問が生ずることでしょうが、この問題は今のところ棚上げにしておきます。さしあたっては視野を貞節の問題以外に限った上で、ヒュームの正義論の全体構造にかんして、二つの角度から述べたいと思います。一つは、ヒュームがこれら異なった主題について述べるさい共通して現われる、いわば横の論理についてであり、もうひとつは、これらの主題から主題への論の移行を貫く、いわば縦の論理についてです。
 「横の論理」は、つぎの五段階からなる。
  • 自然的動機の不在
  • 利益の存在
  • 利益の認識可能性
  • 共通の利益の感じとりにもとづくconvention
  • 道徳感情
 ヒュームの正義論を横断的に貫く論理展開の例として、「我の物(mine)」と「汝の物(thine)」とを区別することを通じた物の保有の確定が、どのように説明されるかをみてみましょう。これは『人間本性論』第三巻第二部の第一節と第二節で論じられます。第一節は「正義は自然な徳か人為的な徳か」と題され、ヒュームの正義概念の中心にある「我の物」と「汝の物」の区別が、個人個人に生まれつき備わった心のはたらきにもとづくものではないことが示されます。ここでのヒュームの議論は、自他の所有の区別への尊重が義務の感覚にもとづくという論法を、循環論として批判するものですが、簡単な要約を許さない精妙な議論となっています。こうして自他の所有の区別の自然的基礎が否定された後に、それはどこから生ずるのかということが「正義と所有の起源について」と題された第二節で論じられます。そこで示されるのは、第一に、社会の形成にとって所有の区別と確定が必要不可欠であること、そして、それが実際に必要であるばかりでなく、その必要性、そこから得られる利益に人々が気づくことができるようになる条件です。このような利益の認識にもとづいてconventionが成立します。このconventionというもののが正確には何であるか、conventionということばは、一般的に合意や一致を表わしますが、これは約束や契約とは区別されなければならないとヒュームはいいます。この点詳しくはあとで改めてふれたいと思います。さてこうして、自他の所有の区別の起源が、社会の成員の共通の利益の感じとりにあることが示された後に、それにともなう道徳感情が共感の原理にもとづいて説明され、議論のサイクルがひとまず完結することとなります。
 この議論を図式的にまとめると、第一に、正義を実行する自然的動機の不在、第二に、その実行に伴う利益の存在、第三に、その利益の認識可能性、第四に、共通の利益の感じとりにもとづく正義の実行のconvention、第五に、その実行に後から伴う道徳感情。この五点を示すことが、ヒュームの正義論の本質的部分をなしているといえます。このほかに、議論を補強する考察として、たとえば自然状態論などの興味深い論点が提出されますが、それらは議論の全体的な流れから見ればあくまで補助的なものです。  この五段階の議論を、先ほど列挙した正義論の個々の主題すべてについてヒュームが繰り返しているわけではもちろんありません。いったん所有の区別と確定についてこの五点が論じられると、他の主題の多くについては、それらの論点は自明なしかたで当てはまるものとして、いちいち展開されません。五段階の議論が完全なかたちで繰り返されるのは、約束の責務を論じた第五節に限られています。このことは、多くの注釈者にとって、約束にかんする議論は本質的に所有の区別と確定にかんする議論の繰り返しであり、とくに新しい哲学的洞察を示すものではないと考える根拠になっているようです。しかし私は、ヒュームが約束にかかわって五段階の議論をことさらに繰り返していることが、むしろ、正義論を縦に貫く論理にとっての約束論の重要な位置を示していると考えます。つぎに、ヒュームの正義論における縦の論理の検討に入って、私の主張を検証してみましょう。
 「縦の論理」が説明するのは、政治権力以前の「自然社会(natural society)」から、「公的社会(civil society)」ないし「政治社会(political society)」への移行を通じた富の増大のシステムの展開であるが、それを媒介するのが現前する個別的な物から不在あるいは一般的な物への支配権の拡張と、それに伴う物や労働の交換可能性の成立である。そして、この支配権の拡張と交換可能性が論じられるのが、約束にかんする議論である。  先ほど行なった所有の区別と確定にかんする議論のまとめでは、『人間本性論』第三巻第二部の第一節と第二節がペアをなしていて、第一節では五つの段階の第一にあたる否定的あるいは破壊的議論が、第二節では第二から第五の段階にあたる肯定的ないし構成的な議論が提示されるというふうに述べました。これは大まかにはその通りなのですが、より詳しく考えると、第一節と第二節とのあいだは、厳密に対応しているとはいえません。第一節は、第二節の議論を導き入れる前段階になっているだけではなく、少なくとも第六節まで、つまり、統治の起源が論じられる以前に、政治権力の成立いかんにかかわらずすべての人間社会に不可欠なものとされる三つの自然法が説明される議論全体の導入部となっています。三つの自然法というのは、所有の確定、同意による所有の移転、約束による責務の成立、この三つです。第一節で、正義という題目の下に論じられることがらの最初の具体例が示されますが、それはある額の金を期日を定めて借りたとき、それを返すべき理由はどこから生ずるかというものです。借りた金を返すべきであるのは、それが貸し手のものだからですが、哲学的な問題は、貸し手のもの、ないし一般に誰それのものという区別がどこから生ずるかということになります。確かに、この、所有の区別の問題が、ヒュームにとって正義の問題の端緒であり最大のポイントなのですが、借りた金を返す例には、所有の区別だけでは説明されない事柄が含まれています。一定の金額の金、たとえば五万円を借り、それを返すというとき、借りたのと個別的なものとして同一の紙幣を返す必要はない、というより、同一の紙幣を返すというのは、実際にもまず例外的にしかあり得ないでしょう。ヒュームの時代、貨幣といえば金銀であり、銀行券は存在しても本当の貨幣とは別物とされていましたが、貨幣に対する権利が、個別的なものではなく一般的なものを対象とするという論点は、同じように当てはまると思います。所有にかんする第一節の議論は、目の前にある個別的・具体的なものとの関係がいかにしてそのものに対する権利に転化するかということに集中しており、一般的なものや、現に目の前になく、手に取ることも手渡すこともできないものに対する権利の説明は、約束が論じられる第五節を待たねばならないのです。そして、この、現前せぬ不在のものや、個別的に特定されていない一般的なものに対する権利の議論が、第一に、政治権力以前の「自然社会(natural society)」から、「公的社会(civil society)」ないし「政治社会(political society)」へと議論を前進させる不可欠のステップとなっていること。それと同時に、こうして進行する議論全体を通じて明らかにされる富の増大のシステムという近代社会の基本的性格の解明のために本質的であること。この二つが、ヒュームの正義論を縦に貫く論理の理解のために重要なポイントであり、また私のヒューム解釈のオリジナルな点として強調したいポイントであるわけです。
・バイアーのヒューム解釈:三項関係としての約束

 この縦の論理に注目して約束の意義を解明した先行研究としてアネット・バイアーのヒューム解釈がある。バイアーは、約束の、制度と諸個人の上に立った力への依存する性格と、約束のための明示的な言語表現が、その社会的な強制力を発動するに際して果たす役割を強調した。バイアーは、約束を、約束する者とされるものという二者のみの関係ではなく、約束の社会的強制力の担い手である第三者を含んだ三項関係として理解する。
 しかし、バイアーの解釈は、合意と約束の多様な現われを許容し得ない狭さと、約束の対象が不在のものであることは強調するが、一般的なものであることに注目せず、交換可能性の成立の意義を見落とす弱点をもっている。
 ここで、ヒューム解釈としての私の主張を明確にするために、先行研究を紹介し、それとの対比を試みようと思います。まず取り上げるのはA. バイアーの論文[Baier 1985]です。これは、ヒューム正義論の縦の論理の中に約束を位置づけた解釈としてほとんど唯一ではないかと思われる重要な業績です。バイアーが描くヒューム哲学の全体像は、『人間本性論』にかんするモノグラフ[Baier 1991]に示されていますが、そのもっとも特徴的な主張は、この書物に含まれている個々の議論の真価は、この書物を最後まで読まなければ明らかにならないというものです。というと、きわめて当たり前のことのように聞こえるのですが、実際には、多くの場合、ヒュームの議論はそういう取り扱いを受けていません。たとえば、『人間本性論』第一巻の因果性にかんする議論や外界存在の信念にかんする議論が、第三巻を待ってはじめて明らかになるヒュームの世界像と関連づけて論じられることはむしろまれです。同じことはもっと小さなスケールでもいえ、第三巻では、第二部の正義論に議論が集中して、第三部の「自然な徳」にかんする議論が取り上げられることはまれですし、正義論自身についても、第一節と第二節ばかりが注目され、第三節以降は、いわば付け足しのようなものと考えられがちとなっています。これに対してバイアーは、『人間本性論』第一巻で徹底した批判にさらされる「理性」の立場は、第二巻第三巻を通じて明らかにされる感情に彩られた社会的世界のあり方から切り離された抽象的思考の立場であり、ヒュームが人間知性に与える積極的役割は、情念論や道徳論の文脈を参照してはじめて理解されることを示しました。
 正義論の解釈という点でも、バイアーは、convention概念を中心とする横の論理の分析にとどまらず、所有から約束へ、「自然法」論から政治社会へという議論の移行の論理に注目している点に特色を示しています。バイアーによると、一つの問題を解決するためのconventionにもとづくシステムがいったん成立すると、そのシステム自身が解決を必要とする新たな問題を生みだし、新たなconventionを要求する。ヒュームの正義論は全体としてこのような漸進的な社会的発展のプロセスを示しているとされます。その中で、約束の責務を成立させるconventionによって解決されるのは、現前しない物に対する権利の問題である。バイアーはこのように解釈しています。現前しない物に対する権利が問題になっているということによって、バイアーはまた、約束における明示的な言語表現の役割を説明しようとします。明示的な言語表現というのは、英語の"I promise"というような表現で、オースティンにはじまる言語行為論の議論の中で、その役割が強調されたのは周知の通りですが、ヒュームもまた、こうした明示的な表現の役割を約束にとって不可欠のものと見なしています。
「利害に動機づけられたものと、利害を没したものと、これら二つの異なった種類の交わりを区別するために、前者について一定の形態のことばが考案され、それによって我々は何らかの行為を遂行するよう自らを拘束する。この形態のことばが約束と呼ばれるものを構成し、これは、人々の利害に動機づけられた交わりに与えられた、承認の証である。」(T521f.)
 現前する物については、同意のもとにそのものを引き渡すことによって、権利の移転をも行なうことができるのに対して、現前しない物については、当然のことながら引き渡しが不可能である。未来におけるその引き渡しを現在保証するためには、その担保が必要であり、約束に伴う言語表現は、約束の不履行に対する、「二度と信頼されない」という罰が社会的な強制力によって確かなものとされることによって、このような担保の役割を果たす。このように、バイアーは約束に伴う言語表現の機能を説明しています。
 ヒューム解釈という特定の文脈を離れて考えてみても、バイアーの哲学の特徴は、伝統的に、また現代においても通常は個人の精神に内在すると考えられる理性をはじめとする精神の諸能力の形勢や発現が、社会的文脈に埋め込まれ、それと切り離せないことを徹底して主張する点にあります。約束に伴う責務についていうなら、それが決意などといったの個人の精神の作用に還元できないことは、ヒュームがすでに明示的に述べています。(あとで引用するT516です。)バイアーはさらに進んで、約束の責務は一個人の精神作用に還元できないだけでなく、約束する者とされる者との二者関係によっても説明しつくされることがなく、その説明は、それら二者の上に立った社会的な強制力を想定することを要求すると主張します。これは、約束の分析において、それが社会制度として拘束力を持つという側面にとくに注目することによって、道徳哲学的主題から政治哲学的主題に続くヒュームの議論を、一貫した流れとしてとらえることを可能にするという、大きなメリットをもった解釈であるといえます。
 反面、バイアーの解釈にはいくつかのデメリットも見いだせます。約束という類型に属する言語行為は、多様なかたちで現われるものであり、その一方の極にバイアーが考察しているような、確立した社会制度を背景にした、法的な契約の直接的な先駆形態としての約束があるとすれば、他方の極には、第三者による保証などそもそも意味をなさないような、きわめて私的な行為としての約束もまた存在するのではないでしょうか。ヒュームの議論は、ある種の約束を支える社会制度の成立を考察の直接的対象としながらも、いま述べたような約束の多様性をも視野に納めうる柔軟さをもっていると私は考えますが、バイアーの解釈ではこの点が切り捨てられてしまうと思われます。この約束の多様性は、約束の言語哲学と社会哲学の根本にかかわる問題です。
 バイアー説の第二のデメリットは、ヒューム正義論の縦の論理の理解により直接にかかわります。先にも述べたように、約束の責務が説明される『人間本性論』第三巻第二部第五節では、現前せぬ不在のものに対する権利とならんで、個別的に特定されていない一般的なものに対する権利を説明することが課題となっています。そして、一般的なものに対する権利の成立を通じて、物や労働が交換可能なものとして現われるのであり、富の増大を促進するという、ヒュームが論ずる社会システムの基本的特徴は、この交換可能性を通じて成立する。私はこう考えるのですが、バイアーの解釈ではその点が十分明らかにならないと思われます。
・未来の支配と交換可能性

 バイアーは、約束による未来の支配を裏付ける力として、公の言語の使用によって発動される社会的な強制に注目した。それは決して誤りではないが、そうしたいわば垂直方向の力とならんで、行為の交換という水平方向のしくみに、未来を支配可能にし、より多くの人間の力を社会的な富の形成に動員する条件として注目する必要がある。現前しないものに対する権利を保障する社会的な力は、政治的、法的な強制力の形成の条件となることによって自然社会から政治社会への移行を準備するが、そうした力の土台となるのは、物や労働の交換、言い換えれば市場的秩序の形成を通じた富の増大を可能にする、一般的なものに対する権利である。
 約束の責務は、所有の確定、同意による移転に続く、第三の「自然法」として説明されます。ヒューム自身はその必要性についてつぎのように語っています。
「[所有の移転]が生じうるのは、現前する個別的な対象についてのみであり、不在のないし一般的なものについては生じえない。20リーグ離れたある家の所有を移転することはできない。なぜなら引き渡しという必要条件を同意に伴わせることができないからである。また、トウモロコシ10ブッシェル、ワイン5ホグズヘッドの所有を、単なる[意図]の表明や同意によって移転することもできない。なぜならこれらは一般的な語に過ぎず、何らかの特定のトウモロコシの山やワインの樽と直接の関係をもってはいないからである。その上、人々の交わりは物資の交換に限られてはおらず、技能の提供や行動に及び、これらのものを交換して、互いの利益や便宜とすることができるのである。」(T520)
 この叙述に引き続いてヒュームが具体的に論じるのは、「私」と「あなた」が、たがいに相手の畑のトウモロコシの穫り入れを手伝う場合です。このとき、最初に手伝う方は、その見返りに、相手があとで自分を手伝ってくれる保証を必要とするが、この保証を与えるものが約束であるわけです。言葉を換えていえば、約束のポイントは、未来を支配することです。未来の支配がいかにして可能か。これがヒュームの約束論で重要な問題であることは、約束の自然的基礎を否定する、先の五段階の図式で第一段階にあたる議論の中で、つぎのようにいわれていることによっても確かめられます。
「[約束が表わす精神の作用は]われわれが実行を約束する行為を意志することでもない。というのは、約束は常に何らかの未来の時点にかかわるが、意志の影響が及ぶのは現在の行為のみだからである。」(T516)
 未来の事柄が、いま現在ここにないことは定義によって明らかですが、そればかりでなく、約束によって未来を支配可能なものにしようとするときに、未来の事柄は、一般的なものとしてとらえられ、交換可能なものとして現われる。これが、約束による未来の行為の支配を説明するに際して、ヒュームが、不在の対象に加えて一般的な対象に言及していることの意味ではないでしょうか。この点を正しく位置づけることが、ヒュームの約束論の理解にとって重要であると、私は考えます。バイアーは、未来の支配を裏付ける力として、公の言語の使用によって発動される社会的な強制に注目しました。それは決して誤りではないのですが、そうしたいわば垂直方向の力とならんで、行為の交換という水平方向のしくみに、未来を支配可能にし、より多くの人間の力を社会的な富の形成に動員する条件として注目する必要があるでしょう。さきほど述べたヒューム解釈上の二つのポイントに即していうなら、現前しないものに対する権利を保障する社会的な力は、政治的、法的な強制力の形成の条件となることによって自然社会から政治社会への移行を準備するが、そうした力の土台となるのは、物や労働の交換、言い換えれば市場的秩序の形成を通じた富の増大を可能にする、一般的なものに対する権利であるといえるのではないでしょうか。
・公的な次元における自由と合理性の他者の承認への依存

 個人が他の個人に対して物や労働を交換可能なものとして提供することを申し出ることにによって未来の行為を決定するとき、その決定はその個人の自由意志に属してはいるけれども、その自由は、提供する物や労働が交換可能なものとして他者の承認を受けること、またその個人自身が合理的な行為主体として承認を受けることに依存し、いわば他者からの浸透を受けている。
 ここから、導入部でふれた自由と合理性の問題を振り返ってみましょう。ヒュームがあげている借金の例、トウモロコシの穫り入れの例に共通して、約束を行なう者は、相手からある価値のある物や価値を生む行為(ないし労働)の提供を受けることを目的に、未来においてその代価となる物や労働を提供することを申し出ます。このとき、約束する者に起こることは、約束を破る自由を制限されるという意味でだけでなく、自らの行為に対する支配ということの意味全般に及ぶ、自由の制限であるといえます。まず第一に、約束する者は、自分の未来の行為を、相手から受け取ろうとするものの代価として、つまり交換可能なものとして価値の承認を受ける必要のあるものとして提示することになります。また第二に、約束する者が自らの未来の行為に対してもつ支配力もまた、自らに内在する意志による直接的支配ではなく、他者からの承認を媒介としたものになります。というのは、先に引用した個所でヒュームが述べているとおり、約束による未来の行為の支配は、約束する者の意志に依存しないからです。現在の意志は未来の行為に及びえず、未来の行為を決定するものは、公になされた言語の使用の、すでに行為者自身の手を離れた痕跡です。そして、この痕跡が発動する社会的強制力に逆らって、自らの意志によってその都度新たに行為を決定しようとすれば、その人は、「意志の弱さ」「自制の欠如」「不合理さ」を非難されることになるでしょう。こうして、公的な社会における「自由」は、単なる裸の個人に内在すると想定されるような「自由」ではなく、本質的に他者に浸透され、社会的な力の場に埋め込まれたものであることが明らかになります。
・約束の一般的な次元と個別的な次元--三者関係としての約束と二者関係としての約束

 しかし、自由な行為は、交換可能でなく個人に固有の個別的なものにとどまる場合もあるはずである。約束の場合も、約束される行為が単に交換可能なものでなく、約束をなす当の個人によってなされることが不可欠の意義をもつことがある。その場合、約束する者とされるものとの関係は、社会的な強制力に媒介された一般的な関係(バイアーが描く三項関係の一辺)でなく、その二者にとってだけの特殊な意味をもつ関係となる。約束の言語表現に即していえば、明示的な言語表現によって社会的な強制力を呼び起こす必要はなく、意図の表明の表現だけで約束が成立しうる。ただし、この場面でも、行為の自由はアトム的個人に属するのではなく、個人が相対する他者との関係において成立する。
 理性的な自己決定による未来の支配という概念を支える自由や合理性そのものが、他者による承認の必要性を含意しているとしても、そのことだけで「自由」や「合理性」が、いかがわしい欺瞞的なものになるわけではありません。むしろ、他者による承認が行なわれる場を特徴づける人間関係を、富や権力の不平等に規定されたあり方から、平等で、真に共同的なものに変えていくことを通じて、自由や合理性が個人個人にとって自分自身のものとなるようにしていくことを考えるべきだといえるでしょう。しかしながら、個人の自由という事柄には、他者の承認を前提とする、公的な場における未来の支配という側面とともに、どこまでも私的な、一般化も交換も拒絶する個別性の次元における自由という側面もまた含まれていると思われます。一見、自由のこの側面は、約束や合意という主題と接点をもたないように見えますが、実はそうではなく、ここでもやはりヒュームの正義論の中に重要な洞察を見いだすことができる。このことについてつぎに述べたいと思います。
 一見さらに無関係な方向に話が飛ぶのですが、約束における言語表現の役割についてもう一度考えてみましょう。ヒュームは、"I promise"のような明示的な言語表現の役割を強調しており、バイアーはこれを、約束の拘束力が、社会的な強制力に依存し、公の言語使用がその強制力を呼び起こすのだというふうに説明しました。これに対して、ヒュームの約束論にふれている何人かの人々は、むしろ、明示的な言語表現の使用が約束の有効性にとって必要条件でないことが明らかだと述べています。[Ardal 1966, Anscombe 1980]実際、トウモロコシの穫り入れを手伝う約束をする場面で、"I will help you tomorrow."という発言があれば、それは約束と理解され、その通りにしなければ信頼の裏切りになる。それは"I promise I will help you tomorrow."という発言の場合と同じではないかと思われます。しかしこの違いは、単に言語使用にかんする経験的事実の問題ではありません。未来の行為にかんする現在の意図の表明が、相手の側に、それを信頼し当てにする気持ちを生み、その気持ちが相互に了解される、そのことが約束の本質なのか、それとも、約束の有効性は、第三者が確認できる公の徴を用いることによってはじめて成立するのか、言い換えれば、約束を基本的に二者関係ととらえるのかそれとも本質的に三者関係としてとらえるのかということが、この対立の根本にあるのだと思います。
 ヒュームは、人々がたがいに助け合う、技能や労力の提供のやりとりが、あたかも、利害に動機づけられたものと、利害を没したものとにきっぱりと二分できるかのように語り、約束をもっぱら利害に動機づけられた交わりにかかわるものとしています。そして、利害に動機づけられた交わりにおいては、人々は、たがいに何ら思いやりをもたないと述べています。しかし、たがいに何ら思いやりをもたない人間どうしのあいだで約束が行なわれるのは、現実にはかなり例外的であろうと思われます。たとえばトウモロコシの穫り入れの場合でも、手助けの提供を申し出ることは、取引の申し入れと同時に、たとえ表面的にせよ、相手に対する思いやりの表現という意味を持つのが普通ではないでしょうか。そしてその場合、約束の実行がもつ意義は、約束された物ないし労働の提供が得られるということだけでなく、約束を実行するのが約束を行なった当人であることにかかってくるのではないでしょうか。つまり、約束によって実現されることがらの一般的で交換可能な価値よりも、約束を実行する人物が、ほかならぬその個別的な人物であることの方が重要となるケースがあるように思われるのです。この事情は、たとえばつぎのような発言の場合を考えてみるとよりはっきりすると思います。「僕は君のことを一生愛し続ける。約束だよ。」この場合、約束の対象になっていることがら--ある人物の、もう一人の人物に対する愛--これが絶対に交換不可能なものかどうかについては私は実は確信が持てないのですが、花子が太郎の愛を受け入れるとき、太郎の花子に対する愛が花子にとって持つ意味は、ほかの誰とも共有できないし、太郎の愛が持つのと同じ意味を、次郎の愛が持つこともできない。つまり、その愛を譲り渡したり、別のものと取り替えたりした場合に、その愛がもともと持っていた意味は失われてしまう。その限りで、ここでの約束の対象は、一般的で交換可能なものに解消できない、個別的・唯一的な性格を持っているといっていいでしょう。約束がこうした個別的・唯一的な性格を持つとき、約束の有効性は、意図の表明によって生まれる、信頼と、その信頼を裏切らない配慮という、二者のあいだの感情的関係に依存していると考えられます。したがってこの場合は、意図の表明がすなわち約束を構成するといえると思います。通常の約束は、こうした個別性と交換可能なものの取引としての一般性を両方備えていて、約束の持つ一般的性格を、個人どうしの感情的関係が支えきれなくなるとき、第三者として約束の当事者の上に立ったものの存在、その力を発動するための定まった言語形式が必要になるのだと考えられます。
・convention -- 感情にもとづく結合から法にもとづく結合へ

 こうした特殊な意味をもった関係が、ヒュームのいう「人々の利害を没した交わり」にあたる。個人が所有と交換の主体として現われる「利害に動機づけられた交わり」は、利益の感覚に導かれたconventionを通じて成立する。ここで注意すべきは、conventionの主体が、契約説の想定するような、社会に先立って存在する、あるいは理論的仮定として現実の社会のあり方を捨象した上で想定されるような、いわば裸の個人ではないことである。conventionの主体は、すでに個人間の特殊な感情に彩られた関係の中にあり、他者の浸透を受けている。conventionは、社会契約と異なり、社会の外に存在する合理的個人から出発して社会を説明するのではなく、感情にもとづく人々の個別的な結合から出発し、その中で発生する利益の感覚を介して、一般的観点に立った「自然法」の支配する公的社会の成立を説明する。
 してみると、ヒュームの用いている言葉は、利害に動機づけられた交わりと利害を没した交わりのあいだにきっぱりした断絶があることを示唆しているようですが、それにもかかわらず、この二種類の人間の交わりはたがいに連続したものと考えることができると思われます。ヒュームの議論では、抽象的なレヴェルでは二つのものが一見厳しく区別されているように見えても、具体的なことがらに即していえばそれらが切り離しがたく結びついているという場合がよく見られます。たとえば理性と情念の関係がそうです。理性の実際の働きは、情念との結びつきなしにあり得ないのと同様に、利害に動機づけられた交わりも、利害を没した交わりを支える、感情に彩られた人間関係のネットワークを前提として成立しうるのだと考えられます。実際ヒュームは、こう述べています。
「人々のこの利害に動機づけられた交わりが生じ、社会において支配的となっても、それが友情や親切のより寛大で高貴な交わりを全く廃れさせてしまうことはない。私は相変わらず私が愛しており、より親密に知っている人々に対して、何らの利益も見込まずに労力を提供することができるし、その人々は同じしかたで、私の過去の労に報いる以外の目的なしに、お返しをすることができる。」(T521)
 こうした利害を没した人間関係への言及は、所有の区別の議論に際しても見られます。
「容易に見て取れることだが、友人のあいだでは心からの愛情によってすべてのものが共有となり、とりわけ婚姻を結んだ人々はたがいに所有を捨て去り、我がもの汝がものということを知らない。」(T495)
 これらの引用個所では、約束が利害に動機づけられていることを強調するときとは逆に、個人的な感情に彩られた関係が、あまりにも純粋に利害を没しているかのように述べられていますが、所有を区別し、約束の責務を確立する社会の「自然法」が、自然な感情にもとづく関係のネットワークを前提としていることは、社会の持つ利点の認識の発生の場を家族に求めているつぎの個所から読みとれます。
「ここでは両親が子供たちに優った力と知恵を利用して統治するが、同時に、子供たちに対する自然な愛情によって権威の行使を制限する。しばらくの間に、習慣が子供たちの柔らかな精神に作用し、彼らが社会から受け取ることのできる利益に気づくようにさせるとともに、協同を妨げるごつごつした角や扱いにくい感情をこすり取って、子供たちをしだいしだいに社会に適応するよう型にはめるのである。」(T486)
 自他の所有を区別し、ひとの物に手を出さないことや、約束を守ることは、他人ひとりひとりへの特別な思いやりによっては説明できず、そのことから生ずる利益の認識を必要とする。このようにヒュームは考えますが、人間がそのような利益認識の主体となる能力が形成されるのも、家族という萌芽的な社会秩序の中でであり、まったく非社会的な個人の利益感覚にもとづいて社会が成立するという議論をヒュームは行なっていません。してみると、ヒュームの立場は、目的合理的な個人の選択から社会の生成や正当性の説明を引き出そうとする新旧の契約説とは根本において異なっており、「自然法」の成立を説明するconventionが「共通の利益の感覚」といわれるとき、その感覚は合理的な計算にもとづくよりも、自然な感情に彩られた家族的秩序の中で形成された共感の能力にもとづくと考えられます。ヒュームの立場を本質的には契約説的なものと見なし、個人の自己利益追求から道徳的義務を導き出すことの困難を指摘する最近のマウンスの議論[Mounce 1999]は、したがって、ヒュームに対する批判としては妥当ではありません。conventionが説明するものは、アトム的個人から社会への移行ではなく、感情による結合から法による結合への移行であるといえるでしょう。
・信頼の不確実性--孤独と不幸において人間の共通性を見て取ること

 個別性の次元においても、公的な次元においても、自由意志による未来の決定は、社会的結合のうちに生じ、他者の信頼可能性を前提にしている。ところが、その信頼が崩壊することを防ぐ絶対的な手だては存在せず、自由意志による自己決定の根底には、消去不可能な偶然性、無根拠性が横たわっている。言い換えれば、ひとりひとりの人間が、自らの意志ではいかんともしがたい孤独と不幸にさらされる危険を常にもっているということである。この孤独と不幸を直接解決する一様の手段はありそうになく、各人は、他者の承認を求める闇への跳躍を続けざるを得ないであろう。しかし、このような孤独と不幸が自分一人のものでなく、すべての人間に共通の苦境であるという認識に到達することは可能である。逆説的かもしれないが、この孤独と不幸の認識が、あらためて、自己決定における自由を、必然的に社会的文脈に埋め込まれたものとして理解する試みの出発点となりうると私は考える。
 ヒューム解釈はここまでで、あとはややざっくばらんな話となります。いま見てきたところによると、個人の行為の交換不可能な個別性というのも、必ずしも社会的な結合と切り離されて存在するわけではない。やはりそこにはどうしても他者の存在が入り込んでくると思われます。これはある意味で非常に不幸なことであるけれども、われわれはその不幸を受け止めることによって、きわめて個人的な存在としての自覚を持つと同時に、身近な他者との感情的な関係という個別的・偶然的な状況への埋没から逃れる糸口を見いだすことができるのではないか、という話です。
 感情による結合と法による結合は、人間がその個別性において承認される関係と、その一般性において承認される関係と言い換えることができるでしょう。すると、個別性における自由というのも、交換可能なものとしてではないけれども、やはり他者による承認を前提しているように思われます。さきほど愛について述べましたが、優れて個別的・唯一的な性格をもった愛するという行為において自分が自分のものであることは、まさに愛の対象である他者の承認に依存します。愛における承認は、個別性の次元における自由のひとつの典型的なかたちであるといえるでしょう。
 ただ、愛というのははなはだやっかいなものです。愛における自由が、個人の幸福のひとつの理想型である反面、愛はしばしば、ひとりの人間の個性に対する強烈な否定の体験をももたらします。愛の名のもとに、身近な他者に対する強制や支配が起こる危険性は、「両親の子供に対する統治」にかんするヒュームの叙述に接するときに、多くの人が感じとるであろう通りです。また、それよりもさらに明白なのは、愛の承認の要求が、にべもない拒絶に出会うことを、いかにしても防ぎようがないこと、愛の要求は結局のところ闇への跳躍であり、愛を要求する個人の側の自由はここに及ばないということです。このことは、性的なパートナーシップを求めるという場合にことに明白ですが、性的な含意をもたない友情や、親子兄弟の間の愛にも、やはり当てはまると思います。また、このいずれの場合にも、新たな要求が拒絶にあう場合とならんで、これまであるはずだと思ってそれに頼っていた、個人的な、特別な愛や思いやりが、気がついてみるとなかったという場合もあり得ます。愛における自由が喜ばしい反面、愛は往々にしてきわめて不自由なものであるわけです。
 愛の場合に現われる個別性の次元における不自由は、公的な次元における不自由とパラレルでもあります。合理的な選択にもとづく同意というシステムが、結局は力による支配を蔽い隠す道具であったり、特定の個人や集団を排除する機能を果たす例を見つけるのはむずかしくないでしょう。公的に承認されたコミットメントに対する信頼が崩壊し、そのことによって、いったん支配したはずの未来が、自分の自由にならない力にさらされる例は、そうしばしばは起こりませんが、年金制度の改変や金融機関による公的機能の放棄その例でしょうし、より甚だしくは、内戦で混乱状態が引き起こされた場合に、たとえばひとつの病院の医師らスタッフがそっくり患者を放置して逃走するというようなケースがあります。旧ユーゴスラヴィアの内戦の中で起こったそのようなケースに、先に紹介したバイアーが言及しています。[Baier 1997]
 このように、個別性の次元においても、公的な次元においても、自由意志による未来の支配は、ほとんどの場合に他者の信頼可能性を前提にしていますが、その信頼が崩壊することを防ぐ絶対的な手だては存在しないといえます。それでは、人間ひとりひとりにとって、決してそれだけは失うことのない自由の領域は存在しないのでしょうか。このようにして考えを進めていったとき、われわれは、一種ストア派的な自由の観念にたどり着くかもしれません。つまり、世界に起きることがらが、われわれにとっては外的な力や法則に支配されているとしても、われわれが内面的に持つことのできる一種の自由があって、その自由を認識し、それに対する内面的な満足を得ることだけは、誰にも妨げられる気づかいがないというわけです。これは一面では、世界から内面への退却といえますが、他方で、ストア派の伝統の中にある、「世界の市民」という、外部の世界とのひとつの積極的なかかわり方の観念を準備するものであるともいえそうです。
 といいますのは、今日の話というのは結局、自由をめぐる哲学的意識が、どういう道筋を通って、自分の埋め込まれた文脈の認識に達することができるかということなんです。自由で合理的な個人というのは、近代社会のタテマエですが、その自由というのは完全なかたちで与えられているものではなくて、現に至るところで制約されているし、必ずしも合理的といえないような、個人的な感情的関係から離れて存在するものでもない。そう考えると非常に不自由なものなんだけれども、やはり人間の意識というものが哲学的な傾きをもちはじめると、やはり内面的にとらえられる自分の個別性、そこにおける自由というものの意識は、どうしても捨てることができないものになる。そしてひとりひとりがそのような個別的、内面的なものに気づくということは、一見逆説的だけれども、非常に普遍的なことなんですね。だから、哲学的意識が個人的、内面的な自己理解の極に達したとき、逆に、そういう個別性、内面性の認識に、どんな人でも自分と社会あるいは世界との関係について反省を深めていくと必然的に到達するという、そういう人間の置かれた状況の共通性の認識が生まれると思います。それは、自分のおかれている具体的な社会的関係に対する批判的視点をもって、家族とかネーションとかいった集団の一員であるばかりでなく、世界の市民として自身を認識し、その限りにおいてすべての人間と共通性をもつものとして自己理解することを可能にするといえるのではないでしょうか。
 こうした人間がおかれた共通の状況、ないし苦境の認識が、すべての人間を人間として、人間である限りにおいて愛し尊重することを可能にするかというと、実はそれはちょっとむずかしいと思います。愛とか尊重というのは、いうなれば、濃い、感情的な関係であって、単に人間であるということによって成り立つというわけにはいかないと思うんですね。むしろ、愛そうと思ったって愛せない。愛されないことより愛せないことを自覚することの方が悲劇的である場合もあると思います。そういう悲劇的な状況も共有しているんだということが、人間としての共通性の理解の内容になるんじゃないか。じゃ、そこから出発して、さっきふれたような信頼の崩壊のような可能性をどう防ぎうるかというと、答は簡単でないでしょうが、ここでわれわれが到達した地点は、『人間本性論』の第一巻、知識論の最後でヒュームが到達した、虚偽の哲学的意識の解体から、情念論と道徳論をつうじた社会化された知性の構成へ向かう転換点に比することができると、希望的に述べて発表を終わります。

参照文献

ヒュームのテクストへの指示は、David Hume, A Treatise of Human Nature, edited by L. A. Selby-Bigge, Second edition, revised by P. H. Nidditch, Oxford University Press, 1978により、'T' に続いてページ数を記した。

その他の文献

Anscombe, G. E. M., 'Rules, Rights, and Promises,' Midwest Studies in Philosophy, 3, 1980, pp. 318-328.
Ardal, Pall S., 'And That's a Promise,' Philosophical Quarterly, 18, 1968, pp. 224-237.
Austin, John L., How To Do Things With Words , 2nd edition, edited by J. O. Urmson and Marina Sbisa, Oxford University Press, 1975. (邦訳『言語と行為』坂本百大、大修館書店、1978。)
Baier, Annette C., 'Promises, Promises, Promises,' in Postures of the Mind, Minnesota University Press, 1985, pp. 174-206.
----, A Progress of Sentiments, Harvard University Press, 1991.
----, The Commons of the Mind, Open Court, 1997.
Mounce, H. O., Hume's Naturalism, Routledge, 1999.
Searle, John R., Speech Acts, Cambridge University Press, 1969. (邦訳『言語行為』坂本百大・土屋俊、勁草書房、1986。)