自己本位の倫理序説
--あるいは個性とコミュニケーション--

唯物論研究協会 第20回研究大会 1997/10/25-26 において発表予定
 漱石は、学習院で行った講演「私の個人主義」(1914)で、こう語っている。
「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。」
 この自己本位とは、自らの個性の伸長を中心とする行動原理である。漱石は、この自己本位を、直接には、文芸活動における自らの信条として述べている。しかし、自己を主とし、他を賓とする行動原理は、単に文芸の上にとどまるものではない。また、その産み出す結果も、趣味の上の問題にとどまらない。個性の担い手である自我は、時に他を圧殺し去ろうとし、時にはまた当の自己自身を精神的、道徳的な窮地に追い込みもする。そのような自我は、「我」として、漱石の創作中で時に否定的に描かれるものと、実は同一であろう。そのことは、権力と金力をもって自己の個性を他人の頭の上に押しつけ、他人をしたがわせようとすることの危険を、漱石自身が同じ講演の中で指摘していることによっても、裏付けられる。漱石は、自己の個性を自由に発展させようとするとき、同時に、他の個性と自由をもまた尊重しなければならないことを説く。しかし、彼がそう力説するのは、彼の聴衆である若い人々が、将来権力と金力によって他の個性を圧殺しうる立場に立つがゆえにこそなのである。
 漱石は、特に中期以降の創作において、近代的自我の直面する問題を描いている。しかし、そこでの自我は、単に知的なものではない。その自我が、たとえばデカルトのコギト(を一面的に理解した場合)と異なるのは、それが具体的な欲求と生身の身体を備え、また同様に生身の身体を備えた他者と向き合っている点である。
 このような他者との関係を哲学的にとらえようとするとき問題になるのが、自由である。そしてその自由は、形而上学的な意志の自由ではなく、具体的な行動の自由である。自らと同等の生身の存在である他者との関係において、各人による無制限に自由な力の行使は、たがいを傷つけ、滅ぼす可能性がある。そこで、いかにたがいの自由を、一方で承認しつつ、他方で制限しあうことができるかが問題となる。
 このような他者との関係における自由を論ずる枠組みとして、ホッブズからロールズにいたる、合意を基礎概念とする政治哲学・倫理学の系譜が考えられる。この系譜は、社会契約説に代表されると一般にはみなされるだろう。しかし、社会契約説は、制度的枠組みの議論に傾き、具体的な諸個人の関係における自由の問題の分析に欠ける傾向がある。これに対し、ヒュームは、ホッブズ-ロックの契約説を批判しながら、彼独自の意味での合意を道徳論の基礎概念として採用する。ヒュームにおいて、合意による行為の拘束の成立が、各個人の知性的判断だけでなく、たがいの意図の表明と承認というコミュニケーション論的考察によっている。私の報告では、合意における個人と個人のコミュニケーションの構造を中心に、自己本位の倫理にとってヒュームの議論がもつ意義を検討する。

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