「客観性」論文の翻訳をめぐって |
マックス・ヴェーバー「客観性」論文の岩波文庫の翻訳は、大部の訳者解説を含めてきわめてすぐれたものです。ただしそれでもなお、誤訳と思われる個所がないわけではありません。そもそも、異なる言語を移しかえる翻訳という作業は実に困難で、完璧な翻訳などありえないと言ってよいと思います。「客観性」論文を原文と照らし合わせながら読むなかで、さらに手を加える必要があるのではないかと思われた個所を以下に挙げておきます。 |
*以下原著は、手元にあるMax Weber, Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftslehre,
6. Aufl., Tuebingen 1985に拠ります
(岩波文庫の翻訳は、1988年の7. Aufl.に拠っています)。ドイツ語特殊文字は表示できないので、書き換えてあります。
翻訳 ページ・行数 |
原著 ページ・行数 |
翻訳・原文・訳例 |
33, l. 1 u. v. (最後から)-34, l. 3 |
150, l. 7 v. u.- (von unten) | 翻訳:この課題は、「経験的現実の思考による秩序づけ」という科学の限界を踏み越えるものではない。もっとも、そうして精神的価値の解明に用いられる手段は、普通の意味における「帰納」ではない。なるほど、この課題の・・・・・・ 原文:Das ueberschreitet nicht die Grenzen einer Wissenschaft, welche >>denkende Ordnung der empirischen Wriklichkeit<< erstrebt, so wenig die Mittel, die dieser Deutung geistiger Werte dienen, >>Induktionen<< im gewoehnlichen Sinne des Wortes sind. Allerdings faellt diese Aufgabe...... 原文の "so wenig"は、翻訳では「・・・・・・ではない」という副詞と理解されているようだが、それなら原文は "so wenig sind die Mittel......."となるはずである。むしろ"so wenig"は「・・・・・・でないとしても」という逆接の接続詞ととるべきであり、それではじめて文章の意味が理解できるようになる。また、最後の"Allerdings"が「なるほど」と訳されているが、これはおそらくその前に「もっとも」(原文にはない。あるいは "so wenig"の誤った解釈による)の語が使われているため、繰り返しをさけたものと思われる。しかし "Allerdings"を「なるほど」と訳しては、この語のもつ逆接的意味が消えてしまう。 訳例:この課題は、そうした精神的価値の解明に用いられる手段が普通の意味における「帰納」ではないとしても、「経験的現実の思考による秩序づけ」という科学の限界を踏み越えるものではない。もっとも、この課題の・・・・・・ |
36, l. 9-12 | 152, l. 2-5 | 翻訳:さらにまた、われわれの行為を規定し、われわれの生活に意味と意義とを与える、あの「人格」内奥の要素、すなわち最高かつ究極の価値判断が、まさにそれゆえ、われわれにとってなにか「客観的に」価値あるものと感得される、ということも確かである。 原文:Ricitig ist noch etwas weiteres: gerade jene innersten Elemente der >>Persoenlichkeit<<, die hoechsten und letzten Werturteile, die unser Handeln bestimmen und unserem Leben Sinn und Bedeutung geben, werden von uns als etwas >>o b j e k t i v<< Wertvolles empfunden. 翻訳の「まさにそれゆえ」にあたる語句は原文にはない。なぜ「それゆえ」と言えるのか、文脈からは理解できない。削除すべきであろう。 |
38, l. 2-7 | 152, l. 11 v. u.- | 翻訳:だがしかし、われわれがとくに(普通の意味での)経済政策と社会政策の実践的問題を考えるならば、じっさい上の個別問題を議論するさい、特定の目的が自明のものとして考えられている、と全面的に合意して出発できるばあいが、なるほど多数、いや無数にある。たとえば、緊急時の融資、公衆衛生・貧民救済の具体的課題、工場査察・営業裁判所・職業斡旋・大部分の労働保護立法のような施策を考えればよい。 原文:Allein wenn wir speziell an die praktishen Probleme der Wirtschafts- und Sozialpolitik (im ueblichen Wortsinn) denken, so zeigt sich zwar, dass es zahlreiche, ja unzaehlige praktische E i n z e l f r a g e n gibt, bei deren Eroerterung man in allseitiger Uebereinstimmung von gewissen Zwecken als s e l b s t v e r s t a e n d l i c h gegeben ausgeht - man denke etwa an Notstandskredite, ...... 「上の」(原文にはない)を訳者は、直前の「実践的問題」を指示するために付しているように思われるが、訳文を普通に読むと、上に引用した文以前に何らか「個別問題」について書かれた部分があり、それを指示していると誤解される恐れがある。実際には、「個別問題」とはすぐあとに列挙される「緊急時の融資、・・・・・・」を指す。たとえば次のように訳したほうがよいのではないか: 訳例:だがしかし、われわれがとくに(普通の意味での)経済政策と社会政策の実践的問題を考える際には、特定の目的が自明のものとして与えられていると全面的に合意して出発できるような個別問題が多数、いや無数にあることはなるほど確かである。たとえば・・・・・・ |
63, l. 3 v. u.-64, l. 8 | 165, l. 9 v. u.-166, l. 7 | 翻訳:経験的考察方法をひとつの一般的な社会科学に押し広げることでその「一面性」から救い出すことが、進歩していく科学研究の任務である、という信仰は、まずつぎの点で誤っている。すなわち、「社会的なもの」つまり人間間の関係という観点は、なにか特殊な内容上の述語を与えられたばあいにのみ、科学的問題を区分するに足る、なんらかの規定性をもつ、という誤謬である。そうでなければ、この「社会的なもの」という観点は、ある科学の対象〔規定〕と考えられ、当然のことながら、たとえば教会史と同様に文献学を、またとくに、あらゆる文化生活のもっとも重要な構成要素である国家と、国家にたいする規範による規制の、もっとも重要な形式である法とを取り上げるすべての学科を、包含することになろう。社会経済学が「社会的」諸関係を取り上げるということは、社会経済学を「一般社会科学」の必然的な先駆形態と考える理由にはならない。 原文:Der Glaube, es sei die Aufgabe fortschreitender wissenschaftlicher Arbeit, die >>Einseitigkeit<< der oekonomischen Betrachtungsweise dadurch zu heilen, dass sie zu einer allgemeinen Sozialwissenschaft erweitert werde, krankt zunaechst an dem Fehler, dass der Gesichtspunkt des >>Sozialen<<, also der Beziehung zwischen Menschen, nur dann irgend welche zur Abgrenzung wissenschaftlicher Probleme ausreichende Bestimmtheit besitzt, wenn er mit irgend einem spezilellen inhaltlichen Praedikat versehen ist. Sonst umfasste er, als Objekt einer Wissenscahft gedacht, natuerlich z. B. die Philologie ebensowohl wie die Kirchengeschichte und namentlich alle jene Disziplinen, die mit dem wichtigsten konstitutiven Elemente jedes Kulturlebens: dem Staat, und mi der wichtigsten Form seiner normativen Regelung: dem Recht, sich beschaeftigen. Dass die Sozialoekonomik sich mit >>sozialen<< Beziehungen befasst, ist so wenig ein Grund, sie als notwendigen Vorlaeufer einer >>allgemeinen Sozialwissenscahft<< zu deken, ...... 「・・・・・誤っている。すなわち」以下の部分が非常に分かりにくい。その一つの理由は原文の"Praedikat"を「述語」と訳したことにあると思われる。"Praedikat"についてDUDENは4つの意味をあげている。1. in einer betimmten schriftlichen Formulierung ausgedrueckte auszeichnende Bewertung einer Leistung, eines Werks, Erzeugnisses"(ワインのPraedikatに見られるような品質表示の標徴)、2. kurz fuer Adelspraedikat(貴族の位階表示)、3. 文法上の「述語」、4. der Bestimmung von Gegenstaenden dienender sprachlicher Ausdruck oder der zugrundeliegende Begriff(論理学・哲学の用法で、「対象の規定に用いられる言語上の表現、あるいは基礎になっている概念」(これも「述語」ないし「賓辞」と訳される)。原文の"Praedikat"は恐らくDUDENにいう1および4の意味合いが強いと思う。4の意味であれば「述語」という訳は誤りではないが、読者はむしろ2の文法上の意味で理解するだろう(そして、そうすると意味が分からなくなる)。直訳としては誤訳であることを承知で、むしろ「修飾語」とでも訳すほうがよいのではないか。 当該個所は、「特定の「一面的」観点をぬきにした、端的に「客観的な」科学的分析といったものは、およそありえない」(翻訳 p. 73, l. 1-3)というヴェーバーの中心的主張との対比で、「経験的考察方法をひとつの一般的な社会科学に押し広げることでその「一面性」から救い出」そうとする志向が批判されている。そして、 |
79, l. 5-6 v. u. | 173, l. 1 v. u. | 翻訳:――これとは区別されるべきであるが―― 原文:――was davon verschieden ist―― 「べき」という意味は原文にはない。ただし、あえてそう訳すことも可能とは思う。 訳例:――これとは別のことであるが―― |
@110, l. 6-7 A110, l. 5 v. u.-111, l. 3 |
@189, l. 6 v. u.; A189, l. 1-3 v. u. |
翻訳:・・・・・・抽象理論が提起した定理の心理学的根拠づけの問題や・・・・・・(@) 抽象理論の定理が、心理学的根本動機からの「演繹」として取り扱われるのは、たんに見かけだけのことであって、じつは、問題はむしろ、人間の文化にかんする科学に固有の、ある範囲では欠くことのできない概念構成の一形式にあり、抽象理論はその一例なのである(A)。 原文:......die Frage der psychologischen Berechtigung der abstrakt theoretischen Aufstellungen...... (@) Es handelt sich bei den Aufstellungen der abstrakten Theorie nur scheinbar um "Deduktionen" aus psychologischen Grundmotiven, in Wahrheit vielmehr um einen Spezialfall einer Form der Begriffsbildung, welche den Wissenschaften von der menschlichen Kultur eigentuemlich und in gewissen Umfang unentbehrlich ist.(A) Aの翻訳ははなはだ分かりにくい。翻訳ではAufstellungenが恐らく意図的に「定理」と訳されているが、理論の「定立」と訳す方が普通だろう(ただし、@ともどもAufstellungenと複数形になっているので、「定立」としてよいかどうか疑問がないわけではない)。また、通常「・・・・・・が問題である」と訳されるes handelt sich umが、「取り扱われる」と「問題は」というように二様に訳されている。これも通常の訳を知った上でのことと思われるが、普通どおりの訳にしておいた方がまだしも分かりやすいのではないかと思う。以下、一応の約例を示すが、ただし原文自体意味をとりにくく、翻訳は難しい。 訳例:@抽象理論定立の基礎を心理学に求めるという問題(*前の段落の議論を受けると、このように訳しうるのではないか) A抽象理論の定立において、心理学的根本動機からの「演繹」というようなことはむしろ表面的問題にすぎず、本当に重要なのはむしろ、人間の文化に固有の、ある範囲では欠くことのできない概念形成の一形式〔理念型のこと?〕であり、抽象理論はその特殊な一例なのである。 |
111, l. 1v. un.-112, l. 1 | 190, l. 20-23 | 翻訳:思考によって構成されるこの像は、歴史的生活の特定の関係と事象とを結びつけ、考えられる連関の、それ自体として矛盾のない宇宙〔コスモス〕をつくりあげる。 原文:Dieses Gedankenbild vereinigt bestimmte Beziehungen und Vorgaenge des historischen Lebens zu einem in sich widerspruchslosen Kosmos g e d a c h t e r Zusammnehaenge. 誤訳とは言えないが、原文の"vereinigt"を「結びつけ」と「つくりあげる」と二つの動詞に分けたことにより、「この像」が「結びつけ」る、と「つくりあげる」という二つの作業をするかのように理解される恐れがある。むしろ原文に近く次のように訳した方が誤解が少ないか: 訳例:思考によって構成されるこの像は、歴史的生活のある一定の諸関係・諸事象を、考えられた諸連関のそれ自体として矛盾のないコスモスへとまとめあげる。 |
112, l. 4 | 190, l. 12-13 v. u. | 翻訳:すなわち、その構成像において抽象的に提示されている種類の、つまり「市場」に依存する事象の連関が、実在のなかでなんらかの程度まではたらいている、と確定または推定される場合・・・・・・ 原文:...... dass, da, wo Zusammenhaenge der in jener Konstruktion abstrakt dargestellten Art, also vom "Markt" abhaengige Vorgaenge, in der Wriklichkeit als in irgend einem Grade wirksam f e s t g e s t e l l t sind oder v e r m u t e t werden, ...... 翻訳では、"Zusammengaenge"のあとの"der"(2格の冠詞)が"Art"と"Voragenge"の二つに係るように解されているが、"Vorgaenge"の前の"abhaengige"は2格を受ける場合のように"abhaengigen"と各変化しておらず、したがって"Vorgaenge"は"Zusammenhaenge"と並ぶ主格と解するべきであろう。 訳例:すなわち、その構成像において抽象的に提示されている種類の諸連関、つまり「市場」に依存する諸事象が、・・・・・・ |
116, l. 7 | 192, l. 7 | 翻訳:ここで問題なのは、われわれの想像力にとって、十分な動機をそなえていると思われ、それゆえ「客観的に可能」で、われわれの法則的知識に照らして適合的と見える、そうした連関の構成である。 原文:Es handelt sich um die Konstruktion von Zusammenhaengen, welche unserer P h a n t a s i e als zulaenglich motiviert und also >>objektiv moeglich<<, unserem nomologischen Wissen als a d a e q u at erscheinen. 「十分な動機をそなえている」というのは前後のつながりからして意味不明である。"motivieren"はこの場合「動機づけ」の意味ではなく、むしろ"begruenden"(根拠をあげる、根拠づける)の意味で解すべきであろう。そうすれば、「それゆえ(also: つまり)『客観的に可能』」とのつながりも理解できるようになる。 訳例:ここで問題なのは、われわれの想像力に対して十分根拠が示され、つまり「客観的に可能」で、・・・・・・ |
118, l. 5 v. u. | 193, l. 2 v. u.-194, l. 1 | 翻訳:そういう場合には、歴史家が念頭に思い浮かべているものが、個々の場合に感得されるだけで十分なのである。そうでなくとも、個々のばあいに相対的な意義をもつ概念内容の特殊な規定が、考えられたものとして念頭に浮かぶだけで満足することができる。 原文:Es genuegt dann, dass im einzelnen Falle e m p f u n d e n wird, was dem Historiker vorschwebt, oder aber man kann sich damit begnuegen, dass eine p a r t i k u l a e r e Bestimmtheit des Begriffsinhaltes von r e l a t i v e r Bedeutung fuer den einzelnen Fall als gedacht vorschwebt. 翻訳は誤訳ではないが分かりにくい。個々の現象の「感得」による認識か、あるいは個々の場合にのみ有効性をもつような、その意味で相対的な意義しかもたないような概念内容の個別的な規定で満足されてしまう、と解しうるのではないか。 訳例:あるいは、個々の場合に限られた相対的〔でしかない〕意義をもつ概念内容の個別的な規定が、・・・・・・ |
120, l. 8 | 194, l. 6 v. u. | 翻訳:ところで、わたしがいま、「教派」の概念を、発生的に、すなわち「教派精神」が近代文化にたいしてもった、特定の文化意義に関連させて把握しようとすれば、・・・・・・ 原文:Will ich aber den Begriff der >>Sekte<< g e n e t i s c h , z. B. in bezug auf gewisse wichtige Kulturbedeutungen, ...... "z. B.”が「すなわち」と訳されているのは誤訳で、正しい訳は「例えば」。実際、なぜ「すなわち」なのか、文章からは分からない。 |
120, l. 3 v. u.- 121, l. 3 | 194, l. 2 v. u.-195, l. 5 | 翻訳:ところが、それと同時に、当の概念は、理念型となる。というのは、そうした概念は、概念上十全に純粋な姿では〔教派ないし教派精神を、全体として〕代表するものではないし、ただ個別的にしか代表していないからである。ここでもまた、純然たる分類概念以外の概念は、まさしくいずれも、実在から遠ざかる。けだし、われわれの認識の比量的な性質、すなわち、われわれが実在を把握するのは、一連の表象の変移をとおしてのみである、という事情が、こうした概念の速記術を要請するのである。 原文:Die Befriffe werden aber alsdann zugleich idealtypisch, d. h. in voller begrifflicher Reinheit sind sie nicht oder nur vereinzelt vertreten. Hier wie ueberall eben jeder nicht rein klassifikatorische Begriff von der Wirklichkeit ab. Aber die diskursive Natur unseres Erkennens: der Umstand, dass wir die Wirklichkeit nur durch eine Kette von Vorstellungsveraenderungen hindurch erfassen, postuliert eine solche Begriffsstenographie. "vertreten"が「代表する」と訳されているが、 原文のように"sind vertreten"とつなげられている場合は、「存在する」と自訳すのが普通だろう。ある現象(ここでは「教派」)を「特定の重要な文化意義に関連させて把握」するというヴェーバーの基本的立場からすれば、そうした価値観と離れて「概念上完全に純粋な形で」諸概念が存在することはありえない。この個所をこう解することができるとすれば、"vertreten"は「存在する」と訳した方がわかりやすいだろう。また、翻訳では"oder”の訳が抜けており、さらに"Aber"が「けだし」と訳されてその後に前の部分の理由が記されるような続き具合となっているが、むしろここは素直に逆接と捉えるべきだろう。 訳例:ところが、それと同時に、これらの諸概念は理念型となる。つまり、それらは概念上完全に純粋な形では存在せず、あるいは、そうしたものとしては時折にしか存在しないのである。他の場合と同様ここでも、まさにすべての純粋に分類的でないような概念は現実から遠ざかる。しかし、われわれの認識の比量的〔推論による認識〕性質、すなわち、われわれが現実を把握するのは、表象の一連の変移をとおしてのみである、という事情が、こうした概念の速記術を要請するのである。 |