エッセイ
作品(オペラ)のかたち
――坂本龍一『LIFE』考
2000年2月執筆の未発表原稿
小さな軋轢
その手のものとしては久びさに小気味いい、さる文芸時評欄(『週間読書人』2000年2月4日付)で、大杉重男が坂本龍一をマクラにしていた。昨夏話題となったのオペラ『LIFE』――いや、騒いでいたのは創刊120周年をそれで記念した朝日新聞(と開局40周年のテレビ朝日)と、それを単一の主題にした坂本と浅田彰の対談を掲載した『批評空間』誌(第II期第23号)だけだった、という話もあるが、いずれにしても、年末のテレビ放送分のビデオ録画によってそれを見たという大杉の感想は、まずは例のごとく、いたって辛辣である。
『ラストエンペラー』が浅田彰の言ったように中国史と何の関係もない一人の孤独な子供の物語だったのだとすれば、『LIFE』もまた浅田の不可解な擁護にもかかわらずおそらく二十世紀音楽史と何の関係もない孤独な和製リラクゼーション・ミュージックに過ぎない。弔うべきものなど何もないのであり、ないほうが弔いやすい。バッハのコラールのいかにも甘ったるいアレンジや埴谷雄高が譫言のように語る怪しげな生命哲学を聴きながら、私はこの無期限の喪の身振りがいつまで快楽として享楽されるのかを問わざるを得なかった。
このラストの部分が同じ暮れの、たった一枚の小判発掘の騒動によって再びブラウン管にお呼びがかかった糸井重里の、赤城山を掘り続ける幻影と、ダブらせられる。
それは自分の墓穴を掘っているわけだが、掘り続けている間は葬られることはないのであり、埋蔵金が見つからないかぎり掘り続けることができる。むしろ埋蔵金など見つからない方がいい。
時評子はこのアナロジーをうけて本題に入る。二つながらあるこの遅延が象徴する、バブル経済崩壊によって終焉したといわれるポストモダンが「実はまだ終わっていない」事態が、文学的事象によっても例証される。
本稿の筆者はしかし、あいにく同時代文学に関心がない。ゆえにこだわるのは、きびしく、しかしあまりに手短に指弾された、この総合芸術のことである。
ビタミン剤のCMとタイアップして器楽ソロとしては異例のヒットを飛ばしたあの癒し系音楽と、この作品(オペラ)は、一面で変わるところはない。そのことを喝破する点で、かかる評言は正しく、同時に、それを「に過ぎない」との否定の論拠とする点で、微妙に的を外している(それは目指され、かつ達成されたのだといわねばならないし、また後述するように、芸術によるリラクゼーションの機構そのものに楔を打ち込む面も有しよう)。
この射的の当否は、後続の小さき者たち(と自戒も込めて複数形で書くが)の不安の根源であるかのように肯定と否定をないまぜに言及されている浅田彰にまつわっても指摘できる。このひとは坂本の音楽なら何でも許容、礼賛するのであるから、「不可解な擁護」とするのは本来的に適当でないうえに、ましてこのたびは「コンセプト・デザイナー」として制作スタッフのクレジットにその名をとどめている。
その当事者二名が、制作段階でちょっとした軋轢を起こしたらしい。争点はラストの、「光の降臨」として扱われることとなった部分にまつわってである。朝日のあの馬鹿げたキャンペーンが終わって、いまは同紙のHPの一隅(http://www.asahi.com/opera/index.html)にその残照を留める過去の記事のなかから、まずは浅田の発言を落ち穂のように拾ってみる。
また終盤、オペラというよりオラトリオのような感じで宗教的な救済に傾斜していくところも、もっとクールに終わった方がスマートになるかもしれない。
ごく控え目だが、要は「スマートでない」と言っているのだからその坂本評としては異例だ。ところが、坂本の発言は、それどころでは済まない。
ラストの光の降臨のシーンは、浅田氏などの反対はありましたが、主張を通しました。作品に関しては専制君主ですからね。
進言の拒否と、その公言。そしてその拒否による十全な成功――これまでも、そしてこれからも百年一日のごとく続くのであろう交友史の一頁上の、小さきシミ。
没入と覚醒
いや、単純に美的な観点からすれば、浅田の言っていることのほうが、おそらくは正しい。忠臣はいつだって君主より賢明なのだ、とは言い換えはすまいが、けれど、いかなる「スマート」な終結が夢見、あるいはじっさい進言されたのだとしても、オペラは一個の事実として、思わず気恥ずかしくなるほどの光と音の洪水もて幕を閉じたのだ。
舞台には、巨大なモニタの併置によるスクリーンが設置されている。あるいは前景の人びと=かたち(フィギュア)を受けとめる地(グラウンド)として、あるいはまさにそうした地と図の関係を混乱させる装置として、いずれにしても全編にわたって書割ならざる書割として、それは機能させられている。それが終幕に、ただ抽象的な光のパターンのフィールドとなる。かと思えばやがて、モニタ間の継ぎ目や背後から立ち現れる強力な光(サーチライト)によって凌駕され、モノリスのごとき剥き出しの物質性を顕わにする。それまでスペクタクルを消費しえていた者どもの領域をさえ、光は煌々と照らし出し、かくて客席と舞台との敷居=識閾は取り払われる。「幕」は名実ともに、ただ始まりと終わりのメタファーとしてのみ機能しうるものとなる。
幕、そしてその物理的存在性を保証するプロセニウム・アーチの、その不在は現代演劇の常套手段であるとの指摘があるなら、それはおおいに正しい。けれど問うのだが、ここまで壮大な、馬鹿馬鹿しい仕方でその不在が言明されたことが、かつてあっただろうか。
光のパントクラトゥールの下での、没入とそして、そこここに「私」と同じようにして顔面を照らし出されている観客を目の当たりにすることによって強いられる、覚醒――だがそのダブルバインド状態を他人事のように書く、筆者のこの超越的資格の根拠は、問われてもいい。が、何のことはない。筆者もまた年末にテレビの録画放送をつうじてそれを見た、大杉と同じクチなのだった。(ただし、ビデオも回していたが明け方まで放送につきあい、同時に、これを再生して見直すことはないだろうという不思議な予感をすでに抱いていた。)
音楽学者/評論家・長木誠司はその点、会場に足を運びつつも、あの強烈な光をは、それゆえいっそう冷ややかに受けとめたものと見受けられる。朝日新聞の「批評の広場」欄(9月11日付朝刊)に寄せられたその短評は、まずは作品全体を「巨大な浪費だと思う」と斬り捨てたうえで――この評言にはのちに帰ってくる――、次のように言葉を継いでいる。
メディアが重層的にならず、踊りや音楽がそれぞれバラバラ。インタビューなどの扱いも、もっと凝ったものを期待していた。これではあまりにナイーブ。
現代音楽の「学習」にあたってはかならずその解説類のお世話になるだろう若手の第一人者の発言である。当初はその評をおおいに信頼したものだ。現にこれが朝日の紙面に載った9月11日の夜の公演分が録画・放送されることになるので、観客のうちの何パーセントかもその評を刷り込まれていたかもしれぬ。ところが、またその何割かはその評じたいを嗤うこととなっただろうように、筆者もテレビで作品を観たあと、このひとの「期待」こそが「ナイーブ」なものではないかと思うようになった。
たしかに「重層」性は、マルティ・メディアを標榜する作品の枢要ではあるだろう。だが、さながらシスティーナ礼拝堂の《最後の審判》図のごとく屹立する、例の巨大スクリーン=平面がすでに最初から、おそらく長木が思い描く種類と程度の「重層的な」、「凝った」構成の成立を不可能にしている(そのモニタの仕掛けじたいを批判するのであれば、それは内容いかんでは傾聴に値しよう)。「踊りや音楽がそれぞれバラバラ」の文言は、各部を個別にとりだせば首肯せざるをえないところもあるが、それらを見事に統合する力業を坂本が目指したとも考えられない(筆者はといえば、正確にはその細部には関心がない)。作曲・演出に加えて、統合者の典型である指揮者をも、彼は兼ねてはいたが、それにさえ擬態と、ただナルシス的な欲望の充足の、二つの目的を満たす以上の高貴な何かが賭けられていたとも思えない(坂本が何かの統合者であるとすれば、ブラウン管の前のわれわれの偶然とはちがう仕方であの没入と覚醒を管理する、そのかぎりにおいてである)。
ミニマル以後の音楽・史?
まあしかし、批判しつつも長木のコメントを引き続けるのは、それが逆説的に坂本作品の特徴を暗示するものとなっているからだ。
音楽は一九六〇年代のミニマル・ミュージックまでが北半球の目で展望されるが、様式ではなく個別の作品をアレンジするだけのパノラマなら、七〇年代以降のレファレンスも見つかるはず。[…]舞台は過去のだれかが見た教科書的な二十世紀であり、独自の視点は感じられなかった。
そう、それこそ教科書的に言ってしまえば、参照されるべき歴史は、坂本もその薫陶をおおいに受けたはずのミニマル・ミュージックで、いったん終わったことになっている。ならば、その存在がすでに参照的であるポスト・ミニマル系の音楽をさらに個別に参照する自家撞着は、少なくとも坂本の趣味ではなかったということだ。あるいは他に考えられるとしたら、ミニマル以後は自身の音楽がすでにそれを体現してしまっているがゆえに他の何者/何物をも参照する必要がなかったということか。
たしかにヴァレーズやブーレーズの場合をはじめ、流用の語の使用さえ躊躇われるほど原曲に寄り添っていて興ざめするところも多々あった。が、歴史の一時停止(終焉とは言うまい)の体現も含めて、20世紀音楽全体へのそれと解するかぎり、目指されたのであろう「レファレンス」効果はおおむね達成されていたというべきである。
後半は、いわば「共生」の博物館。主張はわかるが、こうした方法しかないのか。グローバルな音楽の並列では、啓蒙以上の効果があったかどうか疑問だ。
右にさらに続く長木の評をなお切れ切れに引用するのだが、ここはまず後半から。やたら表明される「教科書」やら「啓蒙」的なものへの嫌悪はほとんど一つの症例とさえ呼びたいが、ならば、たかだかドイツ・グラモフォンの限られた音源を使って二十世紀音楽史を通覧する、まさに教科書と呼びたいバラ売り9枚組の商業的CDを企画し、大仰に監修者としての名を帯に掲げるご自身の行為は、制作者でなく音楽学者だから褒められた行為だというのだろうか。ひるがえって坂本のばあい、まさにそうした啓蒙的知を嗤うためにこそ啓蒙的を装うというほうが、まだしも適切でないのか。
つぎに「並列」の語については、その「前」にあっては奏せられる音楽もそうならざるをえないのだと、またしてもあの巨大スクリーンの効用を繰り返しておけばいいが、問題はむしろ「共生」――広義のマイノリティが矢継ぎ早に舞台に召喚されるその無節操さや、最後はそれらが一つの音場に融合する楽天性――タン・ドゥンの『門』でも使われていた安直な手だ――はほとんど気恥ずかしくなるほどだが、だからこそそのとき坂本の眼差しに、大江光現象を撃ち、返す刀でマイケル・ナイマンのことも嗤った(『ユリイカ』誌上における、またしても浅田との対談においてだった)、数年前と同じ残忍性が宿っていないとは考えられない。この地球上で日々、どれほど種が危機に追いやられていようと、坂本やわれわれは、音楽し、あるいは絵を描いているとき、そんな些事=PCは知ったことではない、と言いたいところだ。「主張はわかる」なんて、それこそ自身のナイーブさの告白以外の何物でもない。
無きに如かざる精神
いずれにせよ、ここまでくるともう、長木がこれまでの言葉に継いで「これをオペラと呼ぶのは不遜だ」の句を発したとしても、いささかも驚くに値しない。それは当然といえば当然だろうし、ただし、またそれによってこの作品が微動だにすることも考えられない。
その強さの主要因である、長木が冒頭にいった「巨大な浪費」の問題に戻ろう。端的に言えば浪費に、「巨大な」ものも、逆に「慎ましい」ものも、ありえない。そう発言するとき筆者は、坂口安吾による次のような一節を念頭においている。
無きに如かざるの精神にとっては、簡素なる茶室も日光の東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、詮ずれば同じ穴の狢(むじな)なのである。この精神から眺むれば、桂離宮が単純、高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はない。どちらも共に饒舌であり、「精神の貴族」の永遠の鑑賞には堪えられぬ普請なのである。
有名な「日本文化私論」中の一節である。この文中には、たとえば後段に、「小菅刑務所と[築地の]ドライアイスの工場」の美を語る、ミニマリズムを先駆ける美学の表明とさえ読める箇所もある。だが、たかだかそれは美学にすぎない。彼の主張は、それすらもより俗悪な建造物と比して先験的に美しいのではないことを認める審級のゆえに、むしろ倫理と呼ばれるべきものとなる(ちなみにミニマル・アートも当初は倫理的なものであった)。さらにこの倫理の過酷は、たとえば、俗悪・豪奢を地で行った秀吉と比してときの、同じようなものを目指しながら足元にもおよばなかった王任三郎への蔑視に、うかがうことができる。
ところで坂本にあって、彼が自家薬籠中のものとしているミニマリズムの美学への態度は、サティの《ヴェクサシオン》(1893)の冒頭の使用に表明されている。主題に随伴する二つの変奏部を840回にわたって反復することを求める、プロト・ミニマルとすら称したい同曲は、現に作曲から70年を経た、ミニマル・アート/ミュージックの空気漂う1963年のニューヨークで、ジョン・ケージをはじめとする10人のピアニストによって18時間40分をかけて初演された(ことになっている)。その苦行は神話を地にひきずり降ろす一点において意味を有するが(ギネスとミニマルの滑稽さにおける通底!)、ひとつの(反)作品としてはむしろ、始まりと終わりの外輪部をもたざるをえない音楽が荒唐無稽な反復のなかで一瞬、その呪縛から解放されたかに幻視/幻聴される、そのかぎりでの宗教的瞬間を主題化するものにちがいなく――現に当時のサティは秘教的とあだ名されていた――、かかる事情の知見もあってか、その旋律が冒頭に聞こえたとき、始まりと終わりを有しつつ反復する「生」(ライフ)を主題化する作品にふさわしい通奏低音(序奏ではなく)と、筆者は思い、あるいは終幕におけるその回帰、すなわち反復の反復をすら予感したのだった。そしてそれが見事に裏切られる。一つは、朗読者ホセ・カレーラスの登壇によって第一幕が開く瞬間の、あまりに芸のない中断――否、終始によって。いま一つはあの、作品全体にとっての荘厳すぎる終結部によって。
あの夜、光は、擬似アウラのそのアウラの部分を骨抜きにされて、わが居室をうつろに照らした。この光は大杉の部屋もまた同じように空虚に照らし、それが糸井との意味なきアナロジーに思い至らせたのだろうが、ただし筆者は、いま思い出してもそれをただ安易な「リラクゼーション・ミュージック」としてやり過ごす気持ちにはなれない。というのも、ならばそもそも、日本人がたとえばマタイを聴いて純粋に感動することなど、ありえるのだろうか。あるいは日本人でなく、神なき時代に生きる現代人が、と陳腐な言い換えをしてもいい。もちろん大杉とてそれが可能というのではなく、まさにその意味で「弔う」べきものがないなら、と「喪」の振る舞いじたいを禁じるのだが、いささか反動的にいえば、擬態=かたちを演じ続けることが逆に内容を生み出すことも、あろうと思われるのだ。
いや、その録画テープをもう再生することがないゆえに誰のセリフであったかも確かめられない、「救いがないことを発見するのが救いなのだ」のスクリーン上の言葉/文字――このような意味のかぎりで、作品は弔いにかかわっている。弔うべきは、20世紀芸術史そのものであり、なかんずく小賢しく概念や身体を構成し、あるいは余白/開かれをつくり観者の自由な参入を許容し、あるいはまた共生やら公共やらの主題をまぎれこませてきたポスト・ミニマルの、広義のインスタレーション美学である。そしてこのなかには、「スマート」な終わり方を夢見た浅田の感性も含まれるにちがいないのである。
付記
――と見出しを打ったからには、ここはすべてが書かれたあとの読者への追伸の場所なのだろうか。というより、ここまでがマクラで、語るべきは別にあるのではないか。というのも、本稿は当初、「ジョゼフ・コスース以後」の題で、当然のごとく美術について語ることが構想されていたのだからである。
この挫折について多くは言い訳しないが――とはいえ、約束違反で本文すら陽の目を見ないかもしれない――、ひと言だけ記しておくなら、当のコスースのものも含めてそれ「以後」の美術の大半が、坂本の作品(オペラ)=総合芸術の前では、ただただ脆弱に見えた。書いてる本人がすでに、朝日のそれ以上に馬鹿げた礼賛だと思っているが、しかし思うに、あの作品のなかに含まれていない美術はない――まったく異なった構造をもつ芸術としての絵画を、ただひとつ除いては。
付記への付記
以上が書かれたのは2000年2月上旬だが、最後の付記で危惧されているそのとおりに、それは当初予定されていた雑誌への掲載が見合わせられた。その決定を受け入れてから、それこそ当初予定されていた「コスース以後」のタイトルで稿が新たにされ、掲載を見合わせられた本稿のほうは、いちどは他処への掲載が考慮されたのち、すすんでここを初出の場処とする途が選ばれた。いまは1ヶ月遅れでわがHPの開設を記念する書き下ろしテクストの「名誉」を得ることとなったことを、喜ぶのみである(2000年5月1日)。
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