<書評>

牧野広義著『自由のパラドックスと弁証法』

青木書店、2001年
『京都民報』2001年5月20日付第5面「学術・文化」欄

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 自由とは、一方で、拘束や制約に従わないことのはずなのに、他方では、必然的法則の認識に従うことが自由であると言われもする。現実に眼を転ずれば、真の人間的自由を実現するはずの社会主義をかかげる体制が巨大な抑圧を生み出したことは、二十世紀の歴史最大の逆説である。牧野氏は、理論と実践の両面で現われる自由のパラドックスの分析と解決の試みを通じて、弁証法という哲学的論理を深化し豊富化しようとする。

 氏は、自由をめぐる五つのパラドックス(自由の名による専制、消極的自由、自由主義、人間の自由と環境破壊、意志の自由)の展開を、近代初頭から現代にいたる哲学の歴史を通じて追跡する。どの主題についても氏の考察は示唆に富むが、私がとくに注目するのは、ミルに由来する自由主義の問題である。「他人に危害を及ぼさない限り何をしてもよい」という原則を立て、個人の自己決定を絶対化することが、ミルが目指した「個性の自由な発展」と逆の結果をもたらすという弱点にもかかわらず、「個」としての人間の自由を権利として明確に位置づけた功績は大きい。

 牧野氏は、共同決定をもって自己決定に代える方向に「自由主義のパラドックス」の解決を見ようとするが、必要なのは、むしろ、意識的活動を通じた人間本性の発達として、個の自由の具体的内容を補うことであろう。そうした活動における個性と共同性の弁証法の探究に、自由論の一つの発展方向があると私は考える。

(伊勢俊彦・立命館大学文学部助教授)