2000年10月31日(火)
[削除しました。]
●それにしても10月はくらかった。うえのわだいにからむかこくなろうどうもその一いんだがなによりきかんしのぐあいが一かげつかんずっとちょうしがわるかった。きのうもきょうも一てきのアルコールものんでいないじじつがことのじゅうだいさをものがたっているがしかしこんやとどいた一ぽんのメールによって11月3日(金・祝)は山形からじょうらくするもとどうりょうと先斗町あたりでのむこととなったし5日(日)にはいよいよひさびさのわがじょうきょうとなる。あたかもしんしゃのならしうんてんをするかのようにしてアルコールのあじをおもいだしておこう(あすのよるからだな)。[23:50]

2000年10月30日(月)はお休みしました。
 
2000年10月29日(日)c
●子の「めいよ」のためにbへのほそく――かれはえんそくのひのかなしみをいちどもわれわれに「かたって」はいない。ただゆめのなかでそのおしころしたかんじょうがおさえがたくわきあがってくるのである。[26:47]

2000年10月29日(日)b
●よていはしていなかったのだけれどきゅうきょbを――さっきから二かいのしんしつで子が「お母さんといきたかったよぉ」とねごとのごとくにしてなきさけんでいる。うさぎぐみ十八かぞくのうちおやがついていけなかったのが三かぞくだけであったせんじつのえんそく[10月27日(金)をさんしょう]のことがちょっとしたトラウマのようになっているのである。ゴメンなお父さんがやすんだら立命はうごかないんだよ――ナンテそれがうそであるいぜんにけっしてかれは「お父さんといきたかったよぉ」などといってはいないのだった。
●ついでに――ミッコ・フランクしき/バンベルク響のシベリウス・ツィクルス(教育TV)のアンコール(!)でフィンランディアがいまえんそうされている。なんなのだろうね、このきょくのなつかしさは。
●よるになってまたすこしきかんがおもくるしい(ゆうしょくじにのんだほんのコップはんぶんほどのビールのせいだろうか?)。あすのゆうこくまでのしごと(AOにゅうし一じのこうひょうあんとだいがくいんのこうほうかんけいぶんしょのレイアウトあん)もまったくのてつかず。またしてもくらい一しゅうかんのはじまり?[24:30]

2000年10月29日(日)a
●ひがえりでもいいから富山へ――ややもちなおしたにくたい/せいしんのそうほうにとってロングドライヴがいちばんいいようにもおもわれたのでそうていあんもしたのだが祖母をみまうとうじしゃである細君がそのきょうこうぐんをのぞまなかったのでおうふく750kmのたびのこうそうはほんの七十五ぶんの一のきょりでかたづく北大路ビブレでのかいものというツマラナイけっかにおちついた。さしてしなぞろえがすばらしいわけでもないそのショッピングセンターはしかしどういうわけだかいつものしゅうまつではかんがえられないこんざつぶりで(ちゅうしゃじょうにはいるのにずいぶんとならんだ)よくよくみればさくやけっちゃくのついた日本シリーズをうけたジャイアンツゆうしょうきねんセールがかいさいされていたのであった(そごう「はたん」ごのセールかいさいけんげんじょうとさきのひとつ)。そんなえんぎのわるいばしょ(笑)にまぎれこんでしまったばかりかけっかてきにつうじょうより二、三わりもやすくなったしなものをなんてんかかってそのおんけいによくしてもしまったのははなはだふほんいだったといわねばならぬ。
●かくてあすの黒ヴィッツの一かげつてんけんは「ならしうんてん」をしたともいいがたい500kmにもみたないそうこうきょりで…。つきがかわってAOにゅうしもぶじすんだらそれこそ「かのじょ」――クルマのことだヨ、で「せいべつ」はこのさいじょせいということで(笑)――のためにもちょっとした「とおで」を。[23:18]

2000年10月28日(土)
●富山にはきていない。子もほいくしょをやすんだがこちらはさくやのよふかしがたたっただけであしのいたみはひとばんでひいたようだ。ようは父母のつかれがとれなかったのである。かぜもなおるどころかぶりかえしぎみだしこんやはこうせいざいをタリビット[10月22日(日)をさんしょう]にもどしてアルコールもひかえる。これがいちばんつらい。
●このくらいきぶんにおいうちをかけるような巨人のゆうしょう。でも(わだいにことかくしまつだからかいたけど)ほんとうはどうでもいいのだった、やきゅうのごときスポーツのことは。[23:35]

2000年10月27日(金)
●よそうされたことだが[じっしつてきにけさかいた26日(木)bをさんしょう]しんしんともにつかれた一にちだった。けっこうけわしい愛宕山のそのちゅうふくまできっちりのぼってきたらしい子もさっき「アシガイタイイタイイタイヨォ」とないていたしそのあしをさする母も(たまっているつかれにくわえて)えんそくにつきそえなかったかなしみでおちこみぎみ。くら〜いしゅうまつ(苦笑)。富山ゆき[同上]もはくしじょうたい。
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●もう一てん。「げんこう」は十まんじあまりのぶんりょうをいっきにプリントアウトしてかいぎのあいまにへんしゅうしゃSあてではっそう。あすとうちゃくしたソレをよんだヤツがどういうはんのうをみせるか…。富山にむかっていればとうぜんつかまらないし京都にいても「いるす」をきめこんでやるのである(笑)。[24:45]

2000年10月26日(木)b
●あさって祖母をみまって富山にいくことにした。あしとなる黒ヴィッツはげんざい450kmほどをそうこうしているが(Bistroのときはおなじだけはしるのにすうかげつをようした)それに土日のおうふくぶんやく750kmをたしたうえでよくじつ30日に一かげつのてんけんにだす。オイルこうかんなどもふくめてチェックするにはちょうどいいそうこうきょりといえるだろう。――が、そのまえにあすのかこくな一にち(じゅぎょうとそのあとにかいぎが三けん!+げんこうそうふ)があるだろ? ちょくししないようにしている(笑)。
●げんこう。はんにちぶんじかんをかせいだつもりでいても[10月25日(水)bをさんしょう]けっきょく一ぎょうもかきたせるのではないかたちで(つまりは9月ちゅうじゅんのじてんでのしあがりじょうたいのまま)これからプリントアウト。こういうばあいその一かげつしんちょくなしのじじつをかきそえるのがいいのかそれともあたかもちょくぜんまでしごとをすすめていたけっかがこれであるというフリをするべきなのか。――どっちものりきがしない(笑)。
●ツルツルとすべるそざいのパーカーをきてこれをうっているとニゴがカラダにとびのろう(いつもそうやってじゃまをする)としてはツメがひっかからないでゆかにおちている。なんどもくりかえしてバカだな、がくしゅうしなさい。[27:14]

2000年10月26日(木)a
●しょうぼうしょのささつ[10月23日(月)cをさんしょう]があってはなはだふかいなおもいをした。いかにもちゅうおうかんりょう(じちしょうかな)のちほうしょうぼうきょくへのしゅっこうぐみというかんじのオトコ(三十だいなかばか)をだいがくのかんぶクラスのしょくいんがヘコヘコとあんないしていてしかもわがけんきゅうしつのみだれぐあいをみとめるとよりいっそうかんしんをいだいたのかズカズカとなかまではいってきて「すわるところもないな。で、タバコはすいますか? ん、すわない。よかった。すうんだったらてんじょうから「しょうかき」をつってもらわないと」だと(どこにそんなイブツをつるしているけんきゅうしょがあるものか)。いぜんのしょくばでもこんなことはあったのだろうか。いずれにしてもらいしゅうになったらまたダンボールばこをろうかにつみあげてやるからかくごしておきなさい。[17:05]

2000年10月25日(水)d
●バーンスタインが1967年にイスラエルでへいしたちをまえにふった《復活》さいしゅうがくしょうのドキュメントえいぞうをほそく(いかにもドキュメントでおんがくてきでないから)するために小澤/SKOのえいぞうのりようをけってい。れいのラスト十余ふんのもりあがりをじまくつきできく/みるとさすがにこうふんしてねむれない(よこになるのがまだじゃっかんつらいというのもある)。そんなわけで「けんあん」となっていた「おとしもの」[10月19日(木)bをさんしょう]へんきゃくじのてんぷCDをこんなまよなか(なつだったらもうよがあける)にしあげ。おとしぬしさん、あす(きょうだな、もう)じゅうにはいずこにかとどけられる否おちているはずですので。[28:15]

2000年10月25日(水)c
●あす、もくよう二げんめの「ひょうしょうひはんII」はせんしゅうのカラヤンにひきつづいてこんしゅうはバーンスタインでせめる。そのテープのへんしゅうがたったいますんだ。またラクをしてとおもうどくしゃもいるだろうからあえてくりかえせば[10月19日(木)aをさんしょう]むしろなんのそざいもなしに(スライドさえなしで)さあ九十ぷんはなしたまえといわれることのほうがぼくははるかにラクちんなのであってそれ(じゅんびじかん〇ふん)にくらべるとビデオのじょうえいはいったんそざいにめをとおしてひつようかしょをチェックしてダビングするわけでつまり四、五十ぷんのものをつくるのにそのすうばいのじかんをようするソレハソレハめんどうなさぎょうなのである。いずれにしてもせんしゅうこんしゅうとこれまできょうざいをつくってこなかった「しきしゃシリーズ」なのでくろうしたがこのちょうしだとらいしゅうはそのしきしゃのぜつだいなけんりょくをおびやかすそんざいとしてのソリストのわだいにあゆみをすすめてここで「ていばん」の五嶋みどり嬢のヴィルチュオーゾでめのたまをひんむいてもらうことになるよていでそうなるとらいしゅうこそほんとうにラクチンになる(いったいどういったじゅぎょうなのだ[笑])。[26:15]

2000年10月25日(水)b
●さくじつ(bで)かいたようににゅうしぎょうむのヤマはいちおうこえた(Q:こんなにはやいじきに?→A:もちろんまだまだ二じしけんまで一やまも二やまもありますが[2月のいっぱんにゅうしももちろんあります]とにかくくぎょうのごときしょうろんぶん百四十余ほんの「さどく」はおえたのです)。するとそれをみはからったかのようにアノへんしゅうしゃSから「たすけてください!」というかれらしからぬけんめいのメールがとうちゃく。よむと1月かんこうをよていしていた二ほんのげんこうが二ほんとも「おちた」(ひとのことをいえたくちではないが[笑]よていどおりげんこうがあがらないめいわくこういのことをこうひょうげんするのである)とかでへんしゅうちょうの「つるのひとこえ」でほかではいちばんすすんでいるとよそうされるわがげんこうに「しらはのや」がたってしまったということなのだがこうなると「いんしょうはははるだ」とごうごしていた[10月4日(水)と同5日aをさんしょう]のはどこのどなたさまですかとこんどはこちらがわけもなくエラそうなたいどにでたくなってもくる(げんきんなものだ)。いずれにしてもここ一かげつはほとんどすすんでいないのでそれいぜんの「はん」をプリントアウトしてあさって(あしたにしないではんにちでも「て」をいれようとするところがセコイ)きゅうきょそうふすることに。あわせてすこしのんびりしてこようかとボンヤリよていしていた11月5日(日)〜7(火)あたりのじょうきょうもほぼけってい。そのじてんでこのあきがほんとうのしゅらばになるかどうかがきまるだろう。
●とマアうえのようなじじょうもあるのでここのところちょくちょくふれていた子をめぐるときにセンティメンタルなわだいはしばらくおやすみ(27日(金)もせいぜいほいくしのセンセイにあまえながらがんばりたまえ、父も母もどこかへいってしまうのではないのだから)。[16:30]

2000年10月25日(水)a
●あさおきてもまだあめはふっていないがどんてんをにらんでえんそくはよそうどおりじゅんえん。やや「たかん(たじょう)」にそだちすぎのかんのある子はさっきそのれんらくがまわってきてからというものずっとなきどおしで母はついにあさっての「ほしょう」もかねて親子でズルやすみ(ほいくしょはつうじょうどおり「えいぎょう」するのだから)をするけっしんをしたようである(かなしみのげんいんはえんそくのじゅんえんそのものなのではなく母といっしょにやまのぼりできないことにあるというはんだんらしい)。しらないヨこうやってやすみグセがついても。[08:15]

2000年10月24日(火)b
aをアップしてからにゅうしかにでむくとしょくいんMくんがさくじつの「びょうけつ」をうけて「センセイがいまたおれはったらたぶん『ろうさい』ききますね」と(笑)。ありがとうナそういうはげましのこえ(?)にもたすけられてさいてんは(そしてカゼによるきかんしのふちょうも)どうやらヤマをこすことができたのだった。ならばこんやはこれだけできんしゅをやぶるかちはある。かんぱい。
●まだふりだしてはいないがあすはどうやらあめのけはい。えんそくはたぶん27日(金)にじゅんえんされ子はかわいそうに父にも母にもてをひかれることなくけわしい愛宕山をのぼることになる。いや、でんぶんによればさくねんはひもだYさんちのヒロくんもほいくしのせんせいやともだちの父さん母さんにみまもられながらおなじやまみちをあるいたのだとか。そもそもの「きたえかた」のちがいはいかんともしがたいがいまとなってはそうしたきびしいげんじつにもたえながらつよくそだつことをねがうしかない。
●そうねがう父のあすのしごと――ひとつのこうぎとひとつのかいぎ。そしてなんとしてもけんきゅうしつまえのダンボールばこのしょぶんを[10月23日(月)cをさんしょう]。なかみ? たたきうりでもするか(笑)。[00:10]

2000年10月24日(火)a
●いつもとはぎゃくで父親のがうつったのか(それともまったくちがう「きん」をもらってきたのか)子がさくやからカゼぎみ(さくやはにっきにかかなかったが母をむかえにいったかえりのしゃちゅう[とうぜんわが黒ヴィッツ=まだ「しんしゃ」だ]でのすざまじい「おうと」げき[笑]からすべてははじまった)。あさもたいおんが37.5℃あるのでむりをさせずにおやすみ。父がかれにそいねしてごごからは母がしごとをきりあげておひるねがかりをつとめる(父はさすがにきょうはさいてんにでかける)。というわけであすのえんそく(=愛宕山登山)はおんなごころのようにうつろいやすいあきのてんこう(なんというこてんてきなフレーズ)のこととあいまってはなはだびみょう。[13:25]

2000年10月23日(月)d
●ねむくてもねむれなくてけっきょくフトンからぬけだしてたったいまカンパチをしょくす。アルコールなしはあじけないことこのうえないがしょくごにサーヴィスでPLというのでどうだ(ますますあじけないがあすはしごとにさしつかえるからのめないのでこんやはすいみんやくがわりに)。[26:30]

2000年10月23日(月)c
●PLがきいていてただただねむい。よこになるのもそれはそれでしんどいがいずれにしてもやしょくようにかったカンパチのさしみがむだになりそうなのはたしか(ビールをのめないのにどうしてかったのだ?)。
[削除しました。]
●あすのしごと。まずはごぜん。けんきゅうしつまえのダンボールばこのやまをかたづけねばならない。あさってしょうぼうしょのささつがくるからどけろというつうたつがせんしゅうあったからだがしつないはそもそもほんのやまである。どこにおこう(そのまえにたいちょうはかいふくするか)。
●ごごはさいてん[こうむ]をこうぜんたるりゆうにきょうじゅかい[こうむ]をけっせきする。ささやかなる、だれもていこうともきづかぬであろうていこう(さくじょしたaのエッセンス)。[22:40]

2000年10月23日(月)b
●ごごはけっきょくだいがくにいかなかった。「びょうけつ」はちゃくにん三ねんめにしてはじめてである(だがかんがえてみれば月ようびはウィークデイでゆいいつこうむからかいほうされた「けんきゅうび」であるはずなのだった)。[18:10]

2000年10月23日(月)a
[削除しました。]

2000年10月22日(日)
●さくやぶんをかきこんでからBS2でアシュケナージしき/N響のコンサートをかんしょう(ラウタバーラP協はみのがしたのでショスタコヴィッチ「バビヤール」だけ)。みるとさくねんのシュタルケルきゃくえんじ(「ドン・キホーテ」)のサンチョ・パンサやく店村眞積氏がヴィオラのトップのせきに。あのときすでにウワサされていた読響トップのN響へのいせきはやはりほんとうだった! ことしのおんがくかいの十大ニュースにはいる(とかんがえているのはごくしょうすうだろうな)。
●「あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに」(大津皇子)。「吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを」(石川郎女)。くわしいことはかけないが(また[笑])さくじつから万葉集がひそかなマイブームで二十すうねんまえにただあんきするようにしてよまされた「うた」がいじょうにこころにしみいる(秋だからか齢だからか[笑]?)。ところでよがよならかれとかのじょはメールでうたをおくりあったのではないかしらん。いや「しゅうじんかんし」のけいじばんをえらんだかもしれぬ。
●ゆうこく。きょうのさいてんさぎょうがすんでからクルマで太秦の京都市休日診療所へ。しょほうされたこうせいざい(タリビット)はひかくてききょうりょくなクスリであるようで(ウチのかんごふがそういっている)こんやはさすがにアルコールはダメだしそれいぜんにさいみんさようのあるPL(かぜグスリ)のおかげであたまがはたらかない(それでもにっきはかいているのだからやはりひつようなばしょなのだろう)。
●せんじつの「おとしもの」[10月19日(木)bをさんしょう]にそえるCDおんげんがきまらない。「おとしぬし」さんにはもうすこしまってもらわねばならない。
●日本シリーズはダイエーれんしょう。ナベツネがまたまっかなかおをしておこっているであろう。つうかいである。[22:32]

2000年10月21日(土)
●かじつはさるどうりょうきょういんのじょげんもあってかんれんするかきこみをさくじょしたが[9月5日(火)bのぶん]だいがくがこうしきにきしゃかいけんしてはっぴょうしてしんぶんにものっているからもういいだろう――かしゅの倉木麻衣さんの立命へのにゅうがくがけってい。こうこうもちゃんとかよったかのじょはにゅうがくごの四ねんかんもがくぎょうゆうせんでいくらしい。早稲田/広末涼子の「にのまい」になるかならぬかだいがくのひんいがとわれるというべきだろう(きょうしょくいんがいちばんうろたえているというはなしがある[笑])。
●ところでかのじょはすでにうたひめとしてけっしゅつしたさいのうをはっきしているがことなったさいのうをひめた子たちがいまかかわっているにゅうしをつうじてもわがだいがくのもんをたたこうとしている。しゅひぎむにかかわるのでくわしくはかくことはできないが(おなじどうりょうきょういんどくしゃにじょげんをはっするてまをまたかけるわけにはいかない[笑])きょうは「れんあい」と「せい」にまつわるうつくしい/ちからづよいしょうろんぶん二へんとであうことができた(ともにじょしがくせいのもの)。すべてなげだしたくなるなかでのいちじょうのこうみょう。
●そのさいてんさぎょうのきょうのよていぶんをおえてゆうこくきたくすると母子がおそいひるねタイム。こっちもつられるようにダウンしたのだがおきたら母子はきんじょのじんじゃ(住吉神社)のあきまつりにでるところで(さいきんは父のどうこうをもとめない)「ゆうごはんはどうするの?」ときくと「つくるげんきがない」というのでまつりだいこがおわるころにクルマでふたりをピックアップしてファミレスへちょっこう。きけばじんじゃにはほいくしょのともだちもたすうきていたようでそのなかにはまさにうえのどうりょうきょういん(ひもだYさん)ごいっかのすがたもあったらしいのだった(あちらはたぶんきちんとゆうしょくをたべてからであったろう)。
●あすもあさからさいてん。あすもまたりきさくにであうことにきぼうをたくして…。[24:55]

2000年10月20日(金)
●すべてはさくじつ     aでよそうしたとおり。いや、あめがふったために五十メートルほどもはなれたこうしゃのあいだをおもいスライドのボックス(二十キロはあろう)をはこぶさいのうんどうりょうがました(かさをさすぶん)。
●あす(土)もあさって(日)もよていどおりあさからゆうがたまでしょうろんぶんのさいてん。となるとスライドもしようしないことだしいっそおおあめでもふってくれたほうが(一ねんのうちのもっともすごしやすいきせつにとうあんようしにむかうふこうがそうたいてきにうすらいで)せいしんてきにもまだいいかと。[23:35]
[削除しました。]

2000年10月19日(木)b
●さくじつメールボックスに「おちていた」CDをききながら(MDにダビングしながら)こんやもまたあけがたのスライドえらび。CDのおとしぬしはなんとなくさっしがついたのでとどけたいとおもうがそれにそえるべきダビングようCDがこんやはおもいつかない(ただのクラシックマニアとおもわれているかもしれないのでいっそほうがく(「ときわづ」「ながうた」「じょうるり」)でもとどけようかしらん。
●ところで五じかんごにはすでにはじまっているじゅぎょうでは「バロック」がテーマになるのだがいぜん「第2室」(だっけ?)にもかいたとおりこれほどそのタームのしようにまつわっておんがくしとびじゅつしでしじないようがことなっている(どころかぶんれつしている)ケースもめずらしい。もちろんぼくはこうしゃのディシプリンにぞくするにんげんなのでできればバロックおんがくというひょうげんをあらためてほしいとねがうもの(もちろんすべてのべんぎてきなこしょうはそうした「ふか」もおびるものだとしりつつ)。[28:10]

2000年10月19日(木)a
●まずはさくばんのこと。ぜんそくというよりもかぜのこじれたしょうじょう(はいえんじゃないのか?)のようにもかんじられたのでかぜグスリ(ぜんそくかんじゃはしはんのものはダメ)とこうせいざいをのんでしかもそのあとゆうしょくどきにうっかり(かくしんはん?)ビールものんだものだからかんぜんに「すいま」にしはいされてしまって20:00じだいから六じかんほども「かみん」(「えいみん」のごとくにふかくふかく)。そのあとしんや(あけがたにかけて)にカラヤンのビデオをじゅぎょうのためにみなおすが「第2室」でへんなもりあがりかたをしている「ちょさくけん」のもんだいもいしきして一ぽんは六十ぷんモノをそのままながし(とちゅうサーチきのうでとばすが)もう一ぽんはれんぞくする八ふんほどのぶぶんをながす(つまりさいこうせいはしない)ということに。
●さあこうしてじゅぎょうはラクちんできた――といえばそうなのだが「ね」がおしゃべりなのでよくできたドキュメンタリィにさえいろいろとコメントをつけてしまう。そしてそのためにみめいの「ししゃ」はきちんと「ふん」たんいでメモをとるしまつ。…てなわけでけっきょく「しれい」まえ二十ぷんのきんちょうしたじかん(シャドウスゥイング・タイムとよんでいる)で「しょうぶ」がきまるつうじょうのじゅぎょうよりもよっぽどてまがかかるのではあった。
●こんやもまたふかい「かみん」をとるかのうせいがあるのではやくもゆうこくにあす(そしてしゅうまつおよびらいしゅう)のみとおしを――あさ一げんめにじゅぎょうがあって(まいしゅうおなじだからかかなくてもいいんじゃないか?)そのあとにゅうしかんけいのうちあわせ。ごごはふくすうきょういんのアラカルトてきぶんたんによる一かいせいようじゅぎょうのそのぶんたんぶんがまわってきて(めんどうだな)そのあと(にゅうしかんけいのではないもうひとつやっかいなほうの)かいぎ。いつもはおそくともそこでかいほうされるのだがあすはゆうこくににゅうしのしょうろんぶんのさいてん。しんじがたいことにこれはよくじつ(土)さらにそのよくじつ(日)のぜんぶをついやすことをワレにようきゅうしそれでもかたづかないだろうかららいしゅうのゆうこくのじかんたいはおなじさぎょうにあてられるのである。せんじつのかいぎでつい(かんさいじんふうに)キレてしまった[10月17日(月)aをさんしょう]りゆうがつまりこれである。[19:20]

2000年10月18日(水)b
●ごぜんのじゅぎょうをおえてごごはがくせいのじしゅかつどうにまつわるいらいぶんしょを一まいかいて「とうきょく」とこうしょうしそのあとめんだんをひとりすませてさあきたくしてあすのじゅんびとおもったらヨロヨロとけいじばんにたてつづけに三ぼんのとうこう(いずれもないようはこくない)。そのいちぶにもかいたがけいじばんはかんりしゃとしてROMするのがいちばんのきぼうなのではある。まだまだしゅぎょうがたりない。[16:45]
●そのじゅぎょうのじゅんび(ふつうはりちぎにもぜんじつのひるまからとりかかることはまずない[笑])とはカラヤンのドキュメンタリィのへんしゅう[10月12日(木)をさんしょう]。さああしたはラクをするぞ(いやじゅぎょうぼうとうで「第1室」にかきこまれたしつもんにこたえねばならないが)。[16:48]

2000年10月18日(水)a
●ぼうびろくとしてさくじつぶんbへのほそくとして――「げんけい」としての『言語』エッセイにはさらにげんけいがあって(けさじゅぎょうのじゅんびをしつつおもいだした)さらにその某びじゅつけいだいがくのつうしんきょういくようテキストようにかかれたものは同テキストのしはん(この秋?)にむけたかいていもうけていてつまりぜんぶで五つのヴァージョンが(やがて)そんざいすることになる。[09:02]

2000年10月17日(火)b
●ふといま9月21日(木)が故タマのたんじょうびであったこと(いきていたら九さいになっていたはずだった)をおもいだした。しんだネコのたんじょうびにいみなどないとしてもそれはどうじにマリのたんじょうび(かのじょは六さいになった)でもあるのではなかったか! どうもそのひマリがうらめしそうなかおをしていたりゆうがわかった(ウソ)。
●ついでにセリとニゴについても。しょうがつをはさんで二かげつほど(たんじょうびのにっすうさ)をはさんで二ひきのひにんしゅじゅつをすることになりそう。ケンカしているのかとおもったらそのままじゃれあってかさなってねているようななかのよい二ひきでこのままだといまにもこづくりにはげみそうなけはいなので。
●もうひとつついでに。HPでこうかいしているのでえつらんかのうなひとはそれをさんこうぶんけんとしてよしゅうしておくようにとがくせいにムリなしゅくだいをだしたセザンヌろんにもよりながらあすの「現代造形文化論II」はしんこうされる。はいふしりょうとしてそのろんぶんのげんけいとなったどうめいのエッセイ(『言語』[大修館書店刊、1998年10月号])のコピーをよういするがそうしてふたつのヴァージョンをひかくしているといままたかいていされつつあるだい三のヴァージョン(れいのげんこうのいちぶをなす)のちえんにおもいいたる。あるいはかいていいぜんのだい一ぱん(もじどおりのしろん[エッセイ]である)がもっともうつくしいテクストとなっているようにも。[23:05]

2000年10月17日(火)a
●あさ。しごとでちかくにくるついでにネッツの高橋くんにたちよってもらって黒ヴィッツをみてもらう。たしかにコツンというきになるオト[10月14日(土)aをさんしょう]がさいげん。がサイドブレーキをはずすかぎゃくにおもいっきりかたくひくとそのオトがほぼおさまる。そのぶぶんの「かみあわせ」のふぐあいとおもわれ一かげつのむりょうてんけんじにちょうせいしてもらうこととなったが(うんてんにはししょうはないので)まあしかしちいさなことだがまえのBistroではけいけんしなかったこと。ながくつきあおうとかんがえるからこそのはやめはやめのクレーム。[10:45]
●ひる。あたらしいにゅうしせいどのたちあげ→それにのりたいじょうそうぶとふたんぞうをまぬがれたいきょういん→よそうがいのこうひょう(おうぼしゃたすう)→ますますのふたんぞう。この「ろうし」(ではないがそのようなかんけいだ)のはざまにあり、またその「あくじゅんかん」のさなかにあるわがみについては(いぜんにもかいたことがあるのではないかな)「こうつうじこにでもあった」とおもってあきらめるしかないのだが(笑)そうおもうだけでなくきょうのかいぎでは(べつにキレたわけではないが)じっさいそうはつげんしてしまった――「…とおもってことしはあきらめていますがらいねんはこのねじれをかいしょうすべくぎろんをつくしてください、ふこうなひとをださないために」。クレームがとくいなひともふくめていちおうかるくウケていたが(かんさいじんのかなしさ)だとしてもこころのそこではすこしもよろこばしくないのはいうまでもない。[17:32]
●――とかいていてことしきかんしのちょうしが(あきほんばんになっても)もうひとつスキッとかいふくしないのはストレスのせいでないかとおもいいたる(にゅうし、あたらしいだいがくいんのためのじむさぎょう、じゅぎょう、ゼミ、げんこう、こそだて、三びきのネコ、「ごもくとうばん」[たとえば9月27日(水)をさんしょう]、ふうふかんけい[ゲラゲラ])。とうひだ!、とうひだ!――とカレンダーをにらんでさっそくじょうきょうのけいかくをたてる。さまざまなしごとのたにまが11月5〜7日にポコッとある。そこをのがすとすぐにそつろんしどうのピークがくる(がその6日に「ごもくとうばん」がまわってこないというかくしょうもない)。[17:40]

2000年10月16日(月)
●よていしていたじかんをはるかにオーヴァーするかたちでにゅうしかんけいのうちあわせ&しりょうさくせいにぼうさつされる。こんしゅうまつから一しゅうかんあまりをかけてたんとうするさいてんさぎょうもたいへんだが(二百にんをはるかにこえるかずのしょうろんぶんをよむことになる)そのまえにすませておかねばならないちょうせい(ぶんがくぶないの十のせんこうかんのごういけいせい)がつまりもっとたいへんなのである(苦笑)。いずれにしても11月ちゅうじゅんのきょうじゅかいですべてのけっかがしょうにんされるまではひたすらたえねばならない(じゅなんのきせつ)。
●このたぼうともかんれんするが25日の子のえんそく[10月1日(日)をさんしょう]にはやはりさんかできそうになくてそのかわり母おやのほうがついにがくせいのじっしゅうしどうもきりすててけっきん、子をとるいしをかためたようだ。ただし「うてん」のばあいは27日にじゅんえんされるがそのひはどうしてもやすめないらしい。すべてをなげうつことができないかなしさ(さぁてそのばあいは父がでていくのかい?)。
●ちなみにさくじつ(すこし)がんばった(けれどもけっかにはあまりむすびついていない)げんこうのことはきょうは(いいわけメールをかくこともふくめて)すべてふっとんでしまった。へんしゅしゃSよ、さあなんとでもののしるがいい(これをよんでいないのをしっているからかける[笑])。[20:19]
[削除しました。]

2000年10月15日(日)
●ひる。母子がいつのまにかがいしゅつ。三じかんほどしてかえってくるとあたらしいおべんとうばこやらドッヂボールやらうんどうぐつやらえほんやらをかってもらったらしく子はたいそうまんぞくのようである。どこにいくとかことわっていかなくてもいいからきゅうじつもふたりでたのしくやっておくれ。
●かくいう父はこのひひさびさにじぶんの(つまりこうむとかんけいのない)しごとにせんねんしたしこのあともせんねんしようとしている(そのこんやにかけるいきごみをつたえんとばかりにいつもよりはやめのにっきこうしん)。かくてせいか(しんちょくぶり)さえとわなければすばらしい一にちだったといわねばならない。
●よりすばらしいひであるにちがいないあしたのよてい――あさはほいくしょへのフトンはこびからはじまっていったんきたくしてかみんしたあと(こんやがんばるはんどう)しょうごにがくせいのめんだん。そのごあさってのかいぎようしりょうのさくせい(どんなきちんとつくってもどうせもんくがでる「ソン」なしごと)とへんしゅうしゃSへのいいわけメールのはっそうがつづいてゆうこく(たぶん)子のおむかえ。細君(こんしゅうはあっちもとくにいそがしいようだ)がざんぎょうとなるならゆうごはんをつくるかくごもすでにいまからできているのであった。[21:00]

2000年10月14日(土)b
●ごごの「おむかえ」のあと子とひるねをしておきてから「もじあそび」にきょうじ(ほいくしょでおしえてくれているのかさいきん「あいうえお」をはなすようになった)よるもBきゅうえいが『スピード2』でおおいにもりあがった。あるしゅのじゅうじつかんとしょうそうかん――。しかしあすは母子であそんでおくれとさっきたのんだのできょうのところはこれでよしとしなければなるまい。
●しょくばで「かじ/いくじにかんするふうふのぶんたん」にかんするアンケートへのきょうりょくをもとめられて細君はこうこたえたのだそうだ。「おっとのかじぶんたん」=30%、「同いくじぶんたん」=50%。たかいとみるかひくいとみるか。ちなみにじこさいてんではおなじじゅんに20%、30%(きょう一にちにかぎれば50%、70%だが)。これもよしとしておこう(ほんとうにいいのか)。[23:50]
●しんや。かるいぜんそくしょうじょう(ほっさではなくじわじわとくるしいタイプの)。やっとひとりになったのになにもやるきがおこらない。[24:35]

2000年10月14日(土)a
●さくじつぶんのひづけ/ようびがともにまちがっていたことにいまきづく。しゅうせい。ただしそれをしんじてなにかしせいかつにじゅうだいなししょうをはっせいさせるどくしゃもまさかあるまい(笑)。
●けさは母子をほいくしょ/しょくばにおくりとどけたあとひさびさにマクドナルド金閣寺店でちょうしょく(ここがなごむところがこどもである[笑])そのあと黒ヴィッツにきゅうゆ。のうしゃされて二どめなのでこれでちゃんとねんぴけいさんができるわけだが11km/lほどといがいにひくいのでがっかり(じゅうたいにまきこまれないひはなかったからな)。ちなみにシートにすわるときにリアのほうでコツンとちいさなオトがするので一かげつめのけんさにさきだってしゅうあけにみてもらうよてい。それいがいはかいちょう。
●ちなみにいまプロコフィエフのだい六ばん[ピアノ・ソナタではない]がなっている。おんがくをおんがくとしてきくのがひさびさ。「土日はがんばる」とけついしたところでその一にちめはこうしてダラダラとはじまるのである。[11:26]

2000年10月13日(金)b
●大阪へはけっきょく15:00にでたのだがナビのFMじゅうたいじょうほうで18:00(こうぎかいし三十ぷんまえ)ころのとうちゃくとひょうじされたのできゅうきょこうそくによるルートへとへんこう。けれどそこでもじこじゅうたいにまきこまれてついたのはほぼおなじじこく。いそがないかえりはぎゃくにこうそくのよていをこくどうりようのルートにかえたがこっちはとちゅうファミレスでおそいゆうしょくをとるなどしながらのんびりと二じかんはんほどもかけてきたく。かえりにりようした大阪しないのみちが京都よりはるかにふくざつだったこともあってとにかくつかれた。ただしうんてんのらんぼうさは京都のほうがはるかにうえである――と、さいごはつまらぬ「おくにじまん」で(笑)。
●かんじんのこうぎのなかみ/はんのうについては?――つかれがとれてから「けいじばん(べっかん)」にでも。
●ちなみにあすあさってはほんきでげんこうにとりくむつもりなので(いままではほんきでなかったの?)つかれはとれるどころかさらにちくせきされるおそれがある。[24:17]

2000年10月13日(金)a
●「たぼうはせかいじゅうでおこっていますから…」――けさとどいたメールにみえるもんごん。けだしめいげん。しゅうあけにザブトンをいちまいおくってやろう、げんこうにそえてへんしゅうしゃSに。
●だいがくでのこうむをおえてこんしゅうさいごのしごとでもうすぐ大阪へ。しごとだけど(これは)たのしんでくるつもりなので…。[12:10]

2000年10月12日(木)
●ごぜんのじゅぎょうで「てんのうせい」にまつわるぎろんにおよんでおおいにつかれる(苦笑)。ということもあってらいしゅうはビデオでラクをさせてもらうむねをすでによこく。「こうてい」カラヤンにまつわるドキュメンタリー二ほん(百ぷんあまり)をせいぜいうまくはんぶんりょうていどにさいこうせいしよするよてい――ゴダールのように(冗談)。
●ごごのゼミは10日にしめきった1400字エッセイかだい(レイアウトゆうせんでしていされたぎょうすうをオーヴァーしてもふそくしてもダメ)でゼミせいたちはよそうどおりいつもよりすぐれたぶんしょうのでき(けっしゅつしたものもないが)。ふじゆうさを「とも」とせよ!――これはじぶんにむかってもいっている(笑)。
●ゆうこく。あすむかう大阪・中ノ島へのけいろをカーナビでせっていしてこのてんではじゅんびばんたん(スライドのじゅんびはかんりょうしていない)。こうこうじだいまですごしたまちなれどそとからクルマでのりこむのははじめてなので(みしらぬこきょう!)こういうときこそナビにははたらいてもらわねばと(笑)。ちなみにこうそくをつかうとあまりにたんちょうなので「いき」はこくどう171ごうから1ごうにはいるみちをせんたく。まあしかしそれでもまだじゅうぶんにたんちょうではある。かえりは阪神から名阪へとこうそくをのりついで一じかんほどできたくよてい(ほんらいなら大阪のそのあたりを「ねじろ」にしているS.N.ちゃんとのみたいところだがかのじょがあすはたぼう)。
●しんや。その大阪でのたんぱつこうぎ(テーマは「シュルレアリスム」)でしようすることをおもいたって小澤/SKOの’96サイトウキネン・フェスティヴァルのビデオをダビング。すなわちプーランクさっきょくのオペラ《テレージアスの乳房》でこのアポリネールのげんさくにたいして「シュルレアリスム」の語がはじめてもちいられたのであった。テレーズ(ちぶさをとってテレージアス[男性名]になる)が「わたしはフェミニスト!」とさけぶそのセリフがだい一じせかいたいせんいぜんのものであることをしるだけでおどろく。あるいはちぶさにみたてられたふうせんがわられて「かのじょ」が「かれ」にへんようするえんしゅつもいかにもシュルレアリスティック。立命のじゅぎょう(「ひょうしょうひはんII」)でもつかえそう。[24:50]

2000年10月11日(水)
●しごとのすすみぐあいはさいあくである(どくしゃしょしがよそうしているとおり)。びょうきのメタファーをもちいるならばICU(しゅうちゅうちりょうしつ)にはいらねばならないじょうたいなのにあきべやがない/びょういんのたらいまわしといったところか。
●ひるがえってきかんしのちょうしはそれじたいとしてはかなりかいほうにむかっているが(しゅじゅつごにこしつからおおべやにうつったかんじゃというかんじ?)ステロイドけいの「きゅうにゅうやく」のじゃっかんのふくさようもあってか「こうないえん」になっておしゃべりするのがしごとのにんげんにとってはこれもちょっとツライじょうたい。(「こうないえんにつききゅうこう」というけいじをいちどだしてみたい[笑]。)
●というわけできぶんてんかんもかねて(しゅもくてきはじゅぎょうのきょうざいのたんさく)ゆうこくのあきじかんに河原町三条までクルマをはしらせてCDのぶっしょく。JEUGIA本店でセル(シベリウス2ほか)とクーベリック(マラ9)の七〇ねんだいの日本におけるライヴ(NHKのかつてのおんげんがこうしてはつばいされるケースがさいきんおおい)、アラウのリスト(「ちょうぜつぎこうれんしゅうきょく(ぜんきょく)」)ほかクラシックけいのみ七まい。ゼスト御池のちゅうしゃじょうにもどるちょくぜんに「そうだハリス・アレクシーウだ!」とおもいだしてちかの新星堂にとびこんで「いのりをこめて」をついかこうにゅうしコイツはすぐにふうをきってさっそくきろのBGMに。まどをぜんかいにしていつもよりわざととおまわりのみちをえらぶとじたくちかくでひがしずむころには「なるほどこれが『げんだいギリシアのエンヤ』(だれかこうよんでいなかったっけ)のひびきか」となっとく。ちなみにいえにかえってセルのシベリウスをきくと……
●――てなぐあいににっきだとスラスラとなんのよどみもなく/ネタがつきることなくかけるのにどうしてしごとのテクストはそういかないのだろう。ぐもんとわかったうえでとうているのだがこういうときはしかしはんぶんホンキでにっきや(けいじばんへの)レスのけいしきにのっとってぜんぶのぶんしょうをかいてやろうかとおもってしまうのであった。[24:06]

2000年10月10日(火)
●さくやふれたごぜんちゅうのしごと(こうむ)はいちおうしゅびよくはこんだがごごのぶん(プライヴェートなしごと)は……いまはふれたくない(苦笑)。がくないでのしんらいがそこそこましてがくがいではしんらいをうしなうパターン。らいねんはぎゃくのいきかたを(まだ三かげつちかくもさきのはなしだ)。
●そのらいねんのとしあけそうそうがしめきりとなるみじかいテクスト(二十まい)のしっぴつをいらいされる。そんなのをかいているばあいではない――そうきびしくいうもの(へんしゅうしゃSでなくとも)もあるだろうがテーマとメディア(こじんてきにおせわになったざっし)とある「とくべつなじじょう」ゆえにひきうけることに。ちなみにばあいによってはげんざいちゅうだんちゅうのページ「モダニズムの条件」とれんどうすることも。
●もうすこし「めさき」のはなし。すすまないしごとがあるいっぽうで13日の「シュルレアリスム」のたんぱつこうぎについてはしょうかいしたいぶんけんすうさつがたてつづけにほんのやまのなかからみつかって(きせきてきだ!)こうそうもそこそこかたまりつつある。そうていされるじゅこうしゃ=アマチュアにただがいせつしょをひらけばえられるのではない知をはいぶんすること、そしてその知のはいぶんのこうずそのものをあけひらくこと――あんしょうにのりあげているしごととつうていするかだい。いやそれいじょうにたんぱつだからこそその九十ぷんだけでえられるまんぞくを(たったひとよだけのアヴァンチュールのつもりで[笑])。[23:45]

2000年10月9日(月・祝)
●かくべきことがすくないひ(かくべきでないことはいくつかある)。だからといってじじもんだい(ONたいけつ、ユーゴもんだい、しんしゃじょうほう、etc.)にわだいをふるのもしらじらしい(笑)。むしろあすからのウィークデイ四日かんにおもいをいたすひに…。
●あす。うんどうかいのだいきゅうびでほいくしょはおやすみだがどうしてもほごしゃがやすみをとれない(しかもジジババがちかくにいない)かていのためにとくべつほいくのそちがとられる。わがや(そしてひもだYさんちも)をふくめて九かぞく十にん(すくない!)。父はじつはじゅぎょうはないのだがともにしょうごをタイムリミットとする二ぶんしょをしょくばにとどけでるぎむがあってごぜんちゅうはそのしあげにいそがしくしていることだろう。ごごはれいのげんこうをプリントアウトしてたっきゅうびんのしめきりにすべりこむさんだん。ゆうがたには衣笠医院でメプチンエアー(ぜんそくもちはかかすことができない)ほかのクスリをだしてもらわねばならない(このところその「へりかた」がはやい)。
●それよりもこんしゅうのトピックスは13日(金)の某カルチャーセンター(大阪)でのたんぱつこうぎ。「シュルレアリスム」というどっちかといえばこのみではない「おだい(テーマ)」があたえられたのでふくだいを「かいがはもともとちょうげんじつてきなのだけれど」とすこしひにくってつけたのだがたんぱつということでつうじょうのじゅぎょうのような「じかい」のていせいやほそくがかなわないゆえせいぜいじゅんびをしてとおもっていたのがけっきょくなにもとくべつなこともできずにとうじつをむかえるようなよかん。
●よる。かんせつてきに(きゅうちのどうぎょうしゃのでんごんメッセージで)きのうときょうが「美学会」(京都芸大大会)のひであった(らしい)ことをしる(おもいだす)。なんねんもかおをだしていないがっかいだが「じもと」でひらかれることもあっておもいこしをすこしあげればいろんなひとと「さいかい」できたのに(京都芸大にあしをはこぶぜっこうのきかいでもあったのに)とあとからすこしざんねんにおもわれたのだった。[23:25]

2000年10月8日(日)
●まずはさくや(さっき)のにっきのさいごのこうもくへのちゅうき――MORO.S.さんがダイエーホークスをおうえんされていたのはゆうしょうきねんセールでおめあてのギターがいくらかやすくこうにゅうできるから(「第2室」の過去ログをさんしょう)。[01:30]
●ごごからのあめのよほうをうけてうんどうかいはいくつかのえんもくをはしょってごぜんちゅうできりあげ。そのつうたつがれんらくもうでまわってきたそうちょうにどのうちでも「せいさくちゅう」であったもおべんとうはしたがってそれぞれのうちで(おそらくわがやどうようビールなどもやりながら)しょくされることになった。ひるまからいっぱいやってしかもそのあとグーッときゅうよう(ひるね)がとれたのだからこれはこれで「よいひより」であったといわねばならない(たったいまおきたところである)。[17:52]
●ゆうしょくご。さいみんさようがあるというのでふくようをひかえていたかぜぐすりをいつものきかんしようのくすりとあわせてふくようするとこれがてきめんにすいみんをゆうはつして四じかんほどもかみん。ひるのぶんをあわせると八じかんでありしかもまだねむい(ねむいがにっきをこうしんしなければというぎむかんでたちあがった[笑])。「さいみんさよう」ということばにほとんどかどにはんのうしてしまっている「ウブ」のかのうせいもあるがいずれにしてもあしたはぜったいにこのかぜぐすりをのんではいけない。
●というわけでいまからおふろをおいだきしてはいってからビールでもやりながらしごとをするかそれとももういっぷくかぜぐすりをやってこんやはひたすらねむるか…。[25:45]

2000年10月7日(土)
●さくじつぶんのbはかきながらよくちょうのさくじょを「よてい」していたのだが(笑)このたびはそういうきぶんにもなれなかったので/でもがめんじょうでよみかえせばさくじょそちをとりそうにもおもわれたので(それだけのりゆうか?)いちにちじゅうVAIOをひらくことをしなかった(だからけいじばんもチェックしていない)。いちばんパチパチとキーをたたかねばならないひなのに…
●こうして「しなかったこと」はかくのに「したこと」はかかないのである。こんやはにっきしっかくである。
●きょうのことはわすれてあすのはなしを(みらいを!)。まちにまった(子はなんにちもまえからハイテンションである)うんどうかい。そのじゅんびがあさ七じからはじまる。二さいじまではおひるねがひつようということでごぜんちゅうだけだったが(はやおきしてすいみんぶそくの父にとってもひるねはひつようである)ことしはごごに「たまいれ」と「ぐるぐるばっと」の二つのえんもくがある(たいちょうがよければこうしゃにしゅつじょうよてい)。ゆうこくあとかたづけがすんでからしごとにしゅうちゅうすることになる――なんてかいたってだれもしんじまい(笑)。
●さあこんやはベートーベンをきかないでおこう(きんべんになるためのBGMをだれかおしえてくれないものか)。[21:52]
●「したこと」をひとつ――たったいましんやのドライヴよりきたく。しんやとはいっても新丸太町通りぞいのしんやえいぎょうのしょてんはけっこうなこみぐあい。そこで『ぬけみちマップ』(ナビがとんでもないみちをおしえるから)と『文学界』(三島由紀夫とくしゅうをくんでいるがそれよりも浅田彰のおんがくCDひょうと千葉一幹[元同僚]のじひょうの二ほんのれんさいものがおめあて)をこうにゅう。やしょくをかうためにローソンにもたちよったがどうけいれつのダイエーホークスがゆうしょうしたとかでへんなクジをやっておりおもわず「第2室」のじょうれんMORO.S.さんのよろこぶひょうじょうをおもいうかべる(とはいえおかおはぞんじあげない)。[24:25]

2000年10月6日(金)b
●「友よ、みずからの道を進め!」――「第九」をきいて/みていてけっしんした(笑)。十ねんごにはだいがくをやめよう(わがdifferenciaを?)。いややめることじたいはいたってかんたんなのだがようはむかしのようにヒモみたいなせいかつにはもどれまいからくいぶちをかせぐしゅだんはとうぜんもたねばなるまいということだ。「喜びは美しい神の火花」――そうだ「やめる」ことそのことじたいにかちがあるようにいまはおもえる。かくてこれからのわがせいかつはそのもくひょうのじつげんのためにそしきされるだろう。[26:28]

2000年10月6日(金)a
●あさ一げんめのじゅぎょうのあるひはふつう7:30にきしょうしたらこれからかおをあらってみじたくをととのえてがっこうにいってさあじゅぎょうだときょうしつにむかうそれまでにようするじかんとおなじぶんだけきょうだんのうえではなすのだとおもってただそれだけで7:32ふんころにいちどめまいをおこす。きょうはそのじゅぎょうのあとすでにはじまっているかいぎにすべりこむそのよていにおもいおよんで7:40ころもういちどめまい。よびこうのきょうだんにたちはじめたころはよくふくつうにおそわれたが十五ねんほどたつうちにせいちょうしたのかしていないのか…。
●かいぎではほんとうにはつげんすべきばめんをのぞいてほとんどはつげんしないかもくなひとなのだが(ひみつかいぎではよくしゃべるとひょうばんである)だまっていてもしごとがくるときはくる。きょうも10日(火)までにやるべきしごと(あるカリキュラム・モデルずのさくせい)がひとつあたえられる。げんこうもあるしAOにゅうしかんけいのぶんしょもあるし子のうんどうかいもあるしクルマのメンテナンスもあるし…とこえをあらげたいきぶんにおそわれたがそこはそうしないところはさすがにおとなであった(どこかでうまくしごとをことわるちえをみにつけよう)。
●ごご。ゆうこくまでじたくでしごと。しごとのなかみについてはここにはかけない(笑)。(「(笑)」のもじをつけるのもほんとうはふきんしんだが。)
●よる。しょくじのあと子をふろにいれる「しごと」もさぼって「かみん」。このところいちばんしあわせなしゅんかん。
●しんや(いま)。けさろくが(BS2)したアバド/BPOのコンサートのえいぞうをながしながらしごと(そのなかみについてここはかいてもいいがどくしゃはそれをしってもなんらのメリットもないであろう)。ベートーベンのP協第2番はあまりきくきかいがないがソロ(プレトニョフ)のかるめのタッチもあいまってあたかもモーツァルトのそれのよう。いずれにしてもコンサートにいきたい(きょねんのいまごろはシュタルケルの京都こうえんをききおえてつぎのN響きゃくえん[岡山こうえんをおっかけ]をひかえて「第2室」でドン・キホーテ論をれんさいしていた)! へんしゅうしゃS(きのうのメールをよみかえしたがいやなヤツだ[笑])とのうちあわせのためにじょうきょうするにっていがきまったらとにかくなんらかのチケットをおさえるつもり(このさいなかみをとわなければなにかやっているだろう東京というまちは)。[24:47]

2000年10月5日(木)c
●きぶんてんかんにネコのきんきょうを(きょうはじゅぎょういがいのじかんはほとんどキーをたたいていたのにまだかきたりない)。マリはようやくあたらしい二ひきのきょうだいになれてきたようだ(フーッといかくしなくなった)。セリはあいかわらずいつもなみだめである(こうねつはでないがおなかをこわしている→ぜんぶかのじょのせんてんせいのしっかんにむすびつけてしまう)。ニゴはとにかくヤンチャでしかもさいきんつかいだした「うもうブトン」があんまりきもちいいのかそのうえでオシッコをした(二どもやった)。かれひとりをしんしつのそとにだすのはかわいそうだからセリもついでにだされる(ふたりはけんかもするがいつもいっしょである)。そのてんマリは「きとくけん」をしゅちょうしている(ようにみえる)のでとくべつあつかい(トイレにいきたいときは「あけて〜」とあいずするからこのてんでもだいじょうぶ)。そういえばさくねんのふゆにはまだ故タマがふとんのなかでグーッとのびきってねむっていた。それがいまはリビングのいっかくから三びき+三にんをながめている。[24:08]

2000年10月5日(木)b
●「いままで何年も延びてきたことを考えれば、半分は予想通りでしたが、でもこんどこそはと信じていたのも半分ですので、残念です」のことばでさっき2ndアドレスにてんそうされてきたメールははじまっていた。かれとのつきあいは七ねんでことしはじめてほんきになってかきはじめたことをおもうとたしかにつらいことばだ。いろいろもりこみたいろんてんがあって…といういいわけにもならないいいわけにたいしては「どんどんと書きたいことをあきらめてください。書けることの1/10くらいが書ければ御の字と思ってください」とのいかにもげんじつてきなおうせつが(こんなにっきをかいていることをしったら「ただちにそのページをへいさしてください」というくらいのセリフがとんでくるだろう)。「締め切りを後ろにずらしても、そこでまた、間に合う間に合わないになるでしょうから、来週頭にでも一度送ってください」。はいはいわかりましたわかりましたごめんなさいごめんなさいまたしめきりにまにあわないなんてぼくはほんとうにほんとうにろくでなしです(もちろんこんなかきかたはかれにはできない)。
●というわけでゆうこくからひさびさのしっぴつモードにはいっている(ウソですけいじばんにちょうぶんをかきこんだりもしています)。じゅぎょう&かいぎからかいほうされるあすのごごから三日かんは8日(日)のうんどうかいと10日(火)にはいふよていのかいぎようしりょうさくせいとやらずにすませてはマズイらしいクルマのメンテナンス[10月4日(水)をさんしょう]いがいはひたすらVAIOにむかうことになる。がんばれニッポン![21:42]

2000年10月5日(木)a
●ゆうこく。ついにヤツからでんわがあった。ゼミのさいちゅうにるすでんメッセージがのこされていたのだが(のこされている「おやくそくのひが…」というこえはあいかわらずマフィアみたいだった)もしもけんきゅうしつにざいしつしていたらあやうくじゅわきをとってしっしんしてしまうところだった。とりあえずメールで「こんばんはロングランのかいぎがあってじゅぎょうのこともかんがえるとあすのごごまでカラダがあかない」というどうみてもウソっぽいメッセージをかきこんだ。それだけではもちろんすまないのでしゅうあけのじてんでいちどプリントアウトしてとどけるからぞんぶんにちゅうもんをつけてほしいとあいてのきげんをそこねないかきかたをくふうした。「これからさむくなってくるのでいんしょうはかんけいのほんはタイミングてきにマズイかもしれませんね」とほんとうはかきたかったがそこまではさすがにかけずに「へんしゅうちょうにもじっくりよんでもらってください」と(まだモノをとどけてないのに)かいた。そうやってメールをうってさらにきやすめに「第1室」にちょうぶんのレスをかきこんでいままたこうしてにっきをかいているうちにもへやのでんわは三どほどもけたたましくなったがいまはもうゆだんをしていないのでもちろんじゅわきはとらなかった。さあこのあとどうなるのだろう。いちおうaとはかいたがなにかショックなことがおこってすべてを(もちろんこのにっきも)なげだしているかもしれない。[18:43]

2000年10月4日(水)
●ひるのかいぎでひもだYさんとどうせき。かのじょはこのにっきのどくしゃでもあるからかくのだがじつはそこでぎろんされたあんけんにまつわってこのはるいこう一しゅうかんに一かいていどのわりあいでしょうしゅうされてきたのだしあるときはまた日本海がわの虹岳島(こがしま)におけるひみつのがっしゅく[2000年9月1日(金)bと2日(土)をさんしょう]にさんかするはめにもなったのである(じむきょくスタッフといういちづけでこれは2002ねんのはるまでけいぞくするしごととなる)。くわえてさくじつのべつのかいぎ(にゅうしかんけい)ではかのじょのhusband氏とどうせきしてこれもこのあきなんにちにもわたってこうそくされることがけっていしている。たんじゅんにしゅるいをかぞえるだけでもほかにまだ二しゅのかいぎのじょうれんで(きょうじゅかいやきょうしつかいぎ[がっかかいぎみたいなもの]はのぞいてである)つまりこれだけかけば立命ちゃくにん三ねんめのことしを「てんちゅうさつ」のごとくにんしきしてあきらめているわがしんちゅうがりかいされることであろう。
●そのひもだYさんが「第1室」でふれておられるさくじつ[3日(火)]=「Xデー」のことだがそれはまだのりこえられたのではなくこれからへんしゅうしゃSとのかっとうがはじまるはずなのである。ちなみにきょうのところはヤツからはなんのおとさたもない。10まんじをいくらかこえたところでここ二しゅうかんほどストップしているれいのげんこう[だい一ぱん]はだせといわれればだすことはできるがこれからそれにさくべきすいこうのためのじかんてきよゆうはすくなくともこれから一かげつかんはつくれそうにない(それにSのことだなんかしょもリライトをもとめてくるだろう)。このばしょのどくしゃにだけこくはくするが(笑)きぶんは「いんしょうはははるだ」というこていかんねんにとらわれているらしいかれのじょうし(へんしゅうちょう)のはんだん[9月9日(土)aをさんしょう]にのっかるべくアノてコノてをつくそうとおもっているところなのである。
●わだいかわって――さくじつそしてきょうとゆうしょくたんとう。べつに「にげられた」わけではないのだが(笑)せいかつのじったいはそれにちかいものとなっている。こっちもたぼうなのにやってられないゼといっしゅんおもうがそれでもわかれてもイザとなったらこそだてもふくめてやっていけるというかくしんのようなものはえられた――なんていっていいことやら(笑)。
●よていではあす5日あたりにポリマーシーラントかこうをほどこした黒ヴィッツのしょかいメンテナンス(きっちりせんしゃしてかわかしてからせんようクリーナーをぬりこんでかわいたらふきとる)をやらねばならない。五ねんかんワックスふよう/みずぶきだけでOKというキャッチコピーにつられてオプションでたのんだのにこれだとワックスがけとおなじではないか。なんだかだまされたようなきぶんだし(ただしこんなにたいへんなさぎょうはしょかいだけらしい)それよりもそんなはんにちしごとになるようなことにあてるじかんてきよゆうはありはしないのである。
●そのあす。あさ二げんめのじゅぎょうのあとにらいしゅうはいふよていのかいぎしりょうをさくせいしてそのご四げんめにゼミ。そつろんていしゅつよていしゃだけで十九にんをかかえそこにほぼどうすうの三かいせいがくわわる。かれらがほんきになってべんきょうしはじめでもしたらこっちがぎゃくにパンクするだろう。[23:05]

2000年10月3日(火)
●にっきなのにさくじつのことをかくのもへんだが(そのひのうちにはかくきぶんになれなかった)細君がしょくばでいろいろくろうがたえないようである。たまらずグチったりすこしもちなおしたりしているがどのみちながつづきすることではないだろう。「やめる」のもひとつのてである――さくじつのふうふのかいわのなかみ。
●ひるがえってこんやかきたくないわだい(笑)。ちゅういぶかいどくしゃがあればきょうがどのようなひであるかはしょうちされているであろうがとうのほんにんはコワくてそれにはふれえないのである。二、三にちのうちになんらかのてんかいがあってこのばしょでも「ほうこく」することができるかもしれない。
●あすはあさ二げんめのじゅぎょうのあとすでにはじまっているかいぎにすべりこんで(おひるゴハンはでる)ひきつづきせんこうのうんえいにかかわるべつのかいぎ。そのあとそつろんかんけいのめんだんがすうけんあってつまりゆうこくまでやすむヒマがないけはい。グチっているようにきこえようがこういうじょうたいがじつはきをまぎらせてくれているそくめんなしとしない(ただしこれでまちかまえている「くきょう」からじっさいにすくわれるわけではない)。[25:00]

2000年10月2日(月)b
●ひるのかきこみにaとつけてしまったからいまbをかいているがひづけはとっくによくじつ。りゆうはごそうぞうどおり「かみん」である。というわけでこれからひとしごと――が、ここでビールなしですませられたら(カラダのためでもあるし)エライのだがあいにくそんなにできたにんげんではない。もうせいかつのりズムもなにもあったものではない。
●ちなみにあす(きょう)はごごからかいぎ二つ。よくじつもおなじく二つ(こんしゅうはあときんようびにも一つ)。このがっこうにうつって三ねんめ――なにかがおかしいとしかいいようがない(苦笑)。[28:30]

2000年10月2日(月)a
●あさはあいかわらずめざめてからきかんしのちょうしをおだやかにするのにしばらくじかんをようするありさまだがそれでもシートにすわってしまえばこきゅうきけいとういがいのうんどうにたいはんをまかせることができるのでむしろじたくやけんきゅうしつよりもそのちいさなハコのなかにいるじかんをえらんでしまう。けさも母子をおくってからひとりマクドナルド金閣寺店でちょうしょくをとり(またか)そのままクルマを仏教大学まえから府道31号線にそって杉坂口までほくじょうさせてそこから国道162号線を北山杉のさんりんをみながらなんか。ゆうこくまでにしあげねばならぬぶんしょがなければそのまま日本海までぬけるところであった。[12:40]

2000年10月1日(日)
●ごぜん。たいちょうはあまりよくないがてんきはよかったのでよていどおり嵐山高雄パークウェイへ。あと一かげつほどもすればげかいよりもはやくにそこはまっかにいろづくことであろう。またそのころに(そのときはたいちょうもまたばんぜんにして)。
●かえりにナビにみちびかれながら(というほどのこともないたんじゅんなみちだが)清滝のけいこくに。こんげつ二十五にち(水)にえんそくで子がそこから愛宕山にのぼるとざんどうのいりぐちにたったものの父母はふつうにしていたらふたりともしごとをやすめそうにないけはい。ちゃくにん三ねんめにしてはじめてのきゅうこう(さくねんのシュタルケルのらいにちじにも「おっかけ」をだんねんした)をひそかにかくさくしているのだがこれくらいのことでバチはあたるまい(それどころか○○と××でだいがくにこうけんしているのだからボーナスつきでとくべつきゅうかをこうにんしてほしいくらいだ)。
●ごごはオリンピックのライヴにチャンネルをあわせながらよこになっているうちにまたひるね。きかんしのぐあいでよるにじゅくすいできないものだからひるまのねむりがやたらとふかい。おかげでじょしとくらべるとあまりにもふがいないだんしマラソンのけっかをみずにすむ。
●土日のうちにこなそうとおもっていたしごとにまったくてをつけないままよるをむかえたがそれでもまだなにもやるきがおこらない(こんなときもにっきだけはつけるのか)。○○と××にかかわるぶんしょさくせいもひっくるめてすべてはじゅぎょうがないあすげつようびにかけることになる(ほんとは子もおらずいちばんのんびりできるひなのに)。[24:25]