2001年5月31日(木)
●きょうの一にちについてはLaVie日記のほうにかいた。
●かいたあとにはっせいした「へんこうてん」はやはりアルコールのまりょくにはかてなかったことだ(ビールを一かんのはんぶんのんだ)。よわいにんげんである(よくはんぶんでガマンしたものだ)。よなかもアルコールなしですごすじしんがない(一かんではすまないはずだ)。なのではやくに(10:00までには)ねることにした。めざましは、そうだな03:30ころに。ちなみにいつもならまだおきてのんでいるじかんにめがさめてもそういうじょうきょうではのみたいとはおもわないものだ(そのはずだ)。というわけでおフロにはいるまえににっきのアップを。[09:05]

2001年5月30日(水)はお休みしました。

2001年5月29日(火)b
●P・マークがふった《スコットランド》もズスケが(かれがかかわった二つのカルテットをたばねて)リードする弦楽八重奏曲もみつからなかった(CDはすでに二千五百まいをゆうにこえている)。なのでカラヤンがふる第二こうきょうきょく(がっしょうがはいる)を。マーラーみたいなところもある。ヘンなきょくだ。ワインがおいしい(かんけいないか[笑])。
●あすはしかしバッハだ。じゅぎょうのはなしである。あさ一げんめ(そろそろねたら?)に平均律クラヴィーアさっきょくにまつわるじじょうなどをはなす。がくふがよめないのに? よめないからこそかたりうるないようもあるといいたいところだ(笑)。
●そのぼうとうではしかしマザー・テレサのわだいをせんせんしゅうじょうえいしたパゾリーニ『奇跡の丘』のかいことあわせて。つまりテレサのおこした「きせき」にまつわるしょうげんをあつめてかのじょを「せいじん」にしたてあげようとするカトリックのうごきがあるというのである。ロシアせいきょうやイスラムきょう(すら)とのあいだに「わかい」をもたらそうとするげんざいのきょうこうヨハネ・パウロ二せいならやりかねないはなしだ。いや、かならずしもひはんてきにのべているのではない。つぎつぎとかいしゃくのこうしんをゆめみるカトリックのほうがただしいよみをそていするプロテスタントよりもはるかにしょうじきできもちがいい(笑)。じっさいまたこのジイさんのヘンなスケベごころと「あんやく」がなければベルリンのかべのほうかいもなにもなかったはずなのだからである。[25:35]

2001年5月29日(火)a
●けんきゅうしつでもにっきをアップできる(しかもかんたんに)かんきょうがととのうとさすがによなかにじたくのPCからアップするりょうがへるのはどうりである。だがこんやはまだかきたりない。ろうどうにたいするせいとうな「たいか」をようするにピンハネしてけんきゅうのたいめんをつくろうのである。ぐれつである。ぜんにんこう[東北芸術工科大学]における理事[京都造形芸術大学の理事長でもある]との「たいけつ」がおもいだされるがあのときのようにおなじこころざしをもってぐきょをしだんするどうほうがこのだいがく(おなじがくぶ)にいるかどうかはうたがわしい。
●その「どうほう」T氏(こころからそんけいするてつがくしゃ)にかつて「センセイ[いちおうぼくのことだ]はメンデルスゾーンの《イタリア》の第二楽章のようなところがある」とひょうされたことをフトおもいおこした(そのココロはおもいっきりあかるいがいけんにかくされたものうげなひょうじょうということであった[笑])。このひそかによろこんだT氏のひょうげんをおもいだしたのはちょくせつてきにはきょうの「ふんど」(笑)があったからだがもうひとつ、いっさくじつ第2室にかきこんだなかでメンデルスゾーンにふれていたからというじじょうもかんけいしている。《イタリア》はもちろんすばらしい。だがその第二がくしょうのひょうじょうをぜんめんにだした《スコットランド》のうつくしさときたらなんとひょうげんすればいいのだろう。弦楽八重奏曲(カルテット二くみによってえんそうされる)や十だいでかいた《ピアノとヴァイオリンのための協奏曲》(こくないばんはないはずだがゆにゅうばんだとクレーメル+アルゲリッチのめいばんがある)など、メン・コン(バイオリンきょうそうきょく)いがいにももっともっときかれてよいきょくがたくさんある(シュタルケル+シェベックのチェロ・ソナタも)。いや、大バッハの《マタイ》がいまきかれうるのもメンデルスゾーンの「そえん」があったればこそだ。こよいP・マークによるディスクをさがしてBGMとしよう。[23:30]

2001年5月28日(月)
●よくあるしっぱい。ダイニング(まあリビングもいっしょになっているのだが)のゆかのうえでの、しょくごのながい「かみん」。きづいたら(ネコいがい)もうだれもいない(ちゃんと「おやすみ」をいって二かいにあがっていったのだろうか?)。おふろもこれから「おいだき」である。あしたまでのぶんしょをこれからさくせいするとなると「やしょく」ようのしなじなをたべるのもあけがたになるあしきパターン。しゅうのはじめからこのザマ。
●ちなみにこの「こうむ」にかかるさぎょうとへいこうしてじゅぎょうようのえいぞうしょり
[さくじつぶんをさんしょう]も。というわけでこれからこちらのPCはふさがる(ぶんしょさくせいはVAIOで)。
●あす。かいぎ二つ(しょうごすぎからゆうこくまでけっかてきにロングランになる)。つぎのひ(水ようび)があさ一げんめのじゅぎょうとなるのでよるはもうきもちがどことはなしにせわしい。その水ようびは(にっきなのに二日ごのことをかいている[笑])かいぎが四つ。すでにしてきがとおくなりそうである。[25:10]

2001年5月27日(日)
●プライヴェートにはいろいろあった日ようびだがここにかくべきだい一のできごとは「第2室」にひさびさのかきこみをしたことかもしれない。ということでコンサートかんしょうのほうこくはそちらのないようにゆずることにしよう。
●ちなみにそのあと(なんらヤルべきしごとをもちかえっていないしあわせものであるかのように)つづいてえいがをみにいってしまったほうこくは(笑)?
●さて、せんしゅうは朽木までソバをたべにクルマをはしらせたあす月ようびだがさすがにそうもいかないじじょうをかかえている(よく火ようびのおなじじかんたいにひらかれている二つのかいぎにかけるぶんしょを二つ[!])。それと木ようびの「基礎講読」でがくせいがプレゼンテーションにもちいるそざい(えいがだがタイトルはしらない)のレンタル・テープをそのがくせいからうけとってPCにとりこむさぎょうもまっている(どういうわけだかレンタルひようはきょういんがもってこういうシステムでじょうえいすることになった[笑])。すでにつぎのしゅうまつをゆめみている、あわただしくなることうけあいの一しゅうかんのしょにちのよる。[24:00]

2001年5月26日(土)
●コンピュータの再セットアップは(しんどいけど)たのしい(笑)。けんきゅうしつからもちかえってそのしょちをほどこすことになった98年製のLaVie(windows95)はしたのbをかいてからほどなくしてバックアップ・データのふくげんもすんだがハードディスクのプロパティをみると200MBくらいしか空き容量がふえていないので(それとそれへのアップグレードいご「めにみえて」しょりそくどがおちていたので)そもそもmeじたいがもうこのマシンにはスペックてきにむりがあるのだとおもいなおして今夕、もういちど(つまり再々)セットアップをじっこうし、さきのmeへのアップグレードのさいにスキップしていた98へのアップグレードのみおこなった(95まっきのこうにゅうじにむりょうでついてきたアップグレード・キットをはじめてつかって)。そこにoffice2000とウィンドウズ・メディア・プレーヤ(me用にかいはつされたものだが98上でもうごく)をインストールしてさらにieをさいしんのver. 5.5にアップグレード(ざっしのふろくCD-ROMをつかって)。すると空き容量は――725MB(ハードディスクは2.1GB)。まあまあといったところ。
●たいちょうは――いまひとつ。このところいつもどちらかの「め」にものもらいのしょきじょうたいのようなおもさをかんじるのだがきょうはみぎめがそのじょうたい(かがみでみてもすこしハレている)。くわえてかるい「ぜんめい(喘鳴)」も。たぶんあたたかくなってクスリをのみわすれることがおおくなったため。
●あす。LaVieのせっていのさいごはけんきゅうしつでのLANせつぞく(TCP/IPだかのナンバーにゅうりょくがけっこうややこしい)。もちろんたまっているしごとをこなしたりも。まあ、それよりもやすみたいというのがホンネ。[24:22;26:00表現を修正]

2001年5月25日(金)b
●「あすをおたのしみに」とかいたほんにんが「あす」までまてない(笑)。再セットアップはげんざいバックアップCDによる「ファイルの復元」のさぎょうちゅう。けっこうスムーズにいきそうだ。そういうこともあっておさけがおいしい。ビールを二かんあけてげんざいはワイン(さっきあけたフランスワイン→やすいがとてもおいしいヒミツのめいがら)。
●ところでしゅうあけにけんこうしんだんがあってあすのよるからアルコールをたとうとかんがえている。というのもふつうは「はる」のけんしんではけつえきけんさはないのだがぜんねんの「あき」にサボった(いそがしかっただけなのだが)にんげんは「はる」にもさいけつされるのである。きょねんはそれをしらずにあさまでのんだじょうたいでさいけつされてオソロシイすうちがでた。…
●――とかいて、かこのにっきからその「オソロシイすうち」についてかいたぶぶんをさがしたのだがみつからない。で、そのうちに再セットアップがぶじおわった。けっこうあっけなかったがこれからのバックアップ・データのふくげんがせいこうするかどうかがむしろじゅうだい。ちゅうとはんぱなないようでのアップだが(いつもはクダラナイわだいでもかききることをモットォとしている)こんやはとくしゅじじょうということで。[25:30]

2001年5月25日(金)a
●上新電機京都1ばん館[さくじつぶんをさんしょう]ではRAM拡張ボードだけ(64MB)をこうにゅう(ノートPCではCPUはへんこうできないらしいことをはじめてしったのとハードディスクは内蔵タイプがとてもわりだかなのでやめた)。で、とりあえずLaVieのRAMのぞうせつはぶじすんだ(これでやっと96MBである。というのももともとそうちゃくされていたぶんのはんぶんりょう[32MB]をはずして64MBぶんをたすから32MBぶんしかふえないのである。そんしたきぶんだ)。そうしてこれから再セットアップ。いや、そのまえのメール・データのバックアップにさっきからかかりっきりである。イライラしてビールをのみはじめた。きぶんがよくなったのはいいけれどまだ再セットアップにとりかかっていないのである。こんやはしないほうがいいだろうか(いずれにしてもメールいがいのデータのバックアップにもまだじかんがかかる)。
●そんなわけできょうのできごとをほうこくするよゆうがいまはない。あしからず――といってもほんとうにこういうばしょで「こうひょう」すべきできごとはきょうはなかったというべきだが(うえのわだいだってとるにたらない)どくしゃしょしには「あすをおたのしみに」と。[24:10]

2001年5月24日(木)
●きょうのじゅぎょうについてはさくやかいたとおり(Wくんのはっぴょうがすこしスベったのだけが「ごさん」)。それよりもとにかくつかれがたまってあすの二げんめの、こんしゅうさいごのじゅぎょうのしゅうりょうがなんともまちどおしい。いや、あすはちゅうしょくごに二つのかいぎがまちうけていたのだった。だが二つめのはえんえんとのびることのありえるおぞましいかいぎ(笑)なのでにゅうしパンフの「こうりょう」だとウソをついて(ほんとはこんやのうちにすんでいるはずだ)15:00にはちゅうざするつもり。そうしてひといきついたらネッツ(五条カドノ店)にでむいてわが黒ヴィッツの「にんいほけん」+「JAF」のこうしん(あすのうちにてつづきをしないとあさってはクルマがだせない。まえのVivio Bistroを京都にひっこしてきたとしの5月にこうにゅうしたので)。ちなみにこんげつはこの二つにさらに「ぜいきん」もくわえると二十すうまんえんのりんじのしゅっぴ。そうなんだな、クルマはのろうとのるまいとまいつき二まんえんじゃくのひつようけいひ(ガソリンだいをのぞく)がかかるのであった。つまりノらないとソンということ。
●そのあとのよてい――ほいくしょに18:00ギリギリにすべりこんで母に子をバトンタッチしたらだいすきな(笑)上新電機京都1ばん館へ。けんきゅうしつで三ねんかんつかってきてパフォーマンスがていかしてきたところにムリなmeへのアップグレードがかさなってをどうにもつかいがってのわるくなってしまったLaVieを(ゆうきをだして)再セットアップするけついをかためたのでこのきかいにハードディスクやCPUのこうかんもこころみてみようかと。うまくいけばいいけどますますドロぬまにはまったらどうしよう。
●そうだ、そのよるのじかんたいはほいくしょで「こんだんかい」がひらかれることになっている。母おやたちだけのインティミットなふんいきをぶちこわすためにも父はいさんでかけつけるべきか――と、どうでもいいけどきょうのことはほとんどかかれない、にっきとはよびがたいじょうたい(笑)。[24:26; 24:50一部字句修正]

2001年5月23日(水)
●らいねんどのにゅうしようのパンフレットるいのへんしゅうがおおづめをむかえつつある。かかわっている二つのセクション(ぶんがくぶのAOにゅうしとしょぞくせんこう[人文総合科学インスティテュート]のぶん)のもんごんはすでにかくていしていまはデザイナーによるフィニッシュワークに。ただ、その二かしょでけいしゅつされるわが「しょうぞうしゃしん」のことがしんぱいである(きょう「ていさつ」にいったがまだそうにゅうされていなかった)。「じいしきかじょう」とおもわれたくないからくどくどとチェックをいれることはしないけれど。
●じゅぎょうは――きょうは「か」もなく「ふか」もなくといったところ(じゅうようだからまいとしあつかうトピックスなのだけれどさすがにじぶんのなかでマンネリかしている)。そんななかで大バッハの《トッカータとフーガ ニ短調》はよくひびいた。ふつうのマイクしようのてんではモワモワとおとがこもりぎみになる「だいきょうしつ」(明学館93号)なのだけれどそれがさいわいしてきょうは「きょうかい」のなかのようにきこえたのだからある(笑)。
●もういちいちせつめいしなくてもいいかな(笑)――あす木ようびは二つのゼミけいしきのじゅぎょう。「基礎講読」(三げんめ;二かいせいむけ)はYくんによる「放送禁止歌」にかんするプレゼンテーション(そざいはフジTV系の「鶴と龍」というドキュメンタリィばんぐみ)。ゼミ(四げんめ;三、四かいせいむけ)はWくんが「死」としゅうきょうにまつわる「そうろん」めいたはっぴょう。それにしてもあらためてかんがえてみるとゼミけいしきが二つつづくのも「こうぎ」けいしきのばあいとちがうしんどさがある。
●どうでもいいけどひどいすいみんぶぞくで(さいきん四じかんつづけてねていない)ゆうがたからすこし「どうき」をかんじる。こんばんはむりをしないでおこう。[24:00]

2001年5月22日(火)b
●ひさびさの第1室へのとうこうでこくはくしたのだがWEBてきにはかなり「じへい」ぎみだといわねばならない。いうまでもなくにっきのしっぴつりょう――はずかしいがえいが=ラヴストーリーでひとりもりあがったウラがわとあわせるとおそらく「しんきろく」となる――はこのきぶん(あるいはびょうき[笑]?)のはんえいである。
●「かみん」をすこしとったとはいえこのじかんになってもねむれない。あすながすMDのせんきょくはとっくにきまったのに。いや、そのせんきょくのかていでさくやとおなじようなたかぶりをあじわってしまったからでもある。「原始キリスト教」期のレチタティーヴォ(朗誦/朗唱)とよぶべききょく(マタイをしたじきにしている)からグレゴリオせいか、バッハ、モーツァルト、ドビュッシーをへてベルクまでを「がいかん」(というのかな?)したあともういちどバッハ(「平均律クラヴィーア」)にかえって、らいしゅうほんかくてんにろんじる「ちょうせい」のもんだいへのどうにゅう。おんがくがくのきょうしみたいだ。
●ちなみにいまはまだくわしくはかけないがこのなつ、ちいさなメディア(かみばいたい)むけにちいさなおんがくろんをかくことになりそう。「おんがくのモダニズム」ろん? そうなればいいけど。[26:58]

2001年5月22日(火)a
●さくやのさいごのアップがあんじするようにベッドにはいったのはあけがたちかくで、けれどいつもどおりあさのおしごとははじめられたのでさすがにキツい一にちだった。さくじつのツケでちょうしょくをたべながらパチパチとキィボードにむかってかけこみで二かしょに「てんぷぶんしょ」をおくったあとかいぎが二つれんぞく。そしてゆうがたのおむかえ。ああ、「いかにも」のせいかつパターンである。
●ゆうしょくご「かみん」をたったいままで。これからおふろ。
●あすはあさ一げんめに「芸術論」。えいぞうそざいをりようしないならじゅんびにじかんはかからない(こんや/あすはそのせんで)。[23:38]


2001年5月21日(月)c
●「シワをあいそう」なんてしたのbでかいたくせにそのシワのひだをふかくしないためのさぎょうがひそかにつづけられている(笑)。ひとつにはきっとBGMがここちよいからだ。わが五島みどりが三ねんぶりの「しんぷ」、モーツァルトの《協奏交響曲》ほかをろくおんした(エッシェンバッハ/北ドイツ放送響[あのヴァントのがくだんだ];SRCR 2595)。ヴィオラはPhilpsレーベルゆいいつのソロ、今井信子だ(よくぞ「かしだし」てくれたものだ)。チャイコンのときもそうだったがみどりについてはその「ていたい」をしてきするこえがしばしばきかれる。しかし「しつないがく」へのしこうをかくさないそのはつげんからしれるとおりかのじょじしんがいまかわりつつあるのである。そしてどこだかのおんがくさいでその「しつないがく」でのきょうえんのきかいをもった今井をかのじょはレーベルのかべをこえてひっぱりだした(しかもわがきおくにまちがいがなければ今井はI・ブラウンと同曲をいちどろくおんしていたはずだ)。えんそうは――ひたすらうつくしい。すべてにおいてうつくしいモーツァルトはしょうじきいってにがてだがこのきょくはべっかくだ。ヴァイオリンとヴィオラの、てんさいにしかなしえないきょうえん/ゆうごう!
●そういえばR・シュトラウスの《ドン・キホーテ》にあってもそれをただの「かんがんがっきょく」とも「チェロきょうそうきょく」ともことなったものとしていたのはけっしてはなばなしくはないがそれをかかすことはできないヴィオラ・ソロではなかったか。
●ちなみにわがヴァイオリンの師(!)石井万里子さん(山形交響楽団の1stヴァイオリン)はヴィオラもよくするひとなのであった。ぼくはかねてよりかのじょがヴァイオリンをなげうってどこかのヴィオリストとなることをきねんするものなのだが。
●ああ、スピーカーがこよい二どめとなるそのアンダンテがくしょう(だい二がくしょう)をならしはじめている。しずかなるおんがくがかならずしもひとをやすらかなねむりにいざなうのではないことをしる、さいわいなるよる――。[27:50;翌日一部文言の修正]

2001年5月21日(月)b
●「どうしてもきょうじゅうにこなさなければならないしごとがあって…」とのことばにダマされたどうりょうならびにしょくいんのしょくん、ゆるしたまえ。きょうの朽木おうふくは(とってもカラダがなまっているだろう)わがヴィッツと、そしてだれよりもドライバーの(せいしんてき)けんこうのためにひつようなドライヴなのであって、それはまたすうばいのこうりつをもってなされるわがしごとぶりによってしょくんらこそがまたむくわれることであろう(と、またダマしている)。
●そのドライヴのかえりに上新電機京都1ばん館にたちよってPCようのソフトを二ほんこうにゅう。ひとつはPCないの「ふようファイル」るいをさがしだしてさくじょするていばんソフト「ノートン・クリーンスイープ2001」でさっそくけんきゅうしつのLaVie(95マシンをさいきんmeにアップグレードしてからちょうしがよくない
5月8日(火)および11日(金)をさんしょう])にインストールしたが「すいしょう」してくる「あんぜん」なさくじょ(ファイルは「みどりいろ」でしめされる)をおこなっているかぎり十数MBほどの「空き容量アップ」しかえられずほとんど「やけいしにみず」といったところ。(三ねんまえにこうにゅうしたからしかたないのだが)2GBほどのハードディスクで「空き容量」が100MBをきっているいまのききてきじょうたい(じぶんでさくせいしたファイルるいをほかのPCにうつしてもほとんどようりょうがふえない)をだかいするにはおもいきって「きいろ」の「ややキケン」レベルまでさくじょするしかないかな、と(だってそのためのソフトだろ)。
●もう一ぽんはこちらもこのほうめんではていばんちゅうのてんばんのソフト「携快電話4」。けいたいでんわのなかにたまったメモリ(アドレスやメール)がPCのがめんじょうでかんたんにかんり・へんしゅうできてこれはきわめてゆうえき。ただしみせいりのデータをこんごせいりしていくあらたなさぎょうがはっせいしたのもたしかでいつもながらこういう「りべんせい」はタメになるのかとかんがえさせられもする。
●あす。きょうがこのようだったからとうぜんシワよせはある。だがそのシワをあいそうではないか(笑)。――しばらくモットーとしてこれをかかげたいとおもう。[24:26]

2001年5月21日(月)a
●あたらしい一しゅうかんがいつもとおなじ「おひるねフトン」をはこぶさぎょうとともにあけた(カゼがまだなおっていない細君が「じっしゅう」[こんしゅうはちかくのびょういんとほいくしょをかけもちである]のしょにちということであさはやくにじてんしゃででていったのでこちらはヴィッツによらずに「とほ」で)。そのご9:00からがくせいの「しゅうしょくようエントリーシート」のてんさくやにゅうしパンフの「こうせい」のやりとりがあってさらにみわたすといろいろとにたようなざつむがさんせきされていて…。というわけできょうは(いまヤラねばだれかがしぬわけではないこれらのざつむをおいて)これからヴィッツで朽木までおうふく三じかんの、ソバもくてきのドライヴにでる。しんがっきがはじまってからはじめてかな?[11:35]

2001年5月20日(日)c
●ふうふの「ふわ」[したのbをさんしょう]についてフトかんがえる(ほかにやることはないのかね[笑])。わがやにだってディスコミュニケーションはおおいにあるさ。が、お母さんのたちのあいだでおおくほうこくされていたノー・コミュニケーションのじょうたいはないとおもわれた(むしろ「すこししゃべるのをやめたら?」といわれることはある)。わがやのだい一の「もんだい」は夫のほうの「せいりせいとん」のだらしなさにそんする(ダイニングのゆか[ときどき「かみん」をとるあいすべきばしょ]にもいろんなしょるいやほんがしんしょくしてきている)。こういうじょうたいをかれの細君はほんらい「けんお」する。けっこんしてだいぶマヒしてきたとほんにんはかたっているがただしくはきぶんがいいときはまだゆるせるがそうでなかったりたいちょうがわるかったりするとますますそれをあっかさせるほうこうではたらくというべきである。とすればきょうはたぶんそのようなアブナイひであったはずなのだがこうして「もんだい」のしょざいがはっきりしていてしかしそのかいけつにむかおうともせずにっきのわだいにしている(いかなるわだいでもワタシのことにはふれてくれるなとかのじょはいうが)というのはどういうしんけいのもちぬしなのであろう(笑)。しぃらない。
●いずれにしても子をふろにいれてそのあといつもの母おやのかわりにえほんをよんでねかしつけるいがいはけっきょくなんのかくべきしんちょくもなかったよるがふけて、かきてにすいまがおそいかかってくる…。[25:00]

2001年5月20日(日)b
●ほいくしょの「ほごしゃかいそうかい」のとうじつというのに母おやのほうがカゼでダウンした(きのうの「おやこえんそく」のまえからすこしちょうしがわるかった)。「そうかい」それじたいはかってに子どもたちだけであそんでくれているのでもんだいはないのだけれどそのあとの「やきにくパーティー」のほうはいつものようにニクをやくお父さんたちのなかにはいってワイワイとのみくいすることがかなわずお母さんの「わ」のなかで子にしょくじをさせるはめになった。ここでお母さんたちの、こそだてのなやみやらふうふの「ふわ」やらにかんするいろんなホンネにせっすることができた(ヒゲヅラのおとこがひとりいるのも「め」にはいらないようだ[笑])のはいいけいけんであったというべきか。
●いずれにしてもひるまからビールをなんぼんもあけてアカらがおでかえってきたらとうぜんおひるね。だがそれからめざめても母のほうはかいふくにむかうどころかますますしんどそうなので子とふたりでライフ太秦店までゆうしょくのかいだし。ちかごろガマンしていたトミカのミニカーを一だい(ホンダNSX)かいあたえたあとマクドナルドでポテトとチキンナゲットをかってそのあとおそうざいなどをしょうしょう。ただしそうやってかいだしにいってもかえってきたらみんなあまりたべてくれなくて…。もうかってにしてくれよ、こっちもかってにするからさ。
●きのうといいきょうといい「しごと」(いろんな)のほうはほとんどしんちょくナシ。あすからの一しゅうかんをおもうときょうのこれから(せいかくにいうと子をおふろにいれてから)のすうじかんのあいだにでもこなしておくべきことはあるにはあるが…。ようはヤルきがおこるかどうかのもんだいである。[20:52]

2001年5月20日(日)a
[削除しました。]07:10]

2001年5月19日(土)
[削除しました。]
[削除しました。]16:26]

2001年5月18日(金)b
●ねむいのにねむれない。なのでつい(きらいな[笑])ニュース23をみる。ある「みんわ」のかたりべ(藤田なんとかさんというじょせい)のはなし――「やまんば」などのウソばなしをこどものころうけいれるとそのウソにきづいたあともそのポッカリとあいたくうかんにたにんにたいする/からの「あい」をうけいれることができるといったないようのことをかたっていた。なるほど「あい」もまたフィクションであると? そのしんぎはさておき(しんりだろう[笑])しんどくてもいっぱいウソばなしをかたってやろうというきもちにはなった。
●ところでこうした「きょこう」ろんにまつわっては(しごとがら)かいがのことをまずおもいうかべてきたわけだがきょうはえいがのそれをおもった。えいがにくらべたらかいがはまだそこにじじつとしてそんざいする(ミニマリズムだ)。えいがは――くだらないろんりをろうしてどうする? ただたんに「みたい」だけだ。[24:27]

2001年5月18日(金)a
●ゆうこく。せんじつからちいさなほっしんがでていた子を白梅町のびょういんにつれていって(たいしたことはないのだがいちおう「けいかかんさつ」)まちあいしつで一じかんあまりまたされる。えほんを三さつよまされてぐったりしたうえにしんさつがおわったじてんではイズミヤ(スーパー)の四かいのわしょくレストランもしまりそうなじかんだったのでちかくのケンタッキーフライドチキンに。母のいない、父子のつつましいゆうしょく。そのごは都ホテル(三条蹴上)まで母おやのおむかえ。なんだか三にんともぐったりしている。
●このつかれをしゅうまつにとって――といいたいところだがまずあすは「おやこえんそく」(双ヶ丘[ならびがおか]だっけ?)。ほんねをいえばサボりたいのだがさくねんはあめでちゅうしになったし
2000年5月20日(土)をさんしょう]らいねん(ほいくしょさいごのとし)もどんなてんきになるかわからないのでいちおう「さんか」するけついをかためてはいる。ちなみにそのよくじつもきょねんとどうようにほいくしょの「ほごしゃかいそうかい」。こっちはあめがふろうがやりがふろうがそのそうかいのあとには「やきにくパーティー」でもりあがることになっている(子よりも親が)。さけてとおれないこうれいぎょうじなのだが(笑)ことしはこのかんにもAO(アドミッションズ・オフィス)にゅうしのパンフのしゅざい+げんこうしっぴつのしごとも。やれやれ。
●ちなみに「やれやれ」はこんやこうしたないようしかでてこないこのにっきにかんする「たんそく」のひょうげんでもある(さくやのハイテンションはどうなった?)。[22:58]

2001年5月17日(木)c
●アントワープのルーベンスをうつす[したのbをさんしょう]にあたってはやはり『フランダースの犬』におけるそのえのあつかわれかたもあわせてしょうかいしたい。そこでおもいたった――DVDをさいせいしているモニタのがめんをハンディカムでさつえいしてそれをPCにとりこむこと(というのもDVDのがぞうはコピーできないから)。そこそこのえいぞうだが(むかしみたダビングをくりかえした「うらビデオ」がこんなかんじだった[笑])おとが(モニタからすこしはなしてさつえいせざるをえないこともあって)ちいさくてざつおんまじりである。そう、しつないのおともひろっている。ビールのかんをあけるおともはいってしまった。さいごはすすりないている(メンゲルベルクの《マタイ》じゃあるまいしこれは「こちょう」だ)。あすの「外書講読」をじゅこうするがくせいしょくんがさいわいである(と、こんやはあくまでもじしんかじょう)。[26:00]

2001年5月17日(木)b
●きょうもじゅぎょうのかいこ――三げんめの「基礎講読」(二かいせいむけ)はプロモーション・ビデオがテーマだったのだがもはやたんとうきょういんがしゃしゃりでるよちもなくがくせい三めいがホット・レッド・チリ・ペッパーズと浜崎あゆみとL’Arc〜en〜cielの三者の「さくひん」をそれぞれていじしてとうろん。ものがたりてき(えいがてき)なものからドキュメンタリィてきなものまでそのジャンルの「しょうらい」(笑)までかたってしまって、せんしゅうの「2チャンネル」5月10日(木)をさんしょう]のケースどうようおおいにべんきょうになった。
●つぎの四げんめのゼミは二めいのがくせいによる「ぶんけんかいだい」のはっぴょう。ボーヴォワールの『第二の性』の新訳によったさいしょのはっぴょうは(その「よびな」がまだなかったころにかかれた)「ジェンダーろん」のこてんをやはりいちどはちゃんとよんでおくべきとたんとうきょういんにつうかんさせた。中沢新一『リアルということ』(初版1994;文庫化1997;このこうしゃの版をしよう)をとりあげた二ばんめのはっぴょうはその二つの版のあいだにオウム禍があったぶんせきをけつらくさせていたてんがおしまれたが(ふようですか、そういうしてんは?)そのなかでしょうかいされた、あらたなる律法のとうらいをもとめる中沢のしてん(げんだいをエジプトてきエロスのじだいととらえてむしろかこくなる「さばく」へとどうほうをいざなったモーゼ[「十戒」はかれがシコシコとじぶんでいしにきざんだのだそうだ(笑)]のほうにきょうかんをよせる)がなかなかしんせんでやはりそのほんのこうにゅうをけついさせるにたるものだった。――って、プレゼンテーションとしてのひょうかはこんやはずいぶんあまいかな。
●プレゼンテーションといえばあすはたった四にんのがくせい(そのうち二めいはしゃかいじんのごふじんである)をあいてにかいこうする「外書講読」でとくいのPC+プロジェクターのしゅほうで「びじゅつし」のとくべつこうぎ。このありがたいこうぎをたった四にん(しかもひとりはサボるかくりつがたかい)しかきかないとはなんともったいない!――こんやはすこしげげんきだ(笑)。
●ちなみにそのあすのよるは細君がしごとでかいしょくにでるので子とふたりでゆうしょく。ライフ(スーパー)でラーメン+チキンナゲットでいくせんから「しまだ」でのごうかステーキまで「せんたくし」はいろいろとあるけれど。[23:40]

2001年5月17日(木)a
●「きのう」のぶんからまだじかんがたっていないがきぶん(どんな?)をかえるためにさっそくにかきこみたい――うちのセリはきょねん(2000年)の6月4日(日)にひろわれたのだが(ちなみにばしょは立命のうらのみちでけんきゅうしつからミャアミャアというこえがきこえたのででていったらダンボールにはいることもなくヨチヨチあるいていたのだった)そのじてんでせいご二、三しゅうかんといったみたてだったので、ということはちょうど一ねんまえのいまごろかのじょはこのよにせいをうけたことになる(べんぎじょうほかのネコとどうように「21日生まれ」ということにしているが)。とにかくきたなくてとくに「め」はつぶれているのではないかとおもわれたほどだったが、よかったねウチにひろわれて。というわけでしんやにひとりでかのじょのたんじょうをいわって(ひるまセンをぬいた)ワインを。[01:10]

2001年5月16日(水)c
●かていないのゴタゴタ(笑)にふれたしたのbをさくじょするかわりにさきにさくじょしたaのもんごんのいちぶをふっかつ――なににもおいたてられずにつくえにむかってタラタラとぶんしょうをかきつづる「兼好」てきなせかいにちんせんしたい(それでときどきえいがやえんそうかいにあしをはこんでそのかえりにおいしいものをたべて)。そのためだったらしょうしょうあこぎなしゅだんにでもてをそめるゾといったそんなきぶん。
●じゅぎょうのかいこを――『奇跡の丘』もつかった。まずはぼうとうの「しょじょかいたい」と「らいびょうかんじゃのちゆ」の二つのきせきのばめん。だが《受難曲》とのかんれんがもんだいとなる、きせきをおこすちからがうせてからのイエスにまつわってつかったのはペテロのどうこくをあつかったみじかいばめんだけ(バッハのほうでは第二部ぼうとうちかくのひとつのおおきなヤマである)。パゾリーニがせいとうにもペテロよりもげきてきにあつかっているユダの「死」はおんがくてきにきょうみふかいもんだいとしてあつかわれていないのでむしろロイヤル・バレエの《ユダの木》(マクミラン振付)とのひかくでいつかなにかのじゅぎょうで。――うん、じゅぎょうだけだったらまだまだまえむきになることができるのだが。[22:30;24:00一部修正]


2001年5月16日(水)b
[削除しました。]19:45; サーバ不調の事情が重なったため食事終了後の20:40にアップ]

2001年5月16日(水)a
●さくやはけっきょくアレからもういちど三じかんにわたって《マタイ》をみなおして(どこをじょうえいするかをぎんみするひつようがあった)それからへんしゅうにはいったのですいみんは一じかんはんだった。さすがにしんどくてごごははやめにきたくしてビールをのんだがしんけいがたかぶってねむれないのでさらにワインをのんでじゅうぶんアカらがおになったとおもったらほいくしょのおむかえのじかんがめのまえにせまってきた(どんなにひきのばしても二じかんごには子をひきとっていなければならない)。ひるまからのんでる父おやがいるとおもわれるさいあくのパターンかもしれない。
●ねむれないので「えいがろん」をかきはじめた。デジカメをかったときには「しゃしんろん」をかくといったしそのまえには「おんがくろん」もよこくしたはずだ。いや、そのまえにちゃんとした「かいがろん」はどうなっているんだ? どうかせめないでほしい(笑)。
[削除しました。]16:08]

2001年5月15日(火)
●あすの「芸術論」(あさ一げんめ)で「じょうえい」する《マタイ受難曲》(小澤/SKO)のPCへのデータとりこみがいままでかかった(やく三じかん)。これからそのへんしゅうにとりかかるのでしばらくまたPCはつかえない。しゅうまつにじゅんびしなかったツケがまわってきているわけだが(そんなことわかったうえであそんでいたんですから)いずれにしてもこのヨーロッパさいだいのしゅうきょうおんがくについてすくなくともCDのライナーノートのるいをよんだだけではわからない「さくひんこうぞう」と「れきしてきはいけい」についてろんじることのタイヘンさがいまからおもいやられるしまつ(せんしゅうはビデオをながしたがこんしゅうはそのへんしゅうのりべんせいにかけるのである)。ところですでにとりこみずみの、おなじくマタイ書にもとづいているパゾリーニのえいが『奇跡の丘』は? こっちのほうはまだりようほうほうをきめかねている。
●えいがといえば――せんじつこうにゅうしたあるさくひんのサントラばんのCD(あいかわらずこちらではなまえをかかない[笑])をかけたらいきなりしゅじんこうのオトコのつぶやきごえがはいっていてビックリ(ゆうがたのおはなし)。すうきょくながれたのちにこんどはオンナのこえが。こちらはゾクっとした(いいいみで)。まだ「お」をひいている(笑)。[23:55]

2001年5月14日(月)
●『旅芸人の記録』はしたのbをかいたあとにじょじょにおもしろくなっていった([あいかわらず]「げきちゅうげき」のぶぶんと[ふきんしんだが]にんげんのさつりくがからんでくるばめんとが)。だがさすがにあさの五じまでつきあうきりょくもなくとちゅうでしゅうしん。こうなるとろくがはしたがずっとさいせいされることのないおおくのビデオ・テープとおなじうんめいをたどることはかくじつである。
●そのごはいっきに二十じかんほどもとんで――ついさっきまで「かみん」(だからこんやのニュースもまだみていない)。たいしたこと(ここにかくべきこと)はなにもしていない一にちなのに。[26:10]

2001年5月13日(日)b
●しんや。『旅芸人の記録』をみる(BS2)。つまらない(笑)。さくひんがそのようなものなのか(きっとそうではないだろう)えいがかんでなくじたくの21インチ(かな?)の小がめんだからか(へやのなかはこうこうとあかるいし)。もっともありえそうなりゆうはラヴストーリーでないからというものであろう(笑;でもこれから「ある」のかもヨ)。いずれにしてもわが「こんじょう」のなさのゆえにおもわずれいぞうこのなかからギョウザ(しょうみきげんがきれて二日たっている)をとりだしてジュウジュウやいてさっきからカンビールかたてにそれをしょくしていることをこくはくしておきたい。[25:35]

2001年5月13日(日)a
●ひる。しょくぶつえんにはけっきょく「ついていった」[さくじつのaをさんしょう]。きょだいなもくせいのゆうぐで子とあそんでそのあと「こかげ」でべんとうをたべて三十ぷんほど(母子がどこかにいってるあいだに)しばふのうえでひるね。ちなみにきたくしてビールをのんでそのあともほんかくてきにひるね。
●よる。しょくじのあとひとりでおでかけ。ひるのかぞくでのおでかけがあるのできがねなく(笑)。
●あす。いっけんするとこうむがないひ。そのようにすごすか、それともつぎのひいこうのことをかんがえて「ゆうえきに」すごすか(しかしだれのため/なんのために?)。[00:15]

2001年5月12日(土)b
●しっぱいした――BS2でやっているグルックのオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》がおもったよりおもしろい。すじはちゃんとおいかけていないが「しんえんしゅつ」がまずうつくしく、またなによりみみできいていてじつにここちよい(ちなみに「ぼう」はガーディナーだ!)。このビデオろくがのよやくをじかくてきにおこたったのはひるまのN響ライヴ(R・シュトラウスの「最後の四つの歌」がかかった)とよるのヴェルディのぶたいびじゅつにかんするドキュメンタリィの二ほんをとりそこねたくやしさのゆえだったのだが…。くやんでもくやみきれない(とちゅうからでもろくがすればいいのにそういうきにはならない)。25:45]

2001年5月12日(土)a
●あまりにぼんようなふうけいとしてどくしゃのめにうつることはまちがいないが子がきょうからスイミングきょうしつにかよいはじめた。ごぜんのおたのしみをすませてほいくしょに13:00にすべりこんでそのままきょうしつ(上京区中立売通智恵光院角)までおくりとどけてそこにしょくばがちかい母(土ようびもたいがいやすめない)がかけつけてごうりゅう。けっこうなはなしだがほぼまいしゅう(つきに四かい)土ようびのおひるがこのことでとられるとおもうとすでにしていくぶんかにがにがしい。そうやって父としての「さいかく」についてみずからぎねんをおぼえるこのしゅんかんにもかこくにもあすのよていがつげられる。しょくぶつえん(北区北山)にいくのだという。父のさんかけいたいは(1)かんぜんさんか、(2)アッシーさんか、(3)ふさんかの三つあってそのなかから一つをじゆうにえらぶことがゆるされている。もちろんこの「じゆう」ということばがさいだいのプレッシャーであることはいうまでもない。
●「く」あれば「らく」あり?――うえの「しごと」からもどってから一じかんはんほど子とおひるね。あつくもさむくもない一ねんのうちにそうなんにちもあるとおもえないごご。[23:38]

2001年5月11日(金)
●きのうかきわすれたがけんきゅうしつのPCのインターネットがかいふくした[5月8日(火)をさんしょう]。もんだいはインターネットエクスプローラ5.5にではなくタッチパッド(ノートパソコンのマウスがわりのアノたいらなそうさばん)にあったようでドライバ(そんなのにもある)をこうしんすると「戻る」ボタンがいきかえったのである。えんえんともどることなくリンクをたどりつづけることになれはじめていたが(笑)やっぱりひきもどすことができてこそのインターネットとつうかん。ちなみにかいけつのいとぐちはある「おたすけ」サイトでのアドヴァイスであった。
●そのけんきゅうしつのPCできょうはひさびさにじぶんのにっき(もちろんいまかいているやつだ)をよむ。おもわずさくじょしようかとおもうものもいくつかあったがそれよりもさぎょうにっしじゃあるまいしなにをちくいちほうこくしているのだろうとおもわれた。ないようてきにただ「つたない」、「まずしい」だけでなく「むぼうび」ですらある。もっとヒミツいっぱい、ミステリアスであらねばならぬ――なにをいまさら(笑)?
●となるときょうほんとうにかくべきことは――ごごのかいぎではらだたしいことがあったのでちゅうざしてじたくにもどってドロドロのヴィッツをひさびさにあらってやったことくらいか。ささやかな、しかしもっともひつようとされるじかん。
●あす。ごぜんちゅうに一しゅうかんぶりのじゆうじかん(なにかをちゅうざしなくてもいい)ができる。アレしてコレして――って、そんなにいろんなことができるわけがない。[24:00]

2001年5月10日(木)
●ごぜん。ごごのじゅぎょう(二かいせいむけ「基礎講読」)のためにえいが「ピアノ・レッスン」のへんしゅう[5月3日(木・祝)をさんしょう]のしあげ。すなわち二じかんほどのなかから(1)ぼうとうと(2)ちゅうばんと(3)ラストの三かしょ、けい二十五ふんほどを(2)-(1)-(3)とじゅんじょをいれかえて。
●ごごの「ほんばん」ではそのへんしゅうされたえいぞうにありがたいかいせつをつけてじょうえい。いとしたとおりにいったかどうかはさておきPCでへんしゅうしたえいぞうをプロジェクターでじょうえいしながら(いまはまだかえってじかんがかかるのだけれど)じゅぎょうのスタイルがかくじつにかわりつつあることをじっかん。ちなみにもうひとり、がくせいたんとうぶんのプレゼンテーション(らいしゅうからはすべてがくせいたんとうとなるがこんしゅうはぶんたんした)はメカやPCにつよいじょしがくせいがきょだいけいじばんサイト「2チャンネル」をめぐるもんだいをニュースえいぞうなどもまじえてオリジナルばんぐみのようにへんしゅうした、きょういんのそれよりもはるかにハイテクな「でき」。「つうしん」のせかいでつうようしているタームにかんする「ようごしゅう」(レジュメにてんぷ)もじゅうじつのきわみでとても「ため」(なんの[笑]?)になった。
●ところでこのじゅぎょうのようすをよるのコンパでゼミせいにはなすとゼヒわれわれ(うえのじゅぎょうのつぎのじかんにゼミがかいこうされている)にもそのリミックス版『ピアノ・レッスン』をみせよ、と。いいともと「やすうけあい」したばかりでなくはくちゅうの銀座でのたいけん
[VAIO日記の4月23日(月)vaをさんしょう]いこうなおつづいているひそかな「えいがねつ」をペラペラかたってしまって(そうだこのばしょや第2室ではごくごくひかえめにふれているのに!)かえりのみちすがらクチのかるいヤツだとふかくはんせいした。
●そのコンパだが、デジカメでとったしゃしんのかずかずはどうしてくれよう――ゼミのページのかたすみでひっそりこうかいするからネといいはしたもののそういうのってけっこうめんどうだったりする。みんなよっぱらっていてきっとわすれているだろう(としんじたい)。
●あす。あさ二げんめにこうどく(三かいせいむけ「外書講読」)のじゅぎょう。テキストはナショナル・ギャラリーしょぞうのベラスケス《ヴィーナスの化粧》
[著作権問題を考慮して図版は4日間で削除しました]のかいせつぶん(きょうはていねいだな[笑])。ほんとうならそこでもPCでがぞうをみせたいのだがWEBでしゅうしゅうしたもののせいりがまだすんでいない(よっぱらっているのでこんやはできない)のでらいしゅうへまわそう。ごご。かいぎ二けんほかざつようさんせき。でもそれでこのたいへんだった一しゅうかんがようやくおわる。[24:25]

2001年5月9日(水)
●あさ。一げんめのじゅぎょう「芸術論」はビデオきざいのふちょうではじまる。よびにはしってつれてきただんせいしょくいんのてをかりて十五ふんおくれでかいししたがとっさにヤリクリしてなんとかよていりょうをじかんないに。そのとちゅうフトじゅこうせいのなかに花音さんをみとめる。あとからきいたところではとうろくはされていないのにわざわざちょうこうしてくださったのだそうだ。ちなみにこれはごほんにんから「第2室」でほうこくされることだろうがここすうかげつのたぼうがむくわれたようす。ぼくはすでにきいてしまったからはやばやと「おめでとう」と(ちかぢかやくそくのソバをたべにいこう)。
●つぎのじかんはにゅうしかんけいのパンフのしゅざい。たんとうはこのあいだとおなじ、にゅうしゃ三ねんめ(きょうききだした[笑])というまだうらわかきSさん。このあいだは「おじょうさん」なんてかいてしまったが
[5月7日(月)aをさんしょう]そこはどうしてしゅざいのさいちゅうのメモをとる「てつき/めつき」はこのやっかいなしごとをだいがく一こうぶんまるごとまかされているだけあるとおもわせるにたるもの。もっとも、しゅざいがおわってネコのはなし(しろいのをかっておられるそうだ→これはたまたまききだせた)になると「もと」にもどるのもはやいけど(笑)。というわけでこちらのこともせんでんしたのできょうはタマのページのカウンタがひとつアップ。
●ごご。かいぎ(にゅうしがらみ)とだいがくいんのゼミ。鶴岡真弓せんせいのゼミのIくんがM2のはるのじてんとしてはしゅういつのはっぴょう。シノワズリィをけんきゅうテーマにしているがきょうのはっぴょうはアンデルセンをそのかんてんからかいぼうしてみせた。おみごと。
●そのごはけんきゅうしつでがくせいのめんだんやらざつようやらをこなしているうちにあっというまにゆうこく。子にきのうからすこしあかい「ほっしん」がでているので母とともにクルマでびょういんへ。そのかんにこっちはライフ(スーパー)でそうざいるいのかいもの。しょくじをとったあとはにゅうしかんけいのさくぶん(ぼしゅうようこうにのせる)やあすじゅぎょうでもちいるビデオそざいのへんしゅうなど。そういえばこんやはだいがくいんせいのコンパがひらかれているがしごととつかれとでやすませてもらった。ところがあすはわがゼミのコンパ(四条河原町あたりで)。やすむわけにはいかない。
●どうでもいいけどつかれがたまって「いき」のながいぶんしょうがかけない(ながいのがいいというのではないが)。もちろん「すいこう」するよりょくもなし。[24:40; 26:00一部修正]

2001年5月8日(火)
●うまく「おしつけ」ることができた(「しゅじ」にはもうしわけないが)とおもっていたせつめいせきにん[さくじつのbをさんしょう]だがさいごのきょうじゅかいでとつぜんなんのまえぶれもなくこっちにとんできてしょうしょうあわてた(もちろんちゃんとこなしたが)。ていあんはいずれにしてもぶじつうか。あとは「ようこう」のもんごんのかくていをあさってまでに(あしたはきのうキャンセルしたパンフのしゅざい[とくにさくじつのaをさんしょう]も)。
●そのかいぎのまえはギリギリまでしりょうさくせいでつぶれたので(さくやサボったからだ[笑])じぶんのじかんなどないもどうぜんだったがほんのわずかの「じゆうじかん」にアゼンとするトラブルをはっけん。meにアップグレードしたPCでブラウザすると「戻る」のボタンがきかない。いっしゅん「戻」ってもまたすすんださきのページに(そのようないみで)「戻」ってしまう。まえのじょうたいにバックできることがインターネットにとってどれほどじゅうようであるかおもいしったしだい――なんてノンキなことをいってられない。マシンがmeをうごかすだけのスペックでないこともおおいにかんがえられるし「おたすけ」サイトにかけこんでしつもんしたらインターネットエクスプローラ5.5の初期?ヴァージョンでそのようなトラブルがほうこくされたことがあるというレスをつけてももらったのだが(そのヴァージョンなのかどうかがわからない)とにかくふっきゅうのためにさくじかんがない(でもにっきはかいているが)。すくなくともしゅうあけくらいまではけんきゅうしつのPCはただのワープロにすぎない(ずっとそのままのかのうせいもある)。
●そんなトラブルがひろうをぞうふくさせて、いまはなにもやるきがおこらない(もういちどかくけどにっきは…[笑])。とうしょこんやによていしていたパゾリーニ『奇跡の丘』のへんしゅうさぎょう(水よう一げんめの「芸術論」でぶぶんてきにじょうえいするつもり)
[5月3日(木・祝)をさんしょう]のつづきはだんねん。あすはおなじマタイかられいかんをあたえられた大バッハの「じゅなんきょく」(小澤/SKOのまいとしうつす「ていばん」)と「モツ・レク」(ブリュッヘン/十八世紀oのすばらしい東京こうえんのきろくがある)で「おちゃをにごす」。いや、じゅこうせいのどくしゃがいないともかぎらないので(いつものように)アツきおしゃべりも。
●あすのことをかんがえるまえに「かみん」をとろう。いまがんばろうとしても「こうりつ」がわるいだけである(こうりつのわるいことをむしろあいしているのではなかったか?)。[22:00]

2001年5月7日(月)b
●かいぎでのせつめいせきにん[したのaをさんしょう]はしかしわがみにあるのだろうか。ぜったいにこのほうがうまくいくとじしんをもってなすていあんのいくつかをきゃっかしつつつくられる「しっこうぶげんあん」であるいじょうそのしっこうぶのメンバーである「にゅうししゅじ」がそれをせつめいするべきである。とかんがえたしゅんかんにデザインするいよくがきゅうそくにうすれてきてじつはさきほどからなんらのぐたいてきさぎょうもおこなっていない(いまはすべてアタマのなかでのさぎょうである)。ビールをあおりながらサラダののこりものをしょくし(チーズはどこへいった[笑]?)さらにそれにさそわれていまあらたにワインのせんをぬこうとしている。ベタうちぶんしょですませるけついとはいえそれでも小一じかんほどでできるぶんしょでないのだからいましたがきでもするかあるいははやめにねたほうがみのためだとおもうよ(と「たにんごと」のように)。
●わがことをたにんごとのように→すなわちしんやのげんじつとうひ。たにんごとをわがことのように→もうひとつのげんじつとうひとしてのえいが? いや、ひていされるべきるいすいにすぎない。[25:57]

2001年5月7日(月)a
●ひさしぶりにがっこうにでるとざつようがさんせきしていてあすのかいぎのしりょうさくせいどころではなかった(ふるいwindows95マシンをme[millenium edition]にアップグレードするのに一じかんはんもかかった「ごさん」もあった)。よってそのしりょうさくせいはこれからである。あさまで(笑)?
●にっきなのだからにっきにふさわしいないようも――にゅうしかんけいのしゅざいは二けんのうち一けんをキャンセル(むりをいってあさってにへんこう)。さすがにがくぶとしてけつぎされていないもんだいについてペラペラおしゃべりしてしまうのはまずいからである(どくさいしゃてきにヤラせてもらえればわるいようにはしないけど[笑])。それにしてもしゅざいにおとずれたおじょうさん(とかくとしつれいなのだろうか?、どくしゃよ)はなかなかにチャーミングでおもわず東芝日曜劇場『ラブストーリー』の中山美穂をおもいうかべたりした。ということはしゅざいされるがわ(ドラマのせっていは「しょうせつか」だが)であるこっちは豊川悦司か? わるくない(笑)。
●あす。やはりかいぎのわだい(それしかない)。うえのしりょうはみめいのうちにかんせいまではいたらずデザインはきしょうごにまわされるだろう(でもなんじかんねむれるのだろう?)。そのあとしょうごの「しっこうぶかいぎ」から「しゅにんかいぎ」そして「きょうじゅかい」とそのしりょうにまつわるせつめいせきにんがゆうこくまでついてまわるかのうせいがある。――ヤダな。ソバをたべにいきたいよぉ。みたいえいががあるんだよぉ。[23:52]

2001年5月6日(日)b
●わすれていた――みょうちょうは「ごもくとうばん」[ちかいところでは4月1日(日)cをさんしょう]。ほいくしょにひるねようのフトンもはこばねばならないししゅざいまえのけんきゅうしつのせいそうのじかんはこれでますますけずられる。いそがしいときにかぎって。[25:15]

2001年5月6日(日)b
●しかしなんといってもチャン(げきちゅうでもおなじなのふじんをえんじる)がいちばんうつくしかったのは「やぬし」のチャウさんに「おそかったわね。どこにいってたの?」ときかれて「映画をみてきたの」とこたえるばめんのしぐさと(すこしかなしげな)ひょうじょうである。そしてそのひょうじょうはめぐまれたばあいにはその、まさにえいがの一ばめんをみつめるかんきゃくのそれにきんせつする。――って、いつまでこのえいがのわだいをひきづるのだ(笑)? いや、しりょうさくせいからかいぎほんばんにいたる、みめいからつぎのひのゆうこくにいたるながいながいサスペンドじょうたいからやっとふっきゅうしたまでである。そしてごあんしんを、いつもながらのこの「じこげんきゅう」のトピックスにげんきゅうされることでさすがにマル一にちわがしんたいによいんをのこしたえいがのわだいは「しゅうりょう」されるのだからである。
●「あす」。「あさって」のきょうじゅかいのために「きょう」のぎろんをはんえいしたまたあたらしいぶんしょをさくせいしなければならないが(ヘタをするとこうしたことがあと一しゅうかん[にゅうしようこうのげんこうしめきりまで]つづきかねない)そのまえにおなじにゅうしかんれんで二けんのしゅざいがある。どくしゃよ、らいねんどようのわがだいがくのパンフには二かしょ、ぼくのしょうぞうがでるからね(笑)。いやしかしねぶそくのためにひだりめのおくのほうで「ものもらい」がはっせいちゅうである。いや、そのなはあさましいのでいかにもかわいく大阪弁で「めばちこ」とよんでおこう(けっしてあるしゅの京都じんたちのように「めイボ」とよんではいけない→いつかおなじわだいを「けいじばん」でかたったな)。そんなことよりももんだいはいかにしてしゃしんにそのメをはらしたひょうじょうをとられないか、である。[23:45]

2001年5月6日(日)a
●わかった。あのえいが(だからタイトルはなんなんだ[笑]?)がせつないのはほかでもない、まさにえいがをみることのそれといくぶんかにていて、またいくぶんかにていないからだ――おとことおんながみれんをのこしながらわかれたようにわれわれもまたみれんをのこしながら(いちど「いにゅう」した「かんじょう」をじゅうぶんひきもどしえないままに)えいがかんをさる。パンフレットやサントラばんをかっても(かったの?)そのみじかきじかんまでがもどってくるわけではない。そしてこのせつなさがぼくをながらくえいがからとおざけてきた(たぶん)。この二しゅうかんのけいけんによって「ふたたび」(というのもちゅうがくじだいの「ゆめ」はえいがかんとくになることだったのだから[笑])えいがフリークにもどるだろうか。ありえない、ありえない。えいがはじかんげいじゅつだからである(ぼくにはじかんがない)。[02:25]

2001年5月5日(土・祝)d
●こよいはとまらない(笑)。いや、ちょっとしたついきだ(そしてこのついきがたまにしかここをおとずれないどくしゃのめからしたのはずかしいえいがかんしょうだんをいんぺいする。→でもこうやってじこしんこくしてはこうかがないのではないかね)――こんしゅう黒ヴィッツがのうしゃからちょうど七かげつめにしてそうこうきょり五千キロをとっぱしてあわせてへいきんねんぴを十一キロ/リットルにのせた。とくにさいきんはめだったとおでは奈良のじっかとのおうふくくらいなのに十二キロ/リットルにちかいこうせいせきをおさめる。こうさ(黄砂)にはくるしめられたけど「だんきうんてん」のいらないあたたかさのおかげである。ところがさいきんはもう「れいぼう」がほしくなるときもあってまたまたねんぴがあっかしていくことがおおいによそうされる。ひとりのときはまどをぜんかいにしてはしればいいがかぞくがのっていてはそうもいかない。いっておくがガソリンだいをケチりたいのではない。じゅんすいに「きろく」のもんだいである。[25:50]

2001年5月5日(土・祝)c
●しごとをしていてもときどきえいがのじょうけいがめにうかぶ(笑)――おとことおんなは二ど、いわば「げきちゅうげき」をえんじた。とくに二どめのは一どめにそのトリッキィなえんしゅつにヤラれたとおもったはずなのにまたおなじてでヤラれたのではらだたしくまた、それでこそそのえんしゅつがよりこうかてきなものとなることがりかいされた。そしてその二つの「えんぎ(れんしゅう)」のあとでおんなは二どとも(そして二どめはよりはげしく)ないた。そしてその二どしかなかなかった(たんにひとりでなみだするいがいではほかにあったかな?)。それがますますそのえんしゅつをこうかてきにした。えいがとしてのひゃくのけってん(いえたクチか)をおぎなってあまりあるというべきである。
●えんしゅつといえばいまBS2でアーノンクールがぼうをふってバルトリがうたうモーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》の「しんえんしゅつ」ばん(たぶんARTHAUSレーベルからDVDででているやつだ)がほうそうされている(ますますみょうちょうまでのしごとがすすまない[笑])。これにかぎらずオペラのしんえんしゅつにはわがくにの「かぶき」にはない「てんかいかのうせい」をかんじさせてくれるものがたたあるがこよいはしかしバルトリの「びぼう/びせい」もまんぷくになったあとにつきつけられたステーキのごときものとかんじられる。りゆうはめいはくである――マギー・チャンのヒョウのようなうつくしさ(ほかにもっときのきいたひょうげんがないかね)にせっしたからである。[25:23]

2001年5月5日(土・祝)b
●GWがもうおわっただなんてあまりにもかなしすぎる――そのaでふれたしりょうが14:00すぎにほぼかんせいしたのでクルマをきゅうきょはしらせて、またしてもえいがかんへ(かぞくはおおがたしょてんにむかったとおもっている)。「独身時代はいろんなことができたけれど結婚するとそうもいかない。独身だったらどうだったと思う?」、「もっと幸せだったかしら」といったかいわがたがいにはんりょをゆうするだんじょのあいだでかわされるさくひん(またしてもタイトルはふせられる)はそれだけでもうあるしゅのリアリティをもってせまってくるが(笑)そうかたるふたりの「びなん・びじょ」ぶりが「かんじょういにゅう」にさいしてかなりたかいハードルとなったのもたしかである。いや、それでもおおいにそれはかのうであったとこくはくしておく。とりわけせいしんてきにはすっかり「始まっ」てしまっているのになかなかにくたいてきないっせんをこえないだんじょの、えいがてきにみるときわめてふしぜんとさえおもわれるせっていに。「せつなさ」はわがぶんがくてきこうかいの「らしんばん」であって(笑)それはあるときには立原正秋といういまやけっしてメジャーではなくなったしょうせつかのさくひん(とはいえそれはときに「かんのうしょうせつ」まがいのじょうけいびょうしゃをふくむ)の「どくは」にむかわしめたのだがしゅえんのマギー・チャン(きれいだったな)のちぶさのひとつもみえなかったこのたびのえいがは「せつなさ」のてっていのてんで二、三にちはわがしんしんにここちよいよいんをのこすことであろう(って、こんなにナイーヴにこくはくしていいのだろうか?→でもここはにっきなのだよ)。
●うえでふれたしりょうはじつはあとからみなおすとずいぶんてなおしするばしょがはっけんされた。あすのあさにはいんさつにまわされるしりょうである。たぶんこれから二、三じかんほどかけて…。[22:10]

2001年5月5日(土・祝)a
●「さくじつ」ぶんをかいてからまだすうじかん。「あす」6日(日)は「文学部拡大集中調査委員会」というかいぎがあさからばんまでロングランでひらかれるのでじっしつてきにはれんきゅうさいしゅうび。いや、つきがかわるまえにしあげているはずだったそのかいぎようのしりょう[4月29日(日)をさんしょう]ができていない。すでにおわったのだ、きゅうかは。[04:20]

2001年5月4日(金・祝)
●かくことがなければにっきはやすむべきだとつうかんする(それでもそのことをミニマルなないようとしてにっきがかかれる)一にち。
●ちなみに(かくからにはかいてしまうが)子はカゼ。どうしてこんなじきに? だがひさびさに、ほんとうにひさびさにしんしつでのなきごえがかいかにもひびきわたるよる。[26:40]

2001年5月3日(木・祝)
●ひる。ちかばの「たび」からもどるとちゅうでゼスト御池にクルマをとめてJEUGIA三条本店へ。オペラのレパートリーがじゅうじつしたBel Canto Societyというマイナーレーベルのビデオにレーニャしゅつえんのワイル《三文オペラ》があったのでよろこびいさんでこうにゅうしてじたくでさいせい。ところがこれははたしてもじどおりのオペラのきろくではなく1931年せいさくのえいがなのであった。だからというのではないがさいせいはさっそくちゅうだん。オペラであってもじじょうはかわらないはずだが「もじテクスト」から「がぞう」そしてさいきんは「えいぞう」などもPCにとりこんでりようするようになってあらためてきづくケタちがいのデータりょうの「さ」のことがほとんど「ぶんがく」と「かいが」と「えいが」のかんしょうにさいしてのエネルギーのそれのようにかんじられ、かぎられたじんせいのうちにこのようなじかんげいじゅつはなんてんみることができるだろうかというあんたんたるおもいにとらわれてしまいさえする。もちろんこのようなるいひは「むこんきょ」であるいじょうにぶつりてきエネルギーのかんてんにたてば「ぶんがく」のかんしょうがいちばんおおくをしょうひするだろうじじつをおおいかくしさえするのだがいずれにしてもPCのスペックがおおはばにこうじょうしてえいぞうのとりこみ、へんしゅう、ほぞんにいまほどのストレスをかんじなくなったらそれからわずかばかりかいほうされることもきたいされる、じぶんでもびょうてきとおもわれる「きょうはくかんねん」なのではあった。
●うえとも第2室にかきこんだわだいともちょくせつかんれんしない(いや、かんれんするかな?)やはりえいがのわだい。れんきゅうあけのじゅぎょう「基礎講読」(木II;まだねんどしょとうのためにさんかしゃのプレゼンテーションがきどうにのらない)で「ピアノ・レッスン」のいちぶをわがプレゼンテーションのそざいとしてみせる。「PCモノ」(「パソコン」ではなくpolitical correctness[政治的正義]のほう)となかばバカにしてみていたけどラストのえいぞう/えんしゅつにおどろいた
[1月3日(水)aおよび4日(木)aをさんしょう]とピエロになってわがナイーヴさをじこしんこくするよていなのだががくせいたちはけっこう「じゅんしん」だから(?)こちらのいとがからまわりすることもおおいにありうる。いずれにしてもそのぜんじつ9日の『奇跡の丘』[4月29日(日)をさんしょう]のこともあわせてえいぞうをそざいにしたじゅぎょううんえいはまだまだてさぐりのじょうたい。
●しごとのしんちょくはぜつぼうてきである。むりもない、レイトショーでえいがをみたよくじつに(ちかばとはいえ)「たび」にでてかえってきたらビデオのへんしゅうとかにかかずらわっているのだからである。[23:50]

2001年5月2日(水)
●したでふれたえいがについてもうひとことだけ(笑)。じぶんのはんぶんほどのねんれいのわかいむすめにだっていれこんでしまいそうなだいがくきょういんならちょっとかんがえただけでも(それにきわめてせまいにんげんかんけいなのに→ただし立命いがいももちろんふくむ)五にんほどのかおがしゅんじにうかぶ、それくらいに「ありえそう」であり/かつまた「ありえない」ほどばかばかしいオハナシなのだがなによりもわらえたのは「ほん」をしっぴつするしごとをかかえながらまったくそれがすすまない、やはり「ひきん」なせってい。だがかれがむすめにそそいだエネルギーというか、そんなものよりなによりかれからわきだしてくる「パロール」(すごくおしゃべりである)のなんぶんの一かを「エクリチュール」にてんかするだけで(クオリティはさておき)ほんなどすぐにかけてしまうであろう。あそこまでではないがかなりのおしゃべりにんげんとしてこのてんは「きょうくん」として…。
●じつは――れんきゅうちゅうゆいいつの「かぞくサーヴィス」(ここではこのひょうげん/こういがとてもはずかしくかんじられる)で「きょう」はとちゅうからいえをるすにする。奈良のじっかとあるしゅくはくしせつを「からませる」こといがいはしょうさいまではかくていしていないたび。いや、たびとよべるものになるかどうかもよくわからないのだがかきとめておくべきないようがはっせいしたらばそれはVAIO日記のほうで。[07:20; 08:15一部修正]

2001年5月1日(火)c
●よる(ひるまのことはきかないでほしい[笑])。えいがをえいがかんでみる。レイトショーというのだろうな、こういうの。それよりもただでさええいがかんにいくことがめずらしいのにここ十日のうちに二どめというのがじぶんでもおどろきである。で、さくひんのことは「リアルタイムでじぶんたちのもんだいとしてとらえるにはこのえいがはあまりにざんこくである」とその一どめのえいが『もういちど(innocence)』[VAIO日記の4月23日(月)vaをさんしょう]をみる「ろうじん」たちについてかいたことがこんどはじぶんにあてはまるような、ちゅうねんのだいがくきょういんのれんあいをえがいたえいが、とのみふれてタイトルはあげないでおくが(笑)それはさておいてパチンコやの二かいにあるそのはじめていくえいがかんのロビーにはいったしゅんかんにだんせいじゅうぎょういんのひとり(といってもあとのじゅうぎょういんはじょせいひとりだったが)から「Uせんせいですね」のただしいなまえをよばれてたじろいだ。いえをでるまえにちゅうしゃじょうがあるかどうかをでんわでたずねたのでそれでなまえがわかったのかなといっしゅんワケのわからないことをかんがえたがきけば立命のしゅっしんしゃでざいがくちゅうにはぼくのじゅぎょうを二つとっていたとのこと。うえにかいたような「ひきんな」きょうみでみにきたとおもわれたカナと、これまたどうでもいいことなどがあたまをしゅんじにしてめぐってきっとおおいにせきめんしていたことであろう。だがステキな(しかもちゅうしゃじょうもある)「めいがざ」だからたまにはりようしよう(スクリーンにむかって「じょうしょう」していくきゃくせきのこともそのうちなれるだろう)。
●ついき/なまえにかんするていせい。「きょう」のみめい――もう二十じかんもまえ――にかいた
bにあやまりがある。フリッチャイがふった《青ひげ公の城》のオケはベルリン放響がただしい。おびただしいめいばんのかずかずをうみだしたコンビ(どうきょうのシュタルケルをソロにむかえたベートーベンの三重協奏曲のろくおんもある)のなをあやまったことをめいきしておきたい。[24:00;2日後に一部字句修正]

2001年5月1日(火)b
●しんや。バルトークのオペラ《青ひげ公の城》をブーレーズ/シカゴ響/ノーマン&ポルガールできく。ていひょうあるフリッチャイ/ドイツ放響のドイツ語盤(フィッシャー=ディースカウの青ひげ公がかくべつ)もみみできいてりかいできるわけではないが原語(ハンガリー語)によるこの盤だとドイツ人も「じまく」なしではわからないのだろうとみょうなあんしんかんがある(笑)。
●ちなみにことしのサイトウ・キネン・フェスティヴァルのオペラはヤナーチェクの《イエヌーファ》にきまったようだが(とうぜんチェコ語であってほしいものだ)四日じょうえんされるうちのさいしゅうび(9月7日)は松本までしをのばせないことはない。10日から四日かんつづく愛知県芸大でのしゅうちゅうこうぎをおもうとキツイかな。いや、ヴィッツで松本から名古屋にまわるてもある(だがそのかん子のおくりむかえはどうする)? それよりなによりいまから9月のよていをくもうとしているところがどうかしている(笑)。[03:55]

2001年5月1日(火)a
●VAIOようの「そとづけ」CD-Rドライヴ(PCカードによるせつぞく)がデスクトップPC(もともとCD-Rドライヴをとうさいしている)にもしようかのうであることにきづいた。これじたいはとうぜんといえばとうぜんのじたいなのだがこのしようによっておんがくCDのデータをいったんWAVEけいしきでハードディスクにとりこむことなくダイレクトにコピーすることがかのうとなる。いっけんささいなへんかのようだがコピーにようするじかんがはんげんするのだからこれはおおきい。いや、たいきょくてきにはやはいささいなわだいだ(笑)。
●ささいなのだが「ひづけ/つき」がかわってまもないうちにさっそく「きょう」のにっきとしてアップし、そうして4月分をそうそうに「過去の日記」へとおくってしまおう。いつもはすうじつたってからおこなうこうしんさぎょうだがこんやはきぶんをかえるために。[01:42]