「教養とは何か」という茫漠たる論題が公けに通知されているようであるが,そんなことについて話すのは土台無理なので,liberal educationについて.それについて何が今日的争点なのか,どのような方向で改革が模索されているのか,をアメリカ合衆国を中心に紹介してみようと思う.
Liberal educationとは「自由人のための教育」である.そこで問題は「自由人とは誰なのか」ということである.
ブルームら保守派は,自由人としての教育は,卓越した能力をもつ少数者に対してのみ可能であると考える.この考えによれば,大衆民主主義,およびそれと相関的な大学の大衆化は,liberal educationというアメリカ大学の伝統的特質を危機にさらす.
ブルームらの大学批判への反撃の試みの中から,共通項として立ちあらわれるのは,アメリカ民主主義の未来のために,すべての人々が,自由な市民として教育され,社会に対する主体的なかかわりをもたなければならないという思想である.この考えによれば,大学の大衆化は,liberal educationの意義と必要性を減ずるところか,それをいよいよ増大させる.
人々の公共的意思決定への参加の通路と,共有の公共的空間を,歴史的にアメリカ社会の主流から排除されてきたアフリカ系市民や女性,新たにアメリカ社会に流入しているヒスパニック系やアジア系の民族集団等のマイノリティをも組み込むしかたで確立し直すこと.それが,アメリカにおけるliberal education改革の目標である.
大学設置基準の大綱化以来の改革動向は,専門分野間の領地争いの中での,教養教育の解体・死滅という様相を呈している.あたかもそれと相関するかのように,日本の社会における公共的(政治的)意思決定と人々の日常的意識との乖離,あらゆるレヴェルでのcommunity(共同性)の崩壊という現象が進行している.この二つの過程に共通するのは,個人や個人を取りまく親密な集団を単位とした生活の自律的な価値基準や意味が失われ,市場が万能の決定者として現われるという事態である.
人々の公共的意思決定への参加の通路と,共有の公共的空間を確立しなおすこと.それが,日本の社会の民主主義的な未来のために必要であることは,アメリカの場合と同様である.とすれば,万人のためのliberal educationの必要性もまた,アメリカの場合と同様日本にもあてはまるはずである.
レーガン-ブッシュ政権の末期にあって政権批判の旗幟を鮮明にした.ブルームらを批判するさいも,いわばレーガン時代の「気分」である反平等主義の傾向を指摘し,保守派の哲学がワシントンで影響を広げていることに懸念を隠さない.後に,バーバーが提唱したService Learning Programは,クリントン大統領直々の称賛を受けたという話.
(Barber 1992の構成と論点)
Teaching Temporality
Being an American
Loose Canons
Radical Excesses and Post-Modernism
Conservative Excesses and Allan Bloom
What Our Forty-Seven-Year-Olds Know
Teaching Democracy Through Community Service
大衆民主主義を敵視する知的エリート主義と,市場原理の導入による大学の企業化の双方を批判.「平等」や「権利」といったアメリカ社会の美しい約束を真剣に受け取ることによって,それらの価値の共有を通じた社会の再統合を可能にすることを展望する.
古いカノン(liberal educationのコアとなる基本文献群)を墨守するのでもなく,カノンの解体を叫ぶのでもなく,アメリカ社会の開かれた性格に対応して,カノンもまた開かれたものであるべきと主張,時代状況の変化への柔軟な対応を図る.
すべての人々が,市民としての判断と行動を支える文化的・科学的リテラシーをもつことを教育の目標とする.
民主主義の実現というアメリカ市民の使命を中心とした歴史意識の形成,社会活動の実践を教育課程に取り入れ,市民としての義務と責任の認識,それを担う能力を養成する.
(意義と問題点)
教育の危機を,市民のあり方の問題としてとらえたことは,問題設定として適切であり,その中から,ヌスバウムのような成果もうまれてきたといえる.先進諸国では政治と市民の生活意識の乖離,無関心層の増大が共通の問題となっている.これをエスニックな同一性の強化という方向でなく,近代民主主義の諸価値の共有によって解決することが,とりわけアメリカにおいて必要であることを強調する.エスニックなアイデンティティによって区分けされた集団の利害調整(アイデンティティ・ポリティクス)の場ではなく,共通の価値の発見と実現の過程として民主主義をとらえる.
共同体への貢献,たとえば不遇な人々への扶助を,優位にある者の慈善としてではなく,市民の義務と責任の名において実行する必要性を主張.社会保障を制度化するのではなく,市民の自発的な善意によって不平等の是正を行なえというリバタリアンの主張と鋭く対立する.
しかし,社会活動の実践の義務化という提案が,軍隊的規律による苦役の強制でなく,主体的な判断と行動の能力の養成というかたちで実現できるかどうか.従来から意思決定において上意下達の傾向が強く,近年さらに,教職員集団の自律的意思決定に代わって管理者の「リーダーシップ」が強調されている日本の学校文化においては疑問となる.
歴史は価値中立的な事実の集積ではなく,社会の共有の価値を織り込んだ物語であるという理解.その物語が,社会を構成するすべての人々に真に開かれている保証は,それが自由と平等と権利の物語であるだけで十分か.ある価値体系を社会統合の軸にしようと提案するさい,その価値体系に対する批判の可能性を確保することが必要である.
ポストモダン派の近代批判と一線を画す必要もあってか,社会の主流に対する批判的言説の機能に対する評価が低い.ソクラテスと民主主義は相容れないとする点では,ブルームらと一致している.
前任校のブラウン大学以来,文化の多元性を顧慮したカリキュラム改革を積極的に推進.専門の枠をこえて現代社会の問題について積極的に発言し,アマルティア・センらとの共同研究を通じ,多くの編著がある.自身はユダヤ教徒.
(Nussbaum 1997の構成と論点)
The Old Education and the Think-Academy
Socratic Self-Examination
Citizens of the World
The Narrative Imagination
The Study of Non-Western Cultures
African-American Studies
Women's Studies
The Study of Human Sexuality
Socrates in the Religious University
The "New" Liberal Education
「60年代ラディカルによる政治的支配」という保守派の大学攻撃に反撃し,文化の多元性の尊重を基調とする教育改革を,「世界の市民」という古典的理念の今日的展開として擁護する.
ポストモダン派の相対主義に抗して,合理的な議論による真理の追求という哲学の伝統的な自己イメージを保持することと,現代社会の様々な階層,とくに抑圧された階層の人々の声に耳を傾けることとの両立を図る.
自分自身が属するローカルな集団の文化の批判的検討,異なった文化的・社会的背景をもつ人々,とりわけマイノリティの人々の経験を理解することの重要性を強調する.
(意義と問題点)
全米各地の大学の現場に取材するとともに,自らの経験について語り,議論を実践によって補強している.都合のいい例ばかりでなく,極端なアフリカ中心主義の浸透,セクシュアリティの教育に対する同僚の冷淡な態度,宗教(モルモン教)系大学の閉鎖性など,困難な点も率直に指摘している.
ヌスバウムはバーバーと共和主義的な民主主義像を共有すると見られるが,アメリカ的伝統の理解,アメリカ社会に対する義務と責任にとどまらない,全人類に妥当すべき普遍的な価値を志向し,自文化に対するソクラテス的批判を重視する.しかし,そのような「世界市民」という「希薄な」理念が,ローカルな集団への「濃厚な」義務の引き受けを伴うコミットメントの原理となりうるのだろうか.普遍的な合理性と真理という理念が,マイノリティの経験を理解する上で,どれだけ具体的な説得力をもつことができるか.男根中心主義,ロゴス中心主義への批判にどう答えるか.
学生の自由に対する過度の強制や介入なしに,文化の境界を超えさせることは可能か.そこまでの迫力を出すためには,教師は,匿名的な<知>の代表者ではなく,自らの生活経験を検討し表現する必要に迫られる.が,凡百の教師にそれが可能か.凡人たちにも実行できる改革でなければ,全体に及ぶ影響を持ち得ないのではないか.万人が万人のためのソクラテスになれるのか.
日本における教育改革の議論においても,人間として,市民としての生のあり方に踏み込んだ考察が必要.子どもだけではなく,社会のあらゆる場面で,生活の断片への切り分け,全体としての意味の崩壊という人間性の危機が進行している.
自己の生活経験を具体的な全体として理解し,それに内在的な価値を見出すこと.同時に自らの存在を社会的な関係の中で位置づけ,意味づけること.
瞬間的・断片的な刺激に対する反応ではなく,体系的な思考や価値観に媒介された判断と行動の力を養う.
子どもの生活経験が希薄化している.ある程度まとまりをもった状況に対する全体的理解をもって判断し行動することができない.こうした事態に対する解答として,バーバーが提案するような社会活動を通じた学びの可能性は,少なくとも検討には値する.
また,たがいに介入し合い批判し合うことを極端に避ける傾向がある.(ヌスバウムによれば,ことに社会的・文化的背景の異なる他者を批判することを躊躇する傾向はアメリカにも見られるようだ.)極度に消極的な「自由」を確保することによって,かろうじて自分を守っているといえるかもしれない.だが,自分の人生を具体的に意味づけるには,価値の実現を積極的に追求し,しかもそれが誰からも認められないのではなく,意味を共有できることが必要である.
が,社会に共通の価値の押しつけ,奉仕の強制の危険を避けて,これらの課題にどう取り組むかが問題.
万人に求められる,市民として,人間としての基礎的な力を養うことを,大学教育の段階で考えなければならない.その一方で,日本の大学は専門的職業人を要請する役割も担っている.そして,専門教育においてもやはり,文化的リテラシーと市民的コモン・センスの不足が意識されるようになってきたのではないか.応用倫理の一定の流行は,そうした認識がもとになって生み出されている面もある.が,マニュアル的なガイドラインの注入に終わらない,自立的な判断力を形成するしくみづくりに結びつけることが必要である.
社会の存立と発展のために,大学教育が果たすべき役割は大きいはずである.にもかかわらず,大学は危機的状況にある.アメリカにおける危機の要因は,一方で市場原理の導入による教育の企業化であり,これは日本と共通する.市場原理は確かに革新的作用をもち,閉じた集団の中にはびこりがちな,より広い視野での批判に耐えない不合理や独善を破壊する効果がある.しかし,市場原理の破壊的効果はそれにとどまらない.もっとも重大なのは,市場は,人間的活動の諸局面の成果を,一つ一つの個人の生がもつ具体的意味づけから切り離し,いわば抽象的なしかたでしか評価しないことである.その帰結が,生活の断片化,全体としての意味の崩壊である.昨今の「大学改革」の流れの中では,このことは,改革方策が,個々の局面への断片的な対応の積み重ねに終始し,社会の変化の大局的な流れの中に大学の将来像を位置づけることができないというかたちで現われている.同じことが,個々の教育・研究者においても,多忙化の中での長期的展望の喪失につながっているのではないか.
市場原理の破壊的作用に歯止めをかけるために,労働組合の役割が重要である.バーバーは,大学教員の組合への組織化を,大学の市場原理への従属の兆候として,否定的に見ている.しかし,組合は,市場から生ずる利益の分配において,労働者の利害を代表するだけでなく,市場の破壊的作用に対して人間性を守る道徳的・文化的役割をももつ(べきである)のではないか.
大学の企業化と並んで,アメリカにおいては,教育・研究の内容の社会からの乖離が議論の種となっている.そのさいやり玉に挙がるのが,「左派」の教授陣による,マイノリティの政治への学問の従属化,アカデミックな水準の崩壊である.
これには保守派による誇大宣伝の面もあって,実際にはもっと着実なかたちでの文化多元性への取り組みが行なわれていることを,ヌスバウムは報告している.が,一部には相当ひどい例があることも事実のようだ.そこでソーカル問題などが生じてくる.
ポストモダン派の相対主義やアイデンティティ・ポリティクスの脅威は,日本ではそれほどリアルではないが,知識人層における科学的リテラシーの衰退は確かに進行しており,科学に対する疎遠さと懐疑の感情は,中長期的には学術体制自身を危険にするかもしれない.「理科離れ」にどう立ち向かうかということも,自然科学や工学・医学等の学部だけでなく,日本の大学全体の問題である.