II. 自然の秩序と人間の自由(まとめと補足)

われわれは自分自身のうちに自由を感じると想像できるかもしれない。しかし、外から見る人は、われわれの行為を動機や性格から推理できるのである。このことこそが、必然性のまさしく本質なのである。(『人間本性論』第二巻第三部第二節「自由と必然について--同じ主題の続き」、大槻編五一一ページより)

・ヒュームの哲学の特徴的論法

常識--ニセの哲学--真の哲学

常識的意識の現象学と、哲学の自然史

・「感覚にかんする懐疑」の場合(『人間本性論』第一巻第四部)

常識の立場(矛盾を含む):ものは、五感に感じられるとおりのあり方で実際に存在する

ニセの哲学(いわば世界を分裂させることによって矛盾を解消する):実際にあるものは、五感に感じられるものとは、ものとして別個であり、あり方も異なる

真の哲学(常識の立場に還りながら、批判的、反省的態度を保持する):五感に感じられるものの世界と、実際にあるものの世界を別々に想定することはしないが、もののあり方は、目に見えるとおりとは限らないことを自覚する

・自由と必然性の場合

常識の立場:原因と結果にかんする推理を行なう場合は、決定論の態度
その一方で、自由の主観的意識を持つ

ニセの哲学:自然界にかんしては、決定論をとる
その一方で、自由意志の存在を想定する

真の哲学:自由の内実を自発性とすることによって、自由と必然性を両立させる

III. 意志を決定するのは理性か感情か

理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、理性は情念に仕え、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである。(『人間本性論』第二巻第三部第三節「意志に影響を及ぼす動機について」、大槻編五一四-一五ページより)

・精神作用の一般理論--観念と印象(『人間本性論』第一巻第一部)

感覚の印象(五感をつうじた直接的経験)→感覚の観念(記憶や想像による感覚の印象の再生、知性・理性の対象でもある)→反省の印象(感覚や知性がとらえたものが引き起こす、それに向けられた感情・情念)→反省の観念(記憶や想像による反省の印象の再生)

・知性・理性のはたらき(『人間本性論』第一巻第三部)

数学などの抽象的(ア・プリオリ)推理と 原因と結果の関係にかんする経験的(ア・ポステリオリ)推理

・情念の分類(『人間本性論』第二巻)

間接的情念
自分に向けられた 誇り・卑下
他人に向けられた 愛・憎しみ

直接的情念
対象に向けられた 欲求・嫌悪

・いわゆる「理性と情念の戦い」(『人間本性論』第二巻第三部第三節)

理性だけでは、行為の動機を産み出しえない

情念が行為を動かすとき、理性はそれに対抗する力がない
情念は真偽を問えるようなものではないので、偽なるものとして退けることができない

理性が情念に変化を起こすのは、対象や手段の存在にかんする判断によってのみ

いわゆる「理性と情念の戦い」は、穏やかな情念と激しい情念の戦いである
穏やかな情念--他人の長い期間にわたる幸福や不幸を願う気持ち、命を惜しむ気持ち、子供への配慮;一般的に善を欲し悪を厭う気持ち

・常識の立場:さまざまな動機の矛盾対立

・ニセの哲学:精神の欲求的部分からまったく分離された理性だけで行動を起こすことができる

・真の哲学:欲求の間にある質的区別、欲求の作用を助ける理性の働きを具体的に分析