ヒュームの正義論における人間本性の社会化
または
デイヴィッド・ヒュームと失われた主体

伊勢俊彦(立命館大学文学部)
2001年5月19日 京都哲学史研究会において発表
(ここには序論部分のみを掲載)

はじめに

 ヒュームの哲学を、「懐疑主義」あるいは「自然主義」として特徴づけようとする試みには、つねに何かしら割り切れない点が残る。ヒュームにおいては、懐疑は自然によって限界づけられ、同時に、自然主義的態度の裏に懐疑が含まれている。こうして、懐疑に注目しようとすれば、かえってその限界の外にある自然が姿を現わし、自然に身をゆだねようとすれば、その態度自体の根拠に対する懐疑が頭をもたげる。ヒュームの哲学における懐疑と自然との関係は、要約的な描像としては、こうした懐疑と自然との間の絶えざる往復、揺れ動きとしてとらえることができよう。
 しかし、この要約的な描像では、なお、ヒュームの哲学が全体として指し示す方向は明らかにならない。「懐疑主義」といい「自然主義」というのは、ヒュームの思考に外側からあてがわれた尺度がもつ二つの極にすぎず、ヒューム自身の哲学に内在する構成要素ではない。ヒュームの思考の特徴的な歩みの指し示す先は、懐疑と自然を結ぶ線の上にはない。なぜなら、懐疑主義や自然主義といった哲学的意識の諸形態の前提そのものへ、ヒュームの思考の歩みは向かっているからである。その前提とは、合理性と自由、あるいはその原理として各人に内在すると想定される理性と自由意志を備えた主体である。
 ヒュームにおける主体の問題といえば、『人間本性論』における人格の同一性の問題がただちに思い起こされるであろう。ヒュームは、同書の第一巻第四部第七節において、われわれの心のうちに現われる諸知覚が何らかの単一の実体に内属することを否定し、それらの諸知覚は、想像力の原理によって思考のうちで結びつくにすぎないと述べる。ところが、同書の第三巻に付された、「付録」においては、この議論が解き難い矛盾を含むという疑念を自ら表明している。要するに、精神的実体の単一性を否定し、精神を個々の諸知覚に解体したとき、それらを再び思考のうちで結びつける原理の属するべき場所を見いだすことができないというのである。
 『人間本性論』の第一巻をなす知識論の主要な主題は、因果性、外的対象、自我の同一性であるが、これらにかんする議論には、共通の構造が見てとれる。これらの、経験的世界を構成する基本的な存在者や、そのあいだの連関については、まず、その想念の由来および根拠が検討される。そして、それらが理性にによって根拠づけられることが否定され、それら想念の根源にあるものが、本能ないし人間本性による決定であることが明らかにされるのである。
 こうした本能ないし人間本性の原理は、理性と対比して、想像力とも呼ばれる。それゆえ、その原理は、理性とならんで個としての主体に内属する能動的なものと考えるのが、一見自然である。しかし、因果推理における原因の観念から結果の観念への移行において、推理の主体であるはずの精神は、その移行を行なうように決定づける原理を自らのうちにもつのではなく、むしろ、そう移行するように決定づけられる対象である。外的世界の対象についても事情は同様であり、精神は、自らの支配下にある能動的な作用によってではなく、本能ないし人間本性の不可抗の作用によって、外的対象の想念を形成するように決定づけられるのである。この決定の原理が精神に内属するのでなければ、それはいずれに見いだすことができるか。この問題は、『人間本性論』の知識論を特徴づける内観の方法によって答えることのできないものであり、因果性が論じられる段階から、未解決のかたちで潜伏している。それが顕在化するのが、人格の同一性にかんする議論の中でであり、ヒュームがその自覚に達し、それを表明したのが「付録」における記述である。
 『人間本性論』第一巻の論述に内在するこの構造的問題を十分に論ずることは、ヒュームの哲学にかんする通説的理解の全面的な書き換えを要求する。この課題に具体的に取りかかるのは、本稿の範囲の外のことがらである。ここで試みるのは、知識論の理解のこうした転換を含むヒューム哲学の新しい全体像がどのようなものになるのかについて、いくつかの手がかりを提示することである。
 そうした手がかりのうちもっとも大きなものは、ヒュームの道徳論、とりわけ正義論のうちに見出されるであろう。ヒュームの正義論を主体の問題の観点から見るとき、そこでなされていることは、近代の哲学的意識が一貫して主体の内在的特性とみなしてきた自由と合理性を外在化ないし社会化することだといえる。ここにおいて、知識論が孕んでいた問題が解決を見る。因果性、外的対象、人格の同一性にかんする判断を決定づける原理は、自由で合理的な行為を決定づける原理と同様、個としての主体に内在するのではなく、社会的な文脈において生成し作用するのであり、個としての主体は、最初から、また本質的に社会的文脈に埋め込まれてある。
 『人間本性論』第三巻の道徳論が、知識論に内在していた主体の問題への解決として読めるとすれば、同書第二巻で展開される情念論の位置も、理解しやすいものとなろう。行為の決定における自由と合理性の問題は、第二巻においてすでに明らかなかたちで提起されている。そこでは、個としての主体に内在する自由意志や理性が、行為の決定の原理としての地位を剥奪される。その空位を埋めるものが情念である。しかし、第二巻における情念の取扱いは、一般的な原理論にとどまり、情念をその具体的なあり方において論じるのは、むしろ第三巻である。この点、序論において、道徳は文芸批評と並んで「われわれの趣味および感情[すなわち情念]を考察する」(T xv)とされているとおりである。こうして、『人間本性論』の全体を貫く主体の問題の展開の上に、情念論もまた不可欠の位置を占めることが明らかとなる。
 このような見通しにもとづいて、本論では、ヒュームの正義論を主な舞台として、「自由で合理的な主体」の解体と再構成の劇の筋書きを描いてみたい。
 第1章では、約束による社会の成員相互の行為の拘束が、所有という形態をとった物の支配と並んで『人間本性論』の正義論の中心的な主題であることと、ここに現われる、社会的関係をつうじた行為の支配という問題の図式がもつ哲学的意義を明らかにする。
 第2章では、正義の「自然法」が特徴づける社会的関係において、各人が、社会的に有用な活動=労働の担い手として現われることを示し、ヒュームが描く社会的世界の住民としての人間の基本的なあり方を明らかにする。
 第3章では、そのような社会的世界における人間を、因果性と合理性という観点から考察し、ヒュームが人間の自由を具体的にどう考えていたのかを明らかにする。
 第4章では、結びに代えて、人間の社会性と個体性について、ヒュームの自殺論を手がかりに考察する。
 これらの議論を通じて、本論で提示される主体の問題を軸としたヒューム哲学の理解が、ヒューム自身のテクストによっても十分支持されることが示されるであろう。

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