遂行的発話の言語哲学と社会哲学
--言語行為論の再検討--

伊勢俊彦(立命館大学文学部)

2000年11月29日
立命館大学国際言語文化研究所プロジェクト研究BII「言語と文化」研究会において


要旨

 意味の体系にとって、現実の状況での言語使用はその限界の外にある。サールらは、言語行為概念を用いて、使用の体系的理論の構築、さらには意味の体系への再吸収を図ってきた。しかし、外部的なものを体系に回収しようとする試みは新たな外部的な要素の発見に導く上、回収の試み自体完全ではあり得ない。重層的で消去不可能な言語の外部からの条件づけを、近代の社会システムの形成を見通したヒュームの哲学の視点から解明する。


1 言語行為、遂行的発話の概念

 文(記号列)と命題(意味ないし情報内容)は区別される。言明(・・・と述べること:文を有意味なしかたで用いながら、ある意図をもって人が行なう)はこれらとはさらに異なる。
 単にことがらを表象するのではなく、それを肯定する意志的行為を伴っているという点では、(伝統論理学が対象としてきた)「判断」も同様。ただし、判断が内面的な心の作用であるのに対し、言明は外に現われた行為。
 質問や命令も、言明とならんで言語を用いてなされる行為。(われわれが比較的によく知っている近代の欧米語では、質問や命令は、それに用いられる文のもつ文法的形式によっても識別される。)ここに見られるように、意味のある文の発話は、そこでいかなる行為が遂行されているかという面から分析することができる。
 これとならんで、約束、宣言、感情表出などが、通常、言語を用いてなされる行為の類型として取り上げられる。

2 言語行為概念の発生と展開

2.1 論理実証主義とその批判

 分析哲学と呼ばれる哲学の潮流は、ヘーゲル主義の影響が生み出した様々の精神(Geist=ghost)的存在を悪魔祓いする運動から出発。内面的で主観的な意識とその内容から客観的に確認可能な言語とその意味への哲学の舞台の転換を促したのも、そうした反形而上学的動機。意味の限界を確定し、絶対的観念論の形而上学をナンセンスとして放逐しようとする動きは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のおそらくは誤読から刺激を受けたウィーンの哲学者のグループにおいて頂点に達する。しかし彼らは、旧来の哲学の偶像を攻撃する一方で、言語と意味の領域を半ば神秘化し、プラトン主義化する傾向に陥る。これに対して、言語の機能の基底に固定した意味の体系を見いだそうとするのではなく、具体的な状況における言語の使用の多様性に着目しようとする姿勢が、20世紀中葉以降の分析哲学においては有力。そこでしばしば引かれるのが「意味を探し求めるのではなく、使用を探し求めよ」というヴィトゲンシュタイン自身のことば。
 

2.2 日常言語哲学とオースティン

 言語への哲学的アプローチのこうした転換を先導したのがオクスフォードの「日常言語哲学」。たとえばピーター・ストローソンによる文とその使用(意味論的含意と語用論的前提)の区別をつうじたラッセル批判。グライスの、意味という現象そのものを話し手の意図とその理解にもとづいて説明する試み。オースティンは、言語の機能を、言語を用いてなされる行為という側面から分析することを試み、言語行為論という概念枠組みを創始。

2.3 サールの体系

 オースティンが、「ことばを用いてなされること」の積み重なった層を一枚一枚引き剥がしていくような分析を加えたのに対し、オースティンの学生だったサールは、すべての言語行為を単一の図式F(p)('F'は発語内の力(force)、'p'は命題的内容(propositional content)を表わす。)のもとに体系化することを企てた。とりわけ意味と力のあいだに分析的関係を想定し、発語行為と発語内行為の区別を消去しようとしたことは重要。

2.4 コミュニケーション行為の理論と現代社会批判

 ファシズム批判から出発し、'68年世代に受け入れられて現代の理論として復活したフランクフルト学派。その第二世代に属するハーバーマスは、言語によるコミュニケーションを現代社会批判の足場にしようとする。言語行為の成功条件のうちに、諸個人の平等・相互尊重・誠実の要請を見いだす。
 政治的・道徳的決定の基礎を合理的個人のあいだの合意に求めるネオ契約説(ロールズら)の議論も、類似の論理構造をもつ。

3 哲学的観点から見た問題の構図

3.1 意味の領域とその外部

 言語行為をめぐる哲学的問題の配置を見渡す上では、サールの立場がひとつの基準として有効と考えられる。というのは、サールのプロジェクトは、意味の他者として立ち現われた、状況に埋め込まれた言語の使用を、意味の領域に回収しようとする企てであるから。(語用論の意味論への還元と言ってもよいか。)
 サールの場合:力を表示する表現の意味論が、その表現が使用される標準的な状況と、そこで生ずる力をも決定する。(表現可能性の原理)テクストとコンテクストの関係、コンテクストに規定される諸現象を、テクストに内在化。conventions=semantical rules. この延長線上に、ヴァンデルヴェーケン、久保進の路線。
 これに対して、他の(よりましな)論者は、意味の領域を、その外部にあるものとの関係においてとらえている。
 オースティンの場合:意味と力を基本的に別の次元に属するものとしてとらえ、力を支配する、言語の規則とは別種のconventionalな要素に注目。
 グライスの場合:意味以前の次元からの意味の生成。('Meaning')
 表現の固定した意味と、状況に応じて変動するimplicature。('Logic and Conversation')
 ハーバーマスの場合:コミュニケーションという自由の王国と、権力による支配の必然の王国。「命令は発語内行為ではない。」

3.2 ヒュームにおける言語と社会

 意味とその外部をめぐる上記の諸問題の原型は、すでに、ヒュームの正義論、とくに約束をめぐる議論において出現。しかもこれらの問題をヒュームの体系構築の試みを背景として見ることによって、その哲学的意義はより鮮明に。
 ヒュームとは。体系的哲学と社会評論。人間本性の学と社会契約説批判。神の賜物としての理性を解体し、根源的に社会的文脈に埋め込まれたものとして人間本性を理解することを試みる。
 正義論:約束から生じる履行義務を含め、基本的な権利義務(「自然法」)の人為性、conventionへの依存を明らかに。conventionとそれにもとづく法や規則の積み重ねを通じて、富の増大のシステムとしての近代社会が構成される。
 約束の人為的性格の論証は、約束の責務が、意図等の自然な(個人個人に生来備わった)精神の作用から直接生ずるのではないことを示すというしかたで行なわれる。この文脈で、約束における言語の使用は非表象的な性格をもつことが強調される。(このことに注目して、ヒュームの議論は言語行為論を先取りしていると言われることがある。)

3.2.1 ヒュームにおけるconventionalityの重層的性格

 conventionの多義性。合意。合意にもとづく規約、規則。ピュシス(自然)とノモス(法)(nature and convention)の対比におけるノモス的なものの総称。
 ヒュームにおいてはconvention=法や規則ではなく、法や規則がconventionに依存して成立する。たがいに性格を異にするconventionalなものが、いくつかの層を成して積み重なる。
 約束を人為的なもの=合意に依存するものにさせている根本的なポイントは、約束を遵守する義務が、約束が約束として他者による承認を受けてはじめて生ずるということ。
 この他者による承認は二つの形態をとる。両方ともヒュームの約束論に現われるが、たがいの関係はうまく整理されていない。
 制度=社会的な強制力を背景に有効性をもつ規則の次元。(ヒュームの「自然法」はこのレヴェル。)公共的に確認可能な形態を用いて約束を交わし、約束の不履行は社会的な罰を受ける。約束の主体と受け手に加えて、約束を約束として公認する第三者の存在を要請。(第三者は個人とは限らず、多くの場合は共同体、あるいは共同体のもつ道徳的拘束力を物化したものとしての神。)
 非自然的意味(グライス)の次元。約束の主体と受け手の二者関係において、受け手の承認によって約束が成立する。未来における行為遂行の意図という内容が、内容を伝達する意図を伴って表明され、受け手は、その伝達意図を理解することを通じて、表明された意図に承認を与える。約束においては、この主体と受け手の関係が基本的で、第三者による社会的承認と、そこから生ずるサンクションのしくみはその上に上部構造として成立する。ヒュームは約束の対象が現前しないものないし一般的なものであることを指摘。このことは非自然的な意味の成立の一条件と考えられる。信頼を通じた未来の支配。
 自然な意図の感覚(感じとり)の次元。二人の人間が言語によらない協調によって共にボートを漕ぐ。信頼による現在の支配。conventionのもっとも基礎的レヴェル。

3.2.2 現代の議論に対するヒューム哲学の意義

 約束を明示するための言語表現は、利害に動機づけられた交わりの機能を保証するための発明。社会の発達の特定の段階に対応した歴史的なもの。(利害に動機づけられた交わり:諸個人がたがいに、見返りとして物や労働を他人から受け取ることを目的に自らの物や労働を提供するというしかたで、物や労働の交換を行なう関係。市場における価値の交換を通じた富の増大のシステムの基礎となる。)
 ≠サール-ヴァンデルヴェーケンによる、言語行為のカテゴリーをアプリオリなしかたで導出する試み。
 ≠近代社会における契約主体どうしの関係を、普遍的な妥当性をもった理性的な社会秩序の基礎とみなす、自然法論・契約説の流れをくむ社会哲学。(ハーバーマス、ロールズ、ドウォーキン)行為主体の合理性や自由自体が、社会的真空においては成立し得ず、一定の力関係を前提とすること。「自由の王国」はあらかじめ失われている。
 ただし、意味と力は全く断絶しているわけではない。意図の理解と承認という、非自然的な意味成立の条件が、力の生成にも関与。グライスが注目したような、意図理解を通じた言語の機能において、意味と力は一体のしかたで働いている。その根源にあるのは、ヒト(およびおそらくは他の大型霊長類の一部。チンパンジーにおける新生児模倣。)に特有の他者志向性。
 だが、他者志向性にもとづく意味の生成は、言語の意味作用がなにゆえに構文論的構造をもつ記号の使用というかたちをとって実現するかを説明しはしないであろう。語用論の意味論への還元が成功しないのと同様、意味論の語用論への還元(IBS, Intention-Based Semanticsの試み)にも成功の見込みはない。

4 言語はなぜ哲学の問題になるのか(I. ハッキングに同名の著書がある)

 20世紀の言語哲学(とりわけ分析哲学系の)の一つの特徴づけ。言語の問題を論ずる形態をとりながら、伝統的(デカルト以来、場合によってはプラトン以来)な認識論・形而上学の探究を継続している。(ハッキングの理解もおおむねそのようなもの)
 しかし、精神ないし意識から言語への哲学の舞台の転換が、新たなしかたで伝統的な哲学問題を理解することを可能にする場合も。デカルトのコギト(「私は考える」)のもつ必然性の語用論的性格。(「この人物が存在する」ことは何ら必然的ではないが「私が存在する」は必然的である。)「語られる内容」の彼方に「語る私」の状況に埋め込まれた(また、デカルトの意に反するかもしれないが、生身の身体を備えた)存在が現われる。
 抽象的構造体としての言語(langue)の発見が、逆に、その外部の諸現象を明るみに出す。それとパラレルなしかたで、哲学は、理性の自己運動というあり方を止揚して、人間存在を、状況に埋め込まれた生身の身体として直視する方向へ。
 こうして再活性化された哲学的言説から、言語研究にとって有用な洞察を引き出すことも可能ではないか。たとえば、言語的な意味がnon-naturalないしconventionalな性格をもつということは、自明の理。だが、ノモスとピュシスの関係をめぐるヒュームの考察を背景に考えるなら、その内容に、シニフィアンとシニフィエの関係の恣意性に加えて、他者による承認への依存が含まれることが理解される。このような洞察の意義は決して小さくない。