論文


セザンヌの手紙を/から読み直す(前編)[1]
――特別研究「モダニズム美術とその公衆」の小さき果実

Cézanne's Letter in Art History Reexamined (Part 1):
Introductory Essay to My Research Program Moderist Art and Its Public




●この論文は、『東北芸術工科大学紀要』第6号(東北芸術工科大学, 1999年7月), pp. 6-22に掲載されたものです。紙のメディアに発表されたものをWEB上に転載するにあたり、ルビをカッコ〔〕に入れて本文中に記し、傍点を付した語は太字にする、などの若干の工夫をこらさざるをえませんでした。(下記の注の項も参照。)
●本稿はこれをアップした2000年6月現在、他所での発表にむけて内容面で大幅改訂中ですが、合計3箇所の誤字・脱字・ケアレスミスの訂正を別にすればその改訂はいっさいこの掲出分に反映させていません。この改訂版の書誌情報を望まれる方は、メールにてあらかじめその旨、お知らせいただければ、発表時にお知らせします。
●上記紀要に掲載されたさいの英文の要旨は、こちらです。
●注[番号は本文中では[1]のようにピンク色で表記]は、参照の便宜をはかるためにこちらに別頁として掲出しています。(また注の内容について補足が必要な場合は、緑色の字で記しています。)
●アクサン記号つきの文字は、コンピュータ環境によっては正しく表示されない場合があります。問題となるセザンヌの文面にかんしては、ビットマップイメージにしたテクストをこちらに用意しましたので[本文中でも一度クリック・ポイントを設けています]、必要におうじてそれを参照願います。(6月9日追記)
●当論文を引用/に言及する必要や可能性がある、つまり頁の変わり目の情報なども必要な(主として)同業者の方には、残部があるうちは抜刷をお分けすることができます。200円切手を貼付し送り先を明記したA4版封筒を同封の上、〒603-8577立命館大学文学部 上田高弘宛、ご請求ください。(この抜刷は当然、上記の誤記・脱字・ケアレスミスの訂正以前の版ですので、訂正は小紙片を挟み込んで対応しています。)


0.

 「親愛なるベルナール」の句でポール・セザンヌ晩年、1904年4月15日付の手紙は始まる。「この手紙が着くころには、ベルギーからあなた宛にブールゴン街に来た手紙をも受けとっておられることでしょう」。
 さて、手紙は差出人の死(1906年)の報〔しら〕せの余韻もさめやらぬ1907年秋、同じ名に宛てられた他の手紙とともにさる雑誌上で公表され反響を呼んだ。上の些事についで語られる絵画論が数多の画家たちの心を捉えたのである[2]
 ちなみにその受取人、エミールのファーストネームをもつ者もまた〈ナビ(Nabis=預言者)〉を名乗る画派(エコール)に属す画家であったが、作品そのものよりも著名な画家たちとのこうした交遊録によってその姓を今日に伝える。1899年よりこのかたセザンヌの居所となっていた、プロヴァンス地方はエクス、そのブールゴン街23番地を襲う、いわゆるエクス詣〔もうで〕は、一部の若い画家たちのあいだではちょっとしたブームの様相を呈していたが、はたしてひと月ほども(エジプト旅行からの帰途、1904年2月から3月にかけてらしいが)寝食を共にしながら「教祖」を取材した人間となると、このベルナールをおいてほかには考えられない。
 まあしかし、セザンヌの芸術論がこれほどに人びとの口の端に上るようになった理由の何割かはこの図々しさの恩恵ゆえなのであって、他方、われわれが今日これらの手紙の数かずを読むのは、上の画家以外に宛てられたものも含めて美術史家ジョン・リウォルドが一世代のちに集大成した『書簡集』[3]の、別の恩恵によるのが通常だろう。筆者もかつてその何版目かの頁を繰ったが、ただもう長いことその背表紙を目にしておらず、件の日付分ほか数篇の手紙を再録する他の書物[4]がこのたびは参照された。


1-1.

 面倒な話は上と註とで済ませて、ここからが本題である。冒頭から数行をおいて、あまりにも有名な次の助言が読まれるのである。

 

自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。(A)

 

 幾何学的抽象はこの、いわば〈還元reductionのススメ〉の一言から始まった。
 極論である、もちろんそこまで言い切ってしまうのは。けれど、われら美術史の徒の紙芝居〔スライドショー〕にあっては、絵画の伝統を一身に背負いながら20世紀美術の創建にもひと役買ったセザンヌ、その大立ち回りのひとコマが、あるときたしかに欠かせなく感じられる。

 

長いあいだにわたって、芸術家たちは、三次元の世界をカンヴァスや板などの平坦な面にどのようにして再現するかという問題の解決に努めてきた。15世紀以降、芸術家たちが拠りどころとしたのは、前景にあるものは大きく、遠くにあるものは小さく描くという遠近法的構成であった。それによって、画面に奥行の幻影が生まれる。だが19世紀に至って、フランスの画家セザンヌが新しい方法を試みた。彼は自然を注意深く研究し、家や樹木や山などを幾何学的形態として捉えたが、その際、必ずしも固定した視点から眺めたのではなかった。このことは、おそらく、普通の視覚像にいっそう忠実だということであろう。事実、実際に風景を見る時、誰も眼を固定したままにしたりはしないからである。その上でセザンヌは、これらのかたちをまとめて、描くべき対象の構成として画面を作り上げた。[中略]それは、伝統的な遠近法を放棄することを意味するものだったのである。[改行]1904年、パリにおいてセザンヌの大きな展覧会が開かれた。それは大きな衝撃を与え、新しい考え方を試みるよう若い画家たちを鼓舞した。(ローズマリー・ランバート、高階秀爾訳『20世紀の美術』〈ケンブリッジ 西洋美術の流れ〉7, 岩波書店, 1989年, pp. 4-5. 強調は引用者による)

 

 総合大学の文学部一回生向け概説講義を想定して同等レベルの入門書を引用してみた、ということにでもしておこう。この最後の「新しい考え方を試みるよう若い画家たち」がピカソやブラックら、キュビストを指すことはいうまでもないが、ここから数ページ、じっさいの授業にして1時間分ほども読み進めば、こんどは彼らキュビストに発する歴史が語られる場面に遭遇するであろう[5]。原著[ケンブリッジ大学出版局刊]ならびに邦訳書それぞれの刊行出版社といい、訳者として記される美術史家といい、とりあわせとして申し分のない例を選んだつもりではあるが、仮にも論文の体裁をとって書かれつつある文中でとりあげるにはいかにも凡庸、とは引用した本人がすでに自覚している。けれども〈研究〉がどんどんと微分化されるなかにあっては、教室ならずともこの種の標準的な通史、そしてそこに含まれる予定調和、飛躍、極論…、などはその効用をいやましているというべきであるし、わけても、断絶しつつ連続しているといいたいパラダイム間を繋ぐのは、遅れてやってきた者が旧い規範の只中にいちどは入り込もうとしたものの真に馴染むことはできず、むしろ異形の言動をもって新しい規範を体現してしまう変身譚、そのときにふと語られてしまうどこかしら誇大妄想的な言葉、そしてそれを真に受けて反復してしまう語り部の存在を措いて、ほかにはない。旧パラダイム向けにはジョアシャン・ガスケに語られたとされる「自然にならってプッサンをやり直す」の箴言[6]もあることだし、この画家にぴったりだろう。いや、〈セザンヌ〉というひとつの名から逆に演繹して記したまでなのである。
 いずれにしても、――「1904年」の「大きな展覧会」のように明記されてはいないが――あの手紙の文面がここで下敷きにされ、求められる機能を果たしていることは、ほとんど疑いようがない。


1-2.

 ここに重大な問題なしとしない。
 その手紙が書かれた巨匠晩年の画面に、(A)で語られるとされる幾何形態は見当たらないのである。いや、その描かれたリンゴがもっとも丸まるとしていた1880年代中葉から90年代にかけての作品にあってすら、それは幾何形態としての球(円)とは似て非なる精妙な歪みを有していた。まして問題の晩年となると、あのサント=ヴィクトワール山であれ復活した神話的な題材であれ、それを描出する輪郭線は断片化し、ただでさえ不完全な幾何学はいきおい崩壊の一途をたどる。
 ならば「極論」ですらなく、ただ「誤読」であるだけ、という可能性はないのか。
 このことは上の観察内容に同意する読者とのみ共有したい問題意識なのであって、他方これに同意しない読者にはここからの続きを読むこと自体を遠慮いただきたいほどなのだが、ここはそう突き放すのではなしに、手紙〔テクスト〕の外部に作品と鑑識眼の助けを借りた上のごとき反証のほかにも、同じ紙面に含まれる他の文との不整合(矛盾)に着目するテクスト内部で事足りる反証もあることを、急ぎつけ加えておくべきだろう。

 

つまり、物やプランの各面がひとつの中心点に向かって集中するようにしなさい。(B)

 

 この文単独の理解を問題としたいのではない。(A)の直後の文言なのだが、たとえば先の引用部分においては「家や樹木や山などを幾何学的形態として捉え」と語り直されていたような通常の読みでは、この「つまり」以降の内容とうまく接合できないように思われるのだ。
 入門書を鵜呑みにするノリで、「遠近法のなかに入れ」てしまえば何でも消失点という「ひとつの中心点に向かって集中する」と考える知(痴)性の持ち主は、さすがに本稿の読者にはないと信じたいが、そのような読みはそもそも論外として、あるいは他のいかなる読みによってであれこの二文をすんなり繋げて納得する物分りのいい言説をも、筆者は根本的に疑う。


2-1.

 われわれの身近にある、かかる疑わしき実例を一瞥しておこう。
 上述のリウォルド編となる書簡集は、同画家研究のわが国における第一人者でリウォルドの知遇も得た故・池上忠治氏、その若き日の達意の日本語訳によって読むことができる(いまでは旧いリウォルドの原文に拠り、また新編資料集に拠った他の研究者による新訳も部分的に得られている、という事情[註4を参照]があったとしても、本稿ではその訳業に敬意を払って手紙の引用はすべて池上訳によっている)。
 いや、氏は、典拠となるフランス語の編集体〔コーパス〕やリウォルド自身の増補・改訂・翻訳をもってなったドイツ語版にたいしてさらなる増補・改訂の労をいとわず、結果として、初版刊行当時(1967年)としては充実度で一頭地を抜く書物『セザンヌの手紙』をなすこととなったのである[7]
 ならば問題は、かかる栄誉と表裏をなすというべきである。すなわち池上氏はその「訳者あとがき」において、次のように書いたのだった。

 

註については、フランス語版およびドイツ語版の註を参照しつつ、必要に応じて訳者がより詳細に書き直し、また新たな註をつけ加えた。原註の文章をより詳しいものにすることもしばしばだったので、異同については二種の原書を参照していただくとし、あえて原註・訳註の区別は立てなかった。したがって、もし本書の註に不備や誤りがある場合には、その責は訳者が負うべきものである。(池上, p. 270-71)

 

 共訳による書物の刊行時に訳者代表の口から「功績は全員のものだが誤りの責任は私が負う」式のクリシェが吐かれるとき、彼はほとんど裏腹に「功績は私ひとりのものだが誤りの責任は個々の訳者が負う」と主張しているに等しいものだ。一般論でいったのだが、そのような倣岸さとは無縁に「リウォルド編」の文字を表紙および奥付に掲げつづける池上氏は、そうであればこそ、その増補・改訂の意欲の何分の一かでも「原註・訳註の区別」を立てることに回すべきであった。なぜといって、その面倒くささが、好むと好まざるとにかかわらず学問なる所業の一側面なのだからであり、あるいは言い方を変えれば、責任所在のあいまいな空間に批判の矢を放たねばならない後続者が居住まいの悪さを免れないからなのである。(「二種の原書」の原註と、池上氏による改訂された註の、その異同をいちいち吟味する労力も、たとえ彼がマニアックなまでのセザンヌ研究家であったとしても有益とは思えないが。)
 いや、すでに上でその文責を確認したからには、気兼ねなく書いておいていい――そう、池上氏は、件の手紙の文面への、まさに問題多い註釈において、以下のように書いていたのである。

 

この最も有名な手紙に始まるセザンヌの幾通かのベルナール宛の手紙は、[中略]当時起りつつあったキュビスムの有力な理論的根拠のひとつとなった。ここでセザンヌが言う円筒形、球形、円錐形はいずれも丸味(モドゥレ)を持つ形態であり、キュビスムはこの丸味を小さな平面の集積に置きかえようとするわけで、その意味でキュビストはセザンヌの真意を理解しておらず、また続いて述べられる遠近法や色彩の処理をも無視する。(池上, p. 237)

 

 本当だろうか――と、まずぼんやりと疑問に感じた、それを初めて読んだ日のことを思い出す。私事ながら当時は画家(美大生)を目指す浪人生で、ところがそれから十数年が経ち、思いがけず美術史などを講じる身となっても、疑問は解消されるどころか逆にその輪郭をはっきりさせることとなった。
 のちに詳論するとおり、セザンヌが「丸味を持つ形態」に限定して議論を展開していることは筆者にも切実と思われる。が、ここまでのわずかばかりの論理展開を踏まえ、かつまた池上氏の表現こそを逆手にとって簡潔に表明しておくなら、まずはセザンヌ自身がその晩年の作品では「この丸味を小さな平面の集積に置きかえようと」していた――したがってキュビストらはむしろ「真意を理解して」いた――ように、筆者の眼には映るのである。


2-2.

 いや、こうした違和感が眼=主観の次元に属するのならば、これ以降なお論述を進める動機としては脆弱と、自身でこそ認めておきたい。そう、現在の筆者を衝き動かすのは、あくまでも論じ方が内包する問題への関心であらねばならない。
 そこで、と着目するのが、上に引用した池上氏の評の、最後の「また」以降の内容である。「無視する」の否定的な語で閉じられている。何を? 「遠近法や色彩の処理」とあるが、ここはさっそく4月15日付の手紙の文面に帰ってみる必要がある。あの(A)の短い一文の後半から(B)にいたる内容を指すのは当然として、「色彩の処理」の句の存在が、さらにそれに続く次の(C)および(D)の箇所をも一括して指す、と解することを要求する。

 

水平線に平行する線はひろがり、すなわち自然の一断面を与えます。お望みならば、全知全能にして永遠の父がわれわれの眼前にくりひろげる光景の一断面といってもかまいません。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところでわれわれ人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。(C)
そのため、赤と黄で示される光の震動のなかに、空気を感じさせるために必要なだけの青系統の色を導入する必要が生じます。(D)

 

 さて、池上氏は何を「無視する」と主張しているのだろうか。
 あらかじめ釘をさしておくなら、ここでもキュビストらが色彩を放棄してモノクロームの世界に耽溺した、といった入門書的解答では及第点は認められまい。分析的と呼ばれる時期のキュビスムのモノクロームの画面にも新印象主義のきらびやかなパレット以上の色彩の輝きを看取する感性をひとはもつべきと思われるが、それはさておくとするならば、問題は、「無視する」と主張するからには把持されているべき規範的読みに存するとしなければならず、同様のことが、あの(A)(B)にかんしても指摘しうるように思われるのである。
 (ここで本文に割り込ませるかたちで註記しておく。フランス語原文/池上訳のいずれにおいても(C)(D)は改行を挿むことなく連続しているが、それをいうなら(A)から(D)までも、「こちらであなたにお話したことを再び繰りかえすことをお許しください」という枠に当たる文章に率いられた1段落なのであった。上では引証にあたっての指示の便宜上、段落を分けたうえでアルファベット記号を付して掲示したが、ここでは原文を一括して掲示しておく[アクサン記号付きの文字が画面上に正しく表示されない環境の方は、こちらをクリックしてビットマップイメージによるテクストを参照してください]。――
"Permettez-moi de vous répéter ce que vous disais ici: traitez la nature par le cylindre, la sphère, le cône, le tout mis en perspective, soit que chaque côté d'un objet, d'un plan, se dirige vers un point central. Les lignes parallèles à l'horizon donnent l'étendue, soit d'une section de la nature ou, si vous aimez mieux, du spectacle que le Pater omnipotens Aeterne Deus étale devant nos yeux. Les lignes perpendiculaires à cet horizon donnent la profondeur. Or, la nature, pour nous hommes, est plus en profondeur qu'en surface, d'où la nécessité d'introduire dans nos vibrations de lumière, représentées par les rouges et les jaunes, une somme suffisante de bleutés, pour faire sentir l'air."


3-1.

 セザンヌの手紙は、おもしろい(本稿では意図するところあって一通しかとりあげないのだが)。
 が、と同時に筆者には、分からないことだらけ、なのでもある。とするならそれは、分かること=規範的読みを前提するのではない別種のおもしろさ、といいかえるべきかもしれない。
 たとえば掛け値なしにおもしろい箇所として、(D)の直後の、ここはリウォルド編の原文/訳文では段落が改まって続く(E)のパラグラフを――

 

申しそえますが、アトリエの一階であなたがおやりになった習作をもう一度見ました。とても結構です。あなたはこの道をお進みになるだけでよいのだと思います。やらねばいけないことをすでに御存知なのですから、やがて間もなくゴーガンやヴァン・ゴッホの作品などには背をお向けになることでしょう! (E)

 

 新興宗教の教祖サマが入信したての信者を取り逃がすまいとしているかの口ぶりだが、最後まで読み進むと、これが宗教的ではなく政治的なテクストであることが分かってくる。そう、かつてキャフェ・ゲルボアの一隅でマネとドガの論争をただ聞いているしかなかった臆病者がここでは、自身の死後、美術批評家ロジャー・フライによって提唱されるポスト印象主義の、その三巨頭並び立つ図式[8]を予感し、二人のライヴァルに早々に引導を渡しているかのようではないか。この手紙が最初から公表されることを想定して書かれた可能性も、あながち否定できまい。ベルナールがそこに属したナビ派は実質的にはゴーガン派の別名だったわけだし、彼のような口達者を味方につけることは二重の意味で有効だったろう。この箇所と比べたら、(A)(B)など、とるに足らない繰り言なのかもしれない。
 じつは空虚なのかもしれぬ、その核心のほうに向けて、ここから遡ってみよう。読者にはときに眼を前後させる手間もとらせるが、すでに引用済みの(D)からだ。「赤と黄で示される光の震動のなかに、空気を感じさせるために必要なだけの(
suffisante ... pour)青系統の色を導入する」、その「必要(la nécessité)」が、どうしてあるのか。池上氏の訳では妙な同語反復と聞こえかねないこの命題[9]が要求する事態を、当の訳者/註釈者氏は書いていないだけで十分に理解されているのだと思いたいが、本稿の筆者はむしろ分からぬ、と書いておく。いや、字義的あるいは感覚的に、またセザンヌの実作品をいろいろと思い浮かべなどしながら具体的に、納得することはおおいに可能で、それこそがセザンヌの手紙を読むさいの妙味のひとつとなっているというべきだが、ただ一個のテクストとして読もうとしたときには、一文そのものの論理もさることながら、ここでも、訳文中では「そのため」(池上訳)もしくは「それで」(高橋訳)とされ、また英訳でも"hence"とされる、フランス語"d'où"の句で繋がれる(C)――ここでは線神(!)の問題が絡めて論じられている――との連関が、分からない
 その(C)である。「全治全能にして永遠の父がわれわれの眼前にくりひろげる」うんぬん、なんて、こんどは彼自身がひとりの信者としてなした信条告白、と思うが早いか、前後を読めば、画家の職能をなんとも豊かに暗示する名言と感じ入る。絵画はそのとおりに限定を生きる芸術なのであった。「ひろがり」において限定されるのみならず、ただの平らな面にすぎないその場所に、逆に全知全能であるがゆえに神が知覚しえない――どこが全知全能なのだ!?――「深さ」を、画家は現出させる。
 ただし、なぜ「水平線」と「垂直の線」の機能が違うのかは芸術的〔アーティスティック〕な問題だからここは当然、簡単に分かったふりはしないでセザンヌの実作品などを思い浮かべながらあれこれ思案してみるのがふさわしい。
 さて問題は、この観念的な議論をうけて、なぜ色彩の問題が(D)のような具体性をもって語られうるのか、だ。論理的には飛躍があるといわねばならない。いや、飛躍はあっていいのだが、飛躍があるならあるで、次はこれが、読者がセザンヌ作品の実見経験や想像力によって埋めるべき意義深い、あるいはそれゆえに逆に取るに足らない、そんな空白なのか、それともそこで躓くべきではない、ただの段差なのか、が問題となる。この点、筆者の見立ては後者――だがもっといえば、これはたかだか手紙の文面なのだ!


3-2.

 セザンヌの手紙を読むにあたっての構えを、かく示しておいて、問題の(B)へと移行する。
 この「物やプランの各面がひとつの中心点に向かって集中する」の文言からは筆者には、線遠近法の原理などではなく、その内側の面〔プラン〕に直交するすべての直線がひとつの、文字どおりの「中心点」に向かって集中する、そんな球体の内部が、きわめて明晰に想起される。
 ならば、語の本質的な意味で理念〔イデア〕的なこの文からは、「つまり(
soit que)」で繋がれた問題多い(A)へと、読み繋がれる。他の文どうしは連関をさして顧慮しない旨を公言したばかりなのに、舌の根の乾かぬうちにとはこのことと自分でも思うが、ところが、(A)で語られる幾何形態は、その球体と、それに準じた構造――つまり中心に向かって「集中」する側面を有する――を備えた形態としての円筒形と円錐形に、限定されている。読みの構え両義性〔アンビヴァレンス〕は、ここではテクストこそが要求する。
 ならば次なる問題は、二文が繋がったようにみえて、そのあいだに、否認したはずの「遠近法」にかんする文言が宙吊りになったままである点に存する。しかしこれは、まさに「遠近法」が指す内容を吟味することで解決が期待される。
 そもそも「遠近法のなかに入れ」という表現があいまいなのである。とくに日本語の「入れる」は動作を指してしまうが、フランス語原文(
"le tout mis en perspective")でも、あるいは英訳("with everything put in perspective")でも、むしろ付帯的に、"le tout"が置かれている状態が指示されているにすぎないように思われる。
 複文として与えられたものを、命令形二文の重文として訳す、その措置が増幅する混乱も邦訳には含まれていようが、こうした構文にかんして以外では、"le tout"の指示する内容は何か、の問題もある。通常理解されるように、それが自然界の諸事物から還元された円筒形球形円錐形の「すべて」を指すという保証が、どこにあろう。訳としては「そのどれであっても」のほうがふさわしいのではないか。これは辞書によっては「列挙名詞の要約」[10]とも称される用法で、原文で
"le cylindre, la sphère, le cône"と併記される単語を結びつける語としては、"et"(f.)="and"(e.)=「と」(j.)よりは "ou""or"=「か」が、むしろ推奨されるべきように思われる。
 かくて、通常の「自然界の諸事物を円筒形と球形と円錐形へと還元し、そのすべて(le tout)を遠近法空間のなかに投函せよ」風の読みは放擲され、代わって、「自然を円筒形球形円錐形[のいずれか][の内部]に見立てなさい。[というのも、]これらの幾何形態はどれであっても、[その内部は]遠近法[的空間]の状態に置かれている[からな]のだ」というくらいの試訳が、いかにもぎこちなく与えられる。
 意訳が過ぎると思われるだろうか。いや、逆説的な意味で、まだ十分ではない。いっそ、「自然を遠近法的に捉えるには、円筒形球形円錐形[の内部]に見立てることです」くらいにスッキリしなければならない。そうしてこの伝で、あの
"soit que"以降も訳してみる。「つまり、物やプランの各面をひとつの中心に向かって集中させてやるのです」、と。
 一読後の印象はいまひとつでもいい。先のランバートも、セザンヌが「伝統的な遠近法を放棄」したと書いていたではないか。伝統的な遠近法を指示して、それで意味が通じるのであれば
"soit que"に導かれる従属節は必要ないし、その節で説明が加えられた結果、指示内容が明確になるという保証もどこにもない。


4-1.

 要は、これがセザンヌの遠近法なのだ、といってしまうことだ。
 この規矩の律するところでは、なるほどあの「丸み(モドゥレ)」も大事ではあろうが、ただしそれは個々の事物の、外から眺められる形態ではなく、目の前の全景――これが自然と呼ばれる――が丸みを有しながら、むしろ「中心」たる自身のほうから見て凹んでいる状況が、指示されるのである。
 現に、ある肉づき〔モドゥレ〕を有した幾何形態への事物の還元をいい、その遠近法空間への投函をいうだけなら、還元の行き着く先に立方体の存在を認めない合理的理由などあるまい。それどころか、立方体の有する3組12本の平行線が透視図法の基盤目〔ラティス〕に準じる機能を果たしうる可能性=効用にかんがみるならば、セザンヌがその立方体の字句を手紙の文面から誤って欠落させてしまった可能性すら、捨て切れなくなってくる。
 本稿における、この可能性の排除の立場の選択については、上の試訳の提示によって説明が尽きているといいたいが、いずれにしても、筆者が上に提示した読みが「正しい」ことを論証するためには、さらに詳細な文法的検討[11]もさることながら、他の手紙との関連への十分な配慮、そしてセザンヌ研究の足跡(とりわけ欧語文献の)の追尾も施した、本稿とは別の論文を丸まる一本、要さねばなるまい。このことの自覚のゆえに、見解の相違をみとめた池上氏の読みにたいしても、あなたは誤読している、と筆者は書かなかった(いや、他の場所[12]では一度はそう書いてしまったのだが)。
 ひるがえって、われわれはここでは、上で展開していた解釈をいったん宙吊りにし、さりとてセザンヌの手紙の政治的、宗教的、あるいは哲学的再読に逆戻りするあの快楽も禁じながら、そのテクストとしての読解がほかならぬ美術史の問題として意味をもつため条件を、確認しておきたいと思う。はなはだ常識的な事柄の確認作業ともなろうが、しかるのちに異形の読みを再開させる段階で、それは異形を異形と映じさせる背景の機能を果たすものと期待されるのである。
 (4-1-1) セザンヌのものであろうとなかろうと、そして手紙であろうとなかろうと、ある文章を読もうとするかぎりは、それが前後を一貫して整合させるに値する理論的明晰さを有することを期待するのが、心情であろう。この点、筆者は件の文面の全体にわたる不連続を仮説し、あの(A)(B)にかんしてのみ特例的に、むしろたどたどしく読まれるべき整合性を認めたのであった。ここは空虚であるどころか――であると同時に?――、ある種の真理が表出される場所なので(も)あると踏んだからだ、と、この段階ではただ煙に巻くような書き方をするにとどめるが、ところで、このような屈折した構えをとろうがとるまいが、これには、――
 (4-1-2) その理論を画家が実践し(え)た、との期待も当然、付随しているというべきである。なぜといって、この制作=作品との相関が、問題を美術史のそれとする必要条件となるはずなのだからだが、しかしここは急いで追記しておきたい。すなわち、――
 (4-1-3) 言葉と作品の関係は、あくまで前者の後者への従属のそれである。

 

手紙は本来書き手と読み手の関係によって表現上の大きな差異がありうるものなので、第三者の立場にある後世の読者が手紙の真意を汲みとるには綿密かつ細心な読書が必要とされるわけだが、特に内容が芸術上の問題にかかわる場合にはつねに、“言葉”と“作品”とをつきあわせながら考えてゆくことが望ましい。[中略]セザンヌの場合、“言葉”と“作品”とは必ずしも一致せず、その際にはセザンヌが画家である以上“作品”の方により大きい信頼をおくべきであるというのが訳者の基本的な態度であるが…[後略]。

 

 先と同じ「訳者あとがき」に記された池上氏の言葉(p. 275)なのだが、なんと正しい評言であるだろう。が、それは、なぜ妻(母)が夫(父)に従うのかと問われて家父長制下だからだ、と答えるのにも似た模範的正しさと聞こえなくもなく、だからそのようではない男と女の話――この「セザンヌの[“言葉”と“作品”の]場合」がそうでないという保証はない――は書くのもはばかられてしまうのだが、いずれにしても、この主従関係があればこそまた、――
 (4-1-4) 言葉の次元の誤りも作品によって救われる。

 

しかしこのことによってキュビスムの重要性が減ずるわけではない。キュビストはただ自分たちの芸術を支援しうるものをあらゆるところに求めたのである。

 

 「このこと」とは、例の「真意を理解しておらず」、また「無視する」と断罪された誤読のこと、すなわちこれも先の池上氏、あの問題の注釈の直後に続く救済の言葉(p. 237)なのである。


4-2.

 語られる言葉の(一部留保つきの)理路整然にはじまって、その作品への従属的な相関と、それゆえのなかばルーティン化した記述パターンまで、とりあえずセザンヌをダシにして美術史的――文学的でなく――なテクスト読解の条件を整理してみたのだが、他方、その論理の流れから溢れ出る選択肢を書き留めておくことも、とくにひとりの芸術家をパラダイム論の観点――第1節で示したような――からも語ろうとするのならば、おおいに必要と思われる。
 (4-2-1) セザンヌはある理論(それなりに理路整然とした)を表明したが、意識してか無意識裡にか、それは実践(あるいは実現)されなかった、という見方もありうる。強弁するならこれは、発話者自身による誤読の謂れであるかもしれないのだが、さて、これが上の(4-1-1)から始まる論理の流れの始点近くでの可能性だとすれば、その終点近くでは――
 (4-2-2) 実現しようがしなかろうが、それは他者によって読まれ、もっといえば文字どおり読み誤られる(なんと矛盾に満ちた表現!)、おそらくは前節(4-1-3)(および(4-1-4))の項のように言葉と作品の婚姻関係を主張しつづけること自体が危うく感じられそうな、とめどない連鎖の事態も、想定される。そして/だが思うに、この誤読の連鎖もまた、あるいはこれこそが美術史の問題、もっといえば美術史それじたいであるのかもしれない。
 ちなみにここでは、セザンヌの文章がいささかも理路整然としていない――読むに値しないことを意味するのではない――という可能性は、理論的にありえないのではないが美術史の問題として興味深くありえないという理由で、最初から排除されている。


5-1.

 前節最後の命題(4-2-2)にまつわる、ひとつの劇的な例を――。
 ロシアからソ連への激動期を生きた画家カシミル・マレーヴィチは、自身の立場を〈至高主義(シュプレマティスム)〉と称した。そこで目指されたのは至高の空間としての白の画面と、その画面上の正方形――きわめて特殊な幾何形態だ――の回転や分割、それによって生じるさまざまな幾何形態の併置と構成、そしてそれらに数色の基本色をかけあわせた、純粋な感覚世界の顕現とされる。
 しかし、こうした幾何学的特質もやがて完全な非対象性への溶解が図られる。それ自体が正方形の白地の画布に白の正方形を描く、1917−20年ころの《白の上の白》の連作において、その実践は極北に達する。
 その至高主義の極みにあった1919年のマレーヴィチに以下の発言があることが、(註2ほかで紹介済みの)近年のすぐれたセザンヌ研究者/資料収集者、P・M・ドランによって紹介されている。

 

セザンヌは幾何学化をおこなう必然性を認識し、円錐、立方体、球が自然を構成する原理となるべき多様体であることを、きわめて意識的にわれわれに示した。(Doran, p. 215; 邦訳, p. 291)

 

 ヨーロッパの中心から見れば辺境の地、革命期のモスクワの画家の発言中でかくのごとし、である。セザンヌの影響の大きさのほどが知れるが、われわれの関心は、ここではもう少し細かな本文批評〔テクスト・クリティーク〕にかかわるというべきである。
 最初に確認しておけば、マレーヴィチがただ自身の感官のみをつうじてセザンヌが「意識的に…示した」内容を覚知したことも、ありえなくはない。だが真っ当に考えるならば、あの手紙が与えた影響の下で醸成された思索内容と仮説するのがこの場合、妥当ではないか。
 この仮説のうえに立つとき、まさに仮説の仮説たるゆえんとしての可能性の問題とは異なる次元で、ひとつの事実問題が明らかとなる。あの(A)と見くらべよう。セザンヌの文面に見えた「円筒形」が、マレーヴィチの文章にあっては「立方体」へと置き換えられている。
 この置換は何ゆえか――たんなる誤記であろうか。あるいは辺境に住まう不利にも由来する誤解というべきか。それとも確信犯的な曲解か。
 100%の確率をもって提示されうる見解などあろうはずもないが、同じドラン本には、やはりセザンヌ絡みで「立方体」の文字が登場する異文〔ヴァリアント〕の存在も指摘されていて、いやがうえにもわれわれの推論意欲をかき立てる。

 

まず最初は幾何学的な形によって勉強したほうがいいでしょう。すなわち、円錐、立方体、円筒、球です。(Doran, p. 163; 邦訳, p. 288)

 

 セザンヌがそう語ったのだそうだ。誰に? エミール・ベルナール――あの1904年4月15日付の手紙を受け取った当のひとに、なのである!


5-2.

 時系列にかかわる問題にこだわっておこう――上に孫引きするかたちとなったセザンヌの言葉は、件の手紙が書かれたのと同じ1904年のこととされ、それが1921年段階でベルナールによって「引用」されている[13]
 ならば件の手紙で「こちらであなたにお話したことを再び繰りかえすことをお許しください」と書かれていた、まさにその「こちらであなたにお話したこと」がこれであったと読むことは十分許されようが、ところで、われわれのここでの課題は、語られた言葉をこの時系列の流れ〔ヒストリー〕から掬〔すく〕い上げ、あの不確定要素にも着目しつつ別の流れ=物語〔ストーリー〕へと組み込んでいくことに、存する。
 (5-2-1) ドランは、ベルナールとマレーヴィチの両テクストに登場する「立方体」の字句を誤りとし、つまり池上氏や筆者自身がそうであるようにセザンヌは意図してその「立方体」の字句を用いなかった――つまり「丸味を持つ形態」に意図して限定した――旨を、述べている(Doran, p. 215; 邦訳, p. 291)。セザンヌ自身の脱字の可能性の排除は、池上氏や筆者もふくめて満場一致なのだ。
 (5-2-2) ところでベルナールが取り違えて「立方体」の句を自身の回想録の文中に含めてしまったのは、加齢――とはいえ1868年生まれだからまだ50歳台だが――などが原因の、1921年段階での変形なのか。いや、銘記されているからといってその年記が誤読の起源を刻印する保証はどこにもない。当初のテクストは引用だから正確に記されてはいるが、理解の次元ではそもそも最初から「立方体」が含まれていたのかもしれない。灯台下暗しの格言の真理[14]
 (5-2-3) 書かれたものの次元は別にして、話されたもの、つまり口承の次元では、あの誤りは画家たちのあいだで、いつとは確実には知れぬ早い時点からすでに一般化していたのかもしれぬ。とするなら、――
 (5-2-4) マレーヴィチはむしろ実直にそれを聞き取ったのである。


5-3.

 が、実直であろうとはしたが、正確に聞き取られはしなかったらしい。口承の正しい典拠としての「円錐、立方体、円筒、球」(ベルナール)から、「円錐、立方体、球」(マレーヴィチ)と、「円筒(形)」の文字が欠落している。もちろん無罪とはいえまい。が、それが微罪であるのにたいして、原初において取り違えをなしたベルナールこそ重罪――。
 もっともらしく書いているが、上の推論をうけて、先にせっかく確認したマレーヴィチとベルナール、それぞれの誤読顕在化の時系列上の順序(1919年と1921年)を逆転さえさせながら、勝手に審判を下しているだけなのである。
 さて、件のドランがけっしてそんな危ない橋を渡っていないことはいうまでもないが、さりとて、筆者が本気でベルナールを責めているかといえば、そういうわけでもない。なぜといって、われわれは歴史をスムーズに移行させた潤滑油としての役割をベルナールに認め、むしろ賞賛の言葉を送らねばならないかもしれないからである。
 これによって立方体がマレーヴィチの正方形の起源となるばかりではない。それがあればこそ、マチスがブラックの1906年の風景画について発したとされる「立方体しか描いていない」の揶揄が、キュビスムをセザンヌの嫡出子とするアリバイとなる。
 E・H・ゴンブリッチの名高い概説書のタイトル[15]ではないが、「美術史物語〔ザ・ストーリー・オブ・アート〕」の一短編が、かくして完成する。いや、見立てるなら和物がいいだろうか。かつての「開かれた窓」ではない機能を有した、新しい〈絵画〉を求めて繰りひろげられる、この出し物「近代主義欧錦絵(もだにずむよおろつぱのにしきえ)」にあっては、最初の幕――この出〔で〕はマネに務めてもらおう――が閉まる直前、舞台からの引込みぎわに花道七三の位置でセザンヌが切る大見得が、次の幕が上がってからのちもずっと、登場人物の耳にこだましつづける。ライヴァルの二人に水をあけたいセザンヌとしては当然、そこそこの呪縛作用は意図したことだろう。が、それは本人が想像もしなかった程度にまでおよび、じっさいに幾何形態をしか描かない還元的な作品が生み出される、その責任の一端までも背負わされる。そんなことを意図したつもりはない、とご本人が主張されたところで無駄だ。物語の進行に重大な契機をもたらす人間が、しかしその物語自体によって動かされている。馴染み深い構成原理〔ドラマトゥルギー〕だが、その原理の作動には、ベルナールのような小さき人物の存在もおおいに与っている。
 要は役者が揃っているのである。なのに演出家がそれぞれに適切な照明を当てることができないのでは、名指しえぬあの脚本家に申し訳が立たないだろう。だが、演出家としては、ただ同じ台本を再演するだけでなく、語られる台詞の細部に密かにメスを入れ、そこから構成原理全体の裏側が透かし見えてしまう穴を空けるなどして、ときには脚本家の怒りも買いたいところではないか。
 かくてわれわれは、その不遜なる目的のために、セザンヌの手紙のあの(A)(B)の細部にたちもどり、あの読みを宙吊り状態から解除したいと考えるのである。


6-1.

 かの小林秀雄『近代絵画』に収録されたセザンヌ論に、次の一節が読まれる。

 

批評家達は皆、セザンヌの肖像画の独特な造型性というものを、強調している様だ。成る程、円筒と球と円錐で自然を処理せよ、という彼の有名な言葉は、肖像画に於いて、特に明らかに実証されている様で、「セザンヌ夫人」の顔は球体だし、胴は円筒だし、手は円錐だし、という風に扱われているのが、分析的に眺めれば、よく解るのだが、彼の驚くべき色の調和は、そういう風に分析的に画を眺めることを、強く拒絶しているのである。彼の絵の前に立って、彼の絵の色調の全体的なハーモニーのなかに引き込まれるくらい自然なものはない。(新潮文庫版、p. 63; 強調は引用者)

 

 日本人の書いたセザンヌ論としては、小林の議論の多くは、往々にして欧米の理論・解説の請売りとなりがちな美術史プロパーの書き物にまさって、なおスタンダードな地位を占めていると認めねばなるまい。が、傍点部分のとくに後半など、誰も拒否できない類の、いかにももっともらしい情緒的見解であるだけにいっそう、氏もまたあのセザンヌの言葉をいわゆる幾何学化を推奨するものと読んでいる点が明らかになると、この知性/感性をも呑み込む通念の強靭さに思いをいたさざるをえなくなる。
 ならばこそ、われわれは中断してあるあの読みを再開させ、この満場一致〔ユナニマス〕の雰囲気から遠ざからねばならない。
 そう、その中断の直前、第4節の冒頭において、「目の前の全景――これが自然と呼ばれる――が丸みを有し、しかも『中心』たる自身のほうから見て凹んでいる」と書いたのである。その読みを押し進めていけば――「が正しいのであれば」とは書かない――、セザンヌにとって画布とは、自身の視線をつねに垂直に受けとめてくれる、凹型に湾曲した、世界の内壁面の見立てだった、とする解釈を帰結することも許されるであろう。
 さて、ならば眼前に広がるさまざまな事象はそれに反して、むしろ画家からの視線をすり抜けさせる、そんな後方へと回り込んでいく側面を有する。この側面――これが輪郭となる――を立ち上がらせ、すなわち、こちら=「中心点」たる画家自身へと向かわしめること。彼の油彩による未完成作品や水彩画に顕著にみられるような、描かれた像の輪郭の部分に多く筆が運ばれ、結果的に線が断片化すること――専門的にはこの「技法」はパッサージュ(
passage=「通路」の意で、輪郭線の破断によって形態の内と外が通じてしまう事態を指す)と呼ばれたりする――の、これはけっこう説得力ある説明となりはしないか。あるいはこれこそは、池上氏の表現にみえた「丸みを小さな平面の集積に置きかえ」という事態に、ほかならないのである。
 むしろ論理的な繋がりを重視しながら論を展開してきた結果、現実の画面にも言及することとなったのだが、思えば、来る日も来る日も石膏デッサンなどをしながら、「背後へと回り込んでいく側面が描けていない」との指摘を予備校講師から繰りかえし受けていたさいに、すでにそれへの反発もあってか直観的に思い描かれていたセザンヌ像/絵画観と、これ(で)はほとんど変わらぬ――そんな思いを、いま書きながら抱かざるをえない。


6-2.

 あの理念〔イデア〕の次元での言明が、現実の可視世界と物質(画布)の関係にどう反映されるかの、その意味ですぐれて芸術的〔アーティスティック〕な問題に移行しているのは、ここで明白である。
 この問題性への対処の成否の点で、筆者の読みも多数の反駁を得るべきと思われる。さあ、読者よ、われわれは図版を掲げて誘導をしたりすることはしないから、思い思いに画集を開くなどして反証や読みの代案を寄せてほしい。
 ただ、自身で反証/代案を出すことはしないが心情的にわが提言を受け入れがたく思う読者もあろうから、ここは権威ある文献の類からの引証をなし、そこにわれわれのものに近い読みが暗示される事態を例示しておいてもいいだろう。

 

それぞれの静物は慎重な筆致で描かれ、それぞれの筆致は、反射する光と奥まってゆくいくつかの絵画平面の表現に、一定の役割を果たしている。これらの絵画平面は、それぞれ、自然の根底にある幾何学的構造の基礎である円錐や球などの基本的形態を表わしている

 

 権威ある、といっても本稿では入門書の類で通される。第1節で引用したのと同じ〈ケンブリッジ 西洋美術の流れ〉のシリーズ、その第6巻『19世紀の美術』におけるドナルド・レノルズによる、セザンヌ晩年の1枚の静物画にかんする表現である(高階秀爾・松本絵里加訳, 1989年, p. 125. 強調は引用者による)。幾何学化推奨の読みの受容を露骨に示していた、先の20世紀分の担当者との対照は皮肉なのだが、訳文の若干の不明瞭――原著が手元にないので問うのだが「絵画平面」は何の訳で具体的に何を指すのだ?――も手伝うところとなって、「幾何学」を閉じた、外部から見られる事物の形態と解する愚は、ここではなにやら巧みに回避されているように思われるのである。
 あるいは、これでも不満というのなら、あの巨人ゴンブリッチによる以下の記述を援用してもよい。

 

ある若い芸術家に宛てた手紙の中で、セザンヌは彼に、自然を球、円錐、円筒の三つの領域で見るように忠告している(advised him [=a young painter] to look at nature in terms of spheres, cones and cylinders)。彼は、制作するに当たって、自分ならいつも心の中にこれらの基本形をもつだろう(he should keep these basic solid shapes in mind)という意味で言ったのであろう。しかし、ピカソや彼の仲間たちは、このセザンヌの忠告を耳にして、文字どおり(literally)球や円錐や円筒で絵を描いてみようと決心したのである。(Gombrich, p. 456; 友部訳, 下巻, p. 256)

 

 「ある若い芸術家」とはもちろん、あのベルナールを指す。概説レベルでのこの扱いが先に彼を「小さき人物」とした書き方の正当性を物語るだろうが、ここは一方の、名指され、あの第二幕の最初の登場人物となる「ピカソや彼の仲間たち」である――すなわち彼らキュビストらが、ここではあたかも「球や円錐や円筒で絵を描い」たかのように書かれている点で、われわれの不満は残るどころか募りさえするのだが、セザンヌが幾何学への還元を「文字どおり」に主張したのではなかったことが暗示されているという意味では、まあ大御所の発言でもあることだし、ないよりマシ、と思われるのである。
 (それはそれとして、リウォルド本にもとづいて英訳として定着している
"the sphere, the cone, the cylinder"の表現とは異なった、引用文中の冠詞なしの複数表現を、なぜにゴンブリッチは採用するにいたったのか。また友部氏も、ゴンブリッチによる英訳中に存在しない「の三つの領域で」の表現をなぜ、つけ加えたのだろう。筆者には、いずれの処置も、それぞれの翻訳者の理解のあいまいさを露見させるものと思われる。)


7-1.

 同業者の非難の声が聞こえてきそうである――半世紀近くに渡って読まれ続けている通史の単独著者で、ヴァールブルク派の遺産の継承者、さらに心理学的知見の援用で広く隣接諸学からの言及も絶えない、その美術史界の大御所ゴンブリッチにそんな口をきくなんて、何と不謹慎な。否、ここに読まれるものはそもそも美術史論文ではない。なぜといって、入門書の類ばかりがとりあげられて、セザンヌと他の画家/動向のいずれにかんするかを問わず、専門的な学術論文がほとんど紹介されていないではないか、と。
 が、そうした方法を意図して選択した筆者の立場に戻って、だから反論でなく敷衍するのだが、われわれはあの誤読の連鎖によるダイナミズムをも語りうる、「〈研究〉がどんどん微分化されるなかで」その「効用」を増しているスパンの広い言葉に、たんに棲み分けによる有用性以上の研究批判(
counter-study)の機能をも担わせたいと考えたのであり、他方、より専門的(内在的)な議論の余地をも知るがゆえにこそ、本稿題名に「前編」の文字が付され、いつか書かれるだろう「後編」が予告されているのである。
 そう、すべての講義や雑用から解放された、麗らかな春の日(そんなものは本当にやってくるのだろうか?)に書かれる、図版も多くしたその後編にあっては、紹介済みのドラン本の充実した解題、そこでも紹介されている1977年にニューヨーク近代美術館におけるセザンヌ後期作品の大回顧展のカタログに寄せられたセオドア・レフとローレンス・ガウイングによる2本の論文、そしてドラン本刊行以後の最重要の発言と思われるユベール・ダミッシュ論文など、いく本かの重要な論文が委曲を尽くして論じられるだろう[16]
 もっとも、そう担保するばかりでは逃げ口上に聞こえかねないから一点だけいっておけば、たとえば遠近法研究の大家ダミッシュによって書かれたその最後の論文は、件の日付以外の手紙も数本、検討の俎上に上せながら、それこそ見事な読みを展開するのだが、正しさの論証が主目的となっているのをそこに認めるかぎりにおいて、われわれは当座、その論旨をここに盛り込む必要はないと考えたわけなのである。
 いささか口幅ったいことを書くなら、われわれは芸術のある種の真理にふれようとするからこそ、聖書が本来そうであるようなかたちで、自身の読みを誤読にたいしてもおおいに開いておきたい、と願うものなのである。


7-2.

 ただ言語ゲームに参与するのではなく、さりとて美術史的な正しさに搦め捕られるのでもないかたちで、ある種の妥当性――真理への抵触――を自身の読みにたいして要求した結果、われわれはセザンヌ自身の後期作品に看取される幾何学への裏切りが、あの手紙に密かに書き込まれている、と提言するにいたった。
 はたして手紙へのその書き込みは、セザンヌ自身の意にすら反したものであった可能性も否定できない。提言はそういった精神分析的な可能性も含めたものなのであって、だからこうなったら、わが援軍とした『19世紀の美術』の著者レノルズ氏から、あれは誤訳で、筆者としてはそのように意図したつもりはない、と反論されたところで、われわれはこれもとりあうつもりはないのである。
 いや、上のゴンブリッチの叙述内容への不満も、そのような観点から書き改めることができるかもしれない。すなわち上では、キュビストらが「球や円錐や円筒で絵を描い」たように読むその判断の是非に問題があるように書いたが、そんなことは、筆者の見立てが当たっていたところで通史をひとりの視点で書き切るその意義の大きさと比べれば微々たる問題にすぎない。筆者の不信の根は、そんなことよりも、「という意味で言ったのであろう」と当事者の意図に信頼をおいてしまっている点に、存するのである[17]
 いずれにしても、そうした捩〔ねじ〕れた意味合いも込めて、キュビストらはその文面から「真意」を正しく読んだと、書いておきたいのである。そして/ところが彼らは、読み取った断片化を、輪郭線どころか画面全体のアナーキー状態へと拡張する。そう、キュビスムもまたその最盛期にあってはキューブ(立方体)の名を徹底的に裏切っていたのであったが、ならばマレーヴィチもまた、幾何学化を推奨するセザンヌの声を聞きながら、自身の実践はその幾何形態を白の虚空のなかに消尽させることになるのである。
 ああ、既述の「(4-1-4) 言葉の次元の誤りも作品によって救われる」どころの生易しい事態では、これは、ない。ここは作品による言葉の、その救済を語っているはずの美術史のメタ言語が、当の記述対象によって、その優越的な立場を徹底的に蹂躙される場面であるかもしれないのだからである。いささか自虐的な夢を語るならば、大文字の美術史(
Art History)にまつわってわが概説講義で話される言葉[18]は、このディシプリンのかかる脆弱をもネタとするものであってほしいと願う(いやしかし、これを初学者にもよく伝えたいと思うのだから、謙虚というよりむしろ横暴なのか)。
 ただ、そのためということもあるにもせよ、本稿でとられた方法はいささか屈折が過ぎたかもしれない。なぜといって、たとえば箇条書きによる綿密さを装ったところで、最初にすでに一本の手紙をしか対象としない杜撰さが自己申告されているからなのだが、筆者としては、密かに憂慮するとおりに恥ずかしい誤読がその方法のゆえに含まれることとなっているとしても、何の疑問も抱かれずに維持される幾何学化推奨の正しい読みよりは数段、有意義だろう、と確信するものなのである[19]。そう、なし崩し的に合意が成り立った正しい読みに、文責を確定する問題が発生しないのにひきかえ、誤読は、それが無視されるのでないのならば通常はその責任が名指されるというメリットがある。
 あまりに露骨な逃走線だろうか。それはさておくとしても、『セザンヌの手紙』日本語版における註の扱いが前者の無責任のきわめて明白な事例であることは、疑いえない。ところで、あのドラン本のすぐれた訳者たち[高橋幸次/村上博哉]は、ベルナールの訳出にさいしては有島生馬、ガスケの訳出にさいしては与謝野文子の、それぞれによる旧訳を参照した旨、断りながら、セザンヌの手紙の訳出にさいしてはきっと参照したはずの池上氏について、まったく言及していない。なぜか。現に参照しなかったのなら不勉強だろうし、その存在を黙殺したのなら愚劣というべきである。ここでも、当の池上氏もその陥穽にはまった学問的不誠実の一例をみる思いがするが、他方、筆者による故人・池上氏への言及の数かずは、氏個人というよりもわが学問領域〔ディシプリン〕全般に浸透する雰囲気への批判的コメントをそれで代表させたもの、と解されることが望ましい。
 いずれにしても、その池上氏が自身のそれとの腑分けを欲しなかった見解の主、リウォルドが、ロジャー・フライの命名したポスト印象主義の用語を換骨奪胎のうえ一般化し[20]、その路線をわが国の美術史界が「後期印象主義」の愚劣な訳語をもって踏襲する[21]、そうした絵図を目の当たりとするとき、このローカルな意味でも、筆者は本稿の企図の少なからぬ意義を確信するのである。


8.

 ただのクリシェとしてでなく、文字どおり「結びにかえて」、以下を付記する。
 副題にすでに明らかであろうとおり、本稿は、筆者が東北芸術工科大学在職中の1996年度に大風呂敷をひろげて申請、2ケ年度にわたる特別研究として受理された「モダニズム美術とその公衆」の成果報告の、また序ながら書けば拙いわが講義を熱心に聴講して心地よいプレッシャーを与えてくれた学生諸君への謝恩の、そうした大義を背負っている(だからこそ、いささかも麗らかでない極寒のさなか、しかも公務にも追われながら、これは耐えて書かれた)。
 したがって、これ単独で読まれうるものを目指したことはいうにおよばないとしても、しかしその大風呂敷に包み込まれるであろう果実の多きを予感させることは、本稿にとっては必要かつ不可欠な措置であろうと思われる。
 そこで、まずは退職後、多くの日をおかずに大学に提出された「報告書」の内容の一部を以下に「引用」する。――

 

 モダニズム美術とその広義の公衆(public)の関係、とりわけてその批評の機能を解析するにあたって、筆者は宗教的アナロジーに依拠する旨を申請時に述べたが、現在[=1998年春当時]、その効用は以下のように整理されるにいたった(箇条書きの番号は本稿の書式に統一する)。
 (8-0-1) 初期のモダニズム批評は、抽象芸術の擁護の文体や戦略において「福音書」的側面を有する。具体的にはそれは、ユリウス・マイヤー=グレーフェ、ロジャー・フライ、アルフレッド・バー2世、初期のクレメント・グリーンバーグらの批評において顕著である。
 (8-0-2) 上の(8-0-1)はしかし、いわゆる護教論的立場が主張する「四福音書の一致」のような一枚岩的特質をモダニズム批評に認めることを意味するのではなく、むしろ「共観福音書は実のところ『共観』福音書ではない」という、聖書学において編集史[22]的方法が明らかにしたような逆説的な認識に、われわれを向かわせる。記者の名を冠さない福音書が存在しないように、モダニズム批評一般もまた存在しない。
 (8-0-3) 福音書の名を有しながら実質的には神学書の要素を強くするヨハネ書がある時期、登場するように、モダニズム批評にもそのような飛躍の契機が存在する。グリーンバーグの批評の成熟が具体的にそれに当たる。
 (8-0-4) マイケル・フリードの批評は、ならばグリーンバーグの批評への、神学に固有の屈折を含んだ注解の趣きがある。神学内部にいる者のみに与える知的関心と、これを異端視する立場との抗争、異教との宗教戦争、そして彼自身の変節(?)など、フリードの批評を基軸として生起する論点は多い。

 

 読者の多くが見知らぬ固有名詞が羅列されている点は、まさに文責にかかわる論考ゆえ海容を願うほかないが、いずれにしても以上が報告書の文面となる。
 さて、筆者は上にも記したとおり、この宗教的アナロジーによって、いわゆる現代美術の現象の多くを説明できると密かに自負するものなのだが、その敷衍は他所に書かれた/今後書かれるだろう稿に譲るとして、ここでは前節までの考察をうけて、以下の内容をつけ加えたいと思う。すなわち、――
 (8-0-5) われわれの再読の作業は、いわゆる修正主義との類似を印象づけることも考えられるが、それは読みの複数性を指摘するのみで終わらない点で別物、もっといえば修正主義を軟弱なる相対主義として批判するものでありたいと思う。ならば、あの宗教における対応物を意識しつつ、われらの試みに対抗修正主義(
Counter-Revisionism)を名を与えるとしても、不当のそしりは受けないだろう。この文末にきて、筆者はモダニストであると唐突に名乗ってしまうが、そう名乗るに値するか否かの指標は、この相対主義への態度のいかんにかかっているといっても過言でないように思われる。
 いやいや、まだもう一点、むしろ平易な宗教的アナロジーが抜け落ちている。すなわち、――
 (8-0-6) 第1節で言及したガスケのケースを思い浮かべよう。それについてドランは、「厳密さを欠いた、まったくガスケ流に翻案されたセザンヌの語りが作り上げられている」反面、「セザンヌ自身の言葉を忠実に書き留めたと思われる部分もいくつか見受けられる」と述べているが(邦訳, p. 193)、この文中のセザンヌをイエスに、またガスケはたとえばマタイに、それぞれ置き換えてみればいい。このクセものといいたい作家/詩人によるセザンヌの言葉の伝承を読む行為が、イエスの言葉の伝承にかかわる新約聖書学の本文批評〔テクスト・クリティーク〕と遠からぬところものであることが、理解されよう。セザンヌの言葉は、四つある福音書の場合がそうであるように、どれもが他にたいする異文として存在する――つまりどれかひとつが正しいのではない――ように思われた。それはたとえ彼自身の言葉の忠実な記録であったとしても、だ。
 モダニズムの美術とそれを語る人びと(
public)の関係の考察を旨とするわが研究は、こんな事由もあって、セザンヌ(の手紙)の読解を例にとりつつ、ただし、いたずらにメタ的な考察となることをは警戒しつつ、始められた。いや正確にいえば、じっさいに時系列的にそこから始まったのではなく、そこからプロットが組み上げられていく始点としてセザンヌがふさわしい、と事後的に考えられたのである。
 予告される後編がじっさいに書かれるか否かは別にして――書かれるとしてもこの前編にたいする註と訂正の働きをする以上のものではないだろうし、また違う場所に発表されることとなろう――、本稿題名に「から」の字句をつけ加えたゆえんは、そこにある。



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