泉 先生のこと
大学院に進み、刑法読書会に顔を出してもよいこととなって、初めて泉ハウスに通うようになったのは1970年の春のことで、管理人は浅田さんが勤めておられた。それ以来、読書会の例会ばかりでなく、大学院のゼミや管理人の誰彼との雑談など、数え切れないほどの回数泉ハウスを利用させていただきながら、私は泉先生その人とは2・3度しかお会いする機会がなかった。──何年かの新年会と泉ハウスの20周年のパーティー、あと何かの研究会でお会いしたのと、いずれも簡単にご挨拶しただけの記憶しかない。残念であり、失礼なことをしたと申し訳なく思っている。
したがって、私の泉先生との関わりは、もっぱら泉ハウス、『犯罪と刑罰』、あるいは先生のお書きになったものを介してのこととなる。
泉先生は建物として「泉ハウス」を提供して下さっただけでなく、その管理運営にかかる経費を負担され、読書会例会の際には菓子を用意し、冷蔵庫にはビールを欠かさぬようにと管理人に指示されるなど、細やかな心配りをお忘れにならなかった。建物の老朽化に対応しての数次の手入れなどをも考えると、ハウスの維持のために先生の支出された金額は膨大なものとなろう。能天気な私などは、そんなことは何も知ることなく、ただ有難がってハウスを使わせていただいていた。何より、研究会の場所に困らぬことが大きく、ハウスの存在は他の専門の院生仲間からも大いに羨ましがられたものだった。また個人的にも、大学院在学中は百万遍に住んでいたこともあり、何かあると足が向いた。
その後、読書会が研究誌『犯罪と刑罰』を出すこととなって、またしても先生のご援助をいただいた。関西一円の刑事法研究者が大学の枠を超えて研究会を継続するばかりでなく、独自の雑誌を持つという、例のない離れ業が可能となった背景には、──中山先生のご指導や成文堂の熱意は別として──泉先生のご支援が大きかったと感謝している。
先生は単に私たち刑事法研究者の支援者であるにとどまらず、ご自身、医師としての立場を踏まえた異色の刑事法研究者であった。大阪府医師会編『医療と法律講座』や大阪府医師会・大阪弁護士会共編『法曹医学講座』などの企画と出版に中心的な役割を果たされ、また中山先生と共同で『医療事故の刑事例判』の編集にあたられるなどしたほか、一連の論文を発表されている。それらの中でも「北大電気メス事件の実像と虚像」(上記『医療事故の刑事例判』所収)は、因果関係論の分野で著名な刑事判例に関わる貴重な考察で、医師ならではの視角と検討内容にあふれている。この論文で先生は、結論的には、刑事裁判は結局「事実」の意味を理解できないままに「認定」したのではないかとの疑問を提示されており、私自身、それに重い衝撃を受けたことであった。
中山先生の古稀を控えて、私はその祝賀論文集の編集作業の一端を担うこととなったが、泉先生は論文集第一巻に逸早く96年4月には原稿を寄せられ、校正についても手早く済ませてお返しいただいた。97年2月の祝賀会には、健康上の理由でと欠席されたが、私はうかつにも先生のご病気の重さに思い至らなかった。
結局、この論文が先生の最後のご論稿となったわけであるが、ここでも主題は医学と法律学との関心のありようの違いとそれぞれの専門性のために生じる理解の齟齬、それによる刑事裁判上の事実認定の困難さである。唄孝一博士のご母堂の死の過程をめぐって、そこに医師の過誤が存在したのではないかとの博士の数々の疑問に丁寧に答えながら、医療サイドの責任とともに法律家の側からの事実認定の限界をも指摘されていることで、私たち法律家が先生のこのご論文から学ぶべきことは多いと言えよう。だが、それにもまして私たちにとって重いのは、ご論文の最後に沢瀉博士の言葉を引用する形で示唆されている「治療」と「治癒」との相互関係である。
私たちにはまだまだ多くの、泉先生にお教えいただきたかったことが残されているように思われてならない。
『泉正夫先生と「泉ハウス」』(1998年・成文堂)
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