1998/11/22日本科学哲学会第31回大会(於鹿児島大学)での発表
しかしここでは、それとはまったく別の問いを考察の対象にしたいと思います。私が問題にしたいのは、つぎのようなことです。たとえば、「今日の夕方6時にホテルのロビーで待っているよ。約束だよ。」という二つの文の連続した発話が、適当な文脈において、ある時、ある場所で聞き手を待っているという約束になる。こういう事実は認められるでしょう。約束、言明、命令、依頼などの行為は、多くの場合に言語表現の発話というかたちをとってなされます。そこでこれらの行為を、ジョン・オースティン、ジョン・サールらにならって、発語内行為(illocutionary acts)と呼ぶことにします。問題は、一定の言語表現の使用と、発語内行為の成立を結びつけるのは、その表現の使用を支配する規則なのだろうか、ということです。
この問いにイエスと答えるのが、たとえばいまも名前のあがったサールです。言語表現の発話と発語内行為の遂行を結びつける規則は、「構成的規則」(constitutive rules)と呼ばれるものの一種である。このようにサールは言います。「文脈CにおいてXはYとして認められる。」このようなかたちを、構成的規則は、一般的にとるとされます。すると、サールの考えが正しければ、「今日の夕方6時にホテルのロビーで待っているよ。約束だよ。」という二つの文の連続した発話が、聞き手を待っているという約束となるのは、ある規則があるからであり、その規則はつぎのようなかたちをとるということになります。ある条件を満たす文脈Cにおいて、Xにあたる言語表現「今日の夕方6時にホテルのロビーで待っているよ。約束だよ。」これの発話が、Yに当たる発語内行為、聞き手を待っているという約束として認められる。
では、このような規則の存在を想定する根拠は、何なのでしょう。このようなストーリーに説得力をもたせるために有効だと思われるのは、まず、宗教的な儀礼や法的手続きの例を引き合いに出すことです。たとえば、公判の場において、裁判長が「被告人は無罪。」という文を発話すれば、それによって、被告人に対する無罪判決の言い渡しが成立します。この場合に、裁判長がいかなる形式の発話によって判決を言い渡すことができるかということが、法廷における手続きを定めた規則によっていることは明らかでしょう。宗教的な儀礼に関しても、儀礼の場における一連の身ぶりや発話が、いかなる行為の遂行となるのか、同じように規則に訴えて説明するのが自然でしょう。これらと類比的に、約束するという行為の遂行は、一定の文脈において、ある規則に従って言語表現を発話することによって可能となる、と言われると、確かにそうかな、という気もしてきます。実際、こうしたアナロジーは、古くから用いられております。この発表ではあとでデイヴィッド・ヒュームの議論に言及しますが、ヒュームも、約束を、ある一面では、全質変化(transubstantiation)や、聖職者の叙階といった宗教儀礼に類比的であると語っています。
しかしながら、この発表で私がやろうと思うのは、こういう、一見もっともらしいストーリーに疑義をさしはさむことです。その疑義は、大きく言って二つですが、いずれも、発話と文脈との関係にかかわっています。第一の疑問は、ある言語表現を指定したさいに、それが一定の発語内行為となるための文脈を特定できるかということです。宗教的儀礼や法的手続きにおいては、いかなる文脈においていかなる発話が意図された効力をもつのかが、規則によって定められています。これに対して、たとえば約束の場合、一定の発話が約束としての効力をもつための文脈がみたすべき条件を、その発話状況が生ずる以前に、規則によって指定しておくことができるのでしょうか。第二の疑問は、ある文脈を固定して考えたときに、そこで一定の発語内行為を遂行するための言語表現を特定できるかということです。儀礼や法的手続きにおける発話は、定型に固く従わなければなりません。これに対して、通常の発語内行為は、複数の手段によって等しく適切になされると考えられます。ある文脈を固定したときに、そこで一定の発語内行為が成立するための表現手段の多様性に、限界はあるのでしょうか。以下、この二つの疑問について、順次、やや詳しく述べてまいります。
ふたたび、裁判の例によって考えてみます。裁判長が被告人に判決を言い渡すさいには、当然のこととして、判決の言い渡しが行われるべき状況が整っていなければなりません。公判が進行中であること、誰が裁判長なのか、誰が被告人なのかがわかっていること。こういったことを、その状況がみたすべき条件としてあげることができるでしょう。ここで重要な点は、判決の言い渡しにさいしては、これらの条件が成立していることが、判決の言い渡しとなる発話に先立って、前もって決定されているということです。そして、それを決定するのは、公判という一連の手続きを定め、それに関連する裁判長、被告等の概念の内容を与えている規則の体系です。つまり、ある言語表現の発話が判決の言い渡しとなるために適切な文脈が成立しているかどうかということ自身が、規則に依存して決定されるのです。サールによる構成的規則の図式でいえば、XがYとして認められる文脈Cの成立自身が、規則の体系によって決定されているわけです。こうした特徴は、法的な手続きに加えて、宗教的儀礼、さらに、野球やチェスのようなゲームについても認めることができると思います。
この特徴が発語内行為一般に関しても認められるなら、第一の疑問、つまり、ある言語表現を指定したさいに、それが一定の発語内行為となるための文脈を特定できるかという問題に対しては、イエスと答えることができるでしょう。しかし、通常の会話の状況においては、いわばつぎの一手として何が可能であるかということと、それまでに準備された文脈との関係は、それほど固定しているわけではないと思われます。たとえば、判決の言い渡しの場合であれば、判決が言い渡されようとするに先立って、つぎに起こるべきことが判決の言い渡し以外にあり得ないことが、規則の体系にしたがってすすめられてきた一連の手続きが準備した文脈によって確定しています。儀礼やゲームの場合にも、それらが規則の体系にしたがって進行していることによって、つぎにさされるべき一手の可能性は、一つ、ないし何らかの限られた数しかないようにされていると言えるでしょう。これに対して、通常の会話の状況では、それまでにすすめられてきた会話の流れが、つぎに遂行されるべき発語内行為の可能性を限定するはたらきは、ずっと弱いものなのではないでしょうか。たとえば、会話の流れによって、つぎの一手として、その晩に合う約束をするのが自然と思われる文脈を考えます。このような場面においても、「ところで」と唐突に話柄を転換して、接近しつつある台風について話し始めることは不可能ではありません。もちろんこうした発話は、会話の文脈自身を大きく転換させるでしょう。すると、このような「手」は、ゲームの場合でいえば、ゲームの進行自身を不可能にするような反則の「手」であると考えられるかもしれません。しかし、ゲームの場合には、そのような反則によってゲームがとぎれてしまうでしょうが、会話の場合には、たとえ唐突な状況の転換があったとしても、それによって話し手と聞き手の関係が完全にとぎれてしまうわけではなく、それまでに進行してきた会話が無効と化してしまうわけでもない、という違いがあります。つまり、ゲームの場合には、その中で指される手は、ゲームの開始と終了で区切られた文脈を背景にして、はじめて意義をもちます。同様のことは、法的手続きや儀礼の場合についても言えるでしょう。これに対して、会話の状況は、その中にいくつもの文脈の転換を伴いうると同時に、会話の開始以前、終了以後の生活の文脈と連続しており、ゲームの場合のような明確な区切りをもたないのではないでしょうか。
このように、通常の会話の文脈は、いわば開放的なものですが、そのことは、また、ある時点での特定の言語表現の発話によって遂行されうる発語内行為の種類が一つに定まらないという帰結をもちます。さきに想定した状況で、話し手が「今日の夕方6時にホテルのロビーで待っているよ。約束だよ。」という言語表現を用いたとしても、それは、数日前に別の相手に対して述べたのと同じことが、不意に口をついて出たのであって、現に目の前にいる聞き手に対する約束として発話されたのではないかもしれません。この場合も、この発話が約束としてでなくなされたということが、会話の文脈を転換させてしまいます。ところが、この文脈の転換は、それが起こった瞬間には、聞き手からは隠されています。このように、発話の積み重ねによって、つねに文脈が転換し、どのような文脈で会話が行われているのかが、話し手と聞き手の双方に完全にあらわになることはないということ。いわば、いかなるゲームがプレイされているか、あとにならなければわからないこと。このことが、本来のゲームとは異なった、発語内行為一般の特徴なのではないでしょうか。このような理由で、ある言語表現の発話が、一定の発語内行為となることを前もって保証するような規則は、一般的には存在しないと、私は考えます。
以上が、先に述べた二つの疑問のうち第一のものについての私の回答です。つぎに、第二の疑問、つまり、ある文脈を固定して考えたときに、そこで一定の発語内行為を遂行するための言語表現を特定できるかという問題について考えてみましょう。発語内行為を遂行するための言語表現として、かつて、オースティン、サールらの論者は、「遂行的発話形式(performative formulae)」の役割にとくに注目していました。遂行的発話形式というのは、ご存じと思いますが、英語の場合であれば、'I promise that ...'というように、発語内行為を示す動詞を含む一人称直接法現在の文です。たとえば、オースティンなどは、遂行的発話形式によって明示的に遂行されうるということが、発語内行為において本質的であると彼が認める特徴、つまり、それがconventionalであるということを示すと述べています。このconventionalityということについては、あとで述べたいと思います。遂行的発話形式の役割そのものについては、サールは後に見解を後退させてつぎのように考えるようになりました。遂行的発話形式によって第一次的になされるのは、宣言型の発語内行為であり、遂行動詞が名指す発語内行為は、それに伴って間接的になされる。しかし、サールは、ある言語表現を、標準的な条件のもとで、字義通りに発話することが、一定の発語内行為の遂行となるというしかたで、言語表現の意味と発語内行為の力のあいだに固定した関係があるという考えを保持し続けており、これを、表現可能性の原理と呼んでいます。つまり、遂行的発話形式がそれではないにしろ、ある発語内行為に対しては、必ず、その発語内行為を行うための言語表現が存在し、しかも、その言語表現がその発語内行為を行うためのものであることは、言語表現の意味のうちに示されている、というわけです。
このように、言語表現の意味によって発語内行為の力が十分に決定されるという考え方に対して、それを批判する議論もいくつかあります。そうした議論の基本ラインは、つぎのようにまとめられると思います。発語内行為の力の決定にとって、言語表現の意味は十分な条件ではなく、言語表現の意味に加えて、発話の文脈を理解し推論を行う一般的な認知的スキルが必要である。ここでは、そうした議論のうち、言語行為をめぐる議論の比較的初期に現れた、ポール・アーダルの1968年の議論を参照してみたいと思います。アーダルは、おもにヒュームの注釈者として知られるアイスランド出身の研究者ですが、1968年の論文では、約束について、言語哲学的観点から論じています。彼の議論はつぎのとおりです。約束においてなされるのは、発話者の意図の言明と、発話者の未来の行為にかんする断定である。それゆえ、通常の未来形の一人称の文も、約束を行うための言語表現として、いわゆる遂行的発話形式と同様に適格であり、遂行的発話形式は約束にとって必要ではない。意図の言明を約束とするものは、「約束」という発語内の力を明示する表現ではなく、いかなる状況の下で意図の言明が約束となるかにかんする、文脈を理解し推論を行う能力である。この議論が正しければ、サールが想定するような、発語内の力を意味によって示す表現の役割は、もしあるとしても非常に限定されたものとなるといえるでしょう。
以上で、さきに提示した二つの疑問に対し、ともに否定をもって答える根拠が、大まかながら示せたと思います。さてそれでは、言語表現の意味と発語内行為の力を結びつける規則に代わって、発語内行為の力の成立を説明するどのようなしくみを想定すべきなのか、最後にその問題について述べたいと思います。たったいま言及したアーダルの議論は、直接ヒューム解釈とかかわるものではありませんが、約束にかんするヒュームの議論と重なり合う点をもっています。ヒュームが問題にしているのは、約束において表出されるのは、単なる意図ないし決意以外にあり得ないにかかわらず、何ゆえに約束の拘束力が生ずるのか、ということです。アーダルも、言語表現の使用によって直接なされているのは意図の言明であるとし、意図の言明が約束となる原因を、発話の状況ないし文脈に求めています。アーダルから引用します。
「約束の実践を支配するconventionsが'I promise ...'の使用を支配するconventionsと同一視できるということを、私は否定する。しかし、約束という概念が理解可能なのは、何らかの人間のconventionsに照らしてのみであるという見方に、異をとなえようとは思わない。ある状況下で約束として認められる言明は存在する。そして、われわれは道徳教育の一部として、これらの言明をそれと知り、そうした言明を行うことの帰結を受け入れることを学ぶのである。」(p. 237)
ここではconventionsという語がくり返し使われていますが、この言葉は二義的であると思われます。'I promise'の使用を支配するconventionsと言う場合、conventionsは言語表現の使用の規則を指すと理解できます。これに対して、約束という概念がそれに照らしてはじめて理解可能となるようなconventionsと言うとき、アーダルはヒューム的な意味でのconventionsを想定していると思われます。ヒュームも、意図の表出と約束の拘束力のギャップを埋めるものを、conventionsと呼びます。ただし、このconventionsというものを、たとえば規約というような、規則ないしそれに準ずるものと理解することはできないと私は考えます。むしろこのconventionsを、約束を可能にする、話し手と聞き手の共同性を確立するための、合意形成の行為と理解すべきであるというのが私の考えです。以下、この意味でのconventionsを「合意」と呼ぶことにします。
ヒュームは、『人間本性論』において、約束の拘束力を成立させる合意について、つぎのように述べます。
「全員が、協調によって、共通の利益のために計算されたある行動の仕組みに加わり、自分の言葉を忠実に守ることに同意する。この協調ないし合意を形成するのに必要なのはただ、各人が、契約事項を誠実に実行することに利益を感じ、その感じを社会の他の成員に向かって表出することだけである。」(T522f.)
ここで、「協調ないし合意(concert or convention)」と言われることからも、ヒュームにおけるconventionsが、規則のたぐいのものでないことがわかります。ヒューム自身は、こうした合意を言い表すのに、「共通の利益の感じとり」というような表現を、くり返して用いています。この「共通の利益」は、ヒュームにおいて、約束とならんで、財の保有の安定や同意による移転といった、「人為的な徳」とよばれるものを説明します。なぜ、約束を守ることが「人為的な徳」と言われるかといえば、約束の対象になる個々の行動が意図や欲求の対象となり得るのは、約束を守るということが、約束をした人が相手に対して一方的に行うことではなく、社会の成員のあいだで、相互的なしかたで行われるという枠組みの成立を前提とするからです。こうした相互的な枠組みの成立を説明するのが、共通の利益の感じとりです。この利益の感じがたがいに表出され、理解されるとき、約束を支える合意が成立すると言えるでしょう。ただし、この合意は、一度成立すればそれで終わりというわけではなく、約束が行われるたびに、当事者どうしによって再確認されなければならないもののはずです。ヒュームが、『人間本性論』で約束の責務を論じた節の末尾近くで、言語表現の使用と約束の拘束力の関係に伴う「矛盾」について述べるとき、念頭に置いているのは、このように、約束がそのたびごとに当事者どうしの、新たな、前もって保証されてはいない相互了解を伴わなければならないという事実であると思われます。さて、こうして、合意が絶えず再確認、再確立されなければならないということと、さきに述べたように、約束のための文脈が開放的であるということとのあいだには関連があるでしょう。また、先ほど、約束においてなされるのは意図の言明に他ならないというアーダルの見解を紹介しましたが、この意図の言明は、約束を可能にする文脈を、合意の再確立というかたちで、その都度新たに準備しながら行われると考えられます。このような合意が可能であるのは、「共通の利益の感じとり」を、他者に向けて表出し、また他者による表出を理解しようとする、人間に備わった社会的能力を基礎としており、このような能力がまた、言語的コミュニケーション一般の基礎ともなっていると言えるでしょう。ヒュームはつぎのように述べています。「社会を知らない人間どうしは、たとえたがいの考えを直観によって見て取ることができたとしても、たがいに何らの契約を交わすこともできない。」(T516)つまり、合意に必要な心的能力の形成は、人間の自然な状態として、社会からまったく孤立した状態を想定した場合には、不可解なものだということです。ヒュームは、自然な欲求を原理として形成される家族を、社会の原型とみなし、社会状態こそ、人間の自然な状態であると考えています。こうした自然な共同性にもとづいて、人為的な徳を可能にする合意が形成され、道徳や法の諸規則が、その上に成立することになります。言語の場合にも、その基礎にあるのは、こうした共同性であり、こうした共同性それ自身は規則に書き込まれることのできないものだと言えるのではないでしょうか。規則に支配された宗教的儀礼や法的手続きは、そうした基礎の上で、二次的に成立するものであり、そこに見いだされる規則に支配された性格を、言語全体について成り立つものとは考えることができないということを述べて、この話の結びといたします。