海外学会報告

To read Reid in his own right

--第一回国際リードシンポジウム報告--
伊勢 俊彦
『イギリス哲学研究』第22号(1999年4月)掲載予定
 トマス・リードといえば、観念説に反対して(やや独断的な)実在論を唱えたヒュームの批判者というのが、まずまず通説的な理解であろう。これに対して、リードの哲学がそれ自体として持っている意義や、現代哲学の問題との関連性への注目が、ここ二、三〇年の間に、ゆっくりとではあるが強まってきたようだ。その最近の現れとして、たとえば、ヒラリー・パトナムがコロンビア大学で一九九四年におこなったデューイ記念連続講義が'Sense, Nonsense, and the Senses: An Inquiry into the Powers of the Human Mind' (Journal of Philosophy, vol. 91, no. 9, 1994)と題されていたことをあげることができる。パトナムはそこで、形而上学的ファンタジー抜きの実在論を主張したが、これはリードの問題意識を現代に引き継いだものと言えよう。言うまでもないかもしれないが、この講義の副題は、リードの著書の題名のもじりである。

 アバディーンはリードが学生時代を、そしてのちにふたたび、アダム・スミスのあとを襲ってグラスゴウの道徳哲学教授となるまでの一時期を、過ごした地である。当地において、リード・プロジェクトと銘打たれた企画が立ちあげられ、リードを中心とするアバディーンの哲学者たちに関する研究が推進されつつある。その成果は、エディンバラ版と呼ばれる批判的テクストの刊行、研究誌Reid Studiesの再刊というように、具体的なかたちを現しはじめている。このプロジェクトの一環として、リードにかんする国際シンポジウムの継続的開催が計画され、その第一回が、昨九八年の夏、プロジェクトの本拠地、アバディーン大学キングズ・カレッジにおいて開かれた。

 七月二七日から二九日まで、三日間にわたって開かれたシンポジウムには、(イングランドとスコットランドを別に数えると)一六カ国から六〇余名が参加した。日本人の参加者は五名で、藤田昇吾(大阪教育大学)、丹下芳雄(東京商船大学)、石川徹(香川大学)、矢嶋直規(敬和学園大学)の各氏および筆者である。この前の週には、同じくスコットランドのスターリングでヒューム・ソサイァティのカンファレンスが開かれており、上記五名のうち四名は二週連続の顔合わせとなった。日本以外からの参加者でも、二つの会議に続けて出席している人々は少なくなかったが、その一方で、アバディーンではじめて見かける人も、ことに若手の研究者に多く、必ずしもヒューム研究との関係ではなく、リードを主題として研究する人たちがだんだん出てきているのだなという印象を受けた。

 シンポジウムは、全体会と、二つないし三つの発表が同時に進行するセッションにわけておこなわれた。全体会での講演者と論題はつぎのとおりである。

一、Luigi Turco (Bologna), "Maclaurin, Reid and Kemp Smith on the Ancestry of Hume's Philosophy"
二、M. A. Stewart (Lancaster), "Reid on Personal Identity: A Study in Sources"
三、Terence Penelhum (Calgary), "The Use of Reid in Recent Religious Apologetic"
四、Daniel Schultess (Neuchatel, Switzerland), "Reid in Europe"
五、Alexander Brodie (Glasgow), "The Aberdeen School"
六、Keith Lehrer (Arizona), "Reid, Hume and the Epistemology of Common Sense Today"

 六のレーラー教授は、Routledgeから出ている"The Arguments of Philosophers"シリーズのThomas Reidの著者である。リードの議論の現代哲学への関連性を強調する代表的な論者と言えよう。今回の講演は、リードの常識哲学とヒュームの懐疑論を対比するというのではなく、両者を、常識を基盤とした哲学への二つの異なったアプローチとしてとらえようという話だと、筆者は理解した。五のブローディ教授は、啓蒙期だけでなく、宗教改革以前の時期を含む、スコットランド哲学史の研究で知られる。"Aberdeen School"とは筆者にとって耳慣れない言葉であったが、リードがアバディーン在任中に設立したAberdeen Philosophical Societyに集ったグループを指すということである。講演では、このグループが「学派」と呼ぶに足りる独自のテーマや方法を持っていたかどうかということが検討された。

 いささか言い訳めくが、筆者はこれまでリードに特別な関心を持っていたわけではなく、今回のシンポジウムへの出席は、いわばヒューム・カンファレンス出席のついでという心づもりであった。それゆえ、リード研究の動向についても予備知識はほとんどなく、まして、英語圏以外のリード研究についてはほとんど知るところがなかった。この点で、非英語圏からの参加者が多いことには意外の感を受けたが、中でも、四のシュルテス教授の講演は、フランス語圏を中心にリード哲学の影響をたどり、メーヌ・ド・ビランとの関連を指摘されるなど、興味深いものであった。しかし、フランス語圏でのリードへの関心は、それほど高いとは言えないらしい。シュルテス教授は、八三年、すでにリードにかんする単著 (Philosophie et sens commun chez Thomas Reid) を上梓されているのだが、それについての、フランスのある大学の教授の感想は、「これはよい本である。ただ一つの欠点は、リードにかんする本であるということだ」というものだったという。

 事前に配布された暫定プログラムでは、セッションはテーマ別に配置されるように書かれていたが、実際には特定のテーマにかんする発表が多かったり少なかったりで、必ずしもそのとおりにはならなかったようである。以下、筆者が聞きえた発表のいくつかを紹介する。筆者の関心上、テーマは認識論や言語哲学に偏るが、実際には、道徳論や、北米やヨーロッパにおけるリード哲学の影響を論じた発表も多くおこなわれたことを書き添えておく。

 まず確立したキャリアを持つ研究者の発表について述べると、David Raynor (Ottawa)は、最近無署名のある草稿をヒュームのものと同定したことで、名前を聞いた人も多いと思う。("Who invented the invisible hand?: Hume's praise of laissez-faire in a newly discovered pamphlet", Times Literary Supplement, August 14, 1998)彼はバークレイの非物質主義と三次元空間の否定に対するヒュームとリードの対応を検討したが、その際、歴史家らしく、ヒュームやリードの書簡、アーカイヴ(後述)に収められた手稿によって自説を証拠立てていた。

 空間の問題や幾何学の問題は、他にも幾人かの発表で取りあげられていた。Paul Wood(Victoria, Canada)は、エディンバラ版の編者の一人であるが、彼の発表は、リードによる非ユークリッド幾何学の発見を手稿によって年代的にあとづけたものであった。また、Lorne Falkenstein (London, Canada)は、色をどのように空間の中に位置づけるかに関して、リードの見解を、バークレイやヒュームと対比した。

 このほか、筆者は聞くことができなかったが、James Van Cleve (Brown University)も、リードの第一原理にかんする発表をおこなっている。

 つぎに比較的若い研究者による発表であるが、ここでも、アーカイヴに収められた手稿の研究にもとづく発表が見られた。たとえば、Ryan Nichols (Ohio State University)は、リードが直接知覚説をとっているという通説的解釈を修正するとして、草稿を含むテクスト上の証拠を検討していたが、哲学的なポイントがなんであるのかは、今一つ鮮明でなかった。

 Joseph H. Shieber (Brown University)は、「証言」の問題を取りあげ、他人による証言を、単なる因果連鎖によって証言された出来事につながるものであり、他の経験的証拠と同列であるとみなす立場を「デカルト主義」と特徴づけ、証言のような言語行為に、他に還元されない基礎的ステイタスを認めるリードの立場をそれと対比した。その際、彼は、「デカルト主義」の代表的議論として、ヒュームの奇跡論を取りあげた。筆者はこれに対して、質問において、ヒュームにおいて、言語が、必ずしも観念と原因結果の関係で結ばれた外的なしるしではないということを、約束にかんする議論を例に挙げて指摘した。このほか、言語哲学の関連では、Maurizio Maione (Rome)が、リードの議論を言語行為論と関係づけて論じていた。

 他に、Jay Foster (Toronto)は、リードにおける「人間の学」の形成を論じ、人間の学は、リードにおいてすべての諸学に認識論的基礎を与えるものであるが、人間の学の諸原理は、認識論的なものというよりも、認識論を可能にする枠組みとしての社会的世界を構成するものであるとした。また、Patrick Chezaud (Grenoble)は、リードとモンボッドを、唯物論に傾くことを避けながらヒュームの懐疑論に対抗するという課題を共有する哲学者として取りあげた。彼はその際、ヒュームによれば、常識的信念は単に蓋然的でしかない、というしかたでヒュームの議論を特徴づけたが、私はそれには異議があった。私の理解するところでは、ヒュームによれば、常識的信念は理性的な根拠をまったく持たないのだが、常識的信念を取り去ってしまえば、常識的信念に対する哲学的批判もよって立つべき基盤を失うので、哲学者も結局、懐疑を保持しながらも、常識的信念を受け入れざるをえないのである。ヒュームの哲学は、徹底した懐疑論でありながら、同時に、常識を哲学の唯一の基盤として受け入れるものではないのか。あとでこの点を発表者にただしたところ、ヒュームの哲学も一種の常識哲学であるという点は、それでいいとのことであった。

 講演とセッションの他に、シンポジウムの期間中、上述のリード・プロジェクトの紹介と、アーカイヴの見学がおこなわれた。プロジェクトの一環として、キングズ・カレッジの図書館は、リードの手稿と、リード関連の公刊文献の網羅的な収集を目指している。シンポジウム参加者が見学したのは、その特別コレクションを収めたアーカイヴである。リードの手稿は、現存するもののうちほとんどすべてを所蔵しているということであったが、それを整理して目録を作る作業は、やっとこれからはじまるという段階のようである。そこで目にすることのできた手稿はごくわずかであるが、紙の裏表にわたってびっしりと書き付けられた、小さくて几帳面な文字は、見るものに強い印象を与える。アーカイヴの説明をおこなったのは前述のポール・ウッドであるが、彼は、リードがいかに紙を節約したかについて盛んにジョークを飛ばしていた。ごく短時間の見学であったが、その間にも、参加者の多くは、それぞれが手にした一葉の手稿に、食いつかんばかりに見入っていた。

 全体として、真摯かつなごやかな集まりではあったが、組織・運営に関しては、いくつか不満も聞かれた。とりわけ、正式のプログラムの配布が、事前には、電子メールだけでおこなわれたので、講演や発表をおこなう参加者で、会場に着くまでプログラムがわからないという例も見られた。また、セッションでは、特に若手研究者に、用意した原稿を早口で読み上げる場合が多いが、原稿のコピーないしハンドアウトが配られるのはまれで、理解に困難を来すことがあった。第二回のシンポジウムは、二〇〇〇年に開かれる予定とのことであるが、よりより運営を期待したいものである。

 なお、リード・プロジェクトに関する情報、および、今回のシンポジウムのプログラムは、リード・プロジェクトのウェッブサイトで見ることができる。

(いせ としひこ・立命館大学)