最後から何番目かのテーマ
上田
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2013年3月末をもって大学教員を定年退職,再任用されて以前と同じに法科大学院で授業を担当していたところ,翌14年の夏になって突然に,学校法人の理事会・評議員会により常勤監事に選任され,大学教員を辞めてしまった。40年近く続けてきた講義やゼミ指導などを止め,学生と顔を突き合わせないようになってしまったことも寂しいことだが,最も堪えたのは教員としての個人研究室とそこに抱え込んだ図書・資料を失ったことだ。刑法学とか犯罪学といった分野を専門として来たので,研究と教育のために買い集めた専門書などの資料も相当の量に上っていたのだが,研究室を返上するとなればたちまちそれらの置き場所に困る。よほど貴重な本は別として,近年の大学図書館は退職教員の本を受け取らないし,狭い自宅の書架に収められるのはごく少数の本に限られる── 結局,図書類の大半は処分してしまった。自分の年齢から考えても,この先,何かの創造的な研究成果を求められることもないだろうという,いささか物寂しい判断もあって。
学校法人の監事の仕事は,予想以上に煩瑣な事項に及び,また出席すべき会議なども多く,時間的にも精神的にも余裕のない毎日だが,教員として在籍した時期には見えていなかった様々な側面に気付かされ,大学との関わりで生きてきた自分のキャリアの最後の持ち場として,納得のいく仕事をしようと自らに期したことだ。だが,そうは決めてもままならないのがこの世の習い,研究者の端くれという尻尾は簡単に外れてくれない。やはりいくつかは,それなりにまとまった研究論文を書く必要に迫られることが続いている。「勤務」外の時間を充てて,しかも,必要な資料・図書の類は処分済みで,手元にはほとんど何もないという条件の下で。
この,途方に暮れる他ない状況からの抜け道は,しかし実際には,アメリカ,ロシアなどの国公立図書館や大学図書館がその所蔵する文献資料のかなりをデジタル情報化してインターネット上に公開し,またGoogle,Amazonなどの企業が無料で,あるいはきわめて廉価で提供してくれている多数の文献を利用するという方法が出来上がっている。たとえば,現在の私の興味の対象となっている「19世紀末から20世紀初めのロシアの刑法理論の展開」といったマイナーなテーマに関してさえ,次から次へと,個人では処理しきれないほどのデジタル資料が現れて来ることに,むしろ呆然としている観さえある。
それらを利用して何らかの成果を取りまとめられないか,と最近興味を振り向けている一つのテーマがある。
今年の春,中国文学を専門としている友人と二人でハルビンに旅行する機会があり,その準備の過程で,1920年代に「東清鉄道」株式会社の支援を受けてハルビンに設立された単独の「法学部」,とくにそこで刑法学を担当していたミロリューボフ教授という研究テーマに行き当たった。1870年生まれのミロリューボフが,ロシア中部のカザン大学に学び,その法学部助教授だった頃に革命が勃発,1918年,カザンは反革命派軍事政権の支配下にあって,高等法院の検事を兼任していた彼がエカテリンブルグで殺害された皇帝一家の事件を刑事事件として調査する委員会の主任に任じられ,彼の作成した調査報告が欧米諸国に伝えられ,革命政権への反発の気運を盛り上げるに効果を上げたこと,そして反革命派政権により設立されたイルクーツク大学法学部からの教授としての招聘に応じての赴任後まもなくの政権の崩壊により,さらに東方へと追いやられて20年初めにたどり着いたハルビンで,法学部の設立に尽力するという経過がまず目を引く。彼はロシア刑法を中心に講義しつつ,中国刑法についての研究論文も残しているが,その一方で,22年7月にウラジオストクで開催されたゼムスキー・サボール(極東に展開していた白衛軍によって開催された「国民会議」,ロシアの帝政復活を決議した)では議長を務めている。27年に結核で死亡,と記録されているが,彼の妻子が35年にソビエト・ロシアへと帰還した後の運命も含めて,非常に興味深い研究材料がここに転がっているのかもしれない,と直感した次第。今回のハルビン旅行では,滞在時間も短く,あるいはと期待したミロリューボフ教授の墓も発見できなかったが,かつて彼らの講義などが行われた東清鉄道株式会社の施設を詳細に参観するなど,一定の「感触」を得ることはできた。
自身の現在の境遇や年齢を考えると,おそらく,何らか意義のある研究テーマを設定してそれを追求できる機会は今後あまりないだろう。そのときに,この最後から何番目かになるだろうテーマには何かしら愛着のようなものさえ覚え始めている。
( 城南高校1966年卒業生同窓会『我ら団塊1年生』第2集 2016年9月
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