大学のアカウンタビリティを考える

『大学職員ジャーナル』第4号、1999年12月

 大学をはじめとする学術研究の場はかつて象牙の塔と呼ばれ、自らの権威を説明を要しない自明のものとみなし、社会からの自動的尊敬を要求する存在であった(らしい)。大学教育の大衆化とともにそのような社会から超然とした大学の像は崩れさって久しい。しかしながら、大衆化以後の時代にあっても、大学において追求される知の存在意義を社会に対して明らかにし、知を社会の共有物にしようとする試みは、仮にあったとしてごくまれであったようである。旧帝大を頂点とする日本の学校システムを上手にくぐり抜けたいわゆるエリートたちは、相変わらず、自分たちの知の専門性を、非専門家の批判を封ずる具として水戸黄門の印篭のごとく用いてきた。そうした専門性が実は裸の王様の衣に等しいものとなりかねないことは、バブル崩壊以来の日本のエリート集団の迷走が、さらに最近では、専門家集団が奉じてきた原子力安全神話の崩壊が示すとおりである。

 こうした状況を考えると、専門家(プロフェッショナル)を自認するものがいわゆるアカウンタビリティ、説明責任をより広範に負うことが要求されるのは当然といわなければならない。なぜなら、専門家とは、特別な知識と能力を持つことによって、社会的に重要な仕事(プロフェッション)を社会から付託され、社会に支えられてその仕事を実行するはずのものなのであるから。しかしながらここで注意しなければならないのは、説明責任の基準をいかに設定すべきかという問題である。説明責任を論ずるには、その前提として、それぞれのプロフェッションの独自性と必要性についての合意がなければならないはずである。さもなければ、説明責任の要求は、プロフェッションの本来的あり方とは異質な枠組みを強制することによって、プロフェッションが果たすべき機能を損なうものとなりかねない。そしてまさにそうした事態が、日本の大学において生じようとしているのではないだろうか。

 私が具体的に念頭に置いているのは、国立大学の「独立行政法人化」の問題である。そもそも、独立行政法人化とは、行政の企画・立案部門と実施部門を分離し、後者を独立の法人として、規制緩和・効率化するというものであり、直接には国家公務員の定員削減を目指す「行革」の一手段として編み出されたものである。大学を「行革」の枠組みの中で処理しようするとこの政策が、国立大学における教育・教育のあり方や教職員の労働条件に重大な結果をもたらしかねないことは、すでに各方面から指摘されている。私がとくに注目するのは、大学評価のあり方に及ぼすその影響である。独立行政法人については、主務大臣が、三年以上五年以下の期間の中期目標を定め、中期目標期間終了時に、「評価委員会」の意見を聴取して、組織・業務全般の検討を行ない、必要な措置を講ずるとされている。また、中期目標は、できる限り数値によるなど、達成状況が判断しやすいように定めるという。これに対して、大学の教育研究の自主性・自律性を担保するため、評価委員会は、教育研究にかかる事項については、「大学評価・学位授与機構」(仮称)の専門的な判断を踏まえて主務大臣に意見を表明する、大学の教育研究が非定量的な性格を有し、また、経済的な効率性に必ずしもなじまない点を考慮する、等の特例措置の検討の方向を文部省は打ち出している。(『文教ニュース』第一五四一号、九九年九月二七日付参照。)しかし、これらの特例措置がどれだけ実現されるかについて、現段階での保証は一切ない。また、仮に自主性、自律性、専門性への「配慮」が特例にうたわれたとしても、行政機関が定める目標が大学評価の尺度を規定することになると言う根本的な点を変えることにはならない。「独立行政法人」とは実は「行政従属法人」に他ならないのではないか。

 このことが国立大学だけの問題でないことは明らかであろう。現在の学位授与機構を、「評価機構」に改組することは、九八年一〇月の大学審議会答申が打ち出した第三者評価システムの導入の具体化策である。大学審答申は、第三者評価は、ピア・レヴューを基本とするものと想定し、そのための専門機関の設置を掲げた。ところが独立行政法人化の枠組みでは、評価の主体は主務大臣のもとにおかれる評価委員会であり、「評価機構」は評価委員会が踏まえるべき専門的判断を提供するにすぎない。このことは、「評価機構」の行なう評価のあり方、とりわけ評価基準の設定に大きな影響を与えるものと思われる。大学審答申は、第三者機関による評価の主たる対象を国立大学とし、公私立大学は希望により評価を受けることができるとしているが、社会的評価の高さの証明として、第三者機関による評価を進んで求めてゆく公私立大学は少なくないであろう。国立大学に対する評価が独立行政法人に対する行政による評価の枠組みのもとにおかれることは、今後の大学評価のあり方を全体として決定づけるものとなる可能性が大なのである。そしてその場合、私の危惧が不幸にして当たっているとすれば、大学に対する社会的評価は、行政による評価にすり替わってしまうことになる。

 大学における教育研究を財政的に支える上で、学生納付金というかたちでの直接的負担は、家計支持者の経済能力を考えるとすでに限界に近づいているとみなければならない。今後は、諸外国に比べて極端に低い公的財政支出を拡大することも当然のことながら、寄付や委託研究等さまざまな形態で、大学外の社会から幅広く資金を獲得する努力が必要となろう。大学が社会的に支えられなければならない以上、その財政運営が適正になされているかどうかについて、社会的な評価を受けなければならないことは当然である。しかしながら、その評価基準が、一定期間に投下された資金に対する直接的効果というようなものであっては、日本の大学の、ひいては日本の学術文化全体の発展に否定的影響を及ぼすものとなりかねない。そして行政主導の大学評価が、この種の効率性を尺度とする方向に傾斜したものとなることは容易に予想できる。

 私は、ピア・レヴューを基本とする第三者評価システムを確立すること自体は、日本の大学にとって避けて通ることのできない課題であると考えている。ただし、大学評価の基準は、期間を区切った効率性であってはならないのはもちろん、各研究領域に即した専門的判断だけでも不十分である。ユニヴァーサル段階に達した今日の大学は、エリートに特別な知識や技術を授けるのではなく、すべての市民が必要とする知的な能力の形成を目指すものである。大学のそのような役割にふさわしい教育活動の評価が、大学の社会的評価において大きな要素とならなければならない。そして、教育活動を評価する前提として、これからの社会と市民のあり方を見通し、それに適合する大学教育の理念にかんする合意を形成する必要がある。これが私がもっとも強調したい点であり、現在の大学改革論議においてもっとも欠けている点である。現在、大学の、とくに学部の教育活動にかかわる議論は学生の学力問題や単位や卒業の認定のあり方に終始している観がある。これをたとえばアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(菅野盾樹訳、みすず書房)が、市民的教養の涵養のための大学の役割にかんする広範な論争を巻き起こしたアメリカ合衆国の状況と比較してみるとき、大学にかんする日本の社会の認識の薄さは歴然としている。(なお私はブルームのような保守派の論調には反対である。保守派の大学批判に対する反批判、とくにマーサ・ヌスバウムの議論については、『大学創造』第九号所載の拙稿をみられたい。)

 大学の説明責任にかんする議論が、大学の存在自体を危うくする方向にねじ曲げられようとしている現在、われわれ大学人は、大学の役割と社会的必要性について、真剣な検討を行ない、それにふさわしい説明責任の内容を提起していかなければならない。知の存在意義を社会に対して明らかにし、知を社会の共有物とすることが、今こそ求められている。そうしてこそ、大学は、これからの民主主義社会を支える市民を形成する場として機能しえよう。経営と管理のあり方を含めた大学の将来像は、こうした大学の基本的機能に即したものであるべきである。寝台にあわせて人の脚を切り詰めたというプロクルスの末裔たちの手に大学を委ねてはならないのである。

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