唯物論の立場から知覚の問題に理論的にアプローチする種村完司氏の仕事は、著書『知覚のリアリズム』(勁草書房、一九九四年)としてまとめられており、本誌第一四号(同年一〇月)に中島英司氏が評を寄せている。一九九五年五月、東京で、種村氏を講演者として招いた「学術フォーラム」が催された。『知覚論の視座』はその記録である。小冊ではあるが、ユニークな特徴をもっている。それは、講演や準備されたコメントだけでなく、会場での討論の記録をふくんでいることである。討論に参加している人々は、唯物論研究者ばかりでもなければ、哲学研究者ばかりでもない。学会や研究会という場での通常の議論は、ある程度の意見の一致を前提とする。あまりにも根本的な反対や、議論の前提そのものにかかわる疑問を提出しないことが、いわばマナーである。しかしこのフォーラムでは、ジョンソンの一けりにも似た、通常の議論の土俵をはみ出した問いが遠慮なく提出される。
そうした問いの中でも、もっとも根本的なのが、なぜ唯物論をとるのか、知覚にかんする唯物論とはなんであるのかという問いであろう。この本で、討論の記録の部分は、あらかじめ指名された特定質問者との質疑応答を収録した「ディスカッションI」と、フロアをふくめた自由な討論の抄録を収める「ディスカッションII」に分かれている。「I」に登場する中平浩司氏と尾辻幸太郎氏の問いは、「ものが客観的に存在する」という命題にまっすぐに向かう。この問いの核心を、評者なりに表現すると、こうなる。唯物論者はものの客観的存在を言うけれども、実はそれを証明する議論をもってはいないのではないか。するとそれは、哲学的な議論をつうじてなされている主張の内容というよりは、それ自体は議論の対象にならないこととして前提されているのではないか。ものの客観的存在を言い立てることの意味はどこにあるのか。これに対して種村氏は、客観的存在という主張は、「我々の日常生活の中で社会生活の中で、そして又自然科学のいろんな、実験や観察等によって、長期間にわたって、絶えず、少しずつではあれ、もちろん時々は、反対の事例もあるかも知れませんけれども、絶えずやはり確証されつつある、そういう仮説」であると述べる。ただし、科学における理論的仮説などとはことなり、「質的にかなりもっと重みを持った、リアリティを持った、仮説」であり、「ただの仮説ではない」と言う。
種村氏がものの客観的存在という想定を通常の仮説と区別するのはまったく正しいと私は考える。さらに言うならば、ものの客観的存在について、仮説と確証という図式で考えるのをやめるべきであるとさえ、考える。さまざまなものをふくむ世界が客観的に存在することは、それ自体は仮説ではなく、むしろ、個々の仮説を立て、それを確証するという営みがそもそも可能であるための条件だというべきではないか。
もっともこの点について、種村氏と私は意見が異なるのであろう。そのことは、「ディスカッションII」での岩淵慶一氏との討論からうかがい知ることができる。岩淵氏は、唯物論の立場に立つことの価値は、超自然的な世界を否定することにもあるではないかと指摘する。これに対し、種村氏は、岩淵氏に同意しながら、超自然的な世界の否定もまた、「人類の歴史上絶えずさまざまな人間活動によって、科学的な諸成果によって絶えず確証されつつある仮説」であると言う。しかし、超自然的なものの否定というのは、現象をあくまで自然的な要因によって理解しようとする、実質的な方法論的原則であろう。ものの客観的存在を本気で否定するということは、われわれが現に生身の人間として生きているという事実の否定に近い。これに対して、超自然的なものを信ずることにもとづく一貫した生き方は可能であろう。それゆえにこそ、超自然的なものを否定することに実際的な意義があるのである。超自然的なものの否定も、通常の仮説とはちがったいわばメタな主張であるとはいえ、客観的存在の一般的な想定とは、明らかにレヴェルを異にするのではなかろうか。さまざまなものをふくむ世界が客観的に存在するという「常識の擁護」を、とくに唯物論とよぶ必要はないと私は考える。唯物論は、常識の擁護だけでなく、より実質的な方法論的原則を含意すると考えるべきである。
ディスカッションでは、こうしたきわめて根本的な問題のほか、オーラを見たり、植物と話をしたりすることも話題になって、予想のつかないおもしろさがある。しかし、書評としてはむしろ、ディスカッションに先立つ講演で述べられた、知覚の問題にかんする種村氏の固有の論点に触れるべきであろう。種村氏の知覚論の全体については、前掲の中島氏の一文があるので、ここでは、とくに私の興味を引いた二つの点について述べる。すなわち、感覚概念の問題と、意味の問題である。種村氏は、知覚において、客観的な知覚対象の側からの規定と、人間の能動性の関係に常に注目している。ゲシュタルト心理学や現象学的知覚論は、知覚的にとらえられるものを一つの全体として総合・統一し、あるいはそれに対して社会的・文化的文脈への位置づけ・意味づけを行う精神の働きを強調する。これに対し種村氏は、個別的な感覚が、あとから理論的に行った抽象としてではなく、現に存在し、ある場合にはそのようなものとして感知されると主張する。また、意味においても、対象のもつ客観的な性質の現れを見て取ろうとする。私は、知覚が、知性による総合・統一の作用に先立った、端的に精神にとって外なるものの感知という契機をふくんでいる限りにおいて、種村氏の感覚概念の擁護に同意できると考える。また、種村氏の意味における客観的契機への注目は、一方で現象学的意味論を批判的に咀嚼することを背景としている。それだけに、種村氏の理論は、たとえば意味を専ら情報の流れとして把握する最近の客観主義的言語論などと比べて、むしろ穏健でさえあり、説得力のあるものである。私の関心に引きつけて要約すると、種村氏の問題意識は、対象を「何らかのしかたで意味づけられたものとして見る」ことと「端的に、そこにあるものとして見る」こととの関係にからんでいると言える。してみると、ディスカッションで中平氏が触れた、アスペクト知覚の問題がここに密接に関連する。ディスカッションの場では、このテーマに関しては議論が発展しなかったようだが、また他の機会にでも検討されることを期待したい。