『イギリス哲学研究』第27号(2004)掲載予定

書評

伊藤邦武『偶然の宇宙』

(岩波書店 2002年 255頁 2,800円)

伊勢俊彦

 現代の宇宙論は、われわれの宇宙の現にあるしかたが、奇跡的ともいえる微調整の上に成り立っていることを明らかにした。星々や、われわれののからだを構成する物質が生成されるためには、物質的世界を支配する四つの基本的な力のとてつもなく微妙なバランスが必要だった。このような微調整がいかにして可能であったかを問うことによって、奇跡や自然の調和に神の存在の証拠を見いだせるか否かという、いったん過去のものとなったはずの哲学的・神学的問題が、新たな意義を帯びて再登場してくる。
 こうした問題領域に直接つながる宇宙論上の議論は、人間の存在に、宇宙のあり方を理解する上で特別な意義を認める「人間原理」や、われわれの宇宙は唯一の宇宙ではなく、他にも限りなく多く存在する、異なったあり方をもった宇宙の一つにすぎないとする世界のアンサンブル(多宇宙)仮説である。この本は、これらの説の哲学的・神学的含意の重要性を信じ、それを強く主張する陣営にただちに加わろうとするものではない。むしろ、それらの含意がどれほどのものであるのか、厳しく値踏みし、見定めようというのが、著者の態度である。この評価を正確に行なうために、まず、類似の動機に発する神学的議論が、西欧近代の哲学史においてどう批判され、乗り越えられ(たと考えられ)てきたのかを確認しなければならない。その作業に著者は二部からなるこの本の第I部を当てている。そこで、神学的議論に対する論駁の代表として検討されるのが、ヒュームの宗教批判である。
 ヒュームの時代の神学的議論と「人間原理」の神学的解釈に類似の動機が認められるといっても、両者はそうストレートに結びつけられるようなものではない。ヒュームの奇跡批判が、経験的に確証された自然法則を侵犯するような出来事の証言に向けられているのに対して、「人間原理」が着目するのは、自然の規則性がわれわれのような生命体の存在を許すような微妙な調和を保つこと自体が、ほとんど「奇跡」だということである。また、「自然の調和」にしても、理神論者が自然の目に見える調和を出発点に論じたのに対して、「人間原理」において問題になるのは、生命の存在条件と宇宙の基本的性質とのあいだの調整という、理論的・抽象的なレヴェルでの適合である。18世紀の理神論と「人間原理」から出発する現代の神学的議論との類比を指摘し、それを論拠にヒュームの哲学の現代的意義を主張するというような単純な筋書きで、著者の議論が成り立っているのではない。
 これらの異なったレヴェルの議論を継ぎ合わせる役目を果たすのは、規範的な確率理論によって仮説の蓋然性を評価するという観点である。ヒュームの宗教批判として、直接検討の対象になるのは、『人間知性探究』の奇跡論と、『自然宗教についての対話』における「デザインにもとづく証明」にかんする議論である。これらの議論を評価するに先だって、著者は、蓋然性についてのヒュームの議論(『人間本性論』第一巻第三部)から、確率についての整合的な理論を再構成し、ヒューム自身が、その理論の一貫した適用をなし得ているかを問題にする。検討の結果、奇跡が実際に起こる蓋然性を否定することに、ヒュームが決定的に成功したとはいえない。また、『自然宗教についての対話』で、宇宙の調和の起源を説明する卓越した知性の想定に対抗する仮説として提出される、「生物」としての宇宙や、「偶然」による調和は、内在的な蓋然性を持つものではない。厳しい吟味にかけられるのは、宗教批判の側の議論だけではない。現代宇宙論を出発点とする有神論的議論は、われわれの宇宙の微調整という事実が、世界のアンサンブル仮説を支持することを前提とするが、著者は、この推論は、確率理論の観点から見て、明白な誤りであると断ずる。
 こうした批判的な吟味は、しかし、宇宙論的な仮説を無価値であるとして退けるものではなく、むしろ、それらの、形式的な推論の枠組みに収まらない形而上学的な意味を浮き彫りにする。これらの仮説は、経験科学の内部での合理的説明を目指すというより、われわれが知性をもち、宇宙の秩序から知性の言葉を読み取ろうとする、そのこと自体の意味を理解する試みである。そして、現代の宇宙論から出発する有神論的議論が指し示す方向は、著者の解釈によれば、『対話』の最後にフィロが唐突とも思えるかたちで表明する、「宇宙のうちなる秩序の原因、あるいは諸原因は、おそらくは人間知性と何らかの遠い類比をもっているのであろう」という、弱められた目的論的証明の立場なのである。
 この本は、多岐にわたる主題にふれており、そのいくつかについては研究者の意見が大きく分かれているので、個々の議論に対する異論の余地は大きい。世界のアンサンブル仮説の蓋然性については、すでに三浦俊彦が正面から反論を加えている。(「観測選択効果と多宇宙説」『科学哲学』36-1)ヒュームの奇跡論やフィロの譲歩についての、多様な、対立する解釈についてはいうまでもないであろう。評者としても、確率理論にもとづく蓋然性の評価によって、ヒュームの議論や現代の宇宙論的仮説が追いつめられていく過程は、最初から仕組まれた筋書きであり、著者が意図しているほどドラマティックでも、議論として強力でもないのでは、という印象を覚えないでもない。要所要所に現われる文学作品からの引用なども、それほど効果的ではないように思う。
 にもかかわらず、たとえば『自然宗教についての対話』という書物の、「雲間からの声」の議論やフィロの譲歩のような謎めいた部分を含む全体構造にかんする、著者の見通しはクリアであると同時に哲学的陰翳に富んでいる。この点だけでも、ヒュームの哲学に関心をもつ人にとってこの本は有益である。また、われわれは、「自分を含むこの世界全体の不思議さ」を、合理的な説明によって消し去ることもできず、説明をあきらめることもできないというこの本の結論は、理性を理性自身によって基礎づけることはできないにもかからわず、理性を用いざるを得ないという、ヒュームが示したわれわれ自身のあり方に重ね合わせてみることができるだろう。

(いせ としひこ・立命館大学)