2000年6月30日(金)
●きょうのこうえんかいはじゅぎょうじかんたいとかさなっていたためかんきゃくはよそうよりすくなかったがないようてきにはせいこうであったとおもう(いろんないみで)。ARCにおけるさいしょのびじゅつかんけいのきかく。こんごもぼちぼちと。
●こんしゅうもやはりきんようびにはぐったりとつかれきっている。これはとしのせいなのだろうか。それよりもにっきがそうしたつかれにまつわるぐちのためのばしょであっていいのだろうか。いずれにしてもあしたはやすむ。ひたすらやすむ。
2000年6月29日(木)
●ついさっき[22:00]きたくするまでまるはんにちほどほとんどやすむことができなかった。いかにじゅぎょうでたぼうなるもくようびとはいえふくすうのざつむ(こうむだが)がかさなるとまるでみうごきもとれない。だがせんしゅうのきょうがたしかてつやだったことをおもうとこんやはまだましでねむることはできるのである。はやめにねてあすはあさ一げんようのスライドのじゅんび(むしろそうさくというべきである)のために七じしゅっきんのよてい。インダストリアスとはこのことである。
●そのあすは二つこうぎをすませたあとメディア・アーティスト幸村氏のこうえん(+パフォーマンス)のよてい(しかいしんこうやくをたんとう)。だがかくにんメールのへんしんはまだない(笑)。わが一げい(パフォーマンス)をまじめにかんがえておこう。
2000年6月28日(水)
●うみのむこうでは野茂のひうんはつづきこちらがわでは阪神のひげきがつづく。すなわちさくじつのうらぎりものメイからのかんぷうまけもこんやのサヨナラまけもまけっぷりとしてはさいこうなのであってこんなひはスポーツニュースをみなければぼくはそれですむのだがねっからの阪神ファンのくつじょくたるやいかばかりかともまたそうぞうをたくましくする。(そういえば京都サンガ(J1)もモンテディオ山形(J2)もすなわちかんけいあるとちのチームはいずれもさいかいきんぺんをていくうひこうしている。)
●さくやとりかかりはじめたエクセルぶんしょがほぼかんせい。だがこのさくせいのくろう(「ちょっとリッチなランチ」どころではなかったのだ)をしらぬひとびとによってまたいろんなちゅうもんがつけられるのである。そうにきまっている。これもまたひとつのひげきではある。
●ていちょうだった「第3室」でがくせい(R.山本くん)による「れんさい」がはじまる。だいかんげいである。「断章」のほうはどうした(笑)?
●かいえんまでもう四十じかんをきったきんようびのARCのこうえんかいはこんかいはぼくがしょうへいしゃなのにとうじつのこうし(幸村真佐男氏)からかくにんメールへのへんしんがこない。ほんとうにかれは京都にやってくるのだろうか(こなければせきにんをとって一げいをひろうせねばなるまい)。
2000年6月27日(火)
●ゆうがたあめがやんだいっしゅんのスキをついてほいくじょにじてんしゃでむかえにむかったのだが(つまりあめのゆうがたはクルマでのおむかえのラッシュでちゅうしゃがたいへんなのである)ところがかえりがけにどしゃぶりになってぜんしんずぶぬれになる。それこそぼくじしんがこどものときにかさをもたずにあそんだときいらいというくらいのパンツまでびっしょりじょうたいでしかしこれがおもいのほかきもちがよいのであった(ちなみにこどもにはあまがっぱをもていったのでだいじにはいたらなかった)。
●こんやはひるまのかいぎのないようをうけたぶんしょのさくせいのためにエクセルでパチパチ。いろんなワザがつかえるひょうけいさんソフトではあるがきほんてきにやはりテクストけいのにんげんだからがめんをみているだけでみょうにつかれる。まああすもあさってもおなじぶんしょにかからねばならないのだが。
●あすはきぶんてんかんでちょっとリッチなランチをしょくそう(よるはおしごと)。さいきんはきぶんてんかんばかりである(笑)。
2000年6月26日(月)
●いつものげつようびどうようだらだらとすごすよていだったがこうむにからむメールのやりとりにおわれてそれだけでじつに二じかんほどもかかった。このさき一しゅうかんがおもいやられてまたくらいきぶんになった。
●一九九〇ねんあきにしっぴつしてよくねんにかけてのふゆにはっぴょうしたテクストのいちぶがないようてきに「モダニズムの断章」のページでさいきんかいたものとほとんどかわらぬ(あるいは十ねんまえのほうがよくかけているぶぶぶんもある)ことにきづいてすこしがくぜんとしてならばとそれをじしんでいんようしてアップすることにした。十ねん一じつとはこのこととおもいしる一けんだったがこういうのはあと十ねんたってもおなじかあるいは二十ねん一じつでまたがくぜんとすることであろう。
2000年6月25日(日)
●河原町のビブレのTOWERがつぶれたとがくせいからきいていたのでいつものルートをかえてVirginにでむくもおめあてのビデオはうりきれ。そのごJEUGIA三条本店でバーンスタインのマーラーぜんしゅう(DG)ほかをこうにゅう。マーラーのぜんしゅうはクラシックあいこうかとなったしょきにハイティンク/コンセルトヘボウばん(Philips)をこうにゅうしていてきんねんまたテンシュテット/ロンドン・フィルばん(EMI)をにゅうしゅ、まんぞくしていたのでぜんしゅうにはこだわるつもりはないのだが(これできょくごとにインバルやガルティーニなどがあればじゅうぶんだ)このたびのバーンスタインのは旧ぜんしゅうでけつらくしていた《大地の歌》をDECCAのろくおん(キング/フィッシャー=ディースカウのだんせいコンビをばってきしためいばん)のはんばいライセンスをしゅとくしてほじゅうしめいじつともにぜんしゅうとしたけっていばんでしかもたてんのほぼはんがく(十六まいぐみで一三〇〇〇円ほど)だったのでおもわずとびついた。かくてこのややおおきなかいもののせいでたのこうにゅうよていCDのおおくはこんかいはみおくられたのだがつゆぞらどうようのきぶんをはらすにはちょうどいいかいものだった。
●ないようてきにはきのうのことだがセリのめのかいふくがいちじるしくにちじょうせいかつをおくるにはししょうがない(いしゃはそういう)ほどにはなってきた。もちろんまだつねになみだめであることにかわりはないわけでさいしゅうてきにしゅじゅつはさけられまいがとりあえずもうすこし(こうせいぶっしついりめぐすりによる)ちゆにきたいすることになった。ちなみにしゅうがあけるとこんどはうえのマリのよぼうせっしゅがまっていてこうしてネコのキャリーをもってのびょういんとのおうふくのひびがつづくのである。
2000年6月24日(土)
●なにもやるきがおこらずひたすらきのうのつかれをとるひになった。あさからダラダラしていたがこどもをほいくじょにむかえにいってまたひるねをしてゆうがためがさめるとBS2でN響のライブのほうそうのしゅうばんちかくでところがデュトワのベートーベン第七交響曲がいまひとつにおもえて(もっとも第四がくしょうしかきいていないのだが)これはこのダラダラしたみかたがわるいのかそれともこのひとはやはりフランスものやロシアものでこそほんりょうをはっきするひとなのだろかとうつろにかんがえてそれからまたねむった。かくてたっぷりとねむったのでこんやはおなじBS2であさがたまでオペラ(《トリスタンとイゾルデ》)でもみようかといっしゅんおもうのだがでもやはりすぐにねてしまいそうである。ダラダラしているぼくがわるいのかそもそもオペラというけいしきがわるいのか(なんていみのないといかけ)。
●あすはきぶんてんかんにCDをたいりょうにかいこむよてい。せんきょ? うちのせんきょくはじつにおもしろみにかけるがまあかんがえよう。こどもはきょうはひとりでみたのだからあすはぼくはしらない。
2000年6月23日(金)
●ほんとうにひさしぶりにてつやしてあさをむかえる。しかもごぜんとごごにそれぞれ九十分ずつじゅぎょうをこなしてそのままじゃっかんのきゅうそくのあといんしょうしゅぎにかんするけんきゅうはっぴょうにとつにゅう。それなりのこうひょうをえられたようでそのてんではまんぞくだがそのあとのうちあげからかえってきていまはさすがにダウンすんぜんである。
●あすはセリをびょういんにつれていく。じつはここすうじつかのじょのめのかいふくぶりがいちじるしい(いしゃがせんじつかたったようにチェリーアイでないかのうせいもある)。ほいくじょはごぜんちゅうだけでしかもははおやはしごとなのであすのおひるねはぼくのしごととなる。たぶんこっちがまたふかくふかくねむってしまうだろう。
2000年6月22日(木)
●tcupのサーバーのトラブルはみめいにかいけつしたもよう。
●「きそこうどく」のじゅぎょうでさくねんあきのシュタルケルらいにちじのコウト/N響《ドン・キホーテ》(R・シュトラウス)をビデオじょうえい。しゅみにはしっているとおもうだろうか(笑)。だがちゃんとテキストのないようにそっている。サイード『音楽のエラボレーション』はいっけんきみょうにもマーラーのどうじだいじんでさいのうのてんでおとることはないのにもうひとつにんきのてんではおよばないR・シュトラウスのへんそうきょくへのこだわりへのげんきゅうをもってとじられるのだからである。そうサイードはマーラーにはほとんどこりょしない。
●あすはさるけんきゅうかいではっぴょう。PowerPointでいろいろそざいはよういしてきはしたがいかんせんじっくりシナリオをかんがえるひまがない。もうとうじつの01:00になろうというのにおなじひにひらかれているかいぎ(とうぜんけっせきはする)のためのしりょうをいまからさくせいしなければならない。あたまにきている(笑)。
2000年6月21日(水)
●tcupのサーバー(シーケンスが60ばんだいのものでわが三しつはすべてそれにふくまれる)がトラブルをおこしていてこれをかいている21:40げんざいですでに6じかんいじょうふつう。メンテナンスじょうほうによればふっきゅうに一にちていどようするかのうせいもあると。あさってのけんきゅうはっぴょうのこともあるしこのディスコミュニケーションじょうたいをうけいれよう。
●ところでこんかいそのそんざいをしったメンテじょうほうけいじばんのかこログをよんでいると「第2室」があるwww63サーバーがこのはるずっとふちょうつづきで五がつ二十にちのじてんで「新サーバーへの入れ替えを完了しました」とある。タマがしんだひのみめいのかこログがすべてうしなわれるじこはこのサーバーのふちょうとかんけいあるのではないのか。ならばそのじてんでしつもんメールをおくったとうほうにtcupはせめてメンテじょうほうをけいしゅつするこのけいじばんのそんざいをおしえてくれてもよかったのではないか。
2000年6月20日(火)
●ひる。かいぎはあいかわらずくつうであった。りゆうはきょうはじつにはっきりしているがかかない。だれがよんでいるかわからない(笑)。
●ゆうこくちょっとしたじけんがあった。こどもがほいくじょのおなじクラスのこをまたかんでしまった(Tシャツがやぶれそうなくらい)。こどものしかもまだものごころつくまえの三さいじのはなしだとかまえていられるのはこちらが「ひがいしゃ」のときであってところがこんかいはせんぽう(いろいろとじじょうをかかえておられる)のおばあちゃんがかんかんだというので細君がゆうしょくまえにあやまりにいくことに。だがこういうこと(ささいといえばささいなかていかんのもんだい)でけっこうがっくりくるタイプであるかのじょがきょうはゆうしょくのときけっこうきじょうだったのはぎゃくにそうとうたいへんだったからだとすいそくされる(こんやあまりふかくつっこまないことにする)。
●よる。そのこどもがすこしせきこんでいる。あすあさってダウンでもされるとそうとうつらいものがある。どうかがんばっとくれとねがおをみつつ。
2000年6月19日(月)
●あさけんきゅうしつのなかに蚊がいっぴきいてつかまえそこねたとおもったらそのごあたまのてっぺんがさされたようでいちにちじゅうあたまのてっぺんがかゆかった。
●こんしゅうまつのけんきゅうはっぴょうようにPowerPointでさくせいちゅうのプレゼンテーションぶんしょをとうじつのかいじょうにてししゃかんこう。スライドよりもはるかにきのうてきでかんどうてきですらある。やすもののスキャナゆえのがぞうのじゃっかんのふせんめいはあるがテクストいりがめんのさくせい・えいしゃのかんいさがそのマイナスをおぎなってあまりある。えいしゃかんきょうさえととのえばすぐにでものりかえたくおもうしろものである。
●きょうもまたセリじょうほう。はもしっかりしてきてマリのかんそうえさをたべてももうぜんぜんへいきである。けっこうしみるのであろうめぐすりもしっかとだきしめてやってのどなどなでながら点けてやるとていこうしない。たほうやんちゃさをましてマリのしりをおいかけまわすようすはかつてマリが故タマにしていたのとどうようである。もちろんめはあいかわらずである。
2000年6月18日(日)
●ちからのありあまるこどもからのがれてきっさてんにしごとどうぐをもちこみようやくさぎょうがそこそこしんちょくする。いやきっさてんでしごとがはかどるのはこどもがうるさいからであろうがそうでなかろうがすでにがくせいじだいからからだにしみついているしゅうせいなのではある。だがうらめしいのはじたくおよびだいがくのきんぺんにしょうめいがあかるくてゆったりできるしごとばしょにぴったりのきっさてんがないてんである。おおきなそうごうだいがくなのにそのへんのがくえんぶんかはいたってひんこんといわねばならない。
●セリはついに二かいまでかいだんをじりきでのぼるようになった。二しゅうかんまえのきょうひろったときにはあるくのもおぼつかなかったのにみるみるちからづよくなりたいじゅうもおそらく二ばいほどになったことであろう。ほとんどふさがっていためもいまはりょうほうともひらいてはいるがあかくじゅうけつしていつもなみだをながしていることにはかわりない。しゅじゅつはやはりさけられない。
●こどもをほうっていえをあけたらあそびたりなかったらしくひるねをせずゆうしょくどきになってねむってしまった。これでよるのじかんたいのペースがすべてくるう(いま[21:20]ようやくたべはじめていてしばらくしてふろにはいることになるのだがこんどはなかなかねむってくれないことだろう)。ひるましごとがすすんだようでも一にちのしんこうりょうにはげんかいがあるということだ。
2000年6月17日(土)
●きょうはこどもにほいくじょをやすませてしんりがくのじっけんのひけんしゃとしてていきょうする。かこのアルバムをみてそのじょうきょうをかたるようすのへんかをこんご月一ですうかげつにわたってかんさつするらしいがやんちゃなさかりでアルバムにむかってじっとしているどころではなかったらしい(きょうはしっぱい?)。がわれわれはまいにちまいにちこのアンファン・テリブルとともにせいかつしているのである。
●きょうもきほんてきにしごとにしんちょくはみられなかったがらいしゅうまつのさるけんきゅうはっぴょうにむけてそろそろしっぴつ(しさく)モードにはいらねばならない。はっぴょうのたいとるは「Impression
on Impressionism」。べつにふざけているのではない。
2000年6月16日(金)
●わだいてきにはさくじつからつづくのだが牛場暁夫『マルセル・プルースト』(河出書房新社)をよんでわがいをえたりとおもう。すなわちあるひのプルーストじしんのにっきにフランクのヴァイオリン・ソナタのじつえんにせっしたさいのかんそうやがっきょくぶんせきがきされていてそれが『失われた…』のヴァントゥイユのソナタ(さくじつふれた七重奏曲でなく)にかんするきじゅつとるいじしているのだという。そうだフランクのソナタこそせいねんマルセルのこころをとらえたきょくのモデルにふさわしいことこのうえない!
●ゆうこくセリをいしゃに。なにかのかんせんしょうであるかのうせいはいよいようすらいだがチェリー・アイはほぼかくじつでしかもみぎめはがんきゅうのはいごのほうまでしゅようがひろがっているおそれがあると。またしゅじゅつはせいこうのかのうせいはたかいがそれよりもげんざいのたいりょくではぜんしんますいのリスクのほうがおおきいとも。もうすこしたいりょくのぞうきょうをまって七がつしょじゅんにしゅじゅつのよていだがそれでもリスクはリスクとしてありつづけるというのはことばとしてきくだけできぶんがわるくなる。
2000年6月15日(木)
●さくじつの「おやすみ」はただたんにこどもをねかしつけようとしてじぶんがさきにふかくふかくねむりこけてしまった(おきたのはひがあけてから)というじじょうによる。そしてじっさいこのぶぶんのかきこみは「おやすみしました」とかいてさくじつぶんをアップしたちょくごのことなのであった(じゅくすいをくいてよくじつぶんとして)。
●じゅぎょうはまたしゃべりすぎた(ゼミけいしきなのに)。それはさておくとして二かいせいむけ「きそこうどく」ではベートーベン、トルストイ、ヤナーチェクとつづく《クロイツェル・ソナタ》のけいふについてふれたのだが(旧「第1室」であるじきもりあがったわだいである)じょしがくせいのなんにんかはエッこんなエロティックなはなしをじゅぎょうでしていいのってなかおをしていたのできょうたくのいちからみていてもおもしろかった(なんていうかきかたはふきんしんだろうか)。いやサイードの『音楽のエラボレーション』のなかでプルーストの「失われたときをもとめて」のわだいがでてきたのでその「囚われの女」のしょうのゆうめいなヴァントゥイユの七重奏曲のかわりにしょうせつちゅうであつくおんがくさくひんにげんきゅうされるれいとしてトルストイをとりあげたのである。それにしてもヴァントゥイユのことをかくうのさっきょくかとかかないで「げんじつにそんざいしたおんがくとしてかくにんされたわけでもなくまただれもそれをきいたことがない」とひょうげんするところなどさすがおんがくをあいこうするものにふさわしいウィットである。というのもわれわれはたしかにヴァントゥイユのそれとそうとおくはないであろうきょくをあたまのなかになりひびかせることができるからである。
●きょうはこのあとかるいゆうしょくをとってほいくじょかんけいのしゅうかい(「うきょうのかい」のそうかいにぜんねんどやくいんとしてしゅっせき)。かえりはおそくなってすぐにあすのじゅぎょうようのMDせいさくにとりかかるかあるいはかみん(あさまで?)するだろうからここでほんじつぶんをはやめにアップ(18:00すぎ)。
2000年6月14日(水)はお休みしました。
2000年6月13日(火)
●セリのめはあいかわらずあかくはれあがってかおをふるたびになみだがとびちるじょうたい(なみだをはらうためにかおをふるのである)。いしゃにはやめのしゅじゅつをだしんするがいちおうぜんしんますいをかけるひつようがあるのでそれにたえるたいりょくがついていなければならないのとまだくすりによるちゆのかのうせいがゼロではない(つまりチェリーアイではないかのうせいもある)ということでもうすこしまつようにさとされる。ここすうじつはこのちいさきいきもののためにもようがえのへやもでるしまつだしなにかとどうぶつでくろうするいえだとおもう。
●ゆうこくきゅうきょほいくじょのおむかえのとうばんがふりかかってきてよていがいろいろとくるう。いやじっさいはたいしたことではないのだがそういうさまつなことがらにせきにんをてんかして一にちのふちょうのいいわけにする。
●ゆうしょくもたべずにだいがくにもどりどうしてもこんやのうちにかいておかねばならないめうえのひとへのてがみをかく(三じかんほどもかかった!)。ほとんどへろへろになってさてかえろうかというときに「第1室」をけいゆしてふしぎなHPにであう。かなりきょうれつなページですこしたいりょくをつけてからよもうとけついする(セコいがじたくだとかなりつうしんひがかかりそうなよかんがするページなのでLANかんきょうかでだなとあすいこうのスケジュールをにらむ)。
●二三じだいにおそいゆうしょくをとりつつテレビのニュースでなんぼくちょうせんのしゅのうのれきしてきあくしゅのえいぞうにせっする。そうぞうしていたよりもかんどうてきなえいぞうでじっとみているじぶんにおどろいたほどである。なのにトップにそうせんきょのわだいをもってくるかいな筑紫哲也は。
2000年6月12日(月)
●かこってもかこってもセリがほんやしょるいのやまのなかにはいっていくのでやむをえずへやのそうじ。ためこんでいるもののはんぶんはごみであることが(いつもとどうように)はんめいするがそのごみをなかなかすてられない(せんべつしているとひがくれるのでけっきょくまたためこむ)。そうじのあと北大路ビブレでCDをすうまいとすしおりをかってかえってからビールをのみながらのおそいちゅしょく。セリは一かいのネコべやにとじこめて二かいのベッドでマリとひるね。それにしてもここすうじつひるねづいているな。
●ゆうこくからあすのかいぎようのだいがくいんかんけいしりょうのさくせい。りつめいかんのみらいがかかっている(というひとがいる)プロジェクトにからむしごとだがなぜだかきぶんはゆううつである。
2000年6月11日(日)
●かていのじじょうをはなすきかいがあってしかもあいてにマイホームがたのにんげんであるかのいんしょうをあたえてしまうことほどゆううつなことはないがまあしかし子どもがいえにいるにちようびはそれいがいのかくべきわだいがはっせいするわけでもない。いやなにもとくべつなサービスをしたわけではないのだがだらだらとむいにじかんがすぎまたよていいじょうに(よそうどおりに)ひるねをしてしまったのである。これならじゅぎょうやかいぎにおわれるウィークデイのほうがいい? いやさすがにそんなことはない。
●阪神快勝にして巨人大敗。もちろんまだゲームさ(3)はあるがあのきほんてきなせんりょくさでこのちいさきゲームさというのは巨人ファン(あるいはオーナー)にはさぞくつじょくてきであろうとすいさつされる。
●セリはきょうからだんぼーるのさくをとったひろいへやでせいかつをかいし。そもそもわがやのネコはマリが二かいのわしつまるごと一しつをせんきょしているようなものだからこれで二へやがねこべやとなったことになる(ぼくはといえばたべるのもげんこうをかくのもダイニングのテーブルいちだいですませるびんぼうしょうである)。いずれにしてもしかしこれはセリのめがなおってかくりするひつようがなくなるまでのきんきゅうそち。
2000年6月10日(土)
●ほいくじょがおひるまでなのでおひるねなどさせねばならないどようび。ぐずらずすんなりねてくれたのはいいがこっちもぐっすりねむってしまっておきたらゆうがた五じだった(こどもにおこされた)。またしてもしごとしんちょくせず。
●セリはあいかわらずめがはれてなみだがひどい。けれどたいりょくだけはしっかりついていてだんぼーるでつくっているさくをやすやすとこえるまでに(さくをたかくしてもつめでひっかけてよじのぼる)。おかげであすはセリのかくりされているへや(ほんやCDがらんざつにおかれている)をせいりすることになった。
●ひるまのたいだなじかんぶんをばんかいしよう――というきはまったくおこらない。げんこうもほんやくもこうぎのじゅんびもなにもなにもこんやはやるきがしない。あしたは? どうだろうかだがかわらないよかんがする(笑)。
2000年6月9日(金)
●すでに10日のあさがあける一じかんほどまえ。コムデギャルソンのしゃないほうのげんこうはけっきょくタマにまつわるわだいをとりあげてゆうこくにゅうこう。いずれアップしてタマのページからリンクさせるかたちをとるがそのなかでわがやのあたらしいネコにもげんきゅう(笑)。となるともうここでもげんきゅうしてかまうまい。きょうのあたらしいしんだんではどうやらかんせんしょうのかのうせいはすくないとのこと。ただチェリーアイという眼窩のしゅようのかのうせいはひていできずあと一しゅうかんようすをみたあとでおそらくしゅじゅつがひつように。そうかきわすれていたそのなまえはセリ――さあてりゆうは?
●これをアップしたらつづいてもうひとつのにっき(こちらはまいにちかきつぐことをかさない)のこうかいそちをとる。じゅうぶんにねられていないしさくをひとめにさらすことにいずまいのわるさはもちろんあるがにっきけいしきでかきとめられたものがかくていてきなテクストにかわっていく(かわらない?)プロセスはもしかしたらそれじたいめにみえるものとなってもおもしろいかもしれないとかんがえて。
2000年6月8日(木)
●なにもいまさらしんぶんふしんをひょうめいしてもしかたあるまいとおもうがそれにしてもそうせんきょのせいじキャンペーンにかたんするかのごときろんちょうがおおいことにはへきえきする。もりしの「かみのくに」はしゅしょうがそのようなはつげんをすることのぜひをメタてきにひなんするしかくをだれかがあらかじめしょゆうしているわけではなく(にほんこくけんぽうはそのしゅのひなんをほしょうするものでありえるだろうか?)むしろかかるはつげんをするものをしゅしょうとしていただくことのぜひが(このたびの)せんきょによってはじめてとわれるというべきである。『GQ』誌における浅田彰/田中康夫のたいだんもそのいみでほとんど朝日のろんちょうをさらにあくしつにしたさよくびょうのしょうじょうにかんぜんにおちいっている(福田和也が誰某とくむたいだんのるいのほうがはるかによむにあたいする)。[ちゅうしょくまえ]
●しゅうまつにむけてまたつかれがピークに。なんだろうカラダのどこかがわるいのではないかとおもうほどでらいしゅうのけんこうしんだんをさぼりたくなってくる(たんにねんれいのもんだいかもしれない)。だがそのわりにあいかわらずゼミではしゃべりすぎのけいこうにある(笑)。こうとうはっぴょうをかそうとよていしたがくせいがけっせきしたので(とはいえじぜんにつうこくせずきゅうきょそうきめたこっちもわるいのだが)そのていしゅつげんこうを「ろうどく」までしてしまうのである。[よる]
2000年6月7日(水)
●「モダニズムのじょうけん」のさいしょのかきこみをすませる。だがたった一にちかきこんだだけのじょうたいがつづくのははずかしいから(あすあさってのよていをおもうとそのおそれはじゅうぶんある)とりあえずもう一にちかきこんだらこうかいすることにしよう(笑)。
●こんやの阪神のまけかたはかなしいね。ただそれだけ。そうせんきょかんけいのきじもまったくおもしろくないしもうしんぶんをとるのをやめようか。
2000年6月6日(火)
●ごごかいぎが四つつづく。ねんどがかわってからのいつものかようびとどうようである。またらいしゅうもおなじようなかようびがやってくるだろう。
●わがやのあたらしいネコについてはまだこのばしょにかくことはすまい。となるとかいぎのひにはもうほかにかくことがない。
2000年6月5日(月)
●さくじつのじけんとはじつはネコ(メス、せいご二〜三しゅうかん)をひろってしまったのであるこんどはこのぼくがだいがくのけんきゅうしつにもほどちかいろじで。だがいちどでもネコをひろってもちかえった(あるいはかぞくがもちかえってきた)けいけんがあるものならわかるとおりそういうばあいのネコはおうおうにしてきわめてきたないかびょうきをもっているかといったげんじつてきなもんだいをかかえているものでつまりわがこネコ(とかいてしまうがきょうは)はこうしゃでつまりめがあかくはれあがりとくにみぎめはいきている(せいじょうにきのうしている)のかどうかもわからないありさまなのであった。かくてわがやはさくやからマリ(なくなったタマののこされたパートナー)とこのこネコをかくりするきんきゅうじたいとなったのだがきょういしゃにつれていってこのかくりじょうたいがすくなくともこんご一かげつにおよばざるをえないことをかくにんする(しかもざんこくにも一かげつごにこの二ひきがはれてあらたなパートナーとしてひきあわされるほしょうもない)。ただでさえまもなくつゆにはいるというのにそのきせつのきぶんをさらにおもくしかねないちいさなじけんのはっせいである。
2000年6月4日(日)
●またしてもあけがたのかきこみ[04:35]。コム・デ・ギャルソンのしゃないほう(とはいえデザイナーに井上某をきようしてさすがにおしゃれにしあがっている)というにつかわしくないばしょへのげんこうをかかえているのだが(おだいはひみつ[笑])なかなかさいしょの一ぎょうがかけない。じすうせいげんのはばはなんと五十じから八百じというひらきがあるのだが(@それにしても五十じでなにがかけようAじすうがちがってもげんこうりょうはおなじだ!)いずれにしてもさいきんはいざとなったらけいじばんにかきこむとおもえばいっきにかけるとおもうようになった(笑)。
●ゆうこくちょっとしたじけんはっせい。たとえしょうすうでもじぶんいがいのどくしゃがいるところではいまはそれをくわしくはできない。
2000年6月3日(土)
●「さくじつぶん」をアップしてじつはまだ五ふん[04:50]。さてこんなあさはやくになんのためにかきとめておくのかというもんだいはあるが(笑)その「さくじつ」のげいじゅつろんでながしたおんがくをあげるならばモーツァルト《おんがくのじょうだん》をちゅうしんにすうきょく。てんさいがじしんののうりょくをダウンさせるどころかじつはじゅうぶんにくししながら二りゅうのおんがくかのさっきょくぎじゅつをアプロプリエイトするざんこくとさらにそれがじしんをおんがくかにそだててくれたちち(おんがくかとしては二りゅうであった)の死にさいしてのオマージュであったじじょうをしればこのさくひんのききかたはかわらざるをえない(がくせいはきまってここでしんみりしたひょうじょうになる)。だがこのたねあかしのあとにちちレオポルドの《アルプスホルンのためのきょうそうきょく》のゴムホース・ヴァージョン(ホフナングおんがくさいライブ)でオトすのはしょうしょうあくしゅみだっただろうか。
●うえからもう二十じかんほどがけいか。きちょうなしゅうまつなのにまったくしごとがすすまなかった(りゆうはふくごうてきだ)。くらーいくらーいきぶん。
2000年6月2日(金)
●きょうのにっきはおやすみ。かくタイミングをいっしてもうまもなくつぎのひのあさがあけようとしているのだから。だがこれもさいしょうげんのにっきではあるかな。
2000年6月1日(木)
●ひさしぶりのオフかいをかねて(笑)コンサートへ。オケは京都芸術大学管弦楽団。ありがちな邦人作家のげんだいきょく(クオリティはそうひくくないとおもうが「いしょう」がまずかった[笑])とソリストがただひききることにけんめいのがくせいというあくじょうけんのきょうそうきょく(ベートーベンP協5「皇帝」)がつづいてオケのメンバーたち(とうぜんがくせいだ)はさいしょよっきゅうふまんぎみだったがさいごのえんもく(いわゆるドヴォ8)でエネルギーだいばくはつ。あたりまえといえばあたりまえだがふつうのがくせいオケとはさすがにちがった。いずれにしてもこうきょうきょくというとさいきんはマーラーだから(笑)このひのドヴォルザークはきわめてけんこうてきにきこえた。
●コンサートのあと先斗町のバーへ。ちゃんとしたしょくじはできないとしてもサンドイッチくらいはだしてくれるかときたいしていたのだがほんとうにかわきものとチョコとチーズ(ぎんがみにつつまれたままの)くらいしかなくておもわずでまえをとることができるというソバをちゅうもんしてしまった。ムードがでなくてもうしわけないこんどはおいしいしょくじができるみせにいきましょう(笑)>にこさん。