伊勢俊彦(立命館大学文学部)
「理性は情念の奴隷である」(2.3.3.4*)というヒュームの言明はあまりにも有名である。この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた。このような解釈の前提になっているのは、ヒュームの哲学体系において、知識論が、情念論や道徳論に先立って完結した単位をなし、その地盤の上に情念論や道徳論が展開されるという把握であると思われるが、私は最近、これと反対の考え方に到達した。つまり、上記の言明は、理性の活動は情念の定めた範囲の内でしか行なわれ得ないことを述べている。言い換えれば、情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである。以下では、ヒュームの哲学体系における情念論の位置を考察することによって、この見通しの妥当性の検証を試みる。
* 『人間本性論』のテクストへの指示は、下記のノートン版により、(book. part. section. pargraph)のように示す。David Fate Norton and Mary J. Norton (eds.), David Hume, A Treatise of Human Nature, Oxford University Press, 2000.
ポール・アーダルやアネット・バイアーの重要な業績*はあるものの、『人間本性論』を構成する三つの巻の中で、情念を扱う第二巻は最も軽視されてきたと言わざるをえない。とはいえ、ヒューム解釈者が熱心に論じてきた主要問題のうち少なくとも三つについて、解明の鍵を握る議論がここに含まれているはずである。第一に、人格の同一性の問題はヒュームの哲学を理解するうえで最大の謎と言えようが、ヒュームはこれを論じるに際して、思考ないし想像にかかわる人格の同一性と情念や自分自身への気遣いにかかわる人格の同一性とを区別する。(1.4.6.5)したがって、情念論における人格の現われ方の正確な把握なしには、この問題の理解は不完全なものにとどまる。つぎに、自由と必然性にかかわる問題の論及は、『人間本性論』の体系では情念論に含まれる。(2.3.1)最後に、「理性は情念の奴隷である」という上記の格言に見られるように、ヒュームの道徳哲学における批判的議論の一つの柱である理性主義的道徳の論駁(3.1.1)は、情念論を前提とし、その主要な論点は第二巻の「意志に影響を与える動機」についての議論(2.3.3)において先取りされている。
* Pàll S. Àrdal, Passion and Value in Hume's Treatise, Edinburgh University Press, second edition, 1989, Annette C. Baier, A Progress of Sentiments, Harvard University Press, 1991.
してみると、情念論がヒューム哲学全体のなかで相当に重要な位置を占めていることは明らかでなければならないはずである。ヒュームの情念論がそれにふさわしい注目を受けてこなかった一つの原因は、私の診立てでは、上述のような諸主題と、『人間本性論』第二巻の過半を占める間接的情念、すなわち誇りと卑下、愛と憎しみの取り扱いとの関連が理解されていないことにある。ところが、実は、これら、人格を固有の対象とする情念の成り立ちこそが、知的な探求を含む人間の活動の舞台となる社会的世界の骨格を形成するのである。この社会的世界における人間の活動のあり方が、未完に終わった人間本性論体系において、本来解明されるべき対象であったはずではないか。
もちろん、アーダルやバイアーは間接的情念の重要性を正当に主張してきた。しかし彼らの研究に弱点があったとすれば、その一つは、行為の因果的決定と間接的情念の関係に十分注目していない点ではないか。ヒューム解釈の歴史におけるこの弱点は、行為の因果的決定と道徳の関係を主題にしたポール・ラッセルの仕事*にもかかわらず、完全に正されてはいないと私は考える。人格が間接的情念の対象として現われるとは、それがそれらの情念の原因と呼ばれる諸性質の担い手として現われることであり、それらの諸性質のうち最も重要なのは、人格がもつ道徳的性格を構成する精神の諸性質、すなわち徳と悪徳である。そして、人格を徳と悪徳の担い手としてとらえることは、その行為を原因と結果という枠組みによってとらえることに伴って成立する。それゆえ、人間の行為が因果的決定に服するという自由と必然性にかんするヒュームの議論の理解のあり方は、ヒュームの情念論全体の理解のあり方と、本来、一体にして不可分でなければならない。そして、ここにおいて鍵となるのは、誇り、すなわち社会的な存在としての自己に対する肯定の感情と、自己の行為を因果的決定という枠組みのもとにとらえることとの関係を解明することである。ラッセルは、観察者の立場からの評価と因果推理の関係については詳細に論じているが、行為者自らの誇りと行為の因果的理解の関係については十分注目していない。本発表の主要な部分は、この、行為者における誇りと因果性の関係の解明に当てられる。
* Paul Russell, Freedom and Moral Sentiment, Oxford University Press, 1995.
まず、『人間本性論』体系における情念の位置づけについて、ヒューム自身が明示的に述べていることがらを確認しよう。「序論」では、人間本性論体系の部門を構成する諸学について、つぎのように語られる。
論理学の唯一の目的は、われわれの推理能力の諸原理と作用、及び観念の本性を説明することであり、道徳学と文芸批評とは、われわれの趣味と感情を考察するものであり、政治学は、結合して社会を形成し相互に依存し合う限りでの人間を考察するものである。(Introduction 5, 木曾訳*7)
* デイヴィッド・ヒューム、木曾好能訳『人間本性論 第一巻 知性について』法政大学出版局、1994。
感覚の研究は、精神の哲学者よりも、解剖学者や自然哲学者の仕事であるので、今はそれに手を出すべきでない。また、主としてわれわれの注意に値する反省の印象、すなわち情念や欲求や情動は、ほとんどが観念から生じるので、一見きわめて自然に思われる考察の順序を逆にして、印象に進む前に観念をくわしく論じることによって、人間精神の本性と諸原理を解明することが、必要であろう。(1.1.2.1, 木曾訳19f.)
印象は、感覚の印象と反省の印象すなわち情念に分けられるが、このうち『人間本性論』が扱う「精神の諸主題」に属するのは反省の印象のみである。したがって、まず真っ先に情念を論じるのが「きわめて自然」と思われるが、情念を引き起こすのは、それに先行する知覚であり、それは多くの場合観念である。それゆえ、観念の吟味が、『人間本性論』体系の最初の部門をなす。
「論理学」が観念を対象とするのに対して、「道徳学」と「文芸批評」が対象とする「趣味と感情(tastes and sentiments)」は、反省の印象、すなわち情念の一種に他ならない。「政治学」が考察する人間の社会的結合と相互依存的存在は、こうした情念の作用にうえに成り立つ。こうして、情念論は、人間本性論の後半三部門全体の基礎をなすとされる。(Abstract 3)
すべての観念は、それを構成する単純な要素のレヴェルでは、それに先行する単純印象をもっているとされる(1.1.1.5)から、観念よりも印象を先に吟味するのが自然な順序であると思われる。にもかかわらず、観念を吟味する論理学すなわち知識論が情念論に先立って論じられる理由は、つぎのように述べられる。
しかし、このことは、『人間本性論』第一巻が、あたかも一つの独立して完結した知識論にかんする著作であるかのように読まれうるということを意味しない。情念を含む印象が本源的存在(original existence)である(2.3.3.5)のに対し、観念は常に先行する印象から派生する存在にすぎない。情念の場合は、確かにしばしば観念がそれに先行するが、それも個々の観念と情念とのあいだの因果関係について言える事柄であり、情念の作用に先立って、観念のみからなる知識の体系が成立するわけではない。また、一つの観念から他の観念へと推移する推理自体を考えてみても、それに伴う必然的結合の観念は、内的印象に依存する。(1.3.14.22, 木曾訳195)ヒュームの知識論は、情念論の展開を予想し、それを準備するものとして理解されなければならない。
観念と印象の場合に限らず、『人間本性論』においては、より直接的、本源的と考えられるものに先立って、間接的、派生的に見えるものが論じられるという、一見不自然な叙述順序がくり返される。こうして、第二巻では、間接的情念が直接的情念に先立って論じられ、第三巻では人為的な徳が自然な徳に先立って論じられる。ここに何か一貫した意図が働いているのかどうか、今の段階では断定を差し控えたい。少なくとも言えるのは、ヒュームの哲学において、何かが直接的に与えられ、それ自身で完結した意味をもっているように見えても、その最初の感じは、多くの場合、その後の議論の展開を参照することによって訂正されなければならないということである。*
* ドナルド・リヴィングストンは、ヒュームの哲学の弁証法的性格や、ヘーゲルの哲学との類比をつとに指摘している。Donald Livingston, Hume's Philosophy of Common Life, Chicago University Press, 1984, Philosophical Melancholy and Delirium, Chicago University Press, 1998.
『人間本性論』第二巻で、直接的情念に先立って間接的情念が論じられる理由を、直接に説明する論述はない。ただ、間接的情念と直接的情念の区別が簡単に説明され、それぞれの例があげられたのちに、間接的情念の検討の開始が宣言されるだけである。(2.1.1.4)そして、直接的情念の検討を開始すべき時点にいたるや、ヒュームは、「厳密に言えば、情念には含まれないが」と断わりながら、意志にかんする議論に取りかかる。(2.3.1.2)ヒュームの目的が、単に諸情念を順序だてて説明することだとしたら、この叙述順序は、非常に奇妙なものに思える。しかし、情念論の叙述を導く哲学的な動機が、人間の行為を理解する因果的枠組みの確定にあると考えれば、こうした議論の順番は、至極もっともなものであることが見て取れる。間接的情念の成立とともに、社会的世界における人格のあり方が立ち現われる。意志にかんする議論は、このような社会的世界を舞台とした人格の振る舞いを決定するメカニズムを説明する。意志は、直接的情念と並んで快や苦の知覚が直接的に引き起こすものなので、大きな項目立てとしては、同じ部門に入れられる。しかし、この部門全体のなかで、欲求や嫌悪、希望や恐怖のような、本来直接的情念と呼ばれるものを論ずる部分は実はごくわずかである。
われわれが身体をわれわれ自身の一部分として考察するのであれ、身体を何らかの外的なものとみなす哲学者たちに同意するのであれ、私が先に述べたように、誇りと卑下の原因が必要とする、二重の関係をかたちづくるのに充分な程度に、身体がわれわれと密接に結合していることはやはり認められなければならない。(2.1.8.1)
ヒュームは、誇りと卑下の原因を節ごとに整理して述べはじめるに先立っても、一頁にも満たない間隔の間に、一方で、「われわれのpersonの美しさ」に言及し、他方では、「自我、すなわちその行為と感情についてわれわれひとりひとりがありありと意識している個別的なperson」について語っている。(2.1.5.1及び3)この一方を「身体」、他方を「人格」と解することは間違っていないとしても、ヒュームの意識の中でこの両者が分離できないしかたで重なり合っていることはもはや明らかであろう。
間接的情念がいかなる状況で生じるかを述べるにあたっては、その対象と原因が区別される。間接的情念の対象は人格であり、誇りと卑下については自我、愛と憎しみについては他の人格がその対象となる。これに対して間接的情念の原因と呼ばれるのは、対象である人格と関係をもつものごとであり、それが快の印象を与えるか不快の印象を与えるかによって、誇りや愛、または卑下の念や憎しみを引き起こす。原因についてはさらに、快や不快を引き起こす性質と、その性質を備えたものごと自体すなわち基体とが区別される。間接的情念の対象と原因とは、近接や因果によって結合していると同時に、原因が引き起こす快や不快の印象と、間接的情念そのものがもつ快や不快の感じが結びつくというしかたで、二重の関係をもつと言われる。誇りと卑下にかんする論述で、ヒュームは間接的情念の原因を順序立てて扱っている。そこでヒュームが挙げるのは、徳と悪徳(2.1.7)、身体的な美しさと醜さ(2.1.8)、その他外的な諸事情の良さ悪さ(2.1.9)であり、最後のものの中で所有と富はとくに別の項目を立てて論じられる(2.1.10)。
以上の図式によれば、情念の対象と原因とは、別個の観念ということになる。(2.1.2.4)ここで疑問に思われるのは、情念の原因となる精神や身体の諸性質一切と区別された後に、なお残る自我や人格の内容があるのかということである。自我それ自体が関係によって結びつけられた知覚の集まりであるというヒュームの説にもとづくなら、自我と、自我と関係をもつ性質や対象との間に絶対の区別を立てるのは困難であろう。ヒュームは情念の基体について、それらは、「われわれ自身の一部であるか、われわれと密接な関係のある何ものかである」と述べている。(2.1.5.2)してみると、精神や身体の諸特徴が、自我の構成部分とみなされるか否かは、何らかの絶対的な基準によるのではなく、そのときどきの考察の観点に相対的であるとみなしてよいであろう。実際、身体を自我と区別することがたとえ論理的に可能であっても、事実においては、われわれはわれわれ自身を常に身体を備えたものとして考察することを、ヒュームは認めている。
してみると、誇りや卑下の原因とは、自我にとって単に外的な対象であるというよりは、誇りや卑下の対象として自我が考察される際の観点を規定する、自我の構成部分ないし属性と言える。ヒュームは、精神や身体の性質とさらに区別された、固有の意味での外的な対象をも誇りや卑下の原因に数えるが、それらが情念を引き起こすのは、言うまでもなく自我との関係のゆえであり、ここで自我を考察する際の観点を設定するのは、それらの対象そのものと言うより、自我のそれらのものへの関係である。これらのうち、「最も密接なものとみなされ、誇りの情念を引き起こすことが他のすべての関係の中で最も普通であるのは、所有という関係である。」(2.1.10.1)かくして、間接的情念の対象は、徳や悪徳を備え、身体をもち、所有の主体である社会的世界の住人としての人格であることがわかる。*
* バイアーは、情念論における人格の身体具有性を正当に強調している。Baier, op. cit., ch. 6.
人格が身体を備えていることの一つの含意は、人格が他人から見られる対象だということである。このことは、personという語のもともとの意義が、役者の着ける仮面、転じて演じられる役柄のことであり、人の外見であることからすれば、とくに意外ではないはずだ。むしろ、哲学の議論のなかで、自己意識や理性がpersonの中心的特徴と考えられるようになった事情の方が、解明を必要とする事柄であろう。これにかかわって、ロックの『人間知性論』における、意識によって特徴づけられるpersonと、『統治論』における、通常、身体と同義ととらえられているpersonを統一して理解しようとする一ノ瀬正樹の議論*は興味深い。一ノ瀬のロック理解の当否の検討**は他の機会に譲るが、ヒュームの議論においても、たとえば、愛と憎しみの対象を「われわれがその思考、行為や感覚を意識しない、他の何らかの人格」(2.2.1.2)としながら、いわゆる他我問題を主題的に論じていないことのうちに、自己意識の対象と見られる対象という、personについての二つの像のあいだのずれと軋みを見てとることができる。
われわれの評判、われわれの声価、われわれの名声は、巨大な重みと重要性をもった考慮要因であり、これ以外の誇りの原因、すなわち徳、美や富でさえ、他の人々の意見や感情によって支持されない場合は、わずかな影響しかもたない。この現象を解き明かすために、少し回り道をして、最初に共感の本性を説明する必要があろう。(2.1.11.1)
共感は、異なった諸個人が共通の社会的意識、なかんずく道徳感情を共有し、共通の社会的世界の住人となるための不可欠の土台であり、ヒュームの哲学にとって最も基本的な原理の一つである。それが初めて言及されるのがこの箇所であることは、共感の働きが、誇りや卑下の成立にとって、単に付随的な事情ではなく、誇りや卑下の本質にかかわる重要性をもつことを意味するであろう。誇りと卑下において表現される自己意識は、孤立した独我論的意識ではなく、自己に向けられた他者の視線を予想し、それとの重なり合いを志向している。こうして、情念の対象として人格を考察する第一人称的な観点と第三人称的な観点のあいだには、いわば180度の回転によって重なり合う対称性が見出される。人格と行為の関係に因果的なタームが適用されることを考察することによって、このことの意味はいっそう明らかになるであろう。
* 一ノ瀬正樹『人格知識論の生成』東京大学出版会、1997, pp. 70-73。
** 一ノ瀬の議論に対するまとまったかたちでの批判に、下川潔「「人格知識論」とジョン・ロックの哲学」、『中部大学人文学部研究論集』第2号、1999, pp. 123-154がある。
人格が他者によって観察される対象であることが、ヒュームの社会哲学にもたらす最も重要な帰結は、自己自身の考察による誇りや卑下の生成おいて、共感を通じた他者との一致が不可欠の契機となることである。
人格が間接的情念の対象として考察されるとき、その最も重要な特性は、徳と悪徳である。ここでわれわれは、徳と悪徳が、行為を支配する持続的原理であり、力であるとも言われることに注意しよう。
われわれの精神の諸性質に関して言えば、徳と愛や誇りを生み出す力、悪徳と卑下や憎しみを生み出す力、これら二つの事項は等価であると考えてよい。(3.3.1.3)
道徳の起源についての探究において、考察すべきは、いかなる単一の行為でもなく、行為がそこから生じた性質ないし性格のみである。これらのものだけが、人格についてのわれわれの感情を左右するのに十分な持続性をもつ。(3.3.1.5)
さらに付け加えて言えば、徳と悪徳とならんで情念の原因となる富は、所有を獲得する力に他ならず、(2.1.10.3)また所有自体が、物を使用し享受する力の一種である。(3.2.3.7)このように、情念に彩られた社会的世界における人格の現われを構成する最も重要な要素はそれがもつ因果的性質であり、人格の因果的性質は、人格がなす行為の可能なあり方の領域を設定し、行為の道徳的なあり方を規定する。
ヒュームは、決定論と自由の問題にかんして、いわゆる両立可能説(compatibilism)に古典的表現を与えた哲学者とされるが、先に言及したラッセルが正しく指摘するように、そのような通説的理解は因果的決定と道徳の問題にかんするヒュームの主張を正確に捉えていない。両立可能説というとき通常考えられるのは、行為の道徳的責任の帰属の必要条件である自由が決定論と両立するという主張である。これにに対し、ヒュームが主張するのは、行為が因果的に決定されていることこそが行為の道徳的評価にとって不可欠の条件であるということである。なぜなら、道徳的評価の本来の対象は、個々の行為ではなく、行為の原因となる、人格に備わった持続的性質、すなわち徳と悪徳だからである。*
* Russell, op. cit.
しかし、このような因果的効力をもつ徳や悪徳とは、いかなる存在者であるのか。原因と結果の関係を構成する近接や継起の関係の一つの項となるにしては、徳や悪徳のような精神の持続的性質はいささか奇妙な代物ではないか。われわれはここで、行為の道徳的評価に含まれているはずの因果推論が具体的にどのようなかたちをとるのか検討しなければならない。徳と悪徳の存在者としての性格は、この検討を通じて明らかになるであろう。
徳や悪徳は、どう見ても、直接に行為に先立ち、行為の生成の引き金となる近接原因とはなりえない。それらは定義によって持続的な存在であり、なぜそれらが特定の時点に特定の行為を引き起こすのかを説明するには、行為の生ずる時点とその他の時点の相違を生じさせる別個の原因が必要である。随意的な行為の生成に伴って意識される内的印象は、意志と呼ばれ、直接的情念と並んで、快や苦の直接的結果であると言われる。(2.3.1.2)してみると、意志を直接に引き起こす快や苦が、随意的な行為の生成に先立って必ず見出されるのでなければならないから、ひとまずこれを行為の近接原因とみなすことができる。では、これらの快苦と徳や悪徳の関係はいかなるものか。
行為は、直接には快を求め、苦を避けようとして為される。それが同時に、有用で見る者に快を与える結果に向かっていることが自他ともに認められる場合、その行為は徳を現わす。反対に、悪徳を現わす行為は、有害であったり、見る者を不快にするような結果につながっていく。行為の有徳さは、社会的に共有された価値意識によってはかられる。*してみると徳とは、行為にあたって共有の価値意識との一致を考慮に入れる態度、ないし、とくに意識せずとも、共有の価値意識に一致するようなしかたで行為する習慣と言うことができる。
* この解釈は、3.3.1.30における徳の一般的定義とよく調和する。これをさらに積極的に裏づける証拠として、2.3.10.5における行為の目標の有用性への気遣いにかんする論述をあげることができる。この点については後述する。
こうした持続的な精神の構えないし習慣のようなものを行為の生成の因果的機構の説明においてどう位置づけるか。この問いには、因果推理の成立自体を、習慣による心の被決定によって説明するヒュームの因果論の基本的枠組みを参照することによって答えることができる。それぞれある適切な種類に属する二つの事象のあいだにわれわれが原因と結果の関係を見出すのは、それらの種類の事象が過去の経験のなかで常に相伴って生じたことの観察から成立した習慣が生み出す心の被決定にもとづく。ただちに気づかれるように、この説明自体が、持続的に存在する傾向的性質の因果的な効力に言及している。恒常的連接から生じた心の習慣が一つの傾向的性質であり、この傾向的性質が、連接する一方の種類の対象の現前を契機としてもう一方の対象への精神の推移を生じさせる。これと類比的に、徳は一つの傾向的性質であり、この傾向的性質の存在によって、ある状況における快の実現や苦の回避の予期から、それを目指す行為の実行への精神の運動が生じる。
徳を原因とした行為の生成の機構がこのようなものであるとすると、結果としての行為の観察から原因としての徳への推論は、一般規則への個別事例の包摂というかたちをとるであろう。このこともまた、因果推理一般における習慣の役割との類比で説明することができる。ある個別的な状況において因果推理を成立させる精神の習慣の内容を表現しようとすれば、それはなんらかの一般規則のかたちをとることになる。ただし、これは推理者自身の意識のうちにそのような規則の表象があるということではない。むしろ、推理の成立を観察し説明する立場からその推理のもとになっている精神の習慣を言い表わそうとすれば、それは推理者が事実において従っている何らかの規則の記述というかたちをとるであろうということである。同様に、個別的な行為を観察し、行為者のうちにある徳をその原因として見出すとき、徳の作用のあり方は、ある一般的な規則の個別的な事例への適用として言い表わされる。これを一般化すれば、傾向的性質という観念自体が、一般的な規則性の表象に依存すると言える。そして、そのような一般的な表象は、ヒュームによれば、一般的な語の使用に依存する(1.1.7)のであるから、われわれはここに、傾向的性質とは、見出されるべき所与としてすでにあるのではなく、言語的実践に寄生する存在であるという、セラーズ的な唯名論*につながる筋道を見出すことができる。このことはまた、近年現われたヒュームを因果的実在論者とする解釈**に対する反証となる。
* Wilfrid Sellars, Empiricism and the Philosophy of Mind, Harvard University Press, 1997. (Originally published in Minnesota Studies in the Philosophy of Science, vol. 1, 1956.) ロバート・マイヤーズも、ヒュームを「因果的唯名論者」とする解釈を示している。Robert G. Meyers, "Hume: Old and New", the 28th Hume Society Conference, University of Victoria, 2001.
** こうしたいわゆる「新ヒューム派」の主張とそれをめぐる論争については、つぎにまとめられている。Rupert Read and Kenneth A. Richman (eds.), The New Hume Debate, Routledge, 2000.
このように、徳がそれ自体として精神に現前する個別的知覚ではなく、言語的実践から発生する抽象観念であることは、人格が諸知覚の継起にほかならないというヒュームの見解ともうまく調和する。情念の原因は一般に、「われわれ自身の一部であるか、われわれと密接な関係のある何ものか」(2.1.5.2)と言われるが、そのうちでも「われわれ自身」の中核に最も近い精神の性質が、徳や悪徳である。しかし、人格に徳が帰属させられるとき、実際に認められているのは、その人格を構成する諸知覚の継起がもつ一定の規則性にほかならない。一個の人格とは、こうした精神の傾向的性質や、精神を構成する諸知覚の身体や他の外的対象との結びつきを包括する概念であり、それ自身が一種の抽象観念としての存在性格をもつと言えるのではないだろうか。*
* 抽象観念としての人格というアイディアは、一ノ瀬にも見られるが、(一ノ瀬前掲書、p. 138)私がここで到達した見解と一ノ瀬の見解の差異と類同を論ずるには、まず、ヒュームとロックそれぞれにおける抽象観念のあり方を検討する必要がある。さしあたり言えるのは、一ノ瀬(したがってロック?)の場合、人格を抽象観念とみなすことが、人格を、われわれの制作品として、透明かつ既知のものとするのに対し、抽象観念にかんするヒュームの説によるならば、人格が抽象観念であるとすれば、人格そのものはけっして現前せず、未知の側面を残したものとなるということである。
ここまでは、行為者への徳や悪徳の帰属と、それに含まれている因果推理のあり方を、もっぱら行為者以外の観察者の視点から論じてきた。一般に、ヒュームの道徳論は、行為の主体よりも観察者の立場に立ったものであると特徴づけられることが多い。道徳的評価と因果推論の重なりという事態も、他者の行為を観察する立場に即するとき、より自然に理解できそうに思われる。しかし、行為に現われた徳と悪徳は、行為者自身の誇りと卑下の主要な原因でもある。徳の帰属が因果推理を必要とするとすれば、徳を現わす自らの行為に誇りをもつ行為者も、自らの行為にかんする因果的な理解をもたなければならないだろう。しかし、そのような理解とは、いかなるものでありうるのだろうか。
多くの哲学者たちは、彼らの行ないや振舞い全体を見ると、公共的な精神をまったくもち合わせず、世の人びとの利益に対する気遣いもまったくもたないにもかかわらず、彼らの時間を費やし、健康を台なしにし、家財をかえりみずに、自分が世の中にとって重要で有用だと考える真理を追求してきた。(2.3.10.4)
研究のもたらす快は、主に、なんらかの真理を発見ないし把握する際の精神の活動および才気と知性の行使に存する。快が完全なものになるためには、その真理が重要性をもつ必要があるとしても、それはそのこと自体によってわれわれの得る楽しみが目に見えて増大するからではなく、なんらかのしかたで、われわれの注意を固定するためにそれが必要であるからにすぎない。(2.3.10.6)
精神の活動がもたらす喜びの主要な源泉は、活動それ自体にある。しかし、そうした活動がわれわれ自身にとって意味をもつためにも、その活動の目的が社会的世界のうちに位置づけられる必要がある。ここに見られるような個人の活動と社会的価値の結びつきというテーマは、ヒュームの道徳論および政治経済論において、とくに労働に即してさらに展開されることになる。*
あらゆる社会で人びとの相互依存は大きな度合に及び、人間の行為が、完全に自己完結することはめったにない。ほとんどの行為は、その行為を行為主体の意図に十全に応えるようにするために、他の人びとの行為を必要とし、それらの行為に関係づけながら行なわれる。どれほど貧しい職人が、一人で労働する場合でさえ、少なくとも、労働の果実を確実に享受するために、秩序を守る官憲の保護をあてにする。この職人はまた、自分の商品を市場にもち込み、ほどよい価値で提供するときは、買い手が見つかることをあてにする。また、そうして得た金で、生きていくのに必要な物資を他の人びとから供給してもらえることもあてにする。(Tom L. Beauchamp (ed.), David Hume, An Enquiry concerning Human Understanding, Oxford University Press, 1999, sect. 8, para. 17)
そしてこのような期待の前提が、人間の行為に、原因と結果にかんする推理が適用できることである。ここでは、個人が自分の目的に従って行為する可能性が、安定した社会的関係が存在し、自分がそこに属していることに依存するのが示されている。開かれた未来へ向かって自らの目的を立て、それに従って行為するためには、人びとの行為の相互関係を支配する恒常的秩序が存在しなければならない。そして、このような秩序をもった社会的世界の成立条件を示すことこそ、ヒュームの正義論の主題であった。
ことは、行為の自由の問題にかかわっている。ヒュームは、行為者がもつ自らの行為にかんする自由の感覚を説明しようとする際には、行為者自身の観点と、本人以外の観察者の観点を区別する。われわれは、客観的な観察者の立場に立つとき、人間の行為を必然的な原因から生じたものととらえる。しかし、自分自身が行為の決断を行なおうとする際には、意志は先行する原因によって決定されてはおらず、どの方向へも動きうるかのような感覚をもつ、と言うのである。(2.3.2.2)これに対して、われわれが以上で見たところによれば、行為者が徳や悪徳を自らのうちに見出すことは、行為者の観点と観察者の観点の一致を要求する。してみると、行為者自身が自らの行為をとらえる観点においては、単に主観的な非決定の感覚が支配しているのでも、単に三人称的な観点から事象の系列が観察されているのでのないようなしかたで、自由と因果的決定が両立している必要があるのではないか。
こうした、単に一人称的でも、単に三人称的でもないような観点の可能性を探る一つの筋道は、行為の目的がいかにして成り立つかを考えてみることであろう。上で見たとおり、行為の有徳さは、行為の向かって行く方向が共有された価値意識に一致することにある。行為者が、行為の有徳性を視野に入れて目的を選びとるとすれば、社会的な価値意識との一致は、行為の目的がみたすべき条件の一つとなろう。目的志向的な個人の活動と、社会的な価値とのかかわりについてのヒュームの具体的な見解は、まず、『人間本性論』第2巻の末尾に位置する、「知識欲、ないし真理への愛について」の節(2.3.10)に見出すことができる。そこでは真理の探究を導く動機が論じられ、探究の喜びの大部分は、精神の活動それ自体から生ずるとしても、有用で重要な目的なしには、精神の活動は起こり得ないことが指摘される。目的を追求する活動において、目的の有用性に対する気遣いをもつことは、その実現によって益をこうむる人びとに対する共感の一形態に他ならない。(2.3.10.5)
もちろんヒュームは、学問的探究を行なう者が常に世の中全体のためになることを直接目指しているなどと言いたいのではない。
* 労働については以下の拙稿で論じた。"Equality, Exchange and Labour", the 29th Hume Society Conference, University of Helsinki, 2002.「所有・労働・人格:ヒュームの社会的世界と人間」『唯物論研究年誌』7、近刊。
個人の活動の方向づけと社会的世界のかかわりについての叙述は、ヒュームの情念論でもう一箇所、他ならぬ自由と必然性を主題とする議論の中に見つけることができる。周知のように、ヒュームは精神界の事象と自然界の事象が同じ必然性に支配されていると主張する。それを証拠立てようとして、ヒュームはつぎの有名な例をあげる。囚人が、自らの脱出が不可能であり、死が避けられないと推理するとき、牢の物理的な堅固さや処刑具の動作の確実性とならんで、獄吏や衛兵、処刑人が確実に職務を遂行することが、まったく同じ資格でその根拠となる。(2.3.1.17)このとき、人びとの行為は、自然現象と同じ必然性をもって彼の前に立ちはだかり、彼の未来を閉ざす。しかし、この例に先立って、ヒュームは、人びとの行為の必然性が、この場合とは逆に、個人が自らの意図によって行なう行為の前提となる例をあげている。そこでは、君主や将軍の行為が、自らの命令に対する服従を前提としていることとならんで、商人の行為が、取引の代理人や船荷の管理者の信頼性に依存することが述べられる。(2.3.1.15)さらに、同じ主題を再論した『人間知性の探究』で、ヒュームはこう述べる。
以上のように、人間の行為を目的とその実現という観点から考察するとき、自由の感覚をもつ行為者の観点と、行為相互の連関の恒常性を客観的に見出す観察者の観点とは、たがいに接点をもたずに単に並立しているのではなく、融合しあっていることがわかる。行為者の自由の感覚は、行為の目的を自ら選びとることにおいて成立するが、この選択は、社会の恒常的秩序を支える行為相互の連関が存在し、自らの行為もまたその連関のうちに位置づけられることを予想する。この限りで、行為者は同時に観察者の観点に立つ。さらに、選択を動機づける行為者の価値意識もまた、客観的な観察者による評価の基準を最初から織り込んだかたちで成立するのである。
このような行為者の観点と観察者の観点の融合は、実は行為者の観点の観察者の観点への吸収であり、目的の選びとりにおいて生じる自由の感覚は、つぎの瞬間、行為の客観的な因果連関の中に飲み込まれ、塗りつぶされてしまうのではないか、と言われるかもしれない。実際、この図式が、行為を自ら選びとるという意味での自由に存在の余地を与えるとしても、それは、選択がなされたのちの時点に立って、他のようにも選びえたという無差別性、他行為可能性と相容れるものではない。それでは、自発性の自由と無差別性の自由を区別し、前者は認めるが後者は否定するというヒュームの周知の論点(2.3.2.1)を確認したにすぎないではないか。確かに、われわれは自発性の自由に代わる何らかの新たな自由概念を見出したわけではない。われわれが示したのは、自発性の自由が、行為者が自ら選択を行ない、選択の結果について誇りや卑下のような価値意識をもつという日常の営みのなかで具体的な役割を果たしていることである。*自発性の自由は、因果的決定は自由と相容れないという議論に対する単なる形式的な逃げ道ではなく、われわれの日常的実践のなかに生きて働いている自由の名前なのである。
* 自由と必然にかんするヒュームの議論の理解にとって、 自由と決定論の対立を道徳感情のあり方の記述を通じて解くことを狙ったピーター・ストローソンの仕事を参照する意義は大きい。先に言及したラッセルの解釈も、ストローソンの議論から触発を受けている。Peter F. Strawson, "Freedom and Resentment", Freedom and Resentment and other essays, Methuen, 1974, pp. 1-25. (Originally published in Proceedings of the British Academy, vol. 48, 1962.)
こうして、目的をもって行為する者としてのあり方のなかで、行為の自由と因果的決定は共存する。自らの行為を徳の現われとして見てとり、誇りを感じることのなかで、自由の感覚と、行為の目的の社会的価値の空間への位置づけ、行為の因果的理解がともに成立するのである。ここに、自由と必然性の問題との関係での間接的情念、とりわけ自我を対象とする誇りと卑下の重要性が見て取れる。
以上の検討からえられた人格と因果性についての理解は、ヒューム哲学全体の解釈にとってどのような帰結をもつのか。最後に、その見通しを三つの点にわたって述べたい。
第一に、世界のうちにある基本的な存在者の構成についてである。私は先に、人格は一種の抽象観念として理解できるのではないかという見通しを示した。人格を特徴づける徳や悪徳のような傾向的性質の観念は、個々の行為を一般的な規則性の事例とみなす、言語の使用を含んだ営みから発生する。人格は、こうした傾向的性質を含む精神や身体の諸性質をさらに総括する観念なのだから、われわれは人格についても、その発生の場所を言語的実践に求めるセラーズ的唯名論の立場をとることができよう。しかし、ここで問題にしている徳は、徳一般ではなく、たとえばデイヴィッドの善意というような個々の人物の性格を構成する徳の個別的事例であり、人格も人格一般ではなくデイヴィッドその人という特定の個人であるのに、それを抽象観念と言いうるのか。いささか奇妙な感じがすることは確かである。人格を抽象観念として扱うことのポイントは、その観念の働きの源泉はいかなる個々の知覚にも求めることができず、ただ語の使用に伴う精神の習慣に存するということを(1.1.7)明確にすることにある。この点、センス-データにかんするセラーズの「心理的唯名論」が、センス-データ語法の源泉が、人の公共的に観察可能な振る舞いにかんする語りにあることを指摘するものであって、センス-データが普遍者であることを含意していないのと同様である。*確かに、人格を論じるにあたって、ヒュームは人格を名指す語の使用に言及してはいない。しかし、すでに見たとおり、ある個人が行なう因果推理の基盤にある精神の習慣を主題化することが、すでに一般的な規則性の表象を必要とするとすれば、そうした習慣の担い手である個的な人格について語ることが、一般的な語の表象作用に依存することは驚くに足りない。
* ロバート・ブランダムは、セラーズの立場に共感する代表的な論者であるが、「心理的唯名論」という呼称は気に入っていないようだ。Robert Brandom, "Study Guide", Sellars, op. cit., p. 150.
この議論の筋道は、物質的事物についても当てはまるであろう。同一性をもつ物質的事物の観念は、異なった状況における異なった現われを説明する傾向的性質の帰属を含むと考えるのが自然であるし、このことはヒュームのテクストによっても裏づけられる。われわれが他の人たちに感じる共感は、その人たちとわれわれの関係の親疎によって、強さが異なる。それにもかかわらず、徳については、その徳から影響を受けるのが身近な人たちであれ縁遠い人たちであれ、一定の基準で判断する。この働きを、ヒュームは、物質的な対象の見かけの大きさが距離によって変わるにもかかわらず、対象の大きさが一定であると判断する働きになぞらえている。加えて、ヒュームは、こうした判断基準が、人々の性格にかんして、われわれがたがいに話ができるようにしているとも述べる。(3.3.3.2)
してみると、状況によって変化する知覚的な現われを一つの対象の現われとしてとらえる精神の作用は、さまざまな行為を、その影響の自分にとっての近さ遠さにかかわらず、一定の徳の現われとみなす作用に類比的である。しかも、こうした一定の判断基準の機能は、公共的な語りにおける一致に言及して説明されている。
『人間本性論』第1巻をあたかも独立して完結した知識論の著作であるかのようにして読むとき、われわれは、ヒュームが、世界のうちに見出される基本的な存在者の構成をもっぱら個人の精神に自然に備わった心理作用によって説明しようとしているように考えがちである。これに対して、これまでのわれわれの作業は、人格や物質的事物といった対象を構成する作用における、公共的な言語的実践の本質的な役割を、ヒュームの議論から読みとる可能性を示している。
第二に、事実と規範についてである。たったいま見たとおり、人の道徳的性格を判断する基準にかんして述べる際、ヒュームは言語における一致に言及する。しかも、ヒュームはそこで、徳にかんする判断の一致が要求するのは、言語において一致することであり、それ以上ではないと述べているように見える。 それゆえ、社交と会話における感情の交流が、われわれが性格や行ないを是あるいは非とする何らかの一般的で不変の基準を作るようにさせる。そして、心情はつねにそれらの一般的な想念に与し、それらによってその愛や憎しみを統御するわけではないとしても、それらの想念は談話には十分であり、交際や、説教や、芝居や学問におけるわれわれのすべての目的に役立つのである。(Ibid.)
ヒュームが性格にかんする判断との類比でとらえている、物質的対象の性質にかんする判断に、この論点を当てはめてみたらどうであろう。われわれが同じ対象を見ているというとき、ひとりひとりの意識に現われている生の感じが一致しているかどうか、確かめようもないし、一致している必要もない。その対象のあり方にかんする言語化された判断の一致が、われわれにとってそれを共通の、また同一の対象とするのに十分であると言えるのではないか。
私はここで、物質的対象も言語的に構成されるというすでに上で述べた論点を単に繰り返そうというのではない。ここで注目したいのは、対象にかんする語りにおける他者との一致という契機である。私が正しく物を見ていることは、その物について正しく語り、他者と一致することによってはじめて確かめられる。この意味で、いわゆる客観的事実は、規範的要素を組み込んだ活動の中で見出され、立ち現われてくると言えるのではないか。
このことは、対象を把握するということが、その振る舞いを原因と結果という枠組みでとらえることであり、原因と結果という概念の使用が、一般的な規則性の表象を前提としていることを考えてみれば、いっそう明らかだと思われる。一般的な表象は、これまでに現われた個別の事例を総括すると同時に、未知の事例への適用に向かって開かれている。新たな事例への適用が正しいかどうかは、その判断が、他者との一致をつうじて生き残っていくかどうかによって、はじめて決定されるのである。
こう考えてみると、対象の存在や因果関係にかんする言明は、未来において果たされるべきコミットメントを表明するという点で、約束に似ていると言えないだろうか。約束によって義務を負うという行為は、その行為に先立ってすでにある、何らかの心的存在や、その他いかなる実在的=物象的(real)なものを表現するのでもなく、まさに他者との一致によって成立することを見破ったのが、ヒュームその人であった。(3.2.5)約束が正しく果たされるかどうかは、約束が行なわれる時点では決定しておらず、約束する者の未来の行為が、約束を受けた者によって、約束の実行と認められるかどうかにかかっているのである。事実を言明することの正しさと、責務を引き受けることの正しさも、物象的なものの現前によっては保証されず、未来の決定にゆだねられている。
こうした、事実認識への規範的要素の浸透をヒュームの議論から読み取ろうとすることに対して、すぐに思いつかれる反論は、いわゆるIs/Ought問題によるものであろう。ヒュームは、神の存在や人間界のことがらにかんする事実の観察から、ただちに道徳的な命令を引き出そうとする論法を、「である」を繋辞とする通常の命題から「べきである」を繋辞とする命題への不可解な飛躍として批判している。(3.1.1.28)20世紀後半に流布した通説によれば、これは事実言明と道徳的言明のあいだの論理的なギャップにかんするメタ倫理学的知見の表明なのだという。ヒュームをメタ倫理学者に見立てる時代錯誤はさておくとしても、問題の論述が、「である」によって言い表わされる事実と「べきである」によって言い表わされる規範の峻別を前提としているのは明らかではないだろうか。
Is/Oughtにかんする議論については、多くの文献があり、それらの整理と検討は他の機会に譲らざるをえない。ここで述べておきたいのは、ヒュームの批判は、事実から規範を引き出そうというより、規範を事実へと引き戻す方向の議論に向けられているということである。ヒュームは、規範に先立って存在する単なる自然的事実の領域を認めた上で、そこから規範の領域への移行を問題視しているのではない。ヒュームの出発点は、すでに規範的要素を巻き込んで成立しているわれわれの日常の営みの内部にある。ヒュームが反対するのは、こうしたわれわれの規範的営みを、それに先行し、その外部にあると想定される事実を想定することによって説明しようとする議論なのである。こう考えることによって、ヒュームの道徳哲学の性格についても筋の通った理解がえられる。ヒュームが自然的事実の領域を前提として認めながら、そこから規範を導出する可能性を否定しているとすれば、ヒューム自身が道徳論や政治論で示している規範的コミットメントの性格は理解不可能なものとなる。ヒュームを道徳的自然主義者とみなす解釈にとっては、Is/Ought問題が躓きの石となってきたゆえんである。ヒュームにとって、事実と規範は確かに連続しているが、それは、自然主義者が考えるように規範が事実に還元されるしかたではなく、事実に規範が浸透するしかたでの連続なのである。
第三に、理性と情念についてである。上で述べた事実と規範との関係と同じことが、理性の領域と情念の領域についても言える。すなわち、理性の働きがまず自立したかたちで存在し、その外部から情念が指令を発するのではなく、われわれははじめから、情念に動機づけられ、活動しつつある姿でわれわれ自身を見出すのであり、理性は、情念に彩られた探究の文脈のなかではじめてその役割を見出すのである。 私は、人類の啓発に寄与し、自らの創意と発見によって名を揚げたいという野心が、私のうちに生じるのを、感じる。これらの気持ちは、私の現在の気分にうちにおいて、自然に沸き起こるものであり、もし私が、何か他の仕事や気晴らしに自分を縛りつけることによって、これらの気持ちを追い払うように努めるならば、私は、私が快楽という点で損をする者である、と感じる。これが、私の哲学の起源なのである。(1.4.7.12、木曾訳306)
これが、自らの議論の懐疑主義的帰結に当惑したヒュームが自らの真意を韜晦するために弄している言辞などでないことは、もはや明らかであろう。自らの探究のもつ社会的な価値を確信すると同時に、この自負を正当なものとして認められたいという欲求が、探究を導く動機となっていることを、ヒュームは掛け値なしに自覚し、それを表明している。そもそも、事物のあいだの最も基本的な連関をかたちづくる原因と結果の結合の観念さえ、われわれの内的印象にもとづく。事物のあり方は、われわれの無関心なまなざしの前にひとりでに現われてくるようなものではない。情念に動機づけられた探究の文脈においてのみ、理性は働くことができるのである。
何よりも、ヒュームのテクストのこうした読みの正しさを裏づけるのは、ヒュームが、『人間本性論』第2巻の末尾を飾る情念に動機づけられた人間の活動にかんする論述において、ほかならぬ真理の探究をその主題として取り上げていることである。すでに見たように、われわれの精神を活気づけ、探究へ駆り立てるには、探究の目標が社会的な価値体系の中に位置づけられることが必要とされる。そして、社会的な価値意識の共有は、われわれがたがいに対してもつ人格としての気遣いを前提に成立する。
しかし考えてみれば、『人間本性論』第1巻において、われわれはすでに、探究を導く情念の役割にかんする論述に出会っていた。
理性と情念の関係にかかわって、最後に、目的合理性、ないし道具的合理性の問題について述べておきたい。私は、ヒュームの哲学において、理性の働きに情念の設定する文脈が先行すると述べた。しかしこれは、個人のすべての行為が、たとえば快楽の最大化というような所与の目的に向かって組織されるものであるということではない。むしろ、上にも述べたように、個人の行為の目的の選択自体が、社会的文脈のなかで行なわれる。さらにいうならば、個人の行為の目的は社会的関係のなかではじめて成立するのである。ひとりひとりの個人が、生物学的か何かのしかたで選択された所与の生存目的をもっており、それを達成するための道具として社会を設立するというような描像は、ヒュームの考える人間の行為やその目的のあり方とは適合しない。このことは、最初に触れた間接的情念と意志および直接的情念にかんする叙述の順序にも示されている。ヒュームにとっては、行為を直接に動かすメカニズムを論述するに先立って、人々のたがいに対する気遣いや評価からなる、社会的な世界の成り立ちを、行為の舞台として設定しておく必要があったのである。同じような考慮はまた、人為的な徳を自然な徳に先立って論じるという道徳論の叙述順序にも現われていると考えられよう。これらが示すのは、外的に設定された目的や価値によって行為や社会的関係を説明するのではなく、社会的世界の中から立ち現われてくる目的や価値を、社会的世界に内在的な立場から理解しようとするヒュームの姿勢である。こうして目的や価値を内在化する動きが理性やその対象にも及ぶとき、それらもまた、社会的世界の外部に、あるいはそれに先だって自立しているのではなく、社会的世界に内在的な存在として現われることになるのである。
2002年7月27日 京都哲学史研究会において発表