<書評>

哲学は近代を超えられるか

尾関周二編『環境哲学の探求』大月書店、1996

『現代と唯物論』19, 1997
 思うに、哲学における問題の設定や議論の手法は、哲学という知的活動のよって立つ原理が普遍的なものであるということをつねに前提とする。この前提を否定するロマン主義的民族主義や相対主義は、いかに精緻な議論の装いを施そうとも、哲学としては存立し得ない、反哲学の立場である。

 哲学の前提である普遍主義は、また、近代社会の基本的な前提でもある。『環境哲学の探求』の執筆者の一人、武田一博も書くように「あらゆる人間の自由と平等が完全に保障されることは、近代社会の基本的枠組みである」。社会的な自由と平等を普遍的に保障することの根拠となるのは、個々の人間存在の平等である。そして、人間存在の平等を成り立たせる重要な要素が、人間知性の普遍性に他ならない。

 他方、近代産業社会が産み出した自然破壊や環境悪化の現実は、この社会のあり方の基本的な見直しを不可避にする。この見直しの課題は、哲学者を難しい立場に立たせる。どうやって、反哲学・反近代の立場に落ち込むことなく、「脱近代」(尾関周二)の思想のあり方を示せるのか。

 河野勝彦の論考は、近代の人間中心主義に代わる倫理として、生命(自然)中心主義の考え方に可能性を見出そうとする。デカルトの懐疑を逆転させ、「少しでも批判に耐える可能性がある限り、否定しない」というのが、河野の論法である。河野は、人間以外の生物個体や生態系が人間的価値とは独立した内的な価値を持つことを認める。しかし、それらの価値の根拠は、それぞれの生物の目的論的あり方である。人間と他の生物のあいだに中立的な尺度が存在して、人間が生態系の価値を尊重することを必然にするわけではない。生態系の価値を尊重することが人間にとって必要なのは、その生態系が、人間の生存環境を含む、現に存在する生態系であるという事実による。河野は、非人間中心主義にできる限り可能性を認めておこうとする。しかし、河野自身による議論の結果は、むしろ、環境倫理という問題設定自体、最小限の人間中心主義と論理的に切り離せないことを示す。

 自然を、環境や生態系といった、有機論的ないし目的論的な契機を含んだ概念によって理解することは、近代的な知のあり方から断絶することを要求するとは限らない。ガイア仮説やディープ・エコロジーを批判しながら、「科学としての生態学にもとづいてこそ「生物多様性の保全」についても「多様な生物種の共生・共存の機構ないし論理」についても十分に理解しうる」と論ずる入江重吉の論考も、このことを裏付ける。

 近代的な知の論理が根本的に見直されなければならないのはむしろ、「社会文化的・精神的諸価値の再生産」(尾関)にかかわってかもしれない。「生活世界」(ハーバマス/小池直人)を基盤に、いかにしてエコロジカルな諸価値を実現させるのか。市川達人は、「風土」概念をあつかった論考の最後で、風土の主体の問題に触れる。風土とは、生きられる場として文化的に価値づけられた自然であろう。風土の主体は、それぞれの風土に即した文化的特徴を帯びたエスニックな集団である。また、武田一博は、エコロジーとフェミニズムの結びつきを論じて、性関係を軸にした共同生活において、自然な性差に肯定的な役割を与える。そして、「孤立的な人間観」(尾関)に事実上棹さす性差否定論を批判する。ジェンダーやエスニシティの差異を肯定的に評価することと、自由や平等の原理との両立について武田は楽観的であるが、ここには解明すべき問題が多いのではないか。

 他方、尾関は、とくに環境問題の文化的側面にかかわってコミュニケーション問題の重要性を強調する。だが、コミュニケーションの論理は、まさに、知性の普遍性を中心とする近代的な人間観を前提とする。現代日本のコミュニケーションの病理状況は、むしろ、日本において文化の近代化が失敗した、ないし放棄されたことに起因するのではないだろうか。このことは別として、尾関の論考は、環境哲学のキー概念をコンパクトな叙述の中で示しており、論集全体を読み進める上で有益なガイドである。

 最後に、しかし最小にではなく、リサイクルの思想を論じた岩佐茂の論考と、デンマークの経験に取材した小池直人の論考は、環境問題の社会経済的な側面と文化的な側面を、具体的なかたちで示し、この論集の主題と実践的な問題の接点を明らかにしている。

(文中敬称略)

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