ヒュームの道徳哲学における規範的コミットメント

2001年12月22日
京都哲学史研究会で発表
伊勢俊彦(立命館大学)

背景ともくろみ

 ヒュームは、われわれの行なう道徳的な善と悪との区別が知的な能力の行使すなわち認識作用に由来するのではなく、善と悪との区別が行なわれる時に見出されるものは、特有の種類の快苦の感情が生起するという事実以外に何もないと主張した。してみると、ヒュームの道徳哲学は、われわれの道徳意識のあり方を事実の問題として解明する、道徳の自然史であると考えられよう。確かに、彼の道徳哲学のなかで最も注目すべきであり、現に注目されてもきたのは、その正義論、すなわち、われわれの生活する社会的世界を支える基本的な諸規範が利益の感覚に導かれた人為に由来するものであることを解明した議論である。
 一見、このような自然史的探究としての道徳哲学は、人びとの道徳意識を、現にある通りのしかたで示すのみであり、そのあり方をよしとするような、あるいは逆にそのあり方を批判し、よりよい方向に導こうとするような、規範的な含みをもたないはずでありそうに思われる。実際、ヒュームの哲学は、しばしば、規範的な含みをもたない、あるいはもち得ないものであると考えられ、それゆえに批判されてもきた。たとえば、「指に掻き傷をつけるよりも、全世界の破滅の方を望んだとしても、理性には反しない」という叙述は、ヒュームの哲学が、人びとの選好のあり方に対する批判の基準を提供し得ない証拠とされ、あるいはまた、Is/Oughtにかんするヒューム自身の議論は、道徳の自然史というもくろみが不可能であることを示す自己論駁的な帰結をもつといわれてきた。
 しかしながら、ヒューム自身は、特定の規範的立場への肩入れをことさらに差し控えるような態度をとってはいない。政治経済にかんする著作、とりわけ『政治論集』(1752)に収められた一連の体系的な試論において、ヒュームは、近代的な社会秩序を雄弁に擁護しており、その秩序は『人間本性論』(1739-40)でみずからその骨格を示したものに他ならない。そればかりでなく、より明らかに哲学的な著作である『道徳原理にかんする探究』(1751)においても、ヒュームは、正義の諸規則に規定された諸権利が被征服民族や女性にはしばしば与えられていない現状を批判し、正義の諸規則の適用範囲の拡大を、歴史的趨勢であるばかりでなく、よりよい方向への進歩として叙述している。ここには、ヒューム自身の規範的立場が明らかに表わされている。(『道徳原理にかんする探究』の理論的内容は、『人間本性論』第三巻(1740)と本質的に同一である。両者の相違は、『探究』において、道徳意識が非理性的で人為的であることを暴露することよりも、結果として生ずる徳の目録をより魅力的なものとして描き出すことの方に、大きな努力が払われていることだといってよい。)
 われわれは、ヒュームが行なっているこうした規範的コミットメントをどのように理解すべきだろうか。一つの可能な解釈は、規範的コミットメントは誤った想定にもとづくが、それは避けられない誤りであるという考え方をヒュームに帰することであろう。この解釈によれば、ヒュームは、規範の客観的妥当性が幻想であることを自覚しながらも、われわれは、規範があたかも客観的に妥当であるかのように思考し行為するように決定づけられていることを認め、自らもそのように思考し行為するのである。すると道徳的規範に対するヒュームの態度は、理論的には懐疑しながら、実践的には受容するという、『人間本性論』第一巻において示されたいわゆる「自然な信念」に対する態度と同様のものであることになる。
この解釈は、ヒュームという哲学者の思考の歩みにいかにも忠実に沿ったものらしく見える。しかし、この解釈をとるべきでないと私は考える。なぜなら、われわれが信じている事柄について、それを懐疑し、実際には偽ないし無根拠であるとすることが意味をなすのと同じしかたで、われわれが善であると感じている事柄について、それが実際には善でないということが意味をなすとは考えられないからである。信じることと真であることが独立であるようなしかたで、善であると感じることと善であることが独立であるわけではない。しばしばヒュームは道徳的判断にかんする非認知主義の先行者と目される。単純な非認知主義をとって、道徳的な判断が感情の表出にすぎないとするならば、あることを現に善だと感じているのにそれが本当は善でないということは、まったく意味をなさない。実際には、ヒュームの立場は、仮に一種の非認知主義と特徴づけることができるとしても、これほど単純なものではない。しかし、ヒュームにとっても、善や徳は、われわれの感情に彩られた社会的世界に内在的なものであり、われわれの道徳的意識に対して、それを全体として超越し、いわば外側から偽ないし無根拠とする観点は成立し得ないのである。
 このような理由により、以下では、道徳的価値が人間の思考と行為に先立って、それらと独立に実在することの否定と、ヒュームの規範的コミットメントを真正なものとして字義通りに受け取ることとを、両立させる解釈を試みる。そこから立ち現われるのは、諸個人が、すでに社会的世界の住人であり、その外に出ることができないという自らのあり方を自覚的に受け入れながら、社会的世界における諸個人の活動とたがいの依存関係のあり方を洞察することをつうじて、ひとりひとりの生をより豊かにする条件を探求するという道徳的反省のあり方であろう。
 そのために、当面の考察の対象となるのが、平等の問題である。ヒュームによれば、社会的秩序の骨格をなす「自然法」は、利益の感覚に導かれた人為にもとづく。してみると、われわれが、たがいの関係を自然法の命ずる正義の諸規則によって律するのは、それが有用な結果をもたらすかぎりにおいてのことであるはずである。実際、ヨーロッパ人が北米先住民を、また、多くの国々において男性が女性を、力によって圧迫し、財産その他にかんする権利を制限している事実はじめ、正義の諸規則の埒外におかれた不平等な関係が現実に存在することに、ヒュームはしばしば論及している。この場合、力をもつ者たちは、そのような不平等な関係の方に自らの利益を見出しているがゆえに、それを固定し温存しようとするのである。規範を基礎づけるのは有用性であるというヒュームの立場からは、こうした現存の不平等を批判できないはずではないのか。
 道徳的意識の成立は、諸個人の行為を考察する一般的観点の成立を必要とする。このことは、諸個人を行為の主体としては等しいものとしてみることを含んでいよう。だが、ひとりひとりの人間の身体や精神のあり方は、現実には異なっている。人間本性の現実的なあり方から出発して道徳論を構想しようとする時、こうした異なった諸個人のあいだの等しさは、何に存するといいうるのであろうか。
 この問題に対するヒュームの解答は、諸個人が人間として生存するための条件は、それ自体が社会的なものであるという洞察にもとづいている。人間は喜びを求め、苦しみを避けようとする動物であるという限りにおいて、ヒュームの人間観はのちの功利主義者たちと軌を一にするものである。だが、ヒュームによれば、人間は単に快苦の感覚を受動的に受け取る存在ではなく、人間として最大の喜びは、ある目的に向かって精神と身体を活発に活動させることに存するのである。そして、何ものかがそのような活動の目的になりうるためには、それが社会的に認められた有用性をもつ必要がある。そのうえ、目的の達成は、それが長期的なものであればあるほど、他から干渉を受けない自由と、さらには他者の協力を多くの場合に必要とする。社会のなかで生きる人間の物質的な生活条件は、このような諸個人の活動の協調と、その成果の交換と流通によって成立する。ここにおいて、各人の利益は、自由な活動と他の個人との協力を可能にする社会秩序の維持に一致する。そればかりでなく、各人は、他の諸個人が、社会的に有用な目的を目指して等しく自由に活動することを必要とするのである。

 別に用意した原稿では、人間の精神や身体の活動の条件と社会的な平等との関係を、ヒュームのテクストに即して具体的に検討する。

 今後発展させていくテーマとして考えられるのは、つぎのようなものである。
 第一に、ヒュームの徳倫理とセン、ヌスバウムらの「潜在能力アプローチ」の関係の問題がある。ヒュームは、徳の一般的特徴として、有用性と快さを生み出すことをあげているが、それらは、いわゆる「自然な」性質ではなく、社会的世界の中でたがいに依存しあいながら活動する諸個人が、相互に承認しあう場面においてはじめて見出される。するとヒュームにおける徳とは、センやヌスバウムがいう、人間としての機能ないし活動(functionings)の基礎となる潜在能力(capabilities)のようなものではないのか。(Capabilitiesは単に個人に内在する性質ではなく、個人の内在的資質を実現するためのの社会的条件を含んでいる。この点、「潜在能力」という訳語はミスリーディングである。)
 第二に、上記の潜在能力アプローチともかかわって、ヒュームと目的論の問題がある。ヒュームが宇宙全体の秩序についての目的論的理解を退けていることは、『自然宗教に関する対話』の議論から明らかである。してみると、人間の宇宙における位置についての洞察から、人間存在の目的を導き出すことは、ヒュームに即しては不可能であろう。しかし、徳を精神と身体の目的志向的な活動の条件と見る私のヒューム解釈は、人間存在に関するある目的論を含意していないであろうか。また、この解釈によれば、ヒュームにおける徳は、センやヌスバウムが掲げる「潜在能力」に近いものとして理解される。そして、潜在能力の保証に対する規範的要求は、とりわけヌスバウムにおいて、「各人を目的として扱え」というカント的原則と結びつく。
 こうした問題に対しては、目的という概念そのものが、社会状態を前提とし、社会的世界に内在的であるとすることで答えることができよう。各人の目的の達成は、各人が強制や干渉から自由であることを前提に、諸個人が自発的に協力しあうことを必要とする。そればかりでなく、目的が持つ価値は、社会の成員の相互承認という場から発生するという、より深い意味において、目的という概念は社会状態に依存するのである。この見地から、「各人を目的として扱え」という原則は、各人が、社会に先立って自体的に目的として存在するのではなく、社会状態を構成する合意ないし一致の中で、各人が目的として構成されるというしかたで理解できる。ヒュームの哲学の中にある種の目的論を見出すことができるとすれば、それはいわばこうした「内在的」目的論であって、社会的な生活経験の世界に先立ち、それを超越した目的を設定する形而上学的目的論ではない。「目的の王国」は経験的世界の彼方にうち立てられるのではなく、われわれ生身の人間が住まうこの世界にのみ、 建設しうる。(空想から科学へ!)
 目的概念のこのような理解はまた、目的合理性を個人が社会に先立ってもつ「自然な」性質として仮定し、目的合理的な諸個人の取引の過程から道徳的規範を引き出そうとする種類の自然主義をヒュームに帰する解釈を退け、ヒュームと功利主義の関係の再考をも促すであろう。
 最後の、しかし最小のではない問題は、ヒュームの知識論・形而上学の一般的枠組みの理解に対する含意である。われわれがヒュームにおける規範的コミットメントの問題を手がかりとして到達するのは、目的をもち、未来を指向する社会的世界の住人としての人間の像である。これは、過去の経験によって形作られ、思考と行為のあり方を決定づけられた存在という、ヒュームの因果性や自由と必然にかんする議論から確かに自然に喚起される人間像と、一見鋭い対照をなす。だが、人間が未来に向かって開かれた存在であることと、ヒュームが主張しようとした因果的決定とは、必ずしも矛盾する事柄ではない。であるばかりか、ヒュームが知識論のいくつかの主題に与えた、過去の経験によって形作られた習慣にもとづく解明は、人間の意識の未来に向かって開かれた性格への顧慮によって補われる必要があると考えられる。
 たとえば、ヒュームは一般抽象観念が個別的観念と別の実在であることを否定し、一般的な表象作用を、過去の経験によって作られた精神の習慣によって、語が個別的観念を必要に応じて喚起するというしかたで説明した。しかし、新たな経験に一般的概念を適用するための十全な基準を、過去の経験との照合のみから得ることはできない。新しい事例を一般的な概念や規則に包摂することの適否は、過去の事例の列挙のみによっては決定できないのである。(それが、グッドマンが「新しい帰納の謎」によって論じたことであり、クリプキのいう「ヴィトゲンシュタインのパラドックス」が示していることであろう。)このことが、抽象観念についての議論において見てとれるとすれば、同じことが因果推論にかんする議論にも当てはまることは、見やすいはずである。
 ところが、こうして知識論において謎として残される事柄を、われわれは、実践においてはやすやすと乗り越えている。ここに現われているのは、人間の精神が、過去の経験による決定を免れない存在でありながら、そのように決定づけられ、習慣づけられたあり方を自ら反省的に意識する際には、好むと好まざるにとかかわらずそのようなあり方を否応なしに超え出ているという自己意識の特質である。そして自己意識のもつこのような一見神秘的な特質は、いまだ個物として現実化していないものを目的として設定し、それを目指す生産的実践によって未来を支配しようとする、精神と身体の活動に根ざしているのであり、そのような活動は、たがいに予定や計画をたてて行動を調整し、各々が引き受けた、あるいは自らに課した作業を遂行するというかたちをとって、われわれの日常生活をみたしているのである。
 ヒュームの哲学は、まず、こうした過去による決定からの超出を可能にするものが、どこかにあらかじめ在って、理性によって把握されるのを待っているような何らかの実在ではないことを明らかにするものである。しかし、それによって過去による決定の超出が不可能になるのではない。それがヒュームの哲学の帰結でなければならないと思われるとすれば、それは、われわれが理性主義や実在主義の前提にいかに抜きがたく呪縛されているかを示すに過ぎない。過去を超出する手がかりは、あらかじめ在るのではなく、われわれが作るのである。ヒュームの道徳論および政治経済論が示す、社会的世界における人間の未来指向性を正しく理解することは、ヒュームの知識論において残されている多くの謎の解明にとって重要な鍵となる。そう私は見込んでいる。