天野先生のこと

 令名を耳にするばかりでご本人とは全く面識がないままに、私は立命館大学に勤めることとなり、1977年10月4日、最初の教授会の席で初めて天野先生にお目にかかった。当時の法学部教授会は広小路の中川会館3階の公室で開かれており、楕円形の大テーブルの周りに岡崎長一郎学部長以下全教員が座り会議を進めた。教授会なるものに初めて出席した身にとっては、いろいろともの珍しく、また緊張する会議であったが、その一方で、この顔ぶれを見ながらこれから30数年をここで過ごすのだろうか、という感慨もどこかにあった。天野先生は大体は私の向い側、時計の文字盤でいえば2時の位置に座り、悠然と他の先生方の議論に耳を傾けておられた。議論が止めどもなく紛糾した時など、先生の「まあその程度にしておいて、ともかくやってみたらどうだね」というような言葉で、嘘のようにけりがつけられてしまうことも、新参者には不思議であった。
 細野先生のあとを受けて、誰にも当然と思われるような巡り合わせで、天野先生は翌78年7月には総長に就任され、法学部を離れられた。それ以降は、先生はご自身の出身学部にことさらに厳格に対され、むしろ法学部を抑圧することで全学を牽制しておられるのではないかと思った記憶がある。が、何につけても、お話しになることには明確な背景認識と哲学、展望予測があり、われわれは先生の下で安んじて学部と全学の諸課題に向き合っていればよかった。当時の私個人の想い出としては、二部改革の一段落した83年頃だったか、妻の友人として知己の旭堂小南陵を総長室に案内し、彼をインタビュアーとして立命館大学の二部教学を紹介するテレビ番組を作成する場に行き合わせ、この問題についての天野先生のお話を傍らで聞いたことが印象に残っている。
 大河さん、大久保さんはじめ若干名の法学部教員と誘い合わせて、宇多野の天野先生のお宅に年始に伺い、結局はそのまま腰を落ち着けてしまって、先生のお話と奥さんのおせち料理、われわれの大言壮語とで一時を過ごす機会に、私は1979年の正月以来めぐまれた。90年代の後半には、先生の体調などもあって取りやめとなった年もあったが、最後にお邪魔したのは99年1月2日、大久保、徐、大平、平野、山手、そして私という顔ぶれだった。「それで、長田新体制のもとで法学部はどうなりそうかね」、と先生の口調は全く変わらなかったが、リューマチのために不自由になったお手が痛々しく、勧められたお屠蘇を消化するわれわれの調子もいま一つ上がらなかった。4月になって、丁寧なご挨拶とともに、先生のご文章を収めた『恒藤恭の学問風景』(1999年法律文化社刊)が送られてきて、恐縮したことだった。
 翌2000年の正月は先生は体調を崩され入院中で、お宅にお伺いする機会はなかった。まさかそのまま帰らぬ人となられるとは想像もしないことだったのだが。
 
 大学法学部については、この間、司法改革とロースクール問題をめぐって急激な変動が進行中である。一方で、政治・行政改革や「規制緩和」政策が進むことによって、わが国は「自立した主体」からなる成熟した社会へと変質すると説かれ、他方で、急激な国際化やボーダレス化にともない日本の国家・社会・企業・市民等の様々な活動は、地域や国家の枠を越えるものとなってきている。これらの変動は──究極的には──日本社会における「法的需要」を急速に増大させることになる、と一致して予想されている。これに応えることが一般的に大学法学部に求められているが、とくにわが法学部にとっては、これは、平和と民主主義の理念に裏打ちされた豊かな人間性、幅広い教養と多面的な専門知識をそなえた有為の人材を多数、社会に送り出していく可能性が開かれたということである。すでに、日本型ロースクールである法科大学院についてわれわれの具体的な設置構想が公表され、また法学部教学全体の改編をめぐって、大掛かりな論議が進められている。
 この、大げさに言えば明治以来100年ぶりの、わが国の司法改革にどう対処するか── 天野先生のご意見をうかがい、われわれの構想をお話ししてご批判をいただきたかったことである。
                           


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