1室


今年12月03日には70歳となる≪知性≫と≪力≫、そして≪奇蹟≫。 投稿者:DG  投稿日:06月23日(金)13時56分57秒

> もどき さま
 
こんにちは。
いやいや、こういうことがあるから、東京にいることのアクチュアリティがあるんですよね。
 
『映画史』、京都では8月19/20日に観られるということで、
今から心待ちにしています。
初めは東京まで観に行こうかと本気で考えていました(笑)。
 
昨年末、『新ドイツ零年』を観ました。
これはまさに「観るに値する」ものです。
 
ベルリンの壁崩壊後、これほど素早く対応して見せた作家はほかにいないでしょう。
しかもあれほどの圧倒的な密度を持って!!
 
特に日本では、「事件」=「出来事」に対して非常に反応が鈍い。
それはほとんど想像力の欠如と裏腹です。
 
「変化とは、ほんのわずかな入力が思いもかけぬ重大な結果をもたらすという、
驚きの体験であります。(中略)その驚きを前にして、
≪知性≫は一瞬揺らぐことになるかもしれません。だが、
その動揺を不可避の条件として受け止めることで、
≪知性≫はそれにふさわしい創造的な力を組織することになるのです。
(中略)あなたがたには、あなたがた自身の≪知性≫の動揺を、
恐れることなく招き寄せていただきたい。
揺らぐことを放棄した≪知性≫はもはや力を持ちえず、
現状維持の自堕落さに陥るしかなく、ある種の快適さからふとそれに安住するとき、
人は知らぬ間に若さと別れを告げるのです。」(蓮實重彦「卒業式における総長告辞」03/28/2000)
 
そう言えば、以前の書き込みの題名、
「息絶え絶えに(Breathless)」−「パート2」−「わたしたちはまだここにいる」は、
いずれもゴダールが関係した映画タイトルでした。
 
ひょっとすると、この20世紀というのは、
「ゴダールの世紀」だった、というようなことが、
そう遠くない将来、誰かの口からふと洩らされるのを聞くことになるかもしれません。
 
私は無論「ゴダール主義者」でも何でもないのですが、
しかし、そこには圧倒的な≪力≫が漲っている!!
 
こんな人が、まだ、この世界にいるということには、
まったく驚いてしまいます。
 
フォーサイス風にいえば、
workwithinwork」−−「わたしはわたしのやることをやる」、
といったところでしょうか。
 
ヴィトゲンシュタインは、
「この世界には神秘などない。
この世界がこのようにあるということこそが神秘だ。」、
というようなことを言いましたが、
ゴダールという固有名と奇蹟という一語との関係も、
そうしたヴィトゲンシュタイン=スピノザ的な「世界」の捉え方において出てくるもの
かもしれませんね。

http://www.bowjapan.com/


事故(復旧)情報 投稿者:モダニスト  投稿日:06月22日(木)17時29分08秒

昨日、tcupのサーバーでトラブルがあり、
午後から今日の未明にかけて当室へのアクセスが
かないませんでした。ご不審に思われた方には
お詫びします。

映画史(ただし第二部のみ) 投稿者:もどき  投稿日:06月22日(木)17時28分56秒

>モダニストさま、そしてDGさま
 
ここに書き込むのはひさしぶりになのですが、あまりそのようには思えない(笑)。
 
実は昨日、お先にゴダ−ルの「映画史」を見にいきました。浅田彰は「奇蹟だ」といって
いましたが、ほとんどのゴダ−ルの映画を睡眠学習したぼくとしてはほんと、「奇跡」的に
眠らずにみれました(字幕があまりに多く、それをよんでいるうちに終わってしまったと
いうのが実情かもしれませんが)。ま、しかしとにかくぼくにはおもしろく見れました。
娯楽的といっても過言ではありません。そういう意味では不思議な映画です。
静止画と単調なモノローグ、そしてモンタージュ。ですが、それらが渾然としながらも、
「電波少年」あるいは「アサヤン」的なテロップによって何度も「映画とは?」ととわれつづける。
ゴダ−ルは自ら司祭のような格好で、モノローグを行ない、映画の誕生を語る。でもそれは
滑稽さに充ちています。自分自身を笑い飛ばすユーモア。
繰り返される絵画と映画のモンタージュは不思議な近親性とともに、なぜだか感動的。
この映画はある意味「映画」ではないのかもしれません。フリード的な意味では映画ではない。
じゃなければ最も真っ当な意味での「没入」をさそう「逃避」的な「映画」そのものかもしれません。
世の知識人たちがこぞってみにいく作品であるし、これからほんと多くの人が言及するだろうけど、
MI-2」をこそ心待ちにするぼくでさえも、おもしろいと思わせたものはなんであったのでしょうか。
 
関西方面に巡回するまでゆっくり考えさせていただきます(笑)。

予告編? 投稿者:モダニスト  投稿日:06月22日(木)17時21分58秒

いつも刺激的な書き込みをありがとうございます(「第1室」の件は、
話の腰を折ったかもしれませんが、正しい判断だったと思っています)。
 
さて、明日までの仕事が3件(うち1件は自身の研究発表。なのに準備を
する暇もない!)もあって、きょうは十分なレスポンスがかないませんが、
直近のに含まれる問いには、以下のように2点、簡単に記しておくとします。
 
 
(1) 形態論は、正しくは造形論とするべきかもしれません。われわれは、
色や形の配列を目的化するようなものや、またそのようなものとしての美術
の忌避とかの、造形的であったり反造形的であったり営為とは、もはや
無縁でありたいとは思いますが、しかしなお問題は「形式」にある
というほかありません。これはわれわれ(誰?)には自明といいたい
ところですが、まあ今後、断章あるいはリライト版で、敷衍されるでしょう。
 
(2) 椹木くんは、元はBTの編集者として1980年代後半から90年代中葉
にかけてシミュレーショニズム・キャンペーンを推進した、実践のひと
ですが、『日本・現代・美術』はやはり状況論です。ただ、ある実践成果を
あげたのちに自身の出自にまつわる状況論的分析をなしたい欲望に駆られる
のはじゅうぶん理解できますし、また現にすぐれた分析になっている。
美術批評家たちの文体を毎回流用しつつ(つまり他者の文体によりつつ)
それをなす方法の徹底にも当然、状況論を超えた実践の契機が含まれます。
ただ、そのとき、ぼくが『武蔵野美術』誌の季評(第106号、1997秋)
に記し、断章でも反復しているように、藤枝晃雄氏がその視野から除外
されているのは、そうして言外にその特異点にリファーする捩れた意図
があるのではないのならば、重大な欠落だと(いまでも)考えます。
 
 
そう、いまその第106号を手にとってみると、まさしく藤枝氏が「造形/
反造形を超えて」という、(1)に関連する論考を寄せておられますね。
 
それとDGさんが引かれたグリーンバーグ「抽象表現主義以後」(ですね?)
の一節は、彼の書いた文章のなかでももっとも美しい箇所の一つである(!)
と断言しておきたい。1962年、「モダニズムの絵画」の書かれた翌年
の発表で、つまり、NYにおけるポップアートの激発をすでに見ている。
断章の最近分で書いた「切断」の顕れの只中にいる。(この点は付記まで。)

とどまり続ける力。 投稿者:DG  投稿日:06月22日(木)15時11分52秒

今、『モダニズムの条件』を読ませていただきました。
 
中に、椹木野衣さんの『日本・現代・美術』への言及がありましたが、
それはたんに状況の「解釈」でしかないということでしょうか。
そして、「モダニズムの条件」から言えば、
重要なのは、そういう「解釈」なのではなく、
「関係(世界)を変えること」(マルクス)であり、
そういう意味で言えば、
現在においては、むしろ、「形態論」は積極的にカッコ入れされねばならない、
ということでしょうか。
 
「剥製のクジラを平らな表面に銛(もり)で打ち込もうと、水洗便器をダイヤモンドで満たそうと、彼らの誰一人として、「オール・オーヴァーな」キュビスム的なこぎれいさを有しており、ほとんどそれは「抽象表現主義以後」という見出しのもとで議論されるに値しない。同じことだが、死んだ雉(きじ)の代わりに羽をむしられたニワトリを、花瓶の花の代わりにコーヒー缶とパイを描写するのに没頭している画家たちにも当てはまる。抽象表現主義の膨張の後にあって、彼らの絵画の平明で率直なアカデミックな手法を、目新しい好奇心をそそるものだとさえ思わないわけではない。だが、この効果は単に一時的なものである。というのも新奇さは、オリジナリティーとは違って、とどまり続ける力を持ってはいないからだ。」(C.グリーンバーグ)。
 
 
 

http://www.suisen.sakura.ne.jp/~bau/goto/differencia/index.html


1980. 投稿者:DG  投稿日:06月22日(木)13時56分21秒

ちょっと前に戻って、
G.G.コレクションについてですが、
この間たまたま入ったヴァージンにて、
G.G.コレクションのヴィデオを¥1980で
売っていたのでした。
売れ残っていた(?)3巻を買ってきたのでした。
 
私もG.G.の演奏を映像で観たのは、
『オフ・ザ・レコード/オン・ザ・レコード』
においてが初めてでした。
 
ちなみにお気に入りは、
『モーツァルト・ピアノ・ソナタ集』です。

観光ガイドと「もののあわれ」、あるいは「美しい日本の私」。 投稿者:DG  投稿日:06月22日(木)13時49分15秒

いやいや、昨日は大変なことになっていましたね。
 
さてさて、モダニストさんと浅田彰さんとの間に論争があったのですか?
そのことを私ははじめて知りました。
 
いろいろあるものですね。
 
それにしても、ますます「作る(言う/書く)こと」は、
困難になってきていると思います。
 
文章を書いてみれば、それはほとんど「バス・ガイド」を
リテラルに模倣するかのような平易さに収まってしまうし、
「引っかかるところ」がどこにもない。
自然にすらりと読めちゃう。
 
5月の連休あいだ、勧業館での「古書市」へ
でかけまして、何冊か買ってきました。
その中に、『ドストエフスキー』(小林秀雄 講談社)がありますが、
それは昭和41年6月10日第1刷発行となっていて、本書は、
昭和45年4月4日第7刷のものです。
 
昭和41年というのは1966年であり、昭和45年というのは1970年です。
西暦で言えば、それはそう遠い昔のことではないように思える。
(ちなみに私は1967年=昭和42年生まれです)
 
しかし、本書の漢字体は旧字体であり、仮名も、「え」が「へ」であったり、
「い」が「ひ」であったり、「い」が「ゐ」であったり、
「う」が「ふ」があったり、「じ」が「ぢ」であったり・・・、と、
ある種の肉体性があり、あるいは、こう言ってよければある種の「造型性」があり、
フォルムによる読みにくさというものがある。
つまり、本書は遠い昔の書物に思えてくるところがある。
 
これに比べれば、現在の日本語書き言葉は、いかにも平坦なものです。
 
そして、このような「文字」(形象)レヴェルでの平坦さが、
思考そのものを平坦なものにしてしまうようなところがあると思う。
(思考とは、言語によるほかないものです)
 
と言っても、別に、ごつごつとして難解に装われた文章が思考を刺激するに足るものである、
というようなことを私は言いたいのでは無論ない。
むしろ、私はその逆のことを言いたい。
しかし、そのこととは別に、
文字表記レヴェルでの平坦な処理へ向かうことが、ある種のフォーマリスティックな
感性というものを確実に衰えさせているというのは事実だと思う。
 
しかし、誤解を避けるために繰り返し書き添えますが、
それは文字=形象のフェティッシュを言っているのではありませんし、
日本古来からの連綿たる伝統の中で日本的な感性によって書かねばならない、
と言いたいのでも無論ありません。
つまり、本居宣長的に「国学」のようなことを言いたいのではないし、
同じことですが、「漢心」に対する「もののあわれ」というようなこと
を言いたいわけでもない。
 
おそらく、「バス・ガイド(観光ガイド)的なもの」というのは、
「もののあわれ」です。
つまり「じねん」です。
 
私が読むに堪えないもののひとつは、そのようなガイド的なものです。
また、「ガイド的なもの」くらい、
「芸術の前」にあっては惨めで無力で間の抜けた表象も、ほかにないのではないか?

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Re: お久しぶりです。 投稿者:上田高弘  投稿日:06月20日(火)18時08分08秒

「一般読者」のことも気遣って自己紹介なども
してくれたのですね(笑)。こっちは、「サカハラです、
例の件で…」で、じゅうぶんわかるところです。
 
 
さて、芝居への道は着々と歩まれているようす。で、人妻役
ですか、…想像できない(笑)。前が小林少年ですから。
 
その公演日程ですが、9月の上旬、ある仕事の山場が控えているのと
名古屋の大学への集中講義があるのとで、個人的に
いまは約束できませんが、なるべく都合をつけたい
と思います(8月末にでもメールで再度お知らせください)。
 
 
ちなみに、内容的には(卒業生ではあっても)ゼミの後輩にも
伝えたいと思うので、こちらのページを見るよう告知しておきます。
(先日、ゼミで貴女の論文をとりあげたところです。)

お久しぶりです。 投稿者:坂原薫  投稿日:06月20日(火)00時20分31秒

こんにちは。上田先生、お久しぶりです。
1999年度卒業生、坂原薫です。
卒論のタイトルは
「寺山修司『盲人書簡(上海篇)』考−私は少年になりえたか」
でした。
 
高校・大学在学中から、今も芝居を続けています。
今度9月に芝居を上演することになりました。
時代劇です。ここでお知らせさせていただきます。
何だか他の書き込みを読んでいると、場違いな感じが
してしまうんですが・・・。
 
演劇ユニットTERRO 9月公演「歪んだクニ」 
作・演出:池田博俊
9月7日(木)      19:00  
  8日(金)      19:00  
  9日(土)14:00/19:00 
 10日(日)14:00
(開場は開演の30分前)
場所:アートコンプレックス1928
   (三条御幸町東南角、1928ビル3F)   
チケット:全席自由前売¥2000/当日¥2300
      高校生以下¥1500  
7/7(金)チケット一斉発売!
・ローソンチケット(Lコード:53042)
・KLTチケット(http://www.k-lt.net/ticket)
・テロ制作(坂原)090−3624−6247
 
直接私の方に電話、またはメールで注文いただくこともできます。
今まで少年・少女の役柄が多かった私ですが
今回は初の人妻役です(笑)。
どうぞ皆様お誘い合わせの上、ご来場下さいませ。

ペーネロペーのごとく 投稿者:モダニスト  投稿日:06月19日(月)11時31分00秒

いろんなところに書いていることなので、またか
と思う読者も(若干一名ほど)いるかもしれませんが、
ぼくの守護聖人はペーネロペーなのであります。
 
布を織り終わったら求愛を受けましょう、という間男
との約束を、昼間織った布を夜ほどくことで何年も
その求愛をはぐらかし続けた、オデュッセウスの妻、
ペーネロペーです。そう、バルトが書いてるのですね、
エクリチュールは消すことができるけどパロールは
そうではない、ただ口ごもりつつ自分の発言を修正し
続けねばならない(ペーネロペーのごとく)、と。
 
 
いえ、いまから10年前の1990年から1994年にかけて、
じつは浅田彰とぼくの間で小さな論争があって――
信じがたいね(笑)――、その総括をする文章(1995)で
浅田の反論をペーネロペーに、ぼくはたとえた。
 
> ぼく[=わたくしモダニスト]の一文が彼[=浅田]の
>「無意識的部分」を剔出したとまではいわないまでも、
> 浅田もまた、批判されたのが「記念碑的なエクリチュール」
> ではない「はかないパロール」であるからこそ、徒労感に
>「息切れ」しそうになりながらも、「反論しようがない」批判に
> 一度は反論の筆をとった[…]、そのことは、この場所で
> 強調しておかねばならないのである(じじつ、多くの
> 出版関係者の驚きの声として聞かれたのは、彼が外から
> の批判にたいしてまともに反論の筆をとったのが、
> ぼくにたいしてが初めてだった点である。)
 
 ――「プライヴェートな話」『ars 東北芸術工科大学文藝』第2号[1995]
 
 
いや、その論争の記憶をここに呼び起こすことが目的
なのではない。むしろ掲示板という場所では、ぼくこそ
ペーネロペーである、と(笑)。つまり、tcupの掲示板には
投稿者による削除や修正のサーヴィスがないから、
ペーネロペーのごとくにあとから言葉を継ぐほかない。
もっとも、これはかならずしも欠点ではない。ぼくにはそれが
向いている(守護聖人だ、と書いたでしょ)。管理人でもある
のにそれをいったん削除して再アップなどしないのは、
投稿時刻の記録を生かしたいから、というよりもむしろ、
やはり「息切れ」しそうになりながら言葉を継ぎたいから(笑)。
 
 
で、ようやく本題です。きょうもまた訂正があります。先ので、
 
> まずプロコフィエフは、そう、作品番号はさておき、
> G.G.唯一の録音があるソレ、ソレですね。
 
と書いたということは、14日付「とりあえず、ポリーニ」中での
 
> とくに第7番は、ポリーニで聴いたあと他の演奏を聴くと、
> まるで気の抜けたビール。
 
という文言は、グールドにも向けられるものということになる。
 
ぼくは何が何でもグールドでなきゃ、というフリークではない
けれど、いかにも重量級のこの作品を、いつもと違わず軽快に
弾きこなすグールドのことは失念していたと、ここは訂正を
しておきたい。いずれにしても、70年代(だったはず)に
ポリーニがDGから出した20世紀のピアノ曲のディスクは、
曲目選択でじつに多くをグールドと重複させる意図をもっていた
ように、いまでは思える。
 
とくに両者のちがいがわかるのが、むしろグールドの正規盤が
その死後、そしてポリーニの盤のあとにリリースされた、
ヴェーベルンの美しい変奏曲。そう、この点に直接関係しないけど、
先にふれたサイードの本では、バッハの『「高き天より」の
カノン風変奏曲』(BWV769)が、
 
> いかにみごとなものか、いかに集中的にアーティキュレーション
> されているか、その一端を理解するには、ヴェーベルンの
>『変奏曲』を待たねばならないだろう。(p. 130)
 
と書かれている。で、当然、ヴェーベルンを、彼はグールドで
聴いている。それはおそらくDGさんが書く、例のG.G.コレクションの
映像によってである(see pp. 65-66)。
 
 
 
ああ、たった数行の訂正のためにこれだけ言葉を随伴させてしまって、
もう今日一日のエネルギーを使い果たした気分だ(ちょっと大げさ)。
 
が、最後にもうひとつ訂正を。昨夜の投稿中の誤字(最後から4行目)。
 
  (誤)散在癖   →  (正)散財癖
 
 
                         以上。

G.G. 投稿者:モダニスト  投稿日:06月18日(日)23時47分05秒

えー、わかる範囲で書きますと、まずプロコフィエフは、
そう、作品番号はさておき、G.G.唯一の録音があるソレ、ソレですね。
作品番号をさておくのは、ディスクが(たぶん)学校にあって、しかも
混乱の只中にあってすぐには発見されないだろうからです(笑)。
 
 
さて、ポリーニはグールドよりひと世代ほど下ですが、優等生のきわみ
みたいな前者は、ピアノ科の学生ならぜったいにマネしてはいけない
と教えられる後者を、しかしずいぶん意識してはいたようですね。
サイード『音楽のエラボレーション』を2回生向けの小ゼミで読んでいる
のですが、そのなかにも、明らかにグールドを意識した(とサイード
は読んでいる)平均率クラヴィーアによるポリーニの公演(カーネギー・
ホール)について触れているくだりがある。
 
その同じゼミで先日、"OFF THE RECORD/ON THE RECORD"を観ました。
ヴェーベルンの変奏曲を自室で何気なく暗譜で弾く箇所は、とくに
壮観に思えました。紀伊国屋から出ているビデオを違法コピーして
上映して(というのも、昨年さる授業でマスターコピーが破損してから
大学の機器が信用できない[笑])、そのあと、そのコピー分を
さる信頼できる知人[下のURL]に贈ったのですが、その彼女が私信で
書き送ってくれた感想――「このひとは音楽に魅入られている」が
ほんとうにぴったりといいたい、それはそんな光景です。
 
 
誰がいったか、よくできたヤキメシのように音が粒だったG.G.
の演奏を、しかしぼくは映像をつうじては初めて目にしたのでした。
そう、ビデオにもLDにもなっているG.G.コレクションは、ある理由で
もっていない。その理由とは、ほしいCDを片っ端から買うような調子
[平均すると1日1枚以上購入する状態が何年か続いた]で映像にまで
手を出したら、経済的な破綻がやってくるのは目に見えていたから。
 
まあしかし、さすがにそんな散在癖はもうなくなった。件の映像も
まもなく安価なDVDで入手可能となるでしょう。よって、いまは
確認しようがないシェーンベルク演奏の映像に出てくる絵の謎のことは
そのときまでしばらくのあいだお預けと、今夜のところは。

http://www.tcup2.com/262/niko.html


G.G.コレクション』とシェーンベルクと謎の絵と。 投稿者:DG  投稿日:06月18日(日)20時17分50秒

また時間がちょっと空きましたので少し・・・。
ちょっと前の「シェーンベルク」に戻りますが、ポリーニを買ったのは、グールドのものが
ショップに置いてなかったからでした。
 
おととい、立命の学生さんのヘア・カット&カラーリングをしているときに、
G.G.コレクションの話になって、「面白い映像があるから」と言って、\の最後、
R・シュトラウスのトロント管弦楽団との競演を観ながら一緒に爆笑していました。
あの映像、ちょっとおかしくありませんか? なんか、パゾリーニの『奇蹟の丘』
のような真正面からのショットといい、スタジオのセット(なぜか床と譜面台がブルーで、
壁がオレンジにベタ塗りされている)といい、コンダクターはかけていた眼鏡を
なぜか振ってる最中におもむろに外してしまうし、ティンパニー?奏者の
あたかもパーマをかけたかのようにアフロチックに爆発しているあのあごひげは一体
何なの?、と、とにかく、変な代物です。
OFF THE RECORD/ON THE RECORD』を観た後だっただけに、とても新鮮でした。
あと、面白いのは]Yのウェーベルンのところの映像ですね。
これもちょっと何か変なものです。図形が音型に反応して振動したりします。
 
それから、モダニストさんが仰っておられたプロコフィエフのソナタ第7番というのは、
Op.83でしょうか?
この曲の第1楽章であれば、グールドで聴きました。この曲はグールド唯一のプロコフィエフ
録音だそうですね。
プロコフィエフはロシア・バレエ団の作品
(『放蕩息子(バランシン振り付け)』(1929)など)で音楽を担当していますね。
最近バレエ・ダンスの20世紀についてまとめているのですが、シアトリカルなものから
「純粋なバレエ」(バランシン)、そして特にフォーサイスまで、
このジャンルも結構興味深く観ていくことが出来ます。
 
さて、冒頭へ戻ってグールドとシェーンベルクについては、
G.G.コレクションの]Yに『ピアノ組曲』Op.25のインテルメッツォの演奏が入っていますが、
ピアノの横にちょこんと何気に置かれてある絵画は、あれは何でしょうか?、
パウル・クレーなのかなぁ?、などといい加減なことを思ったりしていたのですが、
(ドゥルーズを思い出しますね)
なぜあの場所にあの絵が置かれてあるのか、ちょっと気になったもので・・・。
あの絵を置いたのは一体誰なんだろうか?

http://www.suisen.sakura.ne.jp/%7Ebau/goto/differencia/index.html


幾何学と反復と。 投稿者:DG  投稿日:06月18日(日)16時17分59秒

> モダニスト様
 
こんにちは。
今、一時間ほど空いたので来てみました。
 
> そう、対位法なんぞ、バッハの時代においてすら新しくなかった。
> が、グールドの時代にあってなお、新しくありえていた(いる)。
 
> それは、そもそもことのはじめから新しくありえない絵画
> というミーディアムや、あるいは数千年の時間が経とうと
> しょせんはそう変わりない人間の頭部に生えた髪のカットの営為の、
> いずれにも通じることと書くのは、強弁にすぎるだろうか(笑)。
 
いやいや、まったくそうなんですよね。
 
対位法というのは、いってみれば幾何学なわけで、それはつまり、
「点」と「線」ということだと思う。
普段は人は「幾何学」のことなどを考えて生活しているわけではないが、
しかし、誰も「幾何学」から離れて考えることは出来ない。
 
カノンやフーガはまさに幾何学ですよね?
 
今の時代、音楽は必ずしも厳格なカノンや遊びに満ちたフーガから始められるもの
であるわけではない。それこそポスト・モダン的な「何でもあり」というか、
「もう皆、ブーレーズを知らないでインド歌謡とかなんとか
聴いている」(skmt)わけで、そのことはもちろんブーレーズという固有名を知ってから
インド歌謡を聴かねばならないというわけじゃないけれど、しかし、例えばブーレーズ
を聴くところからマラルメへ飛んでみたりデリダへと飛んでみたりするようなバイパスが
そこに見えてきたりすることは、実に考えるに値することだと思う。
 
グールドを聴くかぎり、それは単に録音再生装置により複製−反復されるいわば
イマージュとしての聴覚体験でしかないが、しかし、そこに聴かれるバッハには、
250年経ってもなお決して脱色されずにとどまり続ける何ものかが確実にある。
 
ベンヤミンは「アウラの消滅」ということを言ったが、しかし、
「複製技術時代」においてのみ可能となる、「アウラ」とはまた異なる何ものかがある
のであって、「反復」が擁護されねばならないのも、その「何ものか」をめぐって
のことなわけです。
例えば映画というものは、そういう「反復」の側から議論されることが出来るでしょう。
 
そう意味ではフリード的に「映画」を取り扱うのは、またそれはそれで違うのではないか?、
と思ったりする。
 
・・・、ああ、ここで時間切れ、とりあえずの中断。

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対位法・補足 投稿者:モダニスト  投稿日:06月18日(日)11時15分09秒

(誤) これをぼくは、精神の対位法と呼ぶ。
            
(正) これをぼくは、精神の対位法と呼ぶ(笑)
 
この表記を落としたためにギャグと読めないのは、痛いっ…、
いや、文字どおり対位法的構造と無関係な装飾音の次元での、
といいたいこんな訂正は、このさい、どうでもいい。
 
 
そう、思い出したのだ――浅田が、バッハはバッハだけで
じゅうぶんだ、式の発言をしたのは、まさにグールドによる
対位法的音楽の、出来の良くない「作曲」にまつわってだった。
(ならばソースは坂本龍一との例の対談においてのはずである。)
 
いずれにしても、こういう発言を読むと、浅田がモダニストだ
ということが、よぉくわかろうというものである。

対位法 投稿者:モダニスト  投稿日:06月18日(日)05時56分24秒

バッハの時代にすでに対位法は新しくなかった旨、
DGさんは書かれていた。そう、それはたしかに新しくなかった。
けれど、それがいちばん生産的な時代ではあったろう。
ちなみに浅田彰は彼一流のレトリックで、バッハがあれば
あの種の音楽は他に要らない、と、たしかどこかに書いていた。
 
と、唐突に書くのだが、グールドのいちばん美しいディスクは
どれだろう。それは彼が作曲した作品数点を収めた、
たしかソニーの国内盤では「作曲家グールド」と名づけられた
それにほかならない。作品番号1――しかし彼は「2」の番号をは
いずれの作品にも付すことはできなかった――は、
書簡集ほかでもしきりに弁明らしきものが述べたてられる、
ロマンティックなことこのうえない全1楽章の弦楽四重奏曲。
それは、やはり12音音楽を創出し、音楽におけるモダニズムの生誕
を決定づけたシェーンベルクが前世紀末に史上もっともロマンティック
な曲として書いた《浄められた夜》に勝るとも劣らぬ反動的なもの
といわねばなるまいが、それはさておき、また、同じディスク
に収められたもう1篇の曲、弦楽四重奏と複数の声のための
《それでもフーガを書きたいの?》は、フーガによりつつ
フーガ(を書くことの滑稽[*])に言及する、二重、三重に自己言及的な、
それは美しいことかぎりない作品。そして、じつは作曲家たらんとした
そのグールドがけっして作品番号2としなかった数編の作品
のうちの1点であることを思うと、なおそれは悲しい。
 
 
[*]=この時勢にモダニストを名乗って、モダニズムを論じることの、
その滑稽、悲しみ、そして快楽。これをぼくは、精神の対位法と呼ぶ。
 
 
そう、対位法なんぞ、バッハの時代においてすら新しくなかった。
が、グールドの時代にあってなお、新しくありえていた(いる)。
 
それは、そもそもことのはじめから新しくありえない絵画
というミーディアムや、あるいは数千年の時間が経とうと
しょせんはそう変わりない人間の頭部に生えた髪のカットの営為の、
いずれにも通じることと書くのは、強弁にすぎるだろうか(笑)。

過去ログ 投稿者:モダニスト  投稿日:06月14日(水)17時12分15秒

昨日のDGさんの書き込みをもって、tcupの無料掲示板の
ログの最大記録数70がいっぱいになりましたので、過去ログ用のページを
新しくつくりました(とはいっても、週のまんなかの多忙を割いて
ではなく、先の週末に準備の大半を済ませていたのですが)。
 
正規ルートを通ってやってこられている方の眼前の、
固定された上フレームの「月別の過去ログへ」の文字をクリックいただくと、
過去の日記の形式をそのまま踏襲した、デザインもなにも
あったものではない新しいページとして、それは現われます。
 
 
ま、いまは4、5月分のログのほとんどが、その新たな過去用ページと、
通常の画面下の「次のページ」のボタンを押せばあらわれるページの、
2ヶ所に掲出されることになりますが、こんごは、消えてゆく月の分を
順次、過去用ページに移すことにしますので。

とりあえず、ポリーニ 投稿者:モダニスト  投稿日:06月14日(水)15時53分09秒

個別にはここから3つ先の「『息絶え絶えに(breathless)』?」の内容への、
とりいそぎのレス、ということになりますが――  > DGさん、
ポリーニの名盤を買われましたね。若き日のグールド(とはいえ彼は
若いまま死んじまったのだった)のと、どちらを採るかでおおいに迷うところですが、
いずれにしても、シェーンベルクの12音音楽期の作品をかくも見事に弾き切る演奏を、
ぼくは他に知らない――そう、授業では、同じ作品をコンピュータ&シンセサイザ
で演奏したディスク(これもDG)とで聴き比べて、ポリーニを礼賛したことが
ありますが(笑)。それと、ノーノでしたね、DGさんのご贔屓は。いま、
それを聴いたときの印象が蘇ってこないのがつらい(ディスクは乱れ放題の自室の
どこにあるか判らない)。代わりに、ぼくの(かつての)愛聴盤をひとつあげる
とすれば、ブーレーズ、いや嘘、嘘――プロコフィエフのいわゆる戦争ソナタの、
これもDGから出ているディスク。とくに第7番は、ポリーニで聴いたあと
他の演奏を聴くと、まるで気の抜けたビール。
 
いや、なんだか論点を逸らすレスみたいですか? でも、せっかくなのだから、
先はあまり急ぎたくない。もどきさんについても言えることですが、とにかく、
あなた(がた)の力強い書き込みによってこの場所が活気づくことを、ぼくは
うれしく思う――なんて、いかにも管理者めいて取り澄ますべきでは、たしかにない
けれども、たんに時間的余裕ができる週末まで何も応接しないのも、能がない。
 
 
付記: そう、いまそれを論じることがあまり有意義と思えない風に、あなたの
日記に書かれていた、「モダニズムの条件」なる問題構制。こっちはその題で
書き始めたものの、もうひとつ調子に乗れない(笑)。ま、改訂された版が
平行して掲出されるころまでは、ひとつ、寛容な読者でいてくださいな。それと、
TOMOTOMOさんにも、よろしかったらまたおいでください、と――。

『私たちはまだここにいる』。 投稿者:DG  投稿日:06月13日(火)19時33分21秒

(承前)
重要なのは、それがいかなる形式における形態として現れるにしろ、
「はみ出るもの」(リテラルな意味においてでは無論ない)たり得ているかどうか、
だと思います。それが「絵画」であるか「彫刻」であるか「サイト・スペシフィックなもの」
であるかどうかは問題ではないのではないか? それらが「風景」として「内面化」される
ものである限りにおいて「テクスト」たり得ないのであり、それらが「風景」として
「内面化」されることを愚鈍に拒み続けるようなものである限りにおいてそれらは
「テクスト」たり得る、と。
それは、まずもって「形式化の手続き」を徹底して推し進める作業なくしてあり得ない。
「過剰なもの」(差異)は、徹底した「形式化」においてしか現れないものです。
したがって、「始めに「差異」があった」と言うのは間違いなのです。
しかし、ディコンストラクティヴィズム−ポスト・モダニズム−リテラリズムは、
差異を物象化し、内面化してしまうことにしか貢献しなかった。
それらが、本来的意味での「多様性」でありえないことは、したがって当然なのです。
むしろ、「多様性」は、モダニズムを徹底していくその自己批判のプロセスの中で、
一瞬、垣間見られた(セザンヌの幾何学?)。
しかし、それで済んでいたのも、もうはるか昔のことですね。いまさらセザンヌのように描いてみても仕方がない。すでにセザンヌがいるのだし。
 
音楽で言えば、やはり「対位法」へ帰着するわけですよね、しかし、バッハの後で
「対位法」で書くことは、もう、出来ないと思われているでしょう?
その実験もシェーンベルクからブーレーズへといたる中で行き着くところまで
行っちゃったと言われている(トータル・セリエリスム)。
しかし、バッハの時代でさえ「対位法で書く」ということはすでに時代遅れだったのです!
そこで参照すべきは、やはりウィリアム・フォーサイスだと思う。
しかし、残念ながら書き込む余裕がもうない。また今度に譲ります。
 
とにかく、ここで一度20世紀末までのあらゆるジャンルにおける動きを貫通するような
パースペクティヴに立ってみて、そこからもう一度「モダニズムその可能性の中心」を
問い返すことは決して無駄なことではないと思う。というより、今、ここを外して、
そのことを検討するときはほかにない。
 
今、どこにおいても作ること(書くこと)は困難です。
というより、いつ、どこでだって「作ること」は困難なものなのです。
しかし、「単独性(シンギュラリティ)」はそこにしか現れることがない。
しかし、その困難な仕事をやり果(おお)せたとき、
「モダニズムその可能性の中心」としての<力>たりえる「(更新された)モダニズム」
(「シンギュラリティ」)がやっと現れることが出来る。
しかし、それはおそらく、「ヴァーチュアルなイマージュ」と無関係ではないでしょう。
そこではきっと、「晴朗な波」が回帰して止まない光景を見て取り聴き取ることが
出来るでしょう。
(とりあえずの中断)

http://www.suisen.sakura.ne.jp/~bau/goto/differencia/index.html


『パート2』。 投稿者:DG  投稿日:06月13日(火)19時32分18秒

(承前)
問題は、例えば「モダニズム/ポスト・モダニズム」というような問題構制を可能
としているような「土俵」(パースペクティヴ)そのものをいかにズラすことができるか、
ということなわけで、
そこで問われるものは、果たして「更新されたモダニズム」なのかどうか?
私は、「モダニズムの条件」を問うことには、懐疑的です。
それは先に書いたような文脈が、どんなジャンルにおいてもあり、大雑把に言って、
「モダニズムへの回帰」とでも言えるようなこれまた安易な事態が、
さまざまなジャンルにおいてすでに顕在化してきているからです。
それはたんに「回帰現象」でしかないことが多い。
リテラルな多元主義の「後」で「モダニズムの条件」を問うことこそは、
あの「ストレンジ・ループ(不思議な回路)」への入り口に立つことを意味しないでしょうか?
私は、そのような「回路」をこそ「切断」しなければならない、と常々考えてきました。
したがって、私は、「モダニズム」というものは、その言葉において(「形態」ではなく
「形式」において)やはり「乗り超えねばならないもの」だと考えている者でもあるのです。
(その意味では私は「ポスト・モダニスト」でなければならないということです)
しかし、それは、もちろん安易に「外部」を立てることによって、なのでは決してない。
それだとキュビスト以後の動きをまさに「反復=表象」(リプリゼンテーション)してしまう
ことになる(「惨めな笑劇としての反復」(マルクス))。
 
そういうわけで、私が問うべきであると考えているのは「モダニズムその可能性の中心」である
と、いつもそう言うほかないのです。
 
さて、TOMOTOMOさんに代わって、
> もどき様
あなたが仰っていたこと、すなわち、
> 「形式の内部で更新」することと、「形式を更新する」ことは違うのではないかと。
だからたぶん「絵画」はさきを急いだんじゃないかと。
セザンヌがその生涯をかけて「遠近法」の「更新」をおこなったのだとすると、
キュビストは別の絵画(形式)を構築し、その後はよく吟味されず(?)に、
「形式の更新」がつづく(乱暴ないいかたですが)。
だからモダニストさん/ダミッシュのセザンヌの読みなおしは、「絵画」を、
形式内部の「更新」の次元に戻るきっかけをつくり、
救ったのではないかとおもうのです(またまたおおげさか)。
ぼくはあの論文をよんだとき「絵画」にもまだまだやることあるんじゃないかって。
つまり「形式」を選んだ時点で「古かった」としても/古くなったとしても、
そこからその形式を内部から「更新」したときそれは古い/新しいの次元ではなく、
(あ〜でもこれじゃあ「差異と反復」みたいだな〜)ちがったものになる。
そこをつくだけでも十分「絵画」はやれるんじゃないかとおもったのです。
ぼくだってジャンルそのものはあまり重要だとはおもいませんが、
絵画形式の内部の「遠近法」だってまだまだなんでしょう。
ジャンルの有効性は消えてないとおもう。
 
ということは非常によく分かります。それは、やはり「モダニズムその可能性の中心」を問う
という構え(「超越的」ではなく「超越論的」)であると言えるのではないでしょうか?
それから、「差異と反復」はバカに出来ないと思う。皆、「この世界」に閉じられているの
ですから。
 
もどきさんが「古い/新しいの次元ではなく、ちがったものになる」、と仰ったことが
私も重要であると考えます。しかし、それを実際に示すとなると、
これは実に困難な仕事となる。どんな形式も古い/新しいなどといった「問題構制」
あるいは「商品−貨幣」(=「オブジェクト・レヴェル−メタ・レヴェル」)の中に
たちどころに「回収(吸収)」(「脱領土化−再領土化」)されますからね。
しかし、そこへ回収(吸収)されることを拒み続けるものがあり得る、と思う。それを指して、
「はみ出るもの」=「過剰なもの」と私は言う。それはもとより、「多元主義」による
過剰なものとは全く別のことです。しかし、それが直接的に「絵画(彫刻)形式」であるか
どうか、と言うとそうでもないのではないか?
(以下、続く)

http://www.suisen.sakura.ne.jp/~bau/goto/differencia/index.html


『息絶え絶えに(breathless)』? 投稿者:DG  投稿日:06月13日(火)19時31分07秒

こんにちは。
 
いやいや、バタバタしている間に話も進んだかな?、と思いきや、
そうでもなかったようですね。
だいたい、書き込んでおられるのが、
モダニストさんともどきさんくらいなものですしね。
 
さて、まず『セザンヌ論』ですが、読みながら考えたことは、
「翻訳者の使命」(ヴァルター・ベンヤミン)ということですね。
しかし、それは、「ヒューモア(ユーモア)」同様、万人に解されることではない。
また、『モダニズムの条件』につきましては、連載ということで、
そちらの方も大変楽しみにしています。
 
> モダニスト様
どうも、ドイツ・グラモフォンです。
いやー、私もこの間DGレーベルものを一枚買いました。
『シェーンベルク・ピアノ作品全集』です。演奏はポリーニ。
ポリーニでは、やはりDGレーベルに入っている
『・・・・・苦難に満ちながらも晴朗な波・・・』(ノーノ 1976録音)が好きです。
 
> もどき様
さて、何やら別のところでも、「秘儀的、密教サークル」がどうのこうのと話題
になっていましたが、私の考えでは、「専門的な言葉」などないということです。
そもそも、言葉には意味が内在されてある、というわけではないですからね。
 
さて、さて、
私は「モダニズム」という言葉には全くこだわる者ではないということを
あらかじめ書いておきます。
つまり、「モダニズム/ポスト・モダニズム」というプロブレマティック(問題構制)も、
実はまだ「ポスト・モダニズム」−「ディコンストラクティヴィズム」が「方法化」
される以前において意味を持ち得た、
しかし、安易な多元主義として、「ディコンストラクティヴィズム」が「流通」
してしまった後、「モダニズム」という言葉も「ポスト・モダニズム」という言葉も、
それらを言うことによってはもはや「破壊的な力」を持ち得なくなってしまった、からです。
これはどこにでも見られる二元論内部でのシーソー・ゲームのようなものです。
例えばポール・ド・マンが言ったことは今なおアクチュアリティを持つと思うし、
私はそこにこだわります。
(以下、続く)

http://www.suisen.sakura.ne.jp/~bau/goto/differencia/index.html


終息? 投稿者:もどき  投稿日:06月12日(月)11時13分39秒

>モダニストさん
 
「モダニズムの条件」、いよいよはじまりましたね。
楽しみに読ませていただきます。
ここでの議論は静かになってしまったので、
そちらへの感想や質問などを時々書かせていただきます。
 
ではまたいずれ。

Re: 質問です。 投稿者:モダニスト  投稿日:06月11日(日)11時19分49秒

茶屋さん、書き込みありがとう(笑)。
 
いえ、回答ですね。せっかく書き込んでもらったのだから(それに
回答を知りたい一般読者もいるでしょうし)、ここにそれを記して、
メールでは「掲示板に回答を書きました」と書き送ることにしましょう。
 
 
えー、そうですね、まず最低限、プルーストについて調べる
のは当然として、可能な範囲で、サイードの本文と関連づけて
ください。その論点の敷衍ばかりが次回の「基礎講読」の課題となる
のではありませんが、茶屋さんの説明を叩き台(そんなにキツく
叩くことはしませんのでご安心を)にして議論が進むに
越したことはありません。くりかえしますが、可能な範囲で。
 
 
以上、進行係(教員なぞその程度のものと理解したい)の希望を
記しましたが、授業以外のことでも、どうぞいつでも…。

質問です。 投稿者:茶屋里映子  投稿日:06月11日(日)10時15分09秒

基礎購読Dの授業で、マルセル・プルーストについての課題を受けた茶屋です。
今やっているのですが、プルーストについてのみ論じればいいのか、それとも「音楽の
エラボレーション」のプルーストについての部分と関連づけて論じればいいのかどちら
がよいと思われますか。返事はli003996までお願いします。(できれば早急に・・・。)

アクサン記号、その2 投稿者:モダニスト  投稿日:06月09日(金)14時44分36秒

他に書くべきことがあるのはわかっているのですが、
とりいそぎ表記の件でひと言、記しておきます。
 
 
立命の学内のコンピュータでは、日本語文字と仏語文字[アクサン付き]
が入り混じったページは、後者は正しく表示されないことが、
ゼミ生の「調査」でわかりました(清野さん、ありがとう)。
 
そこで後者の、問題となるセザンヌの手紙にかんする場所だけ、
とりあえずビットマップイメージ(gif)にして、
本文から参照できるよう、緊急の処置をとりました。
アクサン記号をじぶんでつくって貼り付ける作業は
けっこうたいへんでしたが、これで一応、学術的な検証等にも
最低限、耐え得るものとなりましたので、これまで問題ある
画面でお読みくださっていた方は一寸、再訪してみてください。
 
 
なお、先日、最初の「書き込み」(このノリなのですね[笑])をした
断章「モダニズムの条件」ですが、今宵、2度目に書き込みをして
スペシャルのトップページからのリンクを張りたいと考えています。
 
この第1室で本来とりあげられるべき問題があちらで独白として
展開されることもあるかもしれませんし、まあ、まったく関係ない
かもしれない。まあ、そちらもときどきお訪ねください。

其の二 投稿者:もどき  投稿日:06月08日(木)02時10分00秒

すみません、わけます。
 
さてさて
 
>DGさん
 
別のところにもかきましたが、ぼくは正直感動的でしたね、あの書き込みは。
半分ぐらいわけがわからなかったですが、勉強不足で。
 
>そもそもなぜフォーマリスティックな還元が重要だったのかと言えば、
>二元論的な抽象を廃棄し、
>システムがもはや成り立たないという
>無茶苦茶な「オープン・スペース」へと突き抜けるためのオケージョンとして、
>それは重要だったわけですよね(「プラトー」(ベイトソン=ドゥルーズ+ガタリ))。
 
これはつまりミニマリズム(リテラリズムのほうがいいですか?)について語っているのですか?
 
>しかし、そもそもグリーンバーグが批判していたのは「趣味の共同体」であり、
>フリードが批判していたのは「シアトリカルなもの」だったわけでしょう?
>ということは、現況はもうかなりの退行っていうことですよね。
>しかし、今やすっかりそれらがドミナントになりつつある、と言うか、もうなっている?!
 
ということはまあそう(リテラリズム)なんでしょう。この方向に発展させて、
みのりあるかどうかぼくにはわからないし、「演劇性」(「シアトリカルなもの」)の問題で
「いまの現代美術」(変な言い方!)はそうとう叩けるでしょうが、叩いてもね。
ぼくはむしろ専門的な「ことば」により「秘儀的、密教サークル」なるよりも、その内容によって
「秘儀的、密教サークル」になることを(ならないほうがいいけど)望みます。
 
>そこで、問題は、今やほとんどカント的批判が成り立たないような状況
               
  >だから、「現代美術自体がすでに形式化されている」というところで、
>それを切断するものが、(更新された)「モダニズム」であるだろう、と。
 
のくだりは、たしかにそういうかんじです。
そのなかの
 
>楽しければ、面白ければ、あるいは政治的に正しければもう「何でもあり」で、
>「そこでは一体何が問われているというのか?、さっぱり分からない?!」、というのが
>そもそものもどきさんのひっかかりだったのかな?
 
というところは、「さっぱり分からない?!」というより「わかりすぎて、おかしい、そんなわけないだろ」
といったふうにおもっています(あまりかわらないか) 。
 
ふぅ〜。
 
さてふたたび
 
>モダニストさん
 
「セザンヌ論」の最後でグリンバーグなどの批評の受容とキリスト教の受容の歴史の構造的な類似から
みてみたい、といったことをかかれていますが、
このあたりはきっと今度の本には含まれないのでしょうね。どこかにかく予定はないのですか、
とりあえず田川建三の本を読みたいとおもっています。
「セザンヌ論」についての質問はまたいずれ。
 
でも、モダニストさんの「セザンヌ論」をよんでいて東氏の「郵便空間」をおもいうかべました。
 
ではまた。

「セザンヌ論」アップ以後事始め 投稿者:もどき  投稿日:06月08日(木)02時07分53秒

こんにちは
 
>モダニストさん
 
まず何よりも「セザンヌ論」アップおめでとうございます、
っておそいですか?
とにかく口火をきったぼくから再開としなければならないでしょうか。
あらためてよみかえしながら、いろいろと聞いてみたいこともあるのですが、
その欲望をおさえつつ、まずは、、、
もう一度議論の場所へと誘うため(その必要はないって?)、
 
>TOMOTOMOさま
 
5/26の書き込みより
 
>人が「形式」によってのみ事象を知覚しうるのであってみれば、
>人は「形式」を作ることしか出来ない、ということで、、
>人は或る「形式」の内部においてやるほかはない。。。。。。、
>と同時に、
>どんな「形式」も、
>それが立ち現れたとたんに古くなる。
>という二点から、、
>だから、
>次から次へと「形式」を更新し続けねばならないという「円環運動」を
>どうしても切断することができない、、
>ということでこれまでやってきたとして、、、、
>しかし、「シラけつつノル」ということにもシラけてしまったその後には、
>さてさて、いったいどうしたものなのでしょうかねぇーー?
 
セザンヌとキュビストの間に断絶/誤読があったとして、
セザンヌは遠近法(という形式)とは切れていない、って
モダニストさんっていうよりダミッシュってひとがいっていました。
もちろんモダニストさんは自身の読みを「正しいもの」ということをさけているし、
セザンヌを正当に継承しようが何しようが「美術史」は進んでいくわけだし、
(きっと「私は正当に継承しています」っていうひともいるのだろうけどね)
それによって「絵画」の抽象化は推進されたのだし、
そこは問題ではない。
 
ぼくはこうおもうのです。
「形式の内部で更新」することと、「形式を更新する」ことは違うのではないかと。
だからたぶん「絵画」はさきを急いだんじゃないかと。
セザンヌがその生涯をかけて「遠近法」の「更新」をおこなったのだとすると、
キュビストは別の絵画(形式)を構築し、その後はよく吟味されず(?)に、
「形式の更新」がつづく(乱暴ないいかたですが)。
だからモダニストさん/ダミッシュのセザンヌの読みなおしは、「絵画」を、
形式内部の「更新」の次元に戻るきっかけをつくり、
救ったのではないかとおもうのです(またまたおおげさか)。
ぼくはあの論文をよんだとき「絵画」にもまだまだやることあるんじゃないかって。
つまり「形式」を選んだ時点で「古かった」としても/古くなったとしても、
そこからその形式を内部から「更新」したときそれは古い/新しいの次元ではなく、
(あ〜でもこれじゃあ「差異と反復」みたいだな〜)ちがったものになる。
そこをつくだけでも十分「絵画」はやれるんじゃないかとおもったのです。
ぼくだってジャンルそのものはあまり重要だとはおもいませんが、
絵画形式の内部の「遠近法」だってまだまだなんでしょう。
ジャンルの有効性は消えてないとおもう。
 
ま、『「自己表現」愛好家』も消えないのかもしれませんが。
そこで『「シラけつつノル」ということにもシラけてしまったその後』ということになると、
ぼくの「問いかけ」そのものの基盤が揺らぎますね。
ぼくのはいわば「にもかかわらずやっぱんり本気でノル」を推進しているようにも見えますからね。
『「シラけつつノル」ということにもシラけてしまったその後』のひとびとに「本気(マジ)』は
(笑)以上に寒いですから。

アクサン記号 投稿者:モダニスト  投稿日:06月05日(月)18時11分13秒

[第1室と第2室の読者はかなり共通すると思うので、とりあえずこちらにだけ。]
 
 
 
さきほどさる学生「読者」より、セザンヌ論中のeアクサンテギュ[アクサン記号
のついた"e"]が「?」になってしまっている、という指摘を受けました。
 
これが"e"だけの問題なのか、"o"や"u"についても同様なのか、そこまでは未確認
ですが、少なくともぼくの自宅および研究室のコンピュータのモニタ上では正しく
表記されているので(ただし、たとえばCezannne[この2文字目がeアクサンテギュ]
のような場合、ひとつの単語とみなされずにCe/zannneやひどいときにはC/ezanne
と改行されたりする)、それを見る環境に依存した問題かと思われます。いえ、
だからイイというのではなく、困ったものだ、と思うのですが、フランス国内の
WEBページが日本国内で文字化けしてみえることも多々あるので、とりあえずは
読者の皆さん、同じように「ああ困ったものだ」と了解していただければ幸いかと。
 
ちなみに、コンピュータにお詳しい先生――ただしフランス語はほとんど関係ない
――から、いっそビットマップのイメージにしては?、といわれたので、それも
少し検討したいと思います。
 
 
 
それから追記です。すでに当論文を読まれているもどきさん(さるROMの方も)
以外の皆さんは、この捩れた、すっきりしない論文を急いで通読して感想を
アップしなければ、と急がれる必要はありませんので(笑)。(いえ、とくに
TOMOTOMOさんにはいずれ、「出会っていない」のきびしい言葉でもよろしい
ですから、またぜひにご意見などお聞かせいただければ、と思いますが。)
 
他方、ぼく自身はといえば、その改訂(より大きな「本」のなかに含める作業)
のなかで削った内容に見るべき部分が含まれていることを再発見などすることが
できましたので、スペシャルのトップページにすでに予告を掲出したテクスト
「モダニズムの条件」に生かすなどしたい、とは考えているのでした。

セザンヌ論アップのお知らせ 投稿者:モダニスト  投稿日:06月05日(月)00時55分56秒

1室と第2室へ、同じ内容のお知らせです。
 
 
お待たせしてあった(?)セザンヌ論を昨夕、アップしました。
フランス語のアクサン記号の表記や、入稿後/校正時の
直しのデータへの反映、さらに注の参照の便宜をはかること
などに、けっこう手間取ったため、ずいぶん遅くなりました。
 
なお、内容/構成面ではすでに改訂作業に入っていますが、
今回アップしたものには、それはいっさい反映させていません。
 
 
さて、下記のURLを直接入力する以外では、アカデミック・サイト
のスペシャルのページから入っていただくのが通常のルート
となります。スペシャルのトップページには同時に、
これも約束してあるテクスト「モダニズムの条件」への入口も
仮設しておきましたが、きょうの時点で、まだ中味には着手
していません(上のアップ直後にちょっとした事件――いずれ
日記ででもご報告できるでしょう――が起こったためもあって、
なお公開は遅れることが予想されます)。

http://www.ritsumei.ac.jp/~tut07770/special/special3/Cezanne.htm


管理者:tut07770@lt.ritsumei.ac.jp