それは、私が幼稚園の年中の頃の話です。その日は、日曜日で幼稚園がなかった私は、昼頃まで寝ていました。や
がて、お昼ご飯の時間が近づき、お母さんに起こされました。それでもまだ眠い私は、すぐには起きられず布団の中
でもぞもぞしていました。そうこうしているうちに、下の階から、お母さんの大声で私の名前を呼ぶの声が聞こえた
ので、しぶしぶ降りていくことにしたのでした。
私が、下に降りていくと、お父さんがトイレから出てきたところでした。お父さんは、そのまま洗面所に入ってい きました。そうして、私がトイレを済まして洗面所に入って行こうとした時でした。そこで、私は今までに見たこと のない光景を目の当たりにしたのです。
その光景とは、お父さんが右手に何かを持って、あごの辺りで動かしているものでした。もちろんそれは髭を剃っ
ているのですが、何せ私は幼稚園児、そんなこととはいざ知らず、ただ、ただ、目を輝かせながらその光景を食い入るように見ていたのでした。お父さんは、髭
をそり終えるとさっさと、台所に入っていきました。私は、この好機を逃しはしませんでした。
そうして、私はニヤリとしそっとカミソリに手を伸ばしたのでした・・・・・・。
私は、自分の心臓の音が聞こえるのが分かりました。期待と不安の入り交じる中、私はカミソリをそっと鼻と口の 間にあてがいました。
が、しかし、その次の瞬間とんでもないことが起こったのです。
私のお父さんが使っていたのは、電気カミソリではなく、T字型の顔にクリームを塗って髭を剃るタイプのもので、 本来そのタイプのカミソリというのは上から下に動かして、髭を剃っていくのですが何を思ったか私は思いっきり左 から右に引き抜いてしまったのです。
当然、私の鼻の下には二本線の傷がくっきりと付いてしまいました。じわっと、血がにじみ出てきました。
その血を見て、慌てて水で洗い流そうとしました。が、やはり、うっすらと血がにじんでしまいました。『どうし
よう!このままでは、お母さんに怒られてしまうぅぅ!!!』私は怒られるということに頭がいっぱいで、パニック に陥りました。
と、その時です。
「まさのり、早く来なさいっ!!」
というお母さんの声がしました。
何というタイミングの悪さでしょう。私は「悪いことは重なる」ものだとその時自覚しました。
そうして窮地に立たされた私は、思い切って台所に飛び込んだのでした・・・・。
最初、私はばれないように、心持ち顔を下向きにしていました。
が、もちろんそんな格好も長くは持たず顔を上げた瞬間、お母さんから予想通りの質問が来ました。
「どうしたの、その鼻の下の傷は?」
「えっ!、、、、何?」
最初、私はとまどったような返事をしていましたが、お母さんがしつこく聞いてくるので、私は返答に困りました。 すると周りのお父さんや、お兄ちゃん、さらにはおばあちゃんまでもが、私の傷に関心を抱いたのか、聞いてきたのです。
再びパニックに陥った私は困ったあげく何を考えたのが、こんな返事をしてしまったのです。
・・・・
「歯ブラシですった・・・」と。
無論、全員半信半疑でしたが、私はここぞとばかりに、
「いや、歯ブラシですった、歯ブラシですった」を連発しました。
すると、私の意気込みがすごかったのでしょうか、全員 「そうか、歯ブラシですったんか。へエー、歯ブラシでねぇ。そんなこともあるんやな」
と、信用してしまったのです。
私は心から神様に感謝しました。なぜなら、「歯ブラシですった」と、言ってしまった時には、『もはや、これまでか』
という気持ちだったのですから。
・・・・・が、しかし、そんな嘘は、お昼ご飯が終わるまでに、ばれてしまったのでした。
もちろん、この話は、後で、親戚じゅうに広まり、馬鹿うけになったということは、言うまでもありません。
おしまい