Terence Penelhum,
Themes in Hume: The Self, the Will, Religion

(Oxford University Press, 2000, xix+294p)
日本イギリス哲学会『イギリス哲学研究』25, 2002


 20世紀をつうじて、ヒュームの哲学に対する理解は何度かの大きな転換を見てきた。そのうち最も大きなものは、ケンプ・スミスの研究が提示した「自然主義者ヒューム」という見方の出現であろう。この解釈の基本線は、世紀の初頭においてすでに示されていたが、それが多くの人の受け入れるところとなるには、脱論理実証主義的な経験主義哲学のあり方へと人びとの目が開かれるまで数十年を待たねばならなかった。ケンプ・スミスはまた、道徳論を中心とするヒューム理解の方針をも提示したが、その戦略に基づく本格的な成果が現われたのはさらに遅く、60年代後半のアーダルの研究は重要であるとしても、状況の本格的転換をもたらしたのは、90年代に入ってようやくまとまった形をあらわしたバイアーの業績であると言っていいのではないだろうか。

 ペネラムの永年にわたる研究の成果が描く航跡は、20世紀後半のヒューム解釈、さらには英語圏の哲学一般の潮流が示した、いくたびかの方向転換の跡をとどめている。この論集におさめられた論考のうち、もっとも古いものは1955年にさかのぼる。そこでペネラムは、人格の同一性の問題を扱いながら、厳密な同一性は不変の対象にのみ認められ、変化する対象に同一性を帰属させるのは誤りであるとするヒュームの見解は、「同一性」という語の用い方にかんする誤解を示すものだと指摘する。こうした日常言語派流の議論による古典への斬り込みは、そうした手法の限界をすでに見切った(現在のペネラムを含む)人びとを微苦笑させよう。もちろんペネラムの思索は、このような地点に長く留まることはない。ヒューム解釈上の難問は数多いが、そのなかでも優れて困難な問いのいくつかに、ペネラムは深く分け入っていくことになる。

 そうした難問の一つは、言うまでもなく人格の同一性の問題であるが、本書でそれと並ぶ大きな論考の群れを作っているテーマが、ヒュームの宗教論、とりわけ、『自然宗教にかんする対話』の最終場面でファイロの態度が豹変するように見えるという問題である。『対話』の三人の登場人物中、ファイロはヒューム自身の立場を最もよく代表すると目されるが、第十一対話にいたるまでクレアンテスの理神論に徹底した批判を加えてきた彼が、最終の第十二対話にいたって、世界を創造した知性的な原因の存在という理神論の基本的主張に、あっさりと同意する。このファイロの弁論を皮肉ないし韜晦と見るか、額面通りに受け止めるかによって、ヒュームの真意の理解のあり方は大きく異なってこよう。ペネラムは、ファイロの弁論は字義通りに理解されるべきであるとする。彼によれば、ヒュームが目指したのは、有神論を論駁して無神論を打ち立てることではなく、(それはむしろ、反教会的な熱狂という害を生みかねない。)有神論から実質的内容を取り除いて単なる知性的なテーゼに還元することによって、道徳的に無害にすることなのである。

 ペネラムの見解には、当然疑問の余地があり得よう。この問題について、有力な解釈者がたがいに見解を異にしているという事態もさることながら、私の念頭に浮かぶのは、こうした、単なる知性的なテーゼとしての最小限の有神論が、そもそもヒュームの哲学のなかに占めるべき場所をもっているのかということである。この短評のなかで詳細な議論を示すことはもとより不可能であるが、「世界全体」というものを完結した概念のうちにとらえて、その原因を構想しようとすること自体が、ヒュームの哲学のスピリットに反していはしないだろうか。

 非完結的で開かれているという性格が、ヒュームの哲学のすべての主題に浸透し、影を落としていると私は考える。人格の同一性についても然りであり、この問題についてのペネラムの議論の意義と限界も、そのような観点から見通すことができる。自我の統一は、知覚の束に加えてそれらを把握し統一へともたらす主体の存在を必要とするという、ヒュームの議論への常套的批判に対し、自我を構成する知覚の系列の一部としてそれを統一的なものとして把握する自己意識的知覚が成立するという考え方は、それ自体として不整合ではないとペネラムは指摘する。その上で、「思惟または想像に関わる人格の同一性と、情念と自分自身に対する気遣いとに関わる人格の同一性」の関係について、ヒュームの議論の進行は、前者についての問いに対する答えが、後者の問いにわれわれが取りかかる前に完結した形で与えられていることを要求するとペネラムは述べ、知性にかんするかぎりでの人格の同一性の問いへの答えは、情念論以降で展開される人格の同一性についての議論に補われる形ではじめて完結するという最近の論者の読みには疑念を呈している。

 主体や力は、われわれが思考し行動する世界の意味づけを構成する不可欠の要素だが、それらから物象的な性格という意味でのリアリティを剥ぎとってみせたことに、ヒュームの哲学の画期的な意義がある。物としての主体抜きの人格の同一性の想念はその核心となる要素だが、ペネラムは、粘り強い思考によって、その整合性を示した。ただし、そうした思考が、常に正しい解答を見い出すとは限らない。ペネラムの思考法は、ひとつひとつの問題に完結した答えを与え、その積み重ねの上で新たな問題に取り組んでいくというものだが、そこには逆に、ヒュームの思索とは完全に同調しがたい要素も含まれているのではないか。ヒュームの議論は、常に未解決の問題を残したままで先へ進み、おのおのの主題が、のちの議論の展開から振り返られることによって理解し直される余地をあたかも意図的に残しているかのようではないか。しかし、このようなヒュームの読みをペネラムは否定するであろう。ペネラムが、ヒュームの情念論や道徳論から知性論を見返しとらえ直そうとする議論の流れに十分な目配りを行ないながら、それを心から受け入れていない理由も、同じあたりにあるように、私には見て取れる。


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